第三十七話 光
ハニエルはゆっくりと周囲を見回した。
「ここは……」
視界の果てまで、ただ白だけが広がっている。
空も地平もない。
世界そのものが塗り潰されたような、静寂だけが支配する空間。
その先に、一人。
静かに立つ影があった。
背には三対六枚の翼。
人の形をしている。
だが、その身体は青黒い肉の塊のように歪み、天使とは思えない異形の姿を晒していた。
天使軍総隊長、ルシファー。
ハニエルは静かに弓を握る。
ルシファーもまた、ゆっくりと腰の剣へ手を添えた。
鞘から抜かれる刃が、白い空間に静かな音を響かせる。
しばらく互いを見つめたまま、沈黙が続いた。
やがて、ルシファーが口を開く。
「……なぜ、反逆した」
静かな声だった。
だが、その声音には、僅かな怒りが滲んでいる。
責め立てるわけでも、声を荒らげるわけでもない。
ただ、ハニエルがクラディウスに背いた理由を問いただすように、ルシファーは真っ直ぐ彼女を見据えていた。
ハニエルは迷わず答える。
「友達が大切だからです」
一切の躊躇もない。
その一言だけだった。
ルシファーは静かに目を閉じる。
「……そうか」
短く答える。
それ以上、何も言わない。
ハニエルもまた静かに弓を構えた。
「私は、エレン達を守ります」
ルシファーは剣を正眼に構える。
「私は、クラディウス様の命令を遂行する」
二人の視線が交わる。
どちらも、自分の信じるもののために立っている。
だから、もう、言葉はいらなかった。
静寂の世界で──二人は同時に地を蹴った。
◆
二人は白い空間を駆け上がるように飛翔した。
翼が大きく羽ばたき、一瞬で高度を上げる。
ハニエルは距離を取ると、弓を引き絞った。
「……」
放たれた光の矢が一直線にルシファーへ迫る。
だが、ルシファーは身体を僅かに傾けると、そのまま旋回するように空を舞い、光の矢を回避した。
ハニエルは止まらない。
二射。
三射。
四射。
光の矢が連続して放たれ、白い空間を幾筋もの光が駆け抜ける。
ルシファーは飛翔を続けながら、そのすべてを見切っていく。
そして、剣を一閃。
その瞬間、剣身が蛇のように伸び、遥か彼方にいたハニエルへ襲い掛かった。
ハニエルは即座に弓を双剣へ変形させる。
金属音が響く。
伸びた剣を双剣で受け流し、その勢いのまま距離を離した。
なおもルシファーの剣は伸縮を繰り返し、死角から容赦なく斬り掛かる。
ハニエルは双剣を舞わせ、一撃、また一撃と受け流していく。
剣戟を交わしながら、ハニエルは問い掛けた。
「……なぜ、人間の魂を食べることを疑問に思わないのですか?」
ルシファーは伸びた剣を元の長さへ戻す。
次の瞬間には、ハニエルの目の前へ踏み込んでいた。
ギィンッ!!
双剣と剣が激しくぶつかり合い、火花が散る。
鍔迫り合いの中、ルシファーは静かに答えた。
「人間の魂は美味い。それだけだ」
ハニエルはルシファーを真っ直ぐ見つめる。
「あなたは……人間を何だと思っているのですか?」
互いに押し合いながら剣を弾く。
再び空中で交差し、激しい剣戟が始まる。
ルシファーは淡々と言った。
「家畜だ」
その一言に、ハニエルは目を細める。
「……なぜ、そのような考えに?」
ルシファーの剣は止まらない。
一閃。
また一閃。
鋭い斬撃が休む間もなく襲い掛かる。
「我ら天使は、崇高なる存在だからだ」
ハニエルは双剣で受け流しながら首を横に振る。
「……答えになっていません」
ルシファーは何も言わない。
ただ剣だけを振るう。
その剣は速い。
先読みで対応してなお、防ぎ切ることはできない。
頬。
肩。
腕。
脇腹。
浅い傷が一つ、また一つと刻まれ、青い血が静かに宙へ散っていく。
それでもハニエルは一歩も退かず、ルシファーの剣筋を見据え続けていた。
◆
激しい剣戟が白い空間へ響き渡る。
双剣と剣が何度もぶつかり合い、火花が散る。
刃が交差するたび、衝撃が周囲へ駆け抜けた。
ハニエルは剣を受け流しながら、静かに問い掛ける。
「……考えを改める気はないのですか?」
問いとは裏腹に、戦いは一瞬たりとも止まらない。
ルシファーの剣は鋭く、ハニエルの双剣はそのすべてを受け流していく。
金属音だけが絶え間なく鳴り響く。
ルシファーは短く答えた。
「ない」
その一言だけだった。
次の瞬間、ルシファーの姿が一気に上空へ跳ね上がる。
その速度は、ほとんど瞬間移動にも等しかった。
ハニエルは咄嗟に見上げる。
ルシファーは静かに詠唱を始めた。
純白の魔法陣が、一つ。
そして二つ。
三つ。
次々と展開され、白い空間を埋め尽くしていく。
魔法陣の数は増え続ける。
やがて、無数の魔法が一斉にハニエルへ向けられた。
次の瞬間──
炎。
雷。
氷。
風。
光弾。
様々な魔法が雨のように降り注ぐ。
ハニエルは翼を広げ、大空を駆ける。
右へ。
左へ。
急降下。
急上昇。
縦横無尽に飛び回り、次々と魔法を回避していく。
その最中、双剣が淡い光へと還った。
右手には光の杖。
左手には光の盾。
七つ道具が、新たな姿を現す。
ハニエルは飛翔したまま光の杖を静かに振るった。
柔らかな光が全身を包み込む。
頬。
肩。
腕。
ルシファーとの戦いで刻まれた傷が、ゆっくりと塞がっていく。
だが、治癒が終わると同時に、杖は再び姿を変えた。
光の槍。
右手に握られたその槍は、眩く輝いている。
ハニエルは光の杖による治癒を多用しない。
光の七つ道具は、それだけで膨大な魔力を消費する。
治癒を繰り返せば、戦いの継続そのものが困難になる。
だからこそ、必要な時だけ使う。
その間も、ルシファーの魔法は途切れない。
避け切れないルシファーの魔法が迫る。
ハニエルは左手の光の盾を掲げた。
轟音。
ハニエルの光の盾とルシファーの魔法が激突し、眩い閃光が白い空間を染め上げた。
ルシファーは再びハニエルへ斬りかかる。
ルシファーの剣が唸りを上げる。
ハニエルは左手の光の盾でその斬撃を受け止め、右手の光の槍で鋭く突き返した。
金属音が響く。
空中で何度も武器が激突し、二人は高速で飛翔しながら激しい攻防を繰り広げる。
ルシファーは剣を振るいながら口を開いた。
「……私も一つ聞きたい」
ハニエルは槍を繰り出しながら応じる。
「何でしょうか」
ルシファーは光の槍を剣で弾く。
「その様々な武器は何だ?」
ハニエルは一歩も引かない。
盾で剣を受け流し、その反動を利用して再び槍を突き出す。
「導きです」
ルシファーの表情は変わらない。
「……導き?」
ハニエルは静かに答えた。
「……あなたには、言ってもわからないでしょう」
その言葉とともに、光の槍が一際強く輝いた。
放たれる突きは、一撃ごとに重さを増していく。
ルシファーは剣で受け止める。
ギィィンッ!!
先ほどまでよりも遥かに重い衝撃が剣へ伝わる。
もう一撃。
さらにもう一撃。
ハニエルの槍は、突きを重ねるたびに威力を増していった。
それでもルシファーは冷静だった。
受け流し、斬り返し、体勢を崩さぬまま、静かにハニエルを見据え続ける。
二人の激しい空中戦は、なおも終わる気配を見せなかった。
(……もう、問を続けても意味はないのでしょうか)
ハニエルはそう思いながら、ルシファーと向き合う。
価値観は、どこまでも平行線だった。
それでも戦いは終わらない。
ルシファーの剣戟は速すぎる。
光の槍が突き出される。
盾が斬撃を受け止める。
その一瞬の隙間を縫うように、ルシファーの剣が自在に伸縮し、予測不能な軌道で襲い掛かる。
肩。
脇腹。
太腿。
防ぎ切れなかった斬撃が、再びハニエルの身体へ浅い傷を刻んでいく。
青い血が宙へ舞った。
ルシファーは剣を振るいながら問い掛ける。
「貴様こそ、考えを改める気はないのか?」
激しい剣戟の最中、その声だけは、どこまでも静かだった。
「一度、人間の魂を食べれば、クラディウス様の考えを理解できるはずだ」
ハニエルは光の盾で斬撃を受け止め、そのまま光の槍を一直線に突き出す。
ルシファーは身を捻って躱し、再び剣を振るう。
ハニエルは迷いなく答えた。
「食べたくもないですし、理解もしたくないです」
その瞳に、一切の揺らぎはなかった。
ルシファーもまた、それ以上反論することはない。
互いの信念は変わらない。
だからこそ、二人は言葉ではなく、刃で語り続けた。
◆
ルシファーは静かにハニエルを見つめる。
「もう、問答は不要だ」
その声に感情はない。
ただ、会話を終えるという事実だけを告げていた。
「――《超加速》」
一言だけ詠唱する。
その瞬間──
「……!」
ハニエルの視界から、ルシファーの姿が消えた。
速い。
先ほどまでとは比べ物にならない。
目で追うことすらできない。
次の瞬間、ハニエルの右肩へ鋭い痛みが走る。
さらに背中。
左腕。
脇腹。
斬撃が次々と刻まれていく。
ハニエルは咄嗟に光の盾を構え、襲い来る攻撃を防ぎ続ける。
だが、見えない。
防いだ直後には、伸縮する剣が死角から襲い、再び浅い傷を刻む。
青い血が白い空間へ散った。
致命傷だけは避けられている。
しかし、それだけだった。
防戦一方。
徐々に、確実に、ハニエルは劣勢へ追い込まれていく。
光の盾が、辛うじて命を繋いでいた。
だが、魔力が尽きれば、その瞬間に終わる。
(このままでは……)
ハニエルの身体へ、次々と浅い傷が刻まれていく。
光の盾で致命傷だけは防ぎ続ける。
しかし、防ぐたびに魔力は確実に失われていた。
(……もう、改心させることは出来ないのでしょうか)
伸縮する剣が盾を掠める。
肩へ。
脚へ。
再び青い血が宙へ舞う。
(……もう、道を正すことは出来ないのでしょうか)
ルシファーは止まらない。
一切の迷いも、一切の躊躇もなく、ただ、ハニエルを斬り続ける。
(……もう、やるしかありません)
ハニエルは静かに決意した。
「エレン……力を借ります」
左腕の魔導具の腕輪へ手を添える。
そこから取り出したのは、エレンが対クラディウス戦のために創造しておいた切り札の一つ。
閃光弾。
ハニエルは迷わず目を閉じる。
そして、閃光弾をルシファーへ向けて放った。
次の瞬間、凄まじい閃光が炸裂する。
白い世界を塗り潰すほどの光が、一瞬ですべてを覆い尽くした。
「――ッ!」
ルシファーの動きが止まる。
その身体が、初めて大きく怯んだ。
◆
ハニエルは迷わない。
左手に構えていた光の盾が、静かに輝きを増した。
受け止め続けた無数の斬撃。
防ぎ続けた数え切れない魔法。
そのすべてによって蓄積された光が、盾の表面を満たしていく。
やがて──その光が右手の光の槍へと流れ込んだ。
眩い輝きを帯びた槍は、先ほどまでとは比べものにならないほどの光を放つ。
ハニエルは翼を大きく羽ばたかせた。
一気にルシファーとの距離を詰める。
閃光弾の残光で、ルシファーの動きは僅かに鈍っていた。
その一瞬を逃さない。
「――っ!」
光の槍が一直線に突き出される。
鋭い切っ先は、ルシファーの左側、中央の翼を深々と貫いた。
「――!」
翼を貫かれた衝撃で、ルシファーの身体が大きく揺らぐ。
ハニエルは槍を引き抜かない。
そのまま翼へ突き刺した状態で、自らの体重を乗せる。
二人の身体は、一気に白い空間を落下し始めた。
そのまま二人は勢いよく落下する。
轟音とともに、光の槍が白い空間の床へ深々と突き刺さった。
ルシファーは左側中央の翼を床へ縫い付けられ、動きを止められる。
ハニエルは着地と同時に光の槍から手を離した。
右手に弓を呼び出す。
そして、瞬時に双剣へと変化させた。
迷うことなく、ルシファーの右腕へ飛び込む。
狙うのは、剣を握る、その腕だけ。
だが、ルシファーは拘束されたまま剣を伸ばした。
鋭い刃が一直線に走る。
「っ……!」
ハニエルの左脇腹が深く裂ける。
青い鮮血が勢いよく飛び散った。
それでも、ハニエルは止まらない。
「はぁっ!」
双剣を振り下ろす。
ザシュッ!!
二本の剣が、ルシファーの右腕を深々と貫いた。
「……ぐっ!」
右腕が床へ縫い付けられる。
さらに、ハニエルは左手をかざした。
「――『光の鎖』」
眩い光が収束し、一条の鎖となる。
光の鎖は瞬く間にルシファーの左腕へ巻き付き、そのまま強く締め上げた。
両腕を封じられたルシファーは、その場に拘束される。
ハニエルは数歩後ろへ下がり、静かに息を整えた。
「……ぐっ! ……おっ!」
右腕と翼を貫かれた激痛に、ルシファーは初めて苦痛の声を漏らす。
(……もう、光の杖を使うと、魔力が足りなくなる……)
ハニエルは静かに息を吐く。
(だったら……!)
磔のように拘束されたルシファーを、真っ直ぐ見つめる。
「あなたを止めます」
その一言が、白い空間へ静かに響いた。
次の瞬間──ハニエルの右側の空間が、眩く輝く。
光の中から、ゆっくりと純白の大剣の柄が姿を現した。
ハニエルはその柄を力強く握る。
そして、静かに、大剣を引き抜き始める。
刀身が光の中から姿を現すたび、抑えきれない力が周囲へ溢れ出した。
ドォンッ!!
目に見えない衝撃波が四方へ放たれる。
「っ……!」
その衝撃は、ハニエル自身の身体さえ容赦なく切り裂いた。
ブシュッ。
ブシュッ。
肩。
腕。
胸。
脚。
全身の至る所へ裂傷が刻まれ、青い鮮血が舞い上がる。
強大すぎる力。
純白の大剣は、その力を完全には抑え切れていなかった。
それでも、ハニエルは一歩も退かない。
鮮血を流しながらも、その瞳だけは真っ直ぐルシファーを見据えていた。
身動きの取れないルシファーは、その大剣を見て初めて動揺を露わにする。
「なんだ……!? それはっ!!」
「あなたを止めることができる――力です」
ハニエルは純白の大剣をさらに引き抜く。
刀身が姿を現すたび、抑え切れない力が周囲へ溢れ出した。
ドォンッ!!
凄まじい衝撃波が白い空間を震わせる。
「っ……!」
その衝撃は、再びハニエル自身を切り裂く。
肩。
胸。
腕。
脚。
全身へ新たな裂傷が刻まれ、青い鮮血が次々と舞い上がる。
それでも、ハニエルは柄を握る手を緩めない。
一歩。
また一歩。
刀身は少しずつ光の中から姿を現していく。
ルシファーの表情が初めて変わった。
「……!」
この剣を、抜かせてはならない。
本能がそう告げていた。
「――穿て」
ルシファーは詠唱する。
純白の魔法陣が幾重にも展開された。
一つ。
二つ。
三つ。
数え切れない魔法陣が白い空間を埋め尽くす。
次の瞬間──
炎。
雷。
氷。
風。
光弾。
様々な魔法が一斉にハニエルへ降り注いだ。
ドドドドドドッ!!
無数の魔法がハニエルの身体を穿つ。
「……っ!」
肩を貫かれ、腹部を裂かれ、脚を撃ち抜かれる。
青い鮮血が次々と白い床へ飛び散った。
それでも、ハニエルの両手は、大剣の柄から離れない。
引き抜く。
ただ、それだけを続ける。
「……やめろ」
ルシファーが言う。
その声は、これまでの冷静さとは違っていた。
だが、ハニエルは応えない。
静かに。
力強く。
最後まで柄を引き上げる。
そして――
純白の大剣が、ついに光の中からその全貌を現した。
◆
ルシファーは、目の前の純白の大剣から目を離せなかった。
(なんなんだ……!! その力は!!)
生まれて初めて感じる圧力に、本能が警鐘を鳴らしている。
ハニエルは静かに純白の大剣を振り上げた。
傷だらけの身体。
全身から青い鮮血を流しながらも、その瞳だけは少しも揺るがない。
「これで、終わりです」
静かな声が白い空間へ響く。
そして、ルシファーを真っ直ぐ見つめたまま続ける。
「私は、あなたを……救いたかった」
その一言には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、届かなかった願いだけが込められていた。
ハニエルは純白の大剣を振り下ろす。
その瞬間――
純白の光が解き放たれた。
轟ッッッ!!
大剣から放たれた莫大な光は、一瞬でルシファーを飲み込む。
光は爆発となって白い空間全体へ広がり、凄まじい衝撃が四方八方へ駆け抜けた。
あまりにも巨大な光が、視界のすべてを白く塗り潰す。
そこにいたルシファーの姿は、完全に光の中へ消えていった。
◆
「……はぁ、……はぁ」
ハニエルは肩で息をする。
全身を覆う傷から青い鮮血が流れ続けていた。
手に握っていた純白の大剣を見つめる。
「……ありがとう」
そう呟くと、大剣は静かに光となって霧散し、その力は再び光の中へと還っていった。
「……私も、人の事は言えませんね。無茶をし過ぎました」
苦笑が漏れる。
脳裏に浮かんだのは、一人の少女。
エレン。
次の瞬間、ハニエルの足元に純白の転移魔法陣が広がる。
景色が光に包まれ――
彼女は天国塔最上階へと帰還した。
「ハニエルちゃん!」
レイコが駆け寄る。
「ハニエルさん!」
ルビアもその後を追う。
レイコはすぐに治癒魔法を展開し、柔らかな光がハニエルの全身を包み込んだ。
「ありがとうございます、レイコ」
ハニエルは静かに礼を言う。
だが、その視線はどこか遠くを見つめていた。
「エレン……」
その小さな呟きには、友を案じる想いが込められていた。
今、この瞬間も、最も過酷な戦いは、まだ終わっていない。
友を信じながら、ハニエルは静かに、その帰りを待った。




