第三十六話 戦士
ルビアはゆっくりと辺りを見回した。
「ここは……」
視界の果てまで、真っ白な空間が広がっている。
地平線も空もなく、ただ白だけが続く、不思議な世界だった。
その少し先に、一人の天使が静かに立っている。
黄金の槍を携えたその姿を見て、ルビアは静かに剣を構えた。
ウリエルは小さく笑みを浮かべる。
「……まずは、前回のおさらいよ」
その言葉と同時に――
ウリエルの姿が消えた。
次の瞬間、黄金の槍がルビアの眼前へ迫る。
しかし、ルビアは一歩だけ身体をずらした。
槍は頬を掠めることもなく空を切る。
続けざまに二撃、三撃。
槍は稲妻のような速度で突き出される。
ルビアは慌てない。
一歩。
半歩。
身体をわずかに傾けるだけで、そのすべてを紙一重で見切っていく。
ウリエルは攻撃の手を止めない。
槍は次々と軌道を変え、死角から、足元から、頭上から襲い掛かる。
それでも、ルビアは静かに避け続けた。
魔力流は、まだ使っていない。
やがて──ウリエルは槍を引き、静かに距離を取った。
その口元には、自然と笑みが浮かんでいる。
「……いいわ」
その声には、心からの喜びが滲んでいた。
「あなた、本当にいい」
そして、嬉しそうに微笑む。
「あの時、殺さなくて……本当に良かった」
ルビアは静かに剣を構えた。
「今度は、負けません」
その言葉を聞き、ウリエルは嬉しそうに微笑む。
「いいわ。私も、今度こそ本気で相手をしてあげる」
その瞬間、空気が変わった。
互いの間に流れる空気が張り詰める。
ウリエルは黄金の槍を静かに構え、真っ直ぐルビアを見据えた。
「――大天使隊長、ウリエル」
その姿は、まるで騎士の名乗りのようだった。
ルビアは思わず目を見開く。
敵であるはずの天使が、自ら名を名乗った。
それは、ウリエルが一人の戦士として、自分を認めた証。
ならば――
ルビアも静かに剣を構え直す。
何と名乗るべきか、一瞬だけ考える。
王族。
剣士。
これまで様々な名で呼ばれてきた。
けれど、自分から名乗ったことは一度もない。
そして自然と、その言葉が口をついた。
「――剣姫、ルビア・ノア」
一瞬の静寂が流れる。
次の瞬間、二人は同時に地を蹴った。
◆
紅い閃光と白い閃光が、真正面から激突する。
甲高い金属音が白い空間へ響き渡った。
銀の剣と黄金の槍。
互いの一撃は一歩も譲らず、火花を散らしながら幾度となくぶつかり合う。
斬る。
突く。
払う。
受け流す。
攻防は目にも留まらぬ速さで繰り返され、その残像だけが白い世界へ幾重にも刻まれていく。
ウリエルが槍を薙ぐ。
ルビアは身を沈めてかわすと、その勢いのまま銀の剣を振り抜いた。
だが、黄金の槍が軌道へ滑り込み、鋭い金属音とともに剣撃を受け止める。
その反動を利用し、二人は同時に後方へ跳ぶ。
間髪入れず、再び踏み込んだ。
紅と白。
二つの閃光は何度も交差し、そのたびに剣戟の轟音が空間を震わせる。
互いに一歩も引かない。
一瞬の油断が敗北へ繋がることを知る二人は、呼吸さえも剣へ乗せるように、ただひたすら武器を交え続けた。
剣戟を交わしながら、ウリエルは空いた左手を静かに掲げた。
純白の魔法陣が一つだけ展開される。
次の瞬間、無数の光弾がルビアへ降り注いだ。
ルビアは視線を逸らさない。
ウリエルの槍を受け流すと同時に、腰に装備された偽剣へ手を伸ばす。
一振りの偽剣を抜き放つ。
その瞬間、偽剣は十本へと複製された。
宙へ並んだ十本の偽剣は、一斉に飛来する光弾へ向かって射出される。
轟音。
白い空間で光と鋼が次々と激突し、爆ぜた。
それでも二人は止まらない。
黄金の槍が閃けば、銀の剣が迎え撃つ。
激しい火花を散らしながら、互いに一歩も譲ることなく刃を交え続ける。
頭上では偽剣と魔法がぶつかり合い、眼前では剣と槍が激突する。
二つの戦場が、同時に繰り広げられていた。
ウリエルは嬉しそうに笑う。
「いいわね」
その笑みは、目の前の戦士を心から称賛していた。
黄金の槍が奔る。
ルビアは紙一重でかわし、その勢いのまま銀の剣を振り抜く。
ウリエルは槍の柄で受け流し、身体を回転させながら反撃へ転じた。
鋭い一閃。
ルビアは剣で受け止める。
甲高い金属音が響き、衝撃が互いの腕を駆け抜けた。
間髪入れず、二撃、三撃。
剣と槍は幾度となく交差し、そのたびに火花が散る。
ルビアが低く踏み込み、斬り上げる。
ウリエルは後方へ跳びながら槍を振るい、その斬撃を受け流した。
着地した瞬間、再び前へ。
互いに一歩も退かず、刃を重ねる。
激しい剣戟が白い世界へ鳴り響く。
そして――
二人はほぼ同時に武器を振り抜いた。
銀と黄金が正面から激突する。
轟音。
凄まじい衝撃が周囲へ駆け抜け、白い床を揺らした。
反動で二人の身体が弾かれる。
数歩滑り、それぞれが静かに着地した。
再び距離が開く。
互いに武器を構えたまま、一歩も動かない。
張り詰めた空気の中で、二人の視線だけが交差していた。
◆
「その剣、以前とはまるで違う」
ウリエルは嬉しそうに微笑んだ。
ルビアは静かに息を整えながら、ふと疑問を口にする。
「……どうして、そんなに楽しそうなんですか?」
「好きだから」
「……え?」
あまりにも短い返答に、ルビアは思わず聞き返した。
ウリエルは笑みを崩さない。
「戦うのが好きだから」
その答えに、ルビアは目を見開く。
ウリエルはまるで当たり前のことを話すように続けた。
「そしてね……」
一拍置き、嬉しそうに微笑む。
「相手が限界まで力を出し切って、それを真正面から打ち破って――」
その笑顔はどこまでも穏やかだった。
「相手を殺したいの」
その一言だけが、静かな空間に落ちた。
ルビアは言葉を失う。
目の前にいる天使は、決して怒っているわけでも、憎んでいるわけでもない。
心の底から、その行為を楽しんでいる。
ルビアは困惑したように眉を寄せる。
「……わかりません」
その表情を見て、ウリエルは小さく笑った。
「そうよね……天国でね、クラディウス様から頂く人間の魂を食べるのは好き」
懐かしむように目を細める。
「美味しいもの」
だが、その笑みはすぐに薄れた。
「でもね……凄く退屈なの」
ルビアは黙って話を聞く。
ウリエルは槍を軽く肩へ担ぎ、楽しそうに続けた。
「でも、戦うのは違う。命のやり取り。本気と本気のぶつかり合い」
その瞳が嬉しそうに輝く。
「私は、それが好き」
一歩だけ前へ踏み出す。
「私にとって相手は、私を楽しませてくれる玩具」
その笑顔はどこまでも無邪気だった。
「だから、その玩具で思う存分遊び尽くして――」
一瞬だけ言葉を区切る。
「最後は、自分の手で壊したいの」
ルビアは理解できないという表情を浮かべた。
本気で戦い、本気で命を懸ける。
その果てに相手を壊したい。
まるで子どもが玩具の話をするように笑うウリエルを、ルビアはどうしても理解できなかった。
その表情を見て、ウリエルは小さく笑う。
「ま、理解できないわよね。言っていることが滅茶苦茶だもの」
ルビアは黙っていた。
ウリエルは黄金の槍を構え直す。
「でも――理解しなくていい」
ウリエルはそう言うと、詠唱をした。
「――《加速》」
その一言と同時に、ウリエルの姿が、消えた。
「っ!?」
速い。
視界から完全に消えた。
次の瞬間──ルビアの頬を、冷たい感触が走る。
「……え?」
指先で触れる。
赤い血が、一筋流れていた。
斬られた。
見えなかった。
気づいた時には、すでに刃は通り過ぎていた。
ゾクリと背筋を冷たいものが駆け抜ける。
(このままじゃ――)
ルビアは迷わない。
「――魔力流」
全身の魔力が一気に解放される。
魔力が身体を駆け巡り、感覚が極限まで研ぎ澄まされる。
世界が、ゆっくりと動き始めた。
ルビアの姿が消える。
いや──消えたように見えるほど、その速度は跳ね上がっていた。
銀の剣と黄金の槍が、一瞬で幾度も激突する。
甲高い金属音だけが連続して響き、二人の姿は残像となって白い空間を駆け巡る。
斬撃。
突き。
薙ぎ払い。
受け流し。
一撃ごとに火花が散り、その衝撃が白い世界を震わせた。
先ほどまでとは比べものにならない。
互いに極限まで研ぎ澄まされた速度で刃を交え続ける。
黄金の槍が喉元を狙う。
ルビアは身体を半身に開き、紙一重でかわす。
そのまま剣を振り抜く。
ウリエルは槍の柄で受け止めると、勢いを利用して後方へ跳び、再び踏み込んだ。
しかし、今度はルビアの剣が、その一撃を正確に受け止める。
火花が大きく弾けた。
ウリエルは口元を緩める。
「いいわね」
心の底から嬉しそうに笑う。
「対応されたの、初めて」
その瞬間、黄金の槍が再び閃く。
甲高い金属音が響く。
ルビアは受け止める。
だが──
「っ!」
槍の穂先が剣を滑り、そのまま肩を掠めた。
遅れて赤い血が舞う。
ルビアはすぐに距離を取る。
だが、追撃は止まらない。
「まだまだよ──《超加速》」
白い世界から、ウリエルの姿が消える。
右。
違う。
左。
そこでもない。
ギィィンッ!!
辛うじて受け止める。
その直後、脇腹に熱が走る。
浅い。
だが、確実に斬られた。
さらに一閃。
頬。
腕。
太腿。
紙一重で避けても、そのすべてを避け切ることはできない。
傷が、一つ。
また一つ。
ルビアの身体に刻まれていく。
◆
徐々に切り刻まれていく中、ルビアの思考は研ぎ澄まされていく。
まだ足りない。
魔力流は、まだ完成していない。
まだ、すべてを引き出せていない。
魔力の流れに身を任せるだけでは、届かない。
魔力の流れ、そのすべてを理解しなければ、届かない。
そして──
身体中を巡る魔力を、さらに速く。
さらに──
さらに速く──
激流の如く。
――だが。
心は、明鏡止水の如く──
焦るな。
迷うな。
乱れるな。
ただ静かに──魔力だけを、極限まで加速させろ――
◆
ルビアが踏み込む。
銀の剣が閃く。
ウリエルは槍で受け流した。
「……?」
ほんの僅か、違和感が残る。
再びルビアが斬り込む。
今度も受け止める。
だが──
(……動きが変わった?)
剣筋は同じ。
速度も大きくは変わっていない。
それなのに、妙に読みづらい。
ルビアは間髪入れず偽剣を放つ。
一振り。
二振り。
十本へと複製され、四方からウリエルへ襲い掛かる。
「甘い」
黄金の槍が舞う。
一本。
また一本。
偽剣が弾き飛ばされていく。
その時だった。
「――っ!」
一振りの偽剣が、不自然な軌道を描いた。
ウリエルの槍をすり抜けるように角度を変え、そのまま右肩を斬り裂く。
青い鮮血が宙を舞った。
ウリエルは静かに距離を取る。
右肩へ視線を落とす。
流れる青い血。
(飛ぶ剣も……軌道が変わった?)
視線を上げる。
そこに立つルビアは、先ほどまでと何も変わらないように見えた。
だが、静かだった。
それでいて──嵐のような圧力が、その身から溢れ出していた。
ウリエルは右肩から流れる青い血を見つめる。
そして、口元がゆっくりと吊り上がった。
「あなた……」
その笑みは隠しきれなかった。
「まだ先があったの……!」
純粋な歓喜。
心の底から嬉しそうに笑う。
対するルビアは何も答えない。
ただ静かに、一歩踏み出す。
剣先を真っ直ぐウリエルへ向ける。
乱れはない。
焦りもない。
その姿は、まるで──
――掛かってこい。
そう告げているかのようだった。
ウリエルは笑う。
「いいわ」
黄金の槍を構え直す。
その瞬間、周囲の空気が震えた。
「最高速度でいくわね」
次の瞬間には、その姿は消えていた。
爆ぜるような衝撃が白い世界を駆け抜ける。
ルビアの赤い瞳だけが静かに、その軌跡を追っていた。
◆
ルビアは理解した。
いや──理解したというよりも、確信した。
――これが、完全な魔力流。
ウリエルの動き。
呼吸。
羽が揺れる僅かな動き。
視線の変化。
そのすべてが鮮明に映る。
世界が遅くなったわけではない。
だが──まるで世界そのものが止まっているように感じる。
自然と、そんな考えが浮かんだ。
――超加速を使っていたエレンも。
――今、目の前にいるウリエルも。
この景色を見ていたのだろうか。
そう思うと、不思議と笑みが零れそうになった。
ようやく──
ようやく、同じ場所まで辿り着けた。
黄金の槍が閃く。
銀の剣が迎え撃つ。
甲高い金属音が響き、二人の姿が消えた。
次の瞬間には互いの背後へ。
振り返ることなく再び激突する。
槍が突き、剣が薙ぐ。
斬撃と刺突が幾度となく交錯し、そのたびに衝撃が白い世界を震わせた。
だが、どちらの刃も届かない。
互いの動きが見えている。
互いの狙いが読めている。
速度も、技量も、ほぼ互角。
激突を繰り返した末、二人は同時に距離を取った。
ルビアは静かに剣を下ろす。
十本に分かれていた偽剣が一つへと戻り、腰へ納められた。
(……このままじゃ、決着がつきません)
静かに腰へ手を伸ばす。
その指が、魔導刀の柄へ触れた。
その動きを見たウリエルの視線が、ルビアの腰へ向く。
(……刀)
戦いが始まってから、一度も抜かれていない武器。
ウリエルは悟る。
――次の一撃で決まる。
二人は静かに距離を取る。
ルビアは魔導刀の柄を握る。
ウリエルもまた、黄金の槍を静かに構えた。
◆
ウリエルは極限まで集中する。
ルビアの赤い瞳は、真っ直ぐ自分を見据えていた。
(いいわね)
自然と口元が緩む。
(この瞬間が、たまらなく好き)
互いの命を懸けた、たった一撃。
(最後に勝つのは――私)
ウリエルの姿が、ふっと消えた。
その瞬間、ルビアは魔導刀を抜き放つ。
(クロエさんを斬る時、私は躊躇った。殺してしまうんじゃないかって……だから、あの一撃は不完全だった)
刃が鞘を滑る。
(でも、今ならわかる――躊躇うな)
ルビアは居合を放った。
――否。
それを居合と呼ぶことすら、正しいのか。
鞘から刃が抜き放たれる、その瞬間さえ存在しないかのように──
ウリエルの目に映った時には、すでに一閃は振り抜かれていた。
抜刀すら、認識させない。
人の身で辿り着いた――神域の剣。
まさに神業。
その直後、ルビアの左肩から、鮮血が流れ落ちた。
居合を放った一瞬、ウリエルの斬撃もまた、ルビアの左肩を捉えていた。
そして同時に、ルビアの全身を巡っていた魔力流が、消える。
魔導刀を抜いたことで、残されていた魔力は既に全て使い果たしていた。
魔力流を維持することも、もうできない。
「……え?」
ウリエルは驚愕する。
自分の槍を握っていた右腕が、ない。
一拍遅れて、ウリエルの胸から上が静かに滑り落ちる。
両断されたウリエルは、青い鮮血を撒き散らしながら、ごとりと床へ倒れた。
ルビアとウリエルがすれ違った軌跡には──本当に空間が裂けたかのような、一筋の斬痕だけが残されていた。
◆
ウリエルは、ごふっと青い血を吐く。
「……あと少し。本当に、紙一重だった……やるじゃない」
ルビアは振り返る。
そして、その場にがくりと膝をついた。
「……そうですね。紙一重でした。ウリエルさん……あなたは、本当に強かった」
その言葉に、ウリエルは小さく笑う。
「……ふふっ」
ルビアは静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ウリエルは目を丸くする。
「……敵なのに、感謝するのね」
「はい。敵だけど、感謝します」
一瞬の静寂。
ルビアは続けた。
「あなたがいたから、私はここまで辿り着けました」
ウリエルは少しだけ目を閉じる。
「……ふふっ。楽しかったわ」
一息置いて、穏やかに笑う。
「負けたけど……こんな最後も悪くない」
そして、最後に告げる。
「ルビア・ノア。誇りに思いなさい。胸を張りなさい……この私を倒したのだから」
ルビアは力強く頷いた。
「あなたのことは、忘れません」
ウリエルは満足そうに笑う。
「……ふふっ」
静かに息を吐き──
「……こんな最後も、悪くないわね」
ウリエルはそう言うと──そのまま、静かに息を引き取った。
ウリエルの身体が静かに光の粒となり、白い世界へ溶けていく。
ルビアはその姿を最後まで見届けると、小さく目を閉じた。
「……さようなら」
その瞬間、ルビアの足元に、白い光を放つ転移魔法陣が浮かび上がる。
光が一気に溢れ――
視界が白く染まった。
◆
次に目を開けた時、ルビアは天国塔の最上階の床に立っていた。
「……戻ってきました」
そのすぐ先には──
「ルビアちゃん!」
レイコが立っていた。




