第三章 06
今日最後の授業が開始する前、直毘のスマホが振動した。クラスチャットから個別に登録されたのか、まこというアカウントからチャットが届いていた。中身はちゃんと読まなかった。ただ、放課後、特別校舎、空き教室だけ見えた。要は時間と場所を指定されたようだ。
授業中、直毘の頭は空っぽだった。脳に数式が入る余地もなく、授業が終わるころにはただ疲れていた。HRが終わり、ほとんどの生徒たちが散り散りになっていく。一部はきゃいきゃいしていたが、耳がそれを拒絶していた。
足は帰りたがっていた。だが、スマホから漂う期待が直毘の自由を縛る。思わず右手で顔を覆いそうになるが、途中で力を抜いて落とした。
「雪那、買い出し頼めるか?」
「無論。歴戦の強者である主婦たちと戦ってこよう。案ずるな、一パック百円の卵は必ず勝ち取る」
雪那が右手でぎゅっと拳を作る。頼む、とだけ返して直毘は背を向けて教室を出た。途中、月読が視線を向けてきたが、頭を振っておいた。
ただ廊下を進んでいく。生徒たちが多いはずなのに、喧騒がどこか遠い。窓から入り込む陽光が網膜を焼いていき、視界が白く染まっていく。
階段を上り、渡り廊下を通り過ぎると、人の姿が消えていた。ずいぶんとゆっくり歩いていた気がした。何人にも抜かされた気がしたし、時間だって三十分くらい経った気もした。
もう、相手はいるのだろうか。それとも、先に着いてしまったのか。なんにせよ、約束は守らなければならない。
直毘は指定された空き教室のドアを左手で開く。音に気付いたか、窓の外を見ていた女子が振り返る。どこかで見たツインテールだった。中に入って後ろ手に閉める。
静寂。
「来てくれてありがと」
少し幼い声が、ようやく記憶と結びつく。体育終わりに話しかけてきた女子生徒だ。
奥歯を噛もうとして、でも一度だけ瞑目して口の中で息を落とした。
「呼ばれりゃ来るさ。こう見えても俺は品行方正を売りにやってる。一方的に反故にするつもりはない」
くすくすと少女が笑う。
「品行方正なんだ。月読ちゃんは眞守くんは全能力を主夫に振りすぎてるって言ってたよ」
「あいつ、俺の評判を下げるために生きてるのか? 作ったハリセンで明日あたり殴るか」
「品行方正なのに?」
「やられたらやり返すんだ。因果応報ってやつだな」
「でも、雪那ちゃんも眞守くんの料理を褒めてたよ? 私、料理始めたばっかりだからすごいなって思うよ」
震えそうな足に力を入れる。
「圧力鍋を勧めとくよ。月読もそう言ってたから、たぶん間違いない。時短は全主夫の味方だ」
たぶんって、と少女が小さく笑う。
「眞守くんは使ってないの? おすすめなんでしょ?」
「買う暇がなくってなあ。色々バタバタしてるんだ」
「いつも授業が終わったらすぐ帰ってるよね。やっぱり買い出し?」
「周辺スーパーの特売は把握したんだ。曜日単位で安いとこに行ってる」
「そっか、あ、じゃあ今日呼び出しちゃったから特売逃しちゃったかなあ? ごめんね」
「気にするな。雪那に任せた。あいつなら、きっと主婦に勝ってくれるはずだ……大丈夫か一パック百円の卵……」
背筋に流れる汗が気持ち悪い。
「すごいよね。学校終わったら買い出しして、家に帰ったら料理して、勉強して。覚悟して入学してきたけど、やっぱり家事を全部するって大変だから。眞守くんの話を聞いてると、やっぱり尊敬しちゃう」
やっぱ親ってすごね、と少女が微笑む。
「あー、どしよ。話してると楽しくて脱線しちゃう」
こほん、と少女が咳払いする。
「あのね、眞守くん。私ね、なんでか分からないけど、気づいたらずっと目で追ってたんだ。ちゃんとあんまり話したことなくて、だから、ほんとはもっと段階踏んだ方がいいって思うんだけど、でも、やっぱり伝えたいから。いまから伝えたいこと、聞いてくれる?」
知らずポケットにつっこんでいた右手を強く、強く握る。
「言いたいことは言っといた方がいいだろ」
「うん、ありがと。そだね。やっぱり、そだよね」
少女がスカートの端を指先で摘む。一度だけ俯き、すぐに顔を上げた。顔は、やはりどうしても見られない。
「眞守くん、好き。私と、付き合ってくれる?」
空白。
消えかけた意識をなんとか掴んで、どう答えるべきか模索する。ただ分かるのは、言葉の中に宿る想いがどうしてか温かいこと。この告白、きっと本心だ。
女は怖い。でも、答えだけはちゃんと出す。
「悪い、付き合えない。俺に好意を抱いてくれたことはありがたいと思ってる」
「ん、そっか。ありがと、ちゃんとふってくれて」
ああ、と少女が首をふる。
「どしよ。覚悟してたけど、やっぱ痛いな」
少女の唇から嗚咽がこぼれる。直毘は立ち尽くして動けない。
「あ、ごめんね。勝手に告白して泣くって、自分でもやな女だなって思うんだけど、やだなあ、止めらんないや」
少女がスカートのポケットからハンカチを取り出して、顔に当てようとして落ちる。あれ、と少女の泣き笑い。
その姿が、伊豆乃と重なる。本当に、男と比べるなんて失礼な話だが、それでも、これを放置できるほど直毘は残酷になりきれない。
「ほれ、これやるから好きに泣け。俺が言うのもアレだけどな。俺はさっさと出てくからさ」
少女に近づいて、直毘はカバンから新しいハンカチを差し出す。少女がそれを受け取って、また笑った。
「わあ、女泣かせだ。眞守くんってやっぱり優しいよね」
ぐす、と少女が鼻を鳴らして、さめざめと泣きはじめる。直毘は退散するべくしゃがんだ身体を起こした途端、教室のドアが開いた。
「あれ、なにやってんの? マコになに、してんの?」
振り返った直毘の視界に入ったのは、知らない女子生徒だった。




