第二十九話 愛と憎しみ
眩い光が静かに消えていく。
転移装置の上に、エレン、ルビア、レイコの三人が姿を現した。
ここは天国塔六十階層。
静まり返った空間を見渡したエレンは、レイコから受け取った魔導具――オリヴィエの御守を首に掛けた。
その瞬間だった。
「……」
エレンは僅かに目を見開く。
天国塔に居る時の蝕んでいた聖域の濃密な聖気。
その痺れるような圧迫感が、まるで嘘だったかのように消えていた。
胸の奥まで染み込んでくるような不快感もない。
エレンはゆっくりと手を握り、開く。
「……すごい」
思わず漏れたその一言に、レイコが小さく微笑む。
「どうかしら?」
「……本当に聖域の聖気を防いでる」
エレンは感心したようにアミュレットへ視線を落とした。
「身体の痺れも、まったく感じない。さすがね、レイコ。こんな魔導具まで作れるなんて」
レイコは少し照れたように笑う。
「ありがとう。役に立ったのなら嬉しいわ」
エレンは小さく頷くと、二人へ視線を向けた。
「少し戻りましょう。第三の試練の部屋でハニエルを待つわ。そこなら聖獣も来ないし、クロエと鉢合わせする心配もない」
「分かったわ」
三人は踵を返し、第三の試練の部屋へ向かって歩き始めた。
その途中、レイコが、何かを思い出したように口を開く。
「そういえば……」
エレンとルビアがレイコへ視線を向ける。
「二人には、まだ話していなかったわね」
「何を?」
「クロエのことよ」
レイコは前を向いたまま、静かに続ける。
「街が天使に襲撃された時に、色々とあってね……その時、クロエとも少し話したの……七十階層で待っているって」
「七十階層で?」
「ええ」
レイコは小さく頷く。
「そこで、私と決着をつけるつもりみたい」
「……そう」
エレンは僅かに目を細める。
ルビアも真剣な表情でレイコを見つめた。
「レイコさんと、クロエさんが……」
「ええ」
短く答えると、レイコは再び前を向く。
エレンは少しだけ考えたあと、静かに口を開いた。
「それなら、ハニエルを待つ時間は十分にありそうね。クロエが七十階層で待っているなら、その間に私達も準備を整えましょう」
やがて三人は第三の試練の部屋へと戻る。
静まり返った部屋の中央で足を止めると、エレンは二人へ向き直った。
「今のままじゃ、ヴァルキュリアに対する手札が足りない」
レイコも静かに頷く。
「そうね。私もヴァルキュリアに対抗する術式を考える時間が欲しいわ」
続いてルビアが口を開く。
「私も、レイコさんから頂いた魔導具に慣れておきます」
「ええ」
エレンは小さく頷いた。
「よし、準備をしましょう」
そう言うと、エレンは首に掛けていたアミュレットを静かに外す。
そして右手を前へと差し出し、意識を集中させた。
その手のひらに、一本の実弾の矢が形作られていく。
ヴァルキュリアとの戦いに備え、実弾の矢の創造を始めた。
◆
それから、およそ一時間が過ぎた。
静まり返った第三の試練の部屋に、軽い羽ばたきの音が響く。
「お待たせしました」
聞き慣れた声と共に、ハニエルが部屋へ姿を現した。
「本当に……」
ルビアが思わず目を丸くする。
「一時間くらいで来ちゃいました……」
レイコも感心したように頷いた。
「思っていたよりずっと早かったわねぇ」
エレンはハニエルへ歩み寄る。
「どうやって来たの?」
ハニエルは穏やかに微笑みながら答えた。
「飛んできました。 私達天使は、天国塔にある試練を受けなくても、どの階層へも自由に行き来できますので。 天国塔の内部の清掃や管理も、私達天使の仕事なのですよ。そのため、聖獣も私達天使を襲うことはありません。ですから、最短でこちらへ向かいました」
「なるほど……」
エレンは納得したように頷く。
ルビアも感心したように声を漏らした。
「そんな仕組みだったんですね……」
レイコも静かに微笑む。
「天使ならでは、ということかしら」
エレンは足元に視線を向ける。
そこには、この一時間で創造した大量の実弾の矢が整然と並べられていた。
「ちょうどいいわ。できたから、腕輪にしまっておいて」
「分かりました」
ハニエルは左手首にはめられた腕輪へ視線を落とす。
そして静かに意識を向けた。
その瞬間――
床一面に並べられていた大量の実弾の矢が、音もなく一瞬で姿を消した。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……」
ハニエルは自らの腕輪を見つめる。
エレンも僅かに目を見開いた。
「実際に収納されるところを見ると、凄いわね。本当に一瞬だった」
「す、凄いです!」
ルビアも思わず声を上げる。
「一瞬で全部消えました!」
ハニエルは感心したようにレイコへ視線を向けた。
「レイコ、あなたは本当に凄いですね」
突然褒められたレイコは少し照れたように微笑む。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
穏やかな空気が流れる。
しばらくして、レイコが静かに口を開いた。
「ハニエルちゃんにも、話しておかないといけないことがあるわね」
「私に、ですか?」
「ええ」
レイコは小さく頷く。
「クロエは今、七十階層で私達を待っているわ」
ハニエルの表情が僅かに引き締まる。
「七十階層に……」
「ええ。街が天使に襲撃された時に色々とあってね。七十階層で待つと言われたの」
「そこで、私と決着をつけるつもりみたい」
「……そうなのですね」
ハニエルは静かに頷いた。
その時、エレンが、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば……」
三人の視線がエレンへ向く。
「ハニエルには、ルビアとレイコが天国塔を登っている理由を、ちゃんと話してなかったわね」
「そういえば……そうですね」
ハニエルはルビアとレイコへ視線を向けた。
先に口を開いたのは、ルビアだった。
「私が天国塔を登っている理由は、神になるためです」
「神に……?」
「はい」
ルビアは迷うことなく頷く。
「天国塔の最上階まで辿り着いて、神になる。それが私の願いです」
「なるほど……」
ハニエルは少し驚いた様子を見せながらも、静かに頷いた。
続いて、レイコが口を開く。
「私は、娘を生き返らせるためよ」
「娘さんを……?」
「ええ」
レイコは小さく頷く。
「私には夫と娘がいたの。でも……二人とも殺されたわ」
「……」
ハニエルの表情が僅かに曇る。
「それから私は、娘を生き返らせる方法をずっと研究してきた。そして、方法そのものはもう見つけているの」
「では……」
「ええ。私に必要なのは、天国塔の最上階に辿り着いたら叶えられる『願い』じゃないわ」
レイコは静かに続ける。
「娘を生き返らせるために必要なのは、オリヴィエ家に代々伝わる神器なの」
「神器……」
「私は一度、その神器を正式に受け継いだわ。でも……今はクロエに奪われて、ヴァルキュリアの中にあるの」
「クロエさんに……?」
「ええ」
レイコは静かに頷いた。
「だから私は、クロエから神器を取り戻したいの。それさえ取り戻せれば、娘を生き返らせることができる」
「……そうだったのですね」
ハニエルはしばらくレイコを見つめたあと、静かに頷いた。
そして、何かに気付いたように、今度はエレンへ視線を向ける。
「……そういえば」
「なに?」
「エレンは、どうして天国塔を登っているのですか?」
「私?」
「はい」
ハニエルは不思議そうに首を傾げる。
「エレンは三百年前に、一度最上階まで辿り着いていますよね?」
「ええ」
「それなのに、どうしてもう一度?」
「ああ」
エレンは納得したように頷く。
そして、何でもないことのように答えた。
「クラディウスを殺すためよ」
「……」
ハニエルが一瞬、言葉を失う。
「……随分さらりと言いますね」
「だって、それが目的だもの」
エレンは平然と答える。
「……そうでしたね」
ハニエルは少し困ったように微笑んだ。
そんなハニエルを見ながら、エレンは、ふと別のことを思い出す。
「そういえば、レイコ」
「なに?」
「前に聞いた、レイコの夫と娘のことなんだけど……」
レイコがエレンを見る。
「二人を殺した犯人って、その後どうなったの?」
「……」
レイコは少しだけ目を伏せた。
「……分からないわ」
「分からない?」
「ええ」
レイコは静かに首を横に振る。
「結局、誰が二人を殺したのかも分からなかった。だから、その犯人が今どうしているのかも……私は知らないわ」
「……そう」
エレンはそれ以上、何も聞かなかった。
短い沈黙が流れる。
そのまま立ち上がろうとしたエレンだったが――
「……待って」
レイコの声に、動きを止める。
「どうしたの?」
「その前に……皆に話しておきたいことがあるの」
エレン、ルビア、ハニエルの三人がレイコを見る。
レイコは少しの間、何も言わなかった。
何から話せばいいのか。
言葉を探すように視線を落とす。
「……私とクロエのこと。それから、オリヴィエ一族のことよ」
静かな部屋に、レイコの声だけが響く。
「さっきも話したけれど、オリヴィエ家は代々神器を守ってきた一族なの。私もクロエも、幼い頃から神器を守るために魔法を学んできた。でも……私達は、ずっと同じように扱われていたわけじゃなかったの」
レイコは自分の手を見つめる。
「私は、小さい頃から魔法が得意だった。新しい魔法を覚えるのも、術式を理解するのも、他の人よりずっと早かった。だから、一族の人達はいつも私を褒めていたわ」
そこで一度、言葉が止まる。
「そして……いつもクロエと私を比べていた」
ルビアが僅かに眉を寄せる。
「比べていた……」
「ええ。私が何かできるようになる度に、クロエは言われていた。お姉ちゃんはもうできるのに、とか、もっと頑張りなさいって」
「……」
「……クロエは、本当に努力していたわ」
レイコの声が少しだけ弱くなる。
「魔法も、勉強も、何度失敗しても諦めなかった。特に、人形に関する知識と魔法に関しては……あの子は昔から凄かった」
レイコは小さく微笑む。
「少なくとも、私はクロエに敵わなかったわ」
エレンが静かにレイコを見つめる。
「レイコが?」
「ええ。人形に関する知識と魔法だけなら、間違いなくクロエの方が上よ。私は昔から、そう思っていた」
しかし、その微笑みは、すぐに消えた。
「でも、一族の人達は……あの子の才能をほとんど見ようとしなかった。いつも私ばかりを褒めて、クロエがどれだけ頑張っても、最後には私と比べた」
レイコは目を伏せる。
「……私も、それを止めなかった。別に、一族に褒められることなんてどうでもよかった。私は、魔法の研究さえできれば、それでよかったから。だから……クロエも同じだと思っていたのかもしれない。自分がどう評価されているかなんて、気にする必要はないって」
静かな沈黙が流れる。
「でも……」
レイコはゆっくりと首を横に振った。
「違ったのよね。クロエは……認めてほしかった。一族にも……私にも」
その最後の言葉だけが、少し震えた。
「なのに私は……」
レイコは唇を噛む。
「気付くのが遅すぎた。クロエが私を嫌うようになっても……私は、あの子がどうしてそこまで私を嫌うのか……ちゃんと考えようとしなかった」
拳を、僅かに握る。
「姉なのに……ずっと近くにいたのに、私は……クロエのことを、何も見ていなかったのかもしれない」
「……レイコ」
エレンが名前を呼ぶ。
レイコは顔を上げた。
「……後悔しているわ。もっと早く、あの子と話せばよかった。一族のことも、人形魔法のことも、私がクロエをどう思っているのかも、ちゃんと……言葉にすればよかった」
誰も、すぐには答えなかった。
やがて、エレンが静かに口を開く。
「だったら……」
レイコがエレンを見る。
「今から、言えばいいんじゃない?」
「……え?」
「クロエは七十階層にいる。まだ会えるわ」
エレンは真っ直ぐにレイコを見つめる。
「過去のことは変えられない。でも、今からクロエと向き合うことはできる」
ルビアも力強く頷いた。
「私も、そう思います。レイコさんが今話してくれたことを、クロエさん本人にも伝えてあげてください」
ハニエルも穏やかに微笑む。
「言葉にしなければ、伝わらないこともあります。ですが、言葉にすることができるのなら、まだ遅くはありません」
「……」
レイコは三人を見つめた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……そうね」
小さく息を吐く。
「今度こそ、ちゃんとクロエと向き合うわ」
エレンは頷く。
「ええ」
そして立ち上がると、三人を見渡した。
「行きましょう。クロエの待つ、七十階層へ」
◆
エレン達四人は、第三の試練の部屋を後にし、七十階層へ向けて歩き始めた。
エレンは再び首元へ手を伸ばし、アミュレットを身につける。
聖域を満たす聖気は依然として濃い。
しかし、アミュレットを身につけた今、聖気の影響は一切感じない。
天国塔では、二十、四十、六十、八十階層にそれぞれ試練が用意されている。
一方、十、三十、五十、七十、九十階層は広い大広間となっており、聖獣は現れない。
塔を登る者達が休息を取る場所としても利用される階層である。
なお、転移装置が設置されているのは二十、四十、六十階層のみだった。
目指すは七十階層。
そこには、クロエが待っている。
しばらく歩きながら、エレンはハニエルへ視線を向ける。
「ハニエル。道中で聖獣が現れたら、実弾の矢を使って。ヴァルキュリアと戦う前に、少しでも慣れておいた方がいいわ」
「はい」
ハニエルは左手首の収納の腕輪へ軽く触れる。
「実戦で感覚を掴んでおきます」
その言葉を聞いたルビアも頷いた。
「私も、偽剣を試してみたいです」
ルビアは腰の後ろに装備した一本の偽剣へ手を添える。
「今の私なら、十本まで複製できます」
ルビアの左腰には、これまで使い続けてきた愛剣と、レイコから託された魔導刀、そして腰の後ろには、一本の偽剣が装備されている。
この偽剣は魔力を流し込むことで複製され、今のルビアなら最大十本まで同時に生み出すことができた。
身に着けている軽装の鎧も、先ほどエレンが創造したものだ。俊敏な動きを損なわないよう作られており、ルビアの身体へ自然と馴染んでいる。
「ええ」
エレンは小さく頷く。
「今のうちに、しっかり慣れておきましょう」
その隣では、レイコが静かに前を見つめていた。
クロエと、今度こそ向き合う。
伝えられなかったことを、今度こそ、言葉にする。
そして、そのためにも、ヴァルキュリアを倒さなければならない。
レイコは歩きながら、ヴァルキュリアに対抗するための新たな術式を頭の中で組み立てていく。
それぞれの思いを胸に、四人は、クロエの待つ七十階層を目指して歩みを進めていった。
◇ ◇ ◇
七十階層。
クロエは静かに目を閉じていた。
広い大広間には、クロエとヴァルキュリア以外、誰一人としていない。
静寂だけが、その場を包み込んでいる。
クロエはゆっくりと息を吐いた。
自然と、一人の男の顔が脳裏に浮かぶ。
忘れようとしても忘れられない。
思い出したくもない過去。
クロエはゆっくりと瞼を開く。
「……最低」
小さく呟いた、その瞬間。
封じ込めていた記憶が、静かに蘇っていく――。
◇ ◇ ◇
オリヴィエ家。
代々、神器を守護してきた一族。
その使命は絶対であり、一族の者は幼い頃から厳しい魔法の訓練を受けて育つ。
クロエも例外ではなかった。
まだ幼い少女だった頃から、毎日のように魔法を学び、鍛錬を積み重ねる日々。
しかし、その隣には、いつも姉のレイコがいた。
「レイコはもうそこまでできるのに、クロエ、もっと頑張りなさい」
何度も繰り返される言葉。
魔法。
知識。
判断力。
その全てで、姉には届かなかった。
努力しても、必死に手を伸ばしても、その背中は、少しも近付いてはくれない。
それでも、クロエは姉が大好きだった。
「姉さん!」
幼いクロエは、いつも笑顔でレイコの後ろを追い掛けていた。
魔法も、勉強も、何をやっても凄い姉。
オリヴィエ一族の誰もが口を揃える。
「レイコは天才だ」
クロエもそう思っていた。
だからこそ、姉のようになりたかった。
姉に褒めてもらいたかった。
そんな思いで、毎日必死に努力を続けていた。
クロエには、一つの夢があった。
人形を作ること。
ただ動くだけではない。
怪我をした人を運び、危険な場所で人の代わりに働き、誰かの命を救える。
そんな優しい人形を作りたかった。
だからクロエは、人形魔法の技術と理論を誰よりも必死に学び続けた。
魔法陣。
魔力制御。
素材。
構造。
動作理論。
失敗しても、何度壊れても、諦めることはなかった。
姉に認められたい。
オリヴィエ一族にも認められたい。
「クロエは凄い」
そう言ってもらえる日を夢見て、その努力は、やがて一つの才能として花開く。
人形魔法。
その才能だけは、幼い頃から飛び抜けていた。
教師達は驚き、一族の者達もその才能を認め始める。
しかし、周囲が見ていたのは、その才能ではない。
いつだって比較されるのは、姉のレイコだった。
「お姉ちゃんのレイコは凄い」
「それに比べて、クロエは……」
その言葉は、幼い少女の心へ少しずつ積み重なっていく。
誰にも気付かれることなく。
静かに。
確実に。
◆
ある日。
「姉さん!」
クロエは嬉しそうに研究室へ飛び込んできた。
両手には、小さな木製の人形。
「見て!」
人形へ魔力を流す。
すると、人形はゆっくりと立ち上がり、とことこと歩き始めた。
腕を振り、首を動かし、クロエの指示通りに歩いていく。
「できたの!先生にも褒められたんだよ!人形魔法は、姉さんより才能があるかもしれないって!」
期待に満ちた瞳でレイコを見る。
レイコは研究資料から顔を上げ、人形を静かに見つめた。
「……そう。すごいじゃない。その年齢でそこまで動かせるなら十分よ」
レイコは立ち上がると、人形を手に取り、関節や魔力の流れを丁寧に確認する。
「魔力制御も安定しているわ。この構造なら、もっと改良すれば重い物も運べそうね。あなたらしい、とても良い魔法だと思う」
そう言って、小さく微笑んだ。
クロエの表情が明るくなる。
だが、次の瞬間。
レイコは再び机へ戻り、新しい研究資料へ視線を落とした。
紙へ魔法陣を書き始める。
「……」
クロエは立ち尽くした。
欲しかったのは、
『すごい』
その一言だけではなかった。
もっと見てほしかった。
もっと話を聞いてほしかった。
頭を撫でながら、
『頑張ったね』
そう笑ってほしかった。
「……うん!」
クロエは笑顔を作る。
けれど、その笑顔は、どこか寂しそうだった。
◆
それから、何年もの月日が流れた。
クロエは成長し、一人の魔法使いとして多くの知識と技術を身につけていた。
魔法。
魔術理論。
魔力制御。
幼い頃とは比べものにならないほど、その実力は高くなっている。
だが、どれだけ成長しても、変わらないものがあった。
「姉さん」
クロエは数枚の紙を手に、レイコの研究室を訪れていた。
「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
「なに?」
「新しい魔法の理論を考えたの」
机の上へ紙を広げる。
そこには、クロエが何日もかけて組み上げた術式と理論が細かく書き込まれていた。
「これなら、今までより少ない魔力で同じ規模の魔法を使えると思う」
少しだけ得意げに説明するクロエ。
レイコは紙を手に取り、しばらく目を通す。
「ああ、これね」
「……え?」
「私も前に似たものを考えたことがあるわ」
レイコは自分の机から一冊の研究資料を取り出した。
「この辺りかしら」
開かれたページを見て、クロエの表情が固まる。
そこには、自分が何日もかけて辿り着いた理論が、さらに先まで研究された状態で記されていた。
「……」
「考え方は合っているわ。ただ、このままだと術式の一部に余計な負荷が――」
「もういい」
レイコの言葉を遮り、クロエは自分の紙を乱暴に掴んだ。
「クロエ?」
「……なんでもない」
そのままレイコの研究室を出ていく。
扉が閉まる。
クロエは廊下を歩きながら、小さく舌打ちした。
「……また姉さん」
いつもそうだった。
新しいことを思いついても、新しい理論を考えても、自信を持って姉へ見せに行けば、既にその先にいる。
いつも、常に、どれだけ追い掛けても、どれだけ努力しても、レイコは当たり前のように、自分の先を歩いていた。
そして。
「さすがレイコだ」
「やはり、あの子はオリヴィエ家の誇りだな」
廊下の先から聞こえてきた一族の声に、クロエの眉がぴくりと動く。
「……またそれ」
聞き飽きた。
姉さん。
姉さん。
姉さん。
何をしても、誰もが口にするのはレイコの名前ばかり。
「本当に、鬱陶しい……」
いつしかクロエは、自分と姉を比べ続けるオリヴィエの一族が嫌いになっていた。
そして、比較される度に、その中心にいる姉のことも、大好きだったはずのレイコのことも、嫌いになっていた。
それでも、心の奥に残っているものがある。
認めてほしい。
姉にも。
一族にも。
レイコ・オリヴィエの妹ではなく。
クロエ・オリヴィエという一人の魔法使いを見てほしい。
その気持ちだけは、どうしても消えてくれなかった。
だからこそ、クロエには、一つだけ譲れないものがあった。
人形魔法。
これだけは。
これだけは、姉よりも自分の方が優れている。
幼い頃から何年も研究し続けてきた。
魔法陣。
魔力制御。
素材。
構造。
動作理論。
人形に関する知識なら、誰にも負けない。
レイコにだって負けていない。
クロエは自分の研究室へ戻る。
そこには、いくつもの人形が並んでいた。
人を抱き上げるための腕。
重い物を運ぶための身体。
足場の悪い場所でも歩ける脚。
怪我人を傷付けることなく運ぶための魔力制御。
まだ完成には遠い。
それでも、幼い頃に思い描いた夢は、少しずつ形になっていた。
「……絶対に完成させてやる」
クロエは椅子へ座り、設計図を広げる。
「怪我をした人を助けて、人間じゃ危険な場所でも働けて、誰かの命を救える。そんな人形を作って……」
ペンを握る手に力が籠もる。
「世の中の役に立つって証明してやる」
そして。
「そうしたら……」
一瞬だけ、手が止まった。
頭に浮かんだのは──
レイコ。
そして、自分を姉と比べ続けてきた一族の者達。
「……少しは、私のことも、認めるでしょ」
クロエは再び設計図へ向き直った。
誰かを助けたい。
その思いは、今も変わっていない。
けれど、幼い頃にはなかった、もう一つの願いが、いつしかその夢の中には混ざっていた。
――自分を認めてほしい。
その思いを胸に、クロエは再び、人形の研究へ没頭していった。
◆
それからも、クロエは人形の研究を続けた。
失敗して、壊して、作り直して、また失敗する。
何度繰り返しても、諦めることはなかった。
そんなある日のことだった。
「……これは」
研究室の外から、聞き慣れない男の声が聞こえた。
「?」
クロエは手を止め、顔を上げる。
扉の向こう。
一人の青年が、廊下へ置かれていた人形を興味深そうに眺めていた。
先ほどクロエが動作試験に失敗し、そのまま置いていたものだった。
青年はしゃがみ込み、壊れた人形の関節を静かに確認している。
「ちょっと」
クロエは眉を寄せた。
「勝手に触らないでくれる?」
「ああ、ごめん」
青年はすぐに手を離した。
「壊れていたから、つい気になって」
「壊れてるんじゃなくて、実験に失敗しただけよ」
「……それを壊れてるって言うんじゃないのか?」
「うるさいわね」
クロエは人形を抱き上げる。
「直せばいいのよ」
青年は怒ることもなく、小さく笑った。
「君が作ったの?」
「そうだけど」
「一人で?」
「そうよ」
青年は少し驚いたように人形を見つめる。
そして。
「凄いな」
「……」
クロエの動きが止まった。
「何?」
「いや、本当に凄いと思って」
青年は人形へ視線を戻す。
「関節ごとに魔力の流れが独立してる。それを一つの術式で同時に制御しているんだろ?」
「……そうだけど」
「それだけじゃないな」
青年は壊れた脚を見る。
「転倒した時に人を巻き込まないよう、一定以上傾いたら魔力を止めるようにしてある」
クロエは目を見開いた。
「……分かるの?」
「これくらいなら」
青年は穏やかに笑う。
「人を傷付けないためだろ?」
「……」
クロエは人形を抱いたまま、青年を見つめる。
「これ、何のために作ってるんだ?」
「……人を助けるため」
「人を?」
「怪我人を運んだり、人間が入れないような危険な場所で、代わりに働かせたり……」
クロエは少しだけ視線を逸らした。
「いつかは、もっと色々できるようにするつもり」
「へえ……」
「何よ」
「いや」
青年はもう一度、人形を見る。
「良いなと思って」
「……」
「人形魔法って、戦わせるためにも使えるだろ?」
「まあね」
「でも君は、人を助けるために使おうとしてる」
青年はクロエを見る。
「俺は、そういう魔法が好きだ」
その言葉に、クロエは何も返せなかった。
魔法を褒められたことならある。
人形魔法の才能を評価されたことだってある。
けれど、自分がどうして、この人形を作ろうとしているのか。
そこまで見てくれた人は、ほとんどいなかった。
「完成したら……」
青年は人形を見ながら言う。
「きっと、たくさんの人を助けられる。君の人形なら、誰かの命を救えると思う」
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけ、温かくなった。
「……当然でしょ」
クロエは顔を逸らす。
「そのために作ってるんだから」
「そうだな」
「絶対完成させるし」
「うん」
「……姉さんにだって作れないものを作ってやるんだから」
青年は僅かに首を傾げた。
「姉さん?」
「……何でもない」
クロエは人形を抱え直す。
青年はそんなクロエを見て、穏やかに笑った。
「ああ、そうだ」
「?」
「まだ名乗ってなかったな」
青年はクロエへ手を差し出す。
「俺は、バルド・ゴートン」
「君は?」
「……クロエ」
一瞬だけ迷ってから、その手を取る。
「クロエ・オリヴィエ」
「よろしく、クロエ」
「……ええ」
この時のクロエは、まだ知らなかった。
自分の魔法を、自分の夢を──
そして、レイコ・オリヴィエの妹ではなく、クロエ・オリヴィエという一人の人間を見てくれたように思えた、この男との出会いが――
やがて、自分の人生を大きく変えることになるなど、知る由もなかった。
◆
それから、バルドは何度もクロエの研究室を訪れるようになった。
「今日はどこまで進んだ?」
「ここ」
クロエは机の上へ設計図を広げる。
「脚部の構造を変えたの。これなら前より安定して歩けるはず」
「なるほど」
バルドは椅子へ座り、設計図を覗き込む。
「でも、この関節に負荷が集中しないか?」
「それは――」
クロエは指摘された部分を見る。
「……」
しばらく考え、
「……するわね」
「やっぱり?」
「気付いてたなら最初から言いなさいよ」
「今言っただろ」
「もっと早く」
「無茶言うなよ」
「うるさい」
そう言いながらも、クロエの表情は、どこか楽しそうだった。
二人で設計図を囲み、考えて、試して、失敗すれば原因を探す。
人形が思い通りに動けば、次の改良を考える。
そんな日々が続いていった。
◆
「……動け」
クロエが魔力を流す。
人形がゆっくりと立ち上がった。
一歩。
二歩。
そのまま部屋の中央に置かれた荷物まで歩いていく。
腰を落とし、両腕で荷物を抱えた。
そして――
「よし……!」
持ち上げる。
クロエは思わず立ち上がった。
「できた!」
「ああ」
バルドも嬉しそうに笑う。
「前よりずっと安定してる」
「当たり前でしょ。何回失敗したと思ってるのよ」
「昨日だけで五回くらい壊してなかったか?」
「六回よ」
「増えてるじゃないか」
「でも成功したでしょ?」
「ああ」
バルドは頷く。
「クロエが諦めなかったからな」
「……」
その言葉に、クロエは少しだけ黙った。
「何?」
「いや」
クロエは顔を逸らす。
「……別に」
けれど、口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
◆
研究が上手くいかない日もあった。
「……ああもう!」
クロエは机へ突っ伏した。
「なんで動かないのよ!」
床には、動作試験に失敗した人形が倒れている。
「魔力回路も問題ない! 関節も昨日全部調整した! 術式だって何度も確認した! なのになんでよ!」
バルドは倒れた人形を調べる。
「……ここじゃないか?」
「どこ?」
「この接続部分」
「……」
クロエも覗き込む。
「魔力を流した時だけ、僅かにずれてる」
「……本当だ」
クロエは眉間に皺を寄せた。
「こんなの気付くわけないでしょ……」
「じゃあ、分かったんだから直せばいい」
「簡単に言わないで」
「失敗したなら、次に活かせばいいだろ」
バルドは笑う。
「研究なんて、その繰り返しなんだから」
「……」
クロエはその言葉を聞き、もう一度人形へ手を伸ばした。
「……そうね」
失敗すれば、もっと努力しろと言われた。
結果を出せば、姉と比べられた。
何をしても、いつだって自分の前にはレイコがいた。
けれど、バルドは違った。
失敗しても責めない。
結果だけではなく、そこへ辿り着くまでにクロエが何を考え、何をしてきたのか。
その過程まで見てくれた。
そして何より、バルドといる時だけは、誰も自分を、レイコと比べなかった。
◆
そんな日々が、何年も続いた。
いつしかクロエにとって、バルドと研究する時間は、当たり前のものになっていた。
「遅い」
研究室へ入ってきたバルドへ、クロエは開口一番そう言った。
「まだ約束の時間から少ししか経ってないだろ」
「私を待たせた時点で遅いの」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「……よろしい」
クロエは満足そうに設計図へ視線を戻す。
バルドは苦笑しながら、その隣へ座った。
クロエ自身は、まだ気付いていなかった。
いつからなのか、バルドが来る時間を気にするようになったことも。
研究中、隣に彼がいることを当然だと思うようになったことも。
何かに成功した時、真っ先にバルドへ見せたいと思うようになったことも。
そして、彼と過ごす時間を、何より楽しみにしている自分がいることにも。
まだ、気付いてはいなかった。
◆
そんな日々を重ねるうちに、二人の関係は、少しずつ変わっていった。
研究について語り合うだけだった時間は、いつしか、研究とは関係のない話をする時間へと広がっていく。
好きな食べ物。
行ってみたい場所。
くだらない出来事。
何気ない日常。
気付けばクロエは、バルドになら何でも話すようになっていた。
そして、ある日の帰り道。
夕日に染まる街を、二人は並んで歩いていた。
「クロエ」
「なに?」
バルドが足を止める。
クロエも数歩進んだところで振り返った。
「どうしたのよ」
「……少し、話がある」
「何よ、改まって」
バルドは少しだけ迷ったあと、口を開いた。
「俺は、クロエと研究してる時間が好きだ」
「……急に何?」
「最後まで聞いてくれ」
「はいはい」
クロエは呆れたように肩を竦める。
バルドはそんなクロエを見て、小さく笑った。
「研究だけじゃない。一緒に話したり、街を歩いたり、クロエと一緒にいる時間が、俺は好きなんだ」
「……」
クロエの表情が僅かに変わった。
「だから……」
バルドは真っ直ぐにクロエを見る。
「これからも、君の隣にいたい。恋人として」
「……」
クロエは何も答えなかった。
ただ、顔が少しずつ赤くなっていく。
「……何それ」
「告白」
「それくらい分かるわよ」
「……じゃあ、返事は?」
「……」
クロエは視線を逸らした。
胸がうるさい。
研究で新しい発見をした時とも、人形が思い通りに動いた時とも違う。
知らない感覚だった。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ――
「……いいわよ」
「本当に?」
「何度も言わせないで」
クロエは顔を赤くしたまま、バルドを見る。
「私も……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……あんたと一緒にいるの、嫌いじゃないし」
「嫌いじゃない?」
「うるさい!」
クロエはバルドの肩を軽く叩いた。
「これ以上言わせたら取り消すわよ!」
「それは困る」
「だったら黙ってなさい」
そう言いながら、クロエは笑っていた。
心から、嬉しそうに。
それから二人は、恋人となった。
けれど、二人の日常が大きく変わることはなかった。
相変わらず研究室へ集まり、設計図を広げ、人形を作り、失敗しては言い争い、成功すれば一緒に喜ぶ。
そんな日々が続いていった。
◆
それから、さらに数年が過ぎた。
ある日。
「クロエ」
研究をしていたクロエへ、一族の者が声を掛ける。
「何?」
「レイコの結婚式が行われる。お前も出席するだろう?」
クロエの手が、一瞬だけ止まった。
「……姉さんの?」
「ああ」
「……そう」
それだけ答えると、クロエは再び設計図へ視線を戻した。
「私は行かない」
「……何?」
「聞こえなかった?」
クロエは面倒そうに顔を上げる。
「行かないって言ったの」
「実の姉の結婚式だぞ?」
「だから何?」
「こんなところで研究している場合では――」
「こんなところ?」
クロエの声が低くなる。
男は僅かに言葉を詰まらせた。
「……悪かった。そういう意味ではない」
「だったら邪魔しないで」
クロエは設計図へ向き直る。
「式に出てる時間があるなら、少しでも研究を進めた方がいいわ」
「……」
「話はそれだけ?」
「あ、ああ……」
男は困惑したまま、研究室を出ていった。
扉が閉まる。
「……」
クロエは何事もなかったように研究を再開する。
向かいに座っていたバルドが口を開いた。
「行かなくていいのか?」
「いいのよ」
「姉なんだろ?」
「姉だからって、何でも付き合わなきゃいけない決まりでもあるの?」
「それはないけど……」
「だったらいいでしょ」
クロエは人形の部品を手に取る。
「姉さんの結婚式を見るより、こっちを完成させる方が私には大事なの」
「そうか」
「そうよ」
再び、二人は研究を始める。
「……」
しばらくして、クロエはふと、隣にいるバルドを見た。
「……どうした?」
「……別に」
すぐに視線を戻す。
けれど、頭の片隅に、先ほど聞いた言葉が残っていた。
結婚。
姉が結婚する。
自分には関係のない話。
そう思っていたはずなのに、隣で設計図を眺めているバルドを見ているとふと、考えてしまった。
(……私も、いつか、こいつと結婚するのかな)
具体的に考えたことなど、一度もない。
いつなのかも、どんな家庭になるのかも、何一つ分からない。
ただ、この先もずっと。
今と同じように二人で研究を続けて、隣にバルドがいるのなら、いつか、そういう日が来るのかもしれない。
「クロエ」
「な、何よ」
「さっきから手が止まってる」
「……うるさい」
「疲れた?」
「違うわよ!」
クロエは誤魔化すように設計図を奪い取る。
「ほら! 次の実験するわよ!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
いつもと変わらない研究室。
いつもと変わらない二人。
その隣で、クロエはまだ漠然と、バルドと共に歩む未来を思い描いていた。
◆
それから、さらに何年かが過ぎた。
クロエの研究は、少しずつ完成へと近付いていた。
人形魔法だけではない。
炎。
水。
風。
土。
雷。
治癒。
魔力制御。
自分に扱える魔法については一通り学び、研究を重ねていた。
それでも、クロエが最も多くの時間を費やしたものは、やはり人形だった。
幼い頃から作り続けてきた、人を助けるための人形。
その研究は、ようやく七割ほどまで完成していた。
「……よし」
クロエは設計図へ新しい術式を書き加える。
「これで腕の制御はほぼ完成ね」
「ずいぶん進んだな」
隣で資料を整理していたバルドが設計図を覗き込む。
「あとどれくらい?」
「三割くらい」
「じゃあ、もう完成も見えてきたな」
「当然でしょ」
クロエは得意げに笑った。
「何年研究してると思ってるのよ」
「確かに」
「完成したら驚くわよ」
「何が?」
「全部よ」
クロエは椅子の背もたれへ身体を預ける。
「怪我人を運ぶだけじゃない。火事でも、崩れそうな建物でも、人間が入れない場所へ代わりに行けるようにする。 重い物だって運べる。 もっと細かい動作ができるようになれば、医療にも使えるかもしれない」
話しているうちに、クロエの表情は、どんどん明るくなっていく。
「これが完成したら、絶対、世の中の役に立つ」
バルドは小さく頷いた。
「ああ、クロエなら完成させられるよ」
「……ふん」
クロエは照れくさそうに顔を逸らした。
「当たり前よ」
その時だった。
研究室の扉が叩かれる。
「クロエ」
「何?」
「レイコに子供が生まれた」
「……」
クロエは僅かに目を見開いた。
「母子ともに無事だ」
「……そう」
「顔を見に行かないのか?」
「……行かない」
クロエは再び設計図へ視線を落とした。
「姉さんなら大丈夫でしょ」
「そうか」
一族の者はそれ以上何も言わず、研究室を出ていった。
扉が閉まる。
「……子供、か」
クロエが小さく呟く。
「ん?」
「……何でもない」
そう答えながら、クロエは、ふと考えていた。
姉が結婚した。
そして、子供が生まれた。
以前なら、自分とは関係のないことだと思っていただろう。
けれど、クロエは隣にいるバルドを見る。
「……また俺の顔に何か付いてる?」
「付いてない」
「じゃあ、何だ?」
「……別に」
クロエはすぐに顔を逸らした。
結婚。
子供。
以前は漠然としていた未来が、今はほんの少しだけ、現実にあるものとして思えるようになっていた。
(私も……いつか、こいつと結婚して、子供ができたりするのかな)
そして、目の前には、完成へ近付きつつある人形がある。
七割。
まだ完成ではない。
それでも、何年も前には夢でしかなかったものが、今は確かに形になろうとしている。
(これも完成させて、本当に人の役に立つものになったら……)
クロエは設計図を見つめる。
(姉さんも、あいつらも……今度こそ、私を認めるかもしれない)
レイコ・オリヴィエの妹ではなく。
クロエ・オリヴィエとして。
人形魔法なら。
これだけは、姉にも負けない。
自分が何年も積み重ねてきたものを完成させれば、ようやく証明できる。
そして、隣には、バルドがいる。
研究を完成させて、認めてもらって、いつかバルドと結婚して、もしかしたら、子供も生まれて──そんな未来が、初めて、本当に手の届く場所まで近付いているように思えた。
「……ふふっ」
クロエの口元から、小さな笑いが漏れる。
「どうした?」
「何でもないって言ってるでしょ」
「なんか機嫌いいな」
「うるさい」
そう言いながらも、クロエの表情から笑みは消えなかった。
あと少し。
まだ少し時間は掛かる。
それでも、自分がずっと欲しかったものが、一つずつ現実になろうとしていた。
◆
それから、さらに数年が過ぎた。
ある日。
オリヴィエ家の者達が、一堂に集められた。
広い訓練場。
その中央に立っているのは、二人の女性。
レイコ・オリヴィエ。
そして、クロエ・オリヴィエ。
この代で、特に高い魔力を持つ二人だった。
今日、この二人のうち、どちらが神器を受け継ぐのか。
それを決めるための戦いが行われる。
「……結局、こうなるのね」
クロエはレイコを見ながら、小さく呟いた。
周囲から声が聞こえる。
「レイコなら問題ないだろう」
「ああ」
「クロエも優秀ではあるが……」
「相手が悪い」
聞こえている。
全部。
昔から何度も聞いてきた。
姉は凄い。
姉は天才。
それに比べて、自分は。
「……」
クロエは小さく舌打ちする。
「ほんっと、ムカつく……」
「クロエ」
「何よ?」
レイコは静かにクロエを見つめていた。
「手加減はしないわよ」
「……は?」
クロエの眉が吊り上がる。
「当たり前でしょ。手加減なんかしたら、ぶっ飛ばすわよ?」
「ふふっ」
「何笑ってんのよ」
「ごめんなさい」
レイコは小さく笑ったあと、静かに杖を構える。
「じゃあ……全力で来なさい」
「……言われなくても」
クロエも杖を構えた。
分かっている。
自分では姉に勝てない。
魔法。
知識。
判断力。
魔力制御。
これまで何度、その差を見せつけられてきたか分からない。
周囲の者達と同じ。
クロエ自身も、勝つのはレイコだと思っていた。
それでも──
「……だからって」
魔力がクロエの身体から溢れ出す。
「最初から諦められるわけないでしょ!」
地面へ魔法陣が広がった。
その周囲に、いくつもの人形が現れる。
人形魔法。
これだけは、これだけは、誰にも負けたくない。
姉にだって。
「行きなさい!」
クロエの声と同時に、人形達が一斉にレイコへ飛び掛かった。
それと同時にクロエ自身も魔法を展開する。
一つではない。
二つ。
三つ。
異なる術式を組み合わせ、レイコの逃げ道を塞いでいく。
「……」
レイコは迫る人形を見つめる。
そして、僅かに微笑んだ。
「……本当に上手くなったわね」
「戦ってる最中に褒めるな!」
クロエが叫ぶ。
「馬鹿にされてるみたいでムカつくのよ!」
「そんなつもりはないんだけど」
「その態度がムカつくって言ってんの!」
人形が左右から襲い掛かる。
さらに背後。
上空。
クロエは人形一体一体を別々に動かしながら、自らも魔法を放つ。
幼い頃とは違う。
何年も積み重ねてきた。
人形魔法だけではない。
様々な魔法を学んだ。
研究した。
失敗した。
それでも続けてきた。
その全てを、姉のレイコへぶつける。
けれど、届かない。
一体。
また一体。
人形が動きを止めていく。
魔法を重ねても、術式を変えても、奇襲を仕掛けても、レイコは対応する。
「くっ……!」
分かっていた。
最初から。
それでも──
「まだよ!」
クロエは再び魔法陣を展開する。
「まだ終わってない!」
勝てないから何だ。
姉が天才だから何だ。
周りが全員、姉が勝つと思っているから何だ。
そんなもの──
「知ったことじゃないわよ!」
クロエは最後まで、持っている全てを使い切るまで、レイコへ挑み続けた。
そして――
◆
「……っ」
クロエは地面へ片膝をついていた。
荒い呼吸を繰り返す。
魔力も、体力も、ほとんど残っていない。
目の前には、レイコが立っている。
「……」
クロエは俯いた。
分かっていた。
こうなることくらい。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「勝てないか……」
悔しい。
どうしようもなく、悔しかった。
それでも、最初から諦めて何もしなかったよりは、ずっと良かった。
やがて、神器を受け継ぐ者の名が告げられる。
――レイコ・オリヴィエ。
周囲から歓声が上がった。
「やはりレイコだったか」
「さすがだ」
「これなら神器も安心して任せられる」
「……」
クロエはゆっくりと立ち上がる。
また、姉だった。
結局、今回も。
「……チッ」
クロエはその場を離れていく。
悔しい。
腹が立つ。
姉にも。
一族にも。
そして、勝てなかった自分自身にも。
けれど、クロエの心は、まだ折れてはいなかった。
(……まだよ)
頭に浮かぶのは、研究室で完成を待っている人形。
(私には、あれがある)
姉には作れない。
自分だから作れるもの。
(絶対に完成させる。それで……)
クロエは拳を握り締める。
(今度こそ、私を認めさせてやる)
神器を受け継いだのは、またしても姉だった。
それでも、クロエにはまだ、自分の未来を疑う理由などなかった。
◆
それから、クロエは、以前にも増して研究へ没頭するようになった。
神器を受け継いだのはレイコ。
また姉に負けた。
また姉が選ばれた。
悔しくないはずがなかった。
それでもクロエには、まだ自分だけのものが残されていた。
人形魔法。
幼い頃から何年も、何年も研究を続けてきた。
人を助けるための人形。
その研究は――
「……九割」
研究室。
クロエは机いっぱいに広げられた設計図を見つめていた。
隣では、完成に近付いた人形が静かに佇んでいる。
以前とは比べものにならないほど、人間に近い複雑な動作が可能になっていた。
歩く。
走る。
物を持つ。
人を抱き上げる。
足場の悪い場所でも姿勢を保つ。
魔力による命令にも、正確に反応する。
まだ細かな問題は残されている。
けれど、完成は、もう目の前だった。
「あと少し……」
クロエは人形を見上げる。
「あと少しで完成する」
神器は姉に取られた。
それでもいい。
これさえ完成すれば。
本当に人の命を救えることを証明できれば。
世の中で使われるようになれば。
きっと──
「……今度こそ」
クロエは小さく笑う。
「姉さんも、あいつらも……私を認めるしかないでしょ」
レイコ・オリヴィエの妹だからではない。
神器を継承できなかった者でもない。
クロエ・オリヴィエが作り上げたものとして、自分自身を見てもらえる。
そんな未来が、もうすぐそこまで来ていた。
「クロエ」
背後から声が聞こえる。
振り返ると、バルドが立っていた。
「何?」
「また朝からずっと研究してたのか?」
「悪い?」
「悪くはないけど、少しは休んだらどうだ?」
「完成目前なのに休んでられるわけないでしょ」
クロエは設計図を持ち上げる。
「見て。ここの問題も解決した」
バルドが設計図を覗き込む。
「……本当だ。これならいけそうだな」
「でしょ?」
クロエは得意げに笑う。
「あと少しよ」
「ああ……長かったな」
「……本当にね」
幼い頃、小さな木製の人形を作った。
姉に見せた。
もっと見てほしかった。
もっと褒めてほしかった。
それから何年も、何度失敗しても、何度壊れても、研究を続けてきた。
そして今──夢は、ようやく完成しようとしている。
クロエは隣にいるバルドを見る。
研究が完成したら、人の役に立つようになって。
姉にも、一族にも、認めてもらって。
そして――
(そのあとは……)
クロエはバルドの横顔を見つめる。
(こいつと結婚して、いつか、子供ができて……)
以前は漠然としていた未来。
それが今では、本当に自分にも訪れるかもしれない未来として、思い描けるようになっていた。
「……何?」
バルドがクロエを見る。
「さっきから俺のこと見てるけど」
「見てない」
「見てただろ」
「……うるさい」
クロエは顔を逸らす。
「ほら、研究するわよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
クロエは笑う。
バルドも笑う。
何年も繰り返してきた。
いつものやり取り。
夢も。
愛する人との未来も。
ずっと欲しかった、自分への評価も。
あと少しで。
全部、手に入る。
クロエは、そう信じていた。
◆
それからしばらくして、そんな未来を信じていた、ある日のこと。
レイコは神器を正式に受け継ぐため、一時的に家を離れていた。
屋敷に残されているのは、レイコの夫と、まだ幼い娘。
静かな屋敷の前に、一人の男が立っていた。
「……」
男は周囲に人がいないことを確認する。
そして、誰にも気付かれることなく、屋敷の中へと姿を消した。
――バルド・ゴートン。
⸻
屋敷の中をバルドは無言のまま、部屋を調べていく。
引き出し。
棚。
書斎。
隠し場所になりそうな場所。
一つ。
また一つ。
確かめていく。
しかし。
「……ない」
神器は見つからない。
別の部屋へ移る。
そこにもない。
さらに奥。
何もない。
「……」
バルドの表情から、クロエの前で見せていた穏やかな笑みは、完全に消えていた。
「ちっ……」
小さく舌打ちする。
「まだ、この家にないのか」
計算が狂った。
レイコが神器を受け継ぐ。
その情報を得て、この機会を待っていた。
だが、肝心の神器は、まだ屋敷へ持ち込まれていない。
バルドは静かに息を吐いた。
その時。
「……あなた」
背後から声がした。
バルドが振り返る。
そこには、レイコの夫が立っていた。
その後ろには、幼い娘。
「誰ですか?ここで、何をしているんです?」
「……」
バルドは何も答えない。
ただ、ゆっくりと腰へ手を伸ばした。
男の表情が変わる。
「……っ! 逃げなさい!」
娘を庇うように前へ出る。
その瞬間、バルドは剣を抜いた。
◆
その日。
レイコ・オリヴィエの夫と娘は、何者かによって殺害された。
そして、同じ日を境にバルド・ゴートンもまた、誰にも行き先を告げることなく、ノアの街から姿を消した。
◆
その知らせがクロエのもとへ届いたのは、それから、間もなくのことだった。
「クロエさん!」
研究室の扉が勢いよく開かれる。
「何よ、騒々しいわね」
設計図から顔を上げる。
そこには、一族の男が立っていた。
息を切らし、顔を青ざめさせている。
「大変です……! レイコさんの屋敷に、何者かが侵入して……!」
「……姉さんの?」
クロエの眉が僅かに動く。
「それで?」
「ご主人と……娘さんが……」
男は言葉を詰まらせた。
その表情を見ただけで、クロエにも、何が起きたのか分かった。
「……嘘」
「二人とも……殺されました」
「……は?」
クロエの手から、持っていたペンが落ちた。
乾いた音が、研究室に響く。
「……殺された?」
「はい……」
「……姉さんは?」
「神器を受け継ぐため家を離れていたので、無事です。ですが、先ほど屋敷へ戻られて……」
「……」
クロエは立ち上がる。
「クロエさん?」
「姉さんのところに行く」
そう言い残し、クロエは研究室を飛び出した。
◆
レイコの屋敷には、多くの人が集まっていた。
クロエは人々の間を抜け、その中へ入る。
そして、足が止まった。
「……」
床に、レイコが座り込んでいた。
その腕には、血に染まった、小さな娘の身体が抱かれている。
「……お願い」
レイコの声が震えていた。
「目を開けて……お母さん、帰ってきたわよ……」
返事はない。
「ねえ……お願いだから……」
何度呼び掛けても、娘は動かない。
少し離れた場所には、夫が横たわっていた。
クロエは何も言えなかった。
いつも冷静だった姉。
何をやっても自分より先にいた姉。
一族の誰もが認める天才。
そのレイコが、今は、一人の母親として。
亡くなった娘を抱き締め、泣いていた。
「……」
クロエの胸が締め付けられる。
さすがに、こんな姉の姿を見たいと思ったことなど、一度もない。
夫も。
娘も。
クロエにとって、殺されてほしい相手ではなかった。
なのに、ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
心の奥から──醜い感情が浮かんだ。
(……姉さんも、奪われる側の気持ちが……少しは分かった?)
「……っ」
クロエは僅かに目を見開く。
(……何考えてんのよ、私……)
夫と娘を殺されたのだ。
姉が、大切な家族を失ったのだ。
自分が姉を嫌っていることとは、何の関係もない。
それでも、一度浮かんだ考えは、消えてくれなかった。
ずっと、自分は姉に奪われてきたと思っていた。
一族からの評価も、称賛も。
そして、神器も。
もちろん、レイコが自分から奪おうとしたわけではない。
そんなことくらい、クロエにだって分かっている。
それでも、欲しかったものは、いつも姉の手にあった。
「……」
クロエは唇を噛む。
そして、もう一度、レイコを見る。
「嫌……お願い……」
娘を抱き締めながら、レイコは泣き続けている。
その姿を見ているうちに、クロエの中に、別の感情が生まれた。
(……どうして)
これほどまでに、苦しんでいるのだろう。
答えなど、考えるまでもなかった。
愛していたから。
夫を。
娘を。
大切にしていたから。
失ったことが、これほどまでに苦しい。
(愛して……それを奪われるのは……不幸……?)
初めて、そんな考えが浮かんだ。
そして、次の瞬間。
頭の中に、一人の男の姿が浮かぶ。
バルド。
「……」
(もし……これが、私だったら?)
バルドと結婚して、子供ができて、家族になって。
その全てを、ある日突然。
自分も奪われたら。
「……っ」
クロエは、その先を考えることができなかった。
怖かった。
今まで、愛することに、そんな未来があるなど考えたこともなかった。
バルドと一緒にいることは幸せだった。
結婚する未来も、子供が生まれる未来も、自然に思い描いていた。
けれど、愛するものが増えるということは、同時に──
失った時に苦しむものが増えるということなのだろうか。
「……」
クロエは首を横に振る。
(……馬鹿らしい。何考えてるのよ)
そんなことを考えても仕方がない。
自分とバルドが、姉と同じ目に遭うと決まったわけではない。
クロエはレイコを見る。
何か、声を掛けようとした。
「……」
けれど、言葉は出なかった。
慰める言葉も、励ます言葉も、何一つ。
今の自分が口にしていいとは思えなかった。
クロエは何も言わず、静かにその場を後にした。
◆
それから、数日が過ぎた。
「……遅い」
研究室。
クロエは一人、椅子へ座っていた。
目の前には二つの椅子。
一つは自分。
もう一つは、いつもバルドが座っていた場所。
「……何やってんのよ、あいつ」
事件の日から、バルドは研究室へ来ていない。
一日。
二日。
三日。
待っても、姿を見せなかった。
「……」
最初は、何か用事でもあるのだろうと思っていた。
けれど、何の連絡もない。
どこへ行くとも聞いていない。
これまで、こんなことは一度もなかった。
「……まさか」
数日前に見た光景が、頭をよぎる。
血に染まった屋敷。
動かない二人。
泣き崩れるレイコ。
(……バルドまで)
「……っ」
クロエは勢いよく立ち上がった。
「馬鹿……何考えてんのよ」
自分に言い聞かせる。
「……そんなわけないでしょ」
それでも、胸騒ぎは消えなかった。
「……もういい」
クロエは上着を手に取る。
「私から探しに行く」
研究室を出る。
向かう場所は、バルドの家だった。
◆
バルドの家へ辿り着く。
クロエは扉の前に立つと、何度か強く叩いた。
「バルド!」
返事はない。
「いるんでしょ!」
もう一度。
先ほどより強く叩く。
「バルド!」
やはり、何の反応もなかった。
「……」
クロエは扉の取っ手へ手を掛ける。
動かない。鍵が掛かっている。
「……チッ」
窓から中を覗く。
人の気配はない。
それでも、このまま帰る気にはなれなかった。
「……不法侵入よね、これ」
分かっている。
いくら恋人とはいえ、本人の許可なく家へ入っていい理由にはならない。
「……」
クロエはしばらく扉を見つめたあと。
「仕方ないでしょ。何日も連絡しないあんたが悪いのよ」
指先へ魔力を集める。
鍵へ触れ、内部の構造を魔法で探る。
小さな音が鳴った。
「……開いた」
クロエは周囲を確認すると、ゆっくりと扉を開けた。
「バルド?」
家の中は静まり返っている。
クロエは中へ入り、扉を閉めた。
「いるなら返事しなさいよ」
居間。
寝室。
台所。
どこにもいない。
「……本当に、どこ行ったのよ」
胸騒ぎが、少しずつ大きくなっていく。
そして、クロエは一つの部屋の前で足を止めた。
「……」
バルドが普段使っていた部屋。
何度か入ったことはある。
けれど、机の引き出しや資料を勝手に見たことなど、一度もなかった。
「……ごめん」
小さく呟き、クロエは部屋へ入った。
机の上には、いくつかの本と紙が残されている。
特に変わったものはない。
引き出しを開ける。
研究資料。
筆記具。
魔法に関する書物。
「……」
次。
その次。
何もない。
「やっぱり、ここにも――」
その時。
引き出しの奥に、僅かな魔力を感じた。
「……何?」
クロエは手を止める。
奥板へ触れる。
魔法が掛けられていた。
「隠蔽……?」
クロエの表情が変わる。
術式を調べ、解除する。
すると引き出しのさらに奥から、一束の資料が現れた。
「……何よ、これ」
手に取る。
最初の一枚を開いた。
「……」
クロエの目が、ゆっくりと見開かれていく。
そこに書かれていたのは、人形でも、クロエと行っていた研究でもない。
――神器。
「……は?」
オリヴィエ家。
神器の管理。
継承方法。
歴代の守護者。
クロエは無言で紙を捲る。
一枚。
また一枚。
そこには、オリヴィエ家について調べ上げられた情報が、細かく記されていた。
「……なんで」
さらに捲る。
継承候補。
レイコ・オリヴィエ。
クロエ・オリヴィエ。
「……私?」
指が止まる。
嫌な汗が滲む。
次の資料。
レイコとクロエの能力。
魔力量。
行動。
交友関係。
そして、神器継承戦の結果。
――継承者、レイコ・オリヴィエ。
「……」
クロエの呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
「何よ……何なのよ、これ……」
さらに、別の紙を手に取る。
そこには、レイコの屋敷について記されていた。
部屋の配置。
出入口。
人の出入り。
侵入経路。
「……嘘」
数日前。
レイコの家へ、何者かが侵入した。
神器を受け継ぐため、レイコは家を離れていた。
そして──夫と娘が殺された。
「……」
紙を持つ手が震える。
「違う……」
クロエは首を横に振る。
「違うでしょ……」
偶然。
そう思いたかった。
こんなもの、何か別の理由で調べていただけかもしれない。
けれど、次の紙が──その希望を打ち砕いた。
神器強奪。
その文字が、はっきりと記されていた。
「……っ」
クロエは口元を押さえる。
事件の日。
バルドは消えた。
何の連絡もなく、突然。
「まさか……」
頭の中で、今まで別々だったものが繋がっていく。
「姉さんの家に入ったの……バルド……?」
信じたくない。
そんなはずがない。
自分を認めてくれた。
一緒に何年も研究した。
失敗すれば一緒に原因を探した。
成功すれば一緒に喜んだ。
恋人になった。
これから先も、ずっと一緒にいるのだと思っていた。
「……じゃあ」
クロエは震える手で、資料を捲る。
「私に近付いたのも……?」
その答えを探すように、一枚。
また一枚。
必死に読み進めていく。
そして、最後の方にまとめられていた資料の中から、いくつもの地名を見つけた。
「……これは」
ノアの街から遠く離れた場所。
街。
村。
山中。
人の少ない土地。
それぞれについて。
移動経路。
周囲の地形。
身を隠せる場所。
必要な物資。
細かな情報が記されている。
クロエはすぐに理解した。
「……逃げる場所」
神器を奪った後、ノアの街から逃亡するために、前に調べていた場所。
「……」
クロエは資料を握り締める。
胸が苦しい。
吐き気がする。
それでもまだ、クロエは一つだけ、認めたくなかった。
(……全部。全部、嘘だったの?)
自分へ向けられた笑顔も。
褒めてくれた言葉も。
一緒に研究した年月も。
恋人として過ごした時間も。
(……私のことも?)
紙に書かれた情報だけでは、それだけは分からなかった。
「……」
長い沈黙のあと、クロエは資料をまとめる。
そして、逃亡先として記されていた場所を、一つずつ確認した。
「……見つける」
声が震えていた。
「絶対に見つける」
怒りなのか。
悲しみなのか。
恐怖なのか。
クロエ自身にも分からない。
ただ、一つだけ。
本人の口から、どうしても聞かなければならないことがあった。
「……バルド」
クロエは資料を抱え。
家を飛び出した。
◆
それからクロエは、資料に記されていた場所を一つずつ探していった。
一つ目。
いない。
二つ目。
そこにもいない。
三つ目。
何の痕跡もなかった。
「……どこにいるのよ」
何日も。
何日も。
クロエは探し続けた。
ノアの街から離れ、知らない土地を歩き、資料に記されていた場所を、一つずつ潰していく。
そして、何ヶ所目だったのか。
街から遠く離れた、小さな廃村。
その外れに建つ古びた家の前で、クロエは足を止めた。
「……」
人の気配がある。
クロエはゆっくりと扉へ近付く。
胸がうるさい。
怖かった。
会いたかったはずなのに──いざ、この向こうにいるかもしれないと思うと、扉を開けることが怖かった。
「……バルド」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
クロエは意を決し、鍵を魔法で解錠し、扉を開いた。
「……」
薄暗い部屋。
その奥に、一人の男がいた。
「……バルド」
男が振り返る。
何年も。
何年も見続けてきた顔。
間違えるはずがなかった。
「……クロエ」
バルドは驚いた様子もなく、静かにクロエを見つめていた。
「よく見つけたな」
「……」
その一言だけで、クロエは理解した。
偶然ここにいるわけではない。
逃げていた。
本当に、バルドは逃げていた。
「……聞きたいことがある」
「何だ?」
「姉さんの家に入ったのは……」
声が震える。
「……あんた?」
「ああ」
あまりにも簡単な返事だった。
「……姉さんの旦那と、娘を殺したのも?」
「ああ」
「……」
クロエは俯く。
拳が震えていた。
「なんで……」
「神器が欲しかった」
バルドは淡々と答える。
「レイコが神器を継承すると分かった。だから、あいつが家を空ける機会を待った……だが、神器はまだ家になかった」
「……だから殺したの?」
「見られたからな」
「……」
クロエは唇を噛む。
「子供まで……?」
「必要だった」
「必要……?」
クロエの声が低くなる。
「殺す必要があったって言ってんの?」
「そうだ」
「……ふざけんな」
クロエは顔を上げる。
「ふざけんなッ!」
怒声が部屋に響く。
「あの子が何したっていうのよ! 姉さんの旦那が何したのよ! 神器なんか知らない子供まで殺して! それで……!」
クロエの声が詰まる。
「それで、何もなかったみたいに逃げたの……?」
「ああ」
何の感情もない返事。
目の前にいる男が、自分の知っているバルドと同じ人間だとは思えなかった。
「……じゃあ」
クロエは震える手で、持ってきた資料を取り出す。
「これは何よ」
床へ投げつける。
神器強奪の計画書。
オリヴィエ家について調べた資料。
「いつから……?」
「最初からだ」
「……え?」
「俺がオリヴィエ家に近付いた理由は、神器だ」
クロエの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「じゃあ……私に近付いたのも……?」
「そうだ」
「人形を褒めてくれたのも?」
「ああ」
「一緒に研究したのも……?」
「お前の信用を得るためだ」
「……」
「お前は都合が良かった」
バルドは床に落ちた資料へ視線を向ける。
「オリヴィエ家の人間で、しかも、レイコと比べられ続けていた。少し認めてやれば、簡単に心を開いた」
「……やめて」
「人形を褒めてやった時のお前の顔。覚えてるよ。嬉しそうだったな」
「やめて……」
「姉より才能があるって認めてほしかったんだろ?」
「やめろって言ってるでしょ……」
「だから認めてやった」
バルドは笑う。
「それだけで、お前は俺を信じた」
「……っ」
クロエの瞳から──涙が零れた。
「私との時間は……全部……全部、嘘だったの……?」
「ああ」
「……」
クロエは首を横に振る。
「じゃあ……私と付き合ったのも……?」
「信用させるには、その方が都合が良かった」
「……結婚」
声が震える。
「私……あんたと、いつか結婚するのかなって……子供だって……いつか、できるのかなって……そんなこと……考えて……」
バルドはクロエを見つめ──鼻で笑った。
「本気だったのか?」
「……」
「随分、幸せな頭をしてたんだな」
「……っ」
「俺がお前と結婚する? 子供を作る? そんな未来があると、本気で思ってたのか?」
「……やめて」
「お前は俺にとって、神器へ近付くための道具だ。 それ以上でも、それ以下でもない」
「やめて……」
「そもそも……」
バルドは冷たく言い放つ。
「俺がお前を愛したことなんか、一度もない」
「……」
その瞬間、何かが──クロエの中で、壊れた。
「……そう」
涙だけが、頬を伝っていく。
「……そうだったんだ」
姉に勝てなくても、一族に認めてもらえなくても、バルドだけは自分を見てくれたと思っていた。
クロエ・オリヴィエという一人の人間を、認めてくれたと思っていた。
違った。
何も、なかった。
自分が愛していた男は、最初から──自分を愛してなどいなかった。
「……馬鹿みたい」
クロエは小さく笑った。
涙を流しながら。
「私……本当に、馬鹿みたいじゃない」
バルドは腰の剣へ手を伸ばす。
「話は終わりだ。お前に知られた以上、生かしておくわけにはいかない」
「……」
クロエは動かなかった。
「クロエ」
「……黙れ」
「何?」
「その名前を……」
クロエが顔を上げる。
「お前が呼ぶなッ!!」
魔力が爆発する。
部屋の中に、無数の魔力糸が広がった。
「……っ!」
バルドが剣を抜く。
糸を断ち切り、クロエへ踏み込む。
けれど、クロエは止まらない。
怒り。
悲しみ。
絶望。
何もかもを──目の前の男へ叩き付ける。
「死ねッ!!」
魔力糸がバルドの腕へ絡み付く。
剣の軌道が逸れる。
さらに。
一本。
二本。
三本。
四方から伸びた糸が、その身体を拘束する。
「くっ……!」
「返して……」
「……何?」
「返してよ……」
クロエの声が震える。
「私があんたと過ごした時間……私が信じてたもの……私が考えてた未来……全部……! 全部返しなさいよッ!!」
魔力が流れる。
「ぐっ……!」
バルドの身体が大きく震えた。
それでも失ったものは、何一つ戻ってこない。
「……クロ、エ……」
「だから……」
クロエは涙を流しながら、バルドを見つめる。
「私の名前を呼ぶなって……」
魔力を込める。
「言ってるでしょ……」
次の瞬間、バルドの身体から力が抜けた。
「……」
静寂。
クロエは、動かなくなったバルドを見つめていた。
自分が、殺した。
愛していた男を。
自分を利用し、レイコの夫と娘を奪った男をクロエは自らの手で殺した。
結果として、それは、レイコの夫と娘の仇を討ったことにもなった。
だが、そんなことは、今のクロエにとってどうでもよかった。
「……」
何も感じなかった。
仇を討った達成感も。
愛した男を殺した悲しみさえ。
何も。
ただ、胸の中に、大きな穴だけが残っていた。
クロエはゆっくりと、その場へ座り込む。
頭に浮かぶ。
泣き崩れていたレイコ。
愛する夫を失い、愛する娘を失い、壊れるほど泣いていた姉。
そして、今の自分。
「……愛してたから」
小さく呟く。
「姉さんは……あんなに苦しんだ」
夫を愛していたから。
娘を愛していたから。
「私も……」
バルドを愛していた。
だから、こんなにも──苦しい。
「……何よ、それ」
クロエは俯く。
「愛って……人を幸せにするんじゃないの……?」
答える者はいない。
「姉さんは、愛した人を奪われた。私は……愛した人に、全部奪われた」
信頼も、未来も、何年も積み重ねてきた思い出さえ、何が本物だったのか。
もう分からない。
「……だったら」
クロエの中で、数日前に生まれた小さな疑問が、ゆっくりと、形を変えていく。
愛するから、失う。
愛するから、裏切られる。
愛するから、苦しむ。
「……愛なんて」
クロエは顔を上げる。
涙で濡れた瞳で、自分が愛していた男の亡骸を見つめる。
「愛なんてあるから……」
声が震える。
「こんなことになるのよ」
初めて、クロエの中に生まれたのは──愛への疑問ではなかった。
もう、違った。
愛への──深い憎しみだった。
「……愛なんて」
クロエは静かに呟く。
「なくなればいい」
その言葉を境に──かつて、愛する人との未来を思い描いていたクロエ・オリヴィエは、愛というものそのものを、心の底から憎むようになった。
◆
それから、クロエは、以前とは別人のようになった。
研究室へ戻っても、人形の設計図を広げることはなかった。
九割まで完成していた。
あと少しだった。
幼い頃から何年も追い続けた夢。
人を助ける人形。
誰かの命を救う人形。
それを完成させれば、姉にも、一族にも、ようやく認めてもらえると思っていた。
「……くだらない」
クロエは設計図を見つめ、小さく吐き捨てる。
そんなものが完成したところで、何になるというのか。
人を助けて。
命を救って。
その先で誰かを愛して。
いつか失って、苦しむ。
レイコのように。
自分のように。
「……」
クロエは設計図から目を逸らした。
もう、以前のように続きを考えることはできなかった。
◆
夜。
人気のなくなった街を、クロエは一人で歩いていた。
その時、前方から、二人の笑い声が聞こえてくる。
「……」
若い男女だった。
肩を寄せ合い、楽しそうに話しながら歩いている。
恋人なのだろう。
女性が笑う。
青年も笑う。
幸せそうだった。
かつて、自分とバルドがそうだったように。
「……」
クロエの足が止まる。
胸の奥が、ざわついた。
(何で……)
どうして、そんなに幸せそうに笑えるのだろう。
知らないのだろうか。
その幸せが、いつか自分を苦しめるかもしれないことを。
愛した相手が、突然いなくなるかもしれない。
裏切るかもしれない。
奪われるかもしれない。
それなのに、二人は笑っている。
「……馬鹿みたい」
クロエの指先から、細い魔力糸が伸びた。
◆
翌朝。
街の一角に人だかりができていた。
昨夜まで笑い合っていた二人は、二度と目を覚ますことはなかった。
誰が殺したのか。
何のために殺されたのか。
誰にも分からない。
ただ、二人が死んだ。
それだけだった。
◆
そして、同じことは、一度では終わらなかった。
夜になると、クロエは街を歩いた。
恋人。
夫婦。
愛し合う者達を見つけては、誰にも気付かれないように殺した。
一組。
また一組。
愛を見つけては、壊していく。
「……これでいい」
クロエは自分に言い聞かせる。
「これで、この人達は……失わなくて済む」
どちらか一人が残れば、残された者が苦しむ。
なら、二人ともいなくなればいい。
愛する者を失い、泣き叫ぶ者はいなくなる。
「……これでいいのよ」
愛があるから、人は苦しむ。
なら──愛を壊せばいい。
そうすれば、少しずつ、この世界から不幸を減らせる。
クロエは、本気でそう考えていた。
◆
しかし、何日経っても、何週間経っても、何も変わらなかった。
「……」
クロエは夜の街を歩く。
前から、また一組の男女が歩いてくる。
手を繋ぎ、楽しそうに笑っている。
別の道には夫婦。
家の窓からは、家族の楽しそうな声が聞こえる。
「……なんで」
一組壊しても、別の場所で、また愛が生まれる。
二組。
三組。
十組。
どれだけ壊しても、何も変わらない。
「……なんでよ」
クロエは立ち止まる。
「なんで……なくならないのよ」
自分一人が、一つずつ壊したところで、世界中から愛をなくすことなどできない。
そんなこと、考えれば分かる。
けれど、認めたくなかった。
なら、自分はどうすればいい。
「……」
クロエは研究室へ戻った。
椅子へ座り、頭を抱える。
「どうすれば……」
愛そのものを、この世界からなくす。
そんなことが、人間一人にできるはずがない。
「……人間には」
その時だった。
クロエの動きが止まる。
「……」
ゆっくりと、顔を上げる。
「……天国塔」
願いを叶える塔。
最上階へ辿り着いた者は、どんな願いでも叶えられる。
「……そうよ」
クロエは立ち上がる。
「あるじゃない」
自分一人では不可能でも──願いなら。
「天国塔の最上階まで行けば……」
叶えられる。
この世界から、愛そのものをなくすことだって。
「……」
だが、すぐに一人の顔が頭に浮かんだ。
──レイコ。
「……姉さん」
クロエの表情が険しくなる。
自分が何をしようとしているのか知れば、絶対に止める。
そして、自分では、レイコには勝てない。
神器を巡って戦った時、全力で挑んだ。
それでも勝てなかった。
「……邪魔される」
それだけではない。
クロエの頭に、泣き崩れていたレイコの姿が浮かぶ。
「……」
姉の願い。
もし、レイコも天国塔へ向かったら、最上階へ辿り着き、願いを叶えられると知ったら。
「……生き返らせる」
夫を。
娘を。
「姉さんなら……そうするかもしれない」
あるいは、神器を使って何か別の方法を探すかもしれない。
「……駄目」
クロエは呟く。
「それじゃ、また……」
愛を取り戻してしまう。
愛する者を、もう一度。
「駄目よ」
その考えに至る前に、自分が先に動かなければならない。
世界から愛をなくす。
そうすれば、もう誰も──愛によって苦しむことはない。
「でも……」
レイコをどうする。
戦えば負ける。
天国塔へ向かっても、追ってこられれば止められる。
姉に勝てるだけの力が必要だった。
「……」
クロエは研究室を見回す。
何年も、何年も、研究を続けてきた場所。
魔法。
魔術理論。
そして、人形。
その時、クロエの視線が、九割まで完成した人形の設計図で止まった。
「……」
ふと。
昔、人形について調べていた時に目にした、一つの論文を思い出す。
「……魔導機」
クロエは、ゆっくりと立ち上がった。
◆
クロエは研究室の奥へ向かった。
長い間、ほとんど触れることのなかった棚。
そこには、人形魔法について調べる過程で集めた大量の資料が保管されている。
「確か……」
一冊。
また一冊。
本を取り出していく。
「この辺に……」
古い論文。
人形魔法。
自律術式。
魔力回路。
魔導工学。
その中から、一冊の分厚い資料を引き抜いた。
「……あった」
表紙には――魔導機。
そう記されていた。
クロエは机へ戻り、論文を開く。
以前、人形の研究を始めて間もない頃にも、一度だけ読んだことがあった。
だが、当時はほとんど参考にしなかった。
人を助けるための人形を作りたかったクロエにとって、そこに記されていたものは、あまりにも目的が違っていたからだ。
「……」
ページを捲る。
人の命令に従い、自ら判断し、学習し、害のある魔法を消し、圧倒的な力をもって敵を排除する。
そして、人の手では到底不可能な戦闘を可能とする。
戦闘用人形。
魔導機。
「……これなら」
クロエは読み進める。
構造。
魔力回路。
各部の制御。
術式。
必要とされる素材。
一つずつ、確認していく。
「……」
そして、クロエの手が止まった。
「……待って」
もう一度、数ページ前へ戻る。
自分の人形の設計図を引っ張り出した。
九割まで完成した。
何年も、何年も掛けて作り上げたもの。
二つの資料を並べる。
「……似てる」
クロエの目が細くなる。
さらに比較する。
「関節の制御……魔力回路……動作術式……」
違う。
目的はまるで違う。
自分が作ろうとしていたものは、人を助ける人形。
この論文に記されているのは、人を殺すことすらできる、戦闘用の魔導機。
それなのに、根本となる構造は──
「……ほとんど同じじゃない」
クロエは立ち上がった。
自分が何年も研究してきたものを基礎に、いくつかの構造を変更する。
出力を上げ、装甲を追加し、人を傷付けないために設けていた制限を取り除き、戦闘用の術式を組み込んでいく。
「これなら……」
紙へ猛烈な勢いで書き込んでいく。
「作れる」
全てを一から研究する必要などない。
九割まで完成している人形を、少し、方向を変えればいい。
クロエの持つ人形魔法の知識なら、この論文の理論を組み合わせれば──
「……作れるわ」
姉に対抗できるほどの力を持った、魔導機を。
一度、クロエの手が止まる。
「……」
机の上。
人を助けるために、何年も掛けて作り続けた設計図。
それを見つめる。
かつての自分なら、絶対にしなかった。
人を助けるために作ったものを、戦うためのものへ変えるなど。
「……」
けれど、クロエは設計図へ手を伸ばした。
「……これでいい」
迷いを振り払うように、新しい線を書き加える。
人を助けるための腕は、敵を破壊するための腕へ。
人を安全に運ぶための脚は、敵を追い詰めるための脚へ。
人を傷付けないために組み込んだ術式は、一つずつ、消していく。
長い年月を掛けて、誰かを救うために作ってきた人形が、少しずつ、別のものへと変わっていった。
◆
どれほど時間が経ったのか。
「……できる」
クロエの前には、新しく組み直された設計図が広がっていた。
何年もの歳月を掛けて作り続けてきた人形。
その本体は、既に完成している。
そして今、魔導機として動かすための構造も、理論上は完成した。
あとは核を組み込み、細かな調整を施せばいい。
だが──
「……」
クロエは魔導機の論文へ視線を戻す。
その肝心の核に、一つだけ問題があった。
魔導機を動かすために必要となる、膨大な魔力。
「必要とされる魔力を長時間、安定して供給するため……」
クロエは文章を追っていく。
そして、その下に記されている一文を見て、眉を寄せた。
「……は?」
もう一度読む。
間違いではない。
「……龍の、心臓?」
クロエは呆然と文字を見つめる。
「……何よ、それ」
龍。
そんな生物、見たこともなければ、実在しているという話すら聞いたことがない。
「存在しないものを……」
クロエは論文を机へ叩きつける。
「どうやって用意しろっていうのよ!」
ここまで来た。
人形は完成している。
魔導機としての構造も組み上げた。
あとは核さえあれば、完成させられる。
なのに、最後の最後で、存在するかどうかすら分からないものを要求される。
「……ふざけてる」
クロエは椅子へ深く座り込む。
「龍なんて……どこにいるのよ」
答えなどない。
長い沈黙。
「……無理じゃない」
初めて、諦めが頭をよぎる。
龍の心臓など手に入らない。
なら、魔導機は完成しない。
姉には勝てない。
天国塔へ行っても、止められる。
「……」
クロエは目を閉じる。
何か──何か他にないのか。
龍の心臓そのものが重要なのではない。
なぜ、魔導機には龍の心臓が必要なのか。
「……核」
クロエは再び論文を手に取る。
「莫大な魔力を……安定して供給するため……」
なら──同じ役割を果たせるものがあればいい。
「……」
莫大な力を持ち、魔導機の核として利用できる可能性があるもの。
「そんなもの……」
クロエの言葉が止まった。
ある。
一つだけ、知っている。
つい最近、姉が受け継いだもの。
「……神器」
クロエはゆっくりと顔を上げる。
「……そうよ」
龍の心臓でなければならない理由は、必要な力を供給するため。
なら──
「神器で……代用できるんじゃない?」
研究者としての思考が、一気に動き始める。
クロエは再び紙へ向かった。
魔力供給。
接続方法。
術式。
核との適合。
神器について知っている情報を、一つずつ当てはめていく。
「……いける」
クロエは、完成した魔導機へ視線を向ける。
長い年月を掛けて作り続けてきた人形。
それを改良した魔導機は、すでに完成していた。
残されているのは、ただ一つ。
核。
本来ならば、龍の心臓を必要とする部分。
だが――
「神器を使えば……」
完全な確証などない。
それでも、理論上は──
「いける……!」
クロエの口元が、ゆっくりと歪む。
そして、次の瞬間。
その表情から笑みが消えた。
「……でも」
神器を持っているのは、レイコ。
「……姉さん」
クロエはしばらく黙り込む。
やがて、静かに立ち上がった。
「……だったら」
答えは、もう決まっていた。
「貰えばいいじゃない」
何年も掛けて、人を救うために作ってきた人形。
その人形を動かすために必要な、最後の一つ。
神器。
それさえ手に入れば──
人を救うために作った人形は――愛を破壊するための魔導機として完成する。
そのために――姉が守る神器を奪う。
クロエは静かに研究室を後にした。
◆
その夜。
クロエは、一人で街を歩いていた。
向かう先は、レイコの屋敷。
「……」
少し前、バルドが神器を求めて侵入した場所。
その時には、まだ神器はなかった。
レイコが正式に神器を受け継ぐ前だったからだ。
だが、今は違う。
神器は、レイコの手元にある。
「……皮肉なものね」
クロエは小さく呟く。
自分が、バルドと同じように、神器を盗むために姉の屋敷へ向かっている。
けれど、足を止めることはなかった。
◆
やがて、レイコの屋敷が見えてくる。
「……」
クロエは少し離れた場所から、屋敷を見つめた。
明かりはない。
レイコが不在であることは、事前に確認している。
「今しかないわね」
クロエは人目を避けながら屋敷へ近付く。
扉の前に立ち、指先を鍵へ触れさせた。
「……」
魔力を流す。
内部の構造を探り、術式を組み上げる。
小さな音と共に、鍵が開いた。
「……簡単ね」
クロエは静かに扉を開けた。
⸻
屋敷の中へ入る。
暗い。
静まり返っている。
クロエは周囲を確認しながら、ゆっくりと奥へ進んでいった。
その途中、足が止まる。
「……」
数日前。
この場所で、レイコの夫と娘が殺された。
バルドによって。
あの日、ここで泣き崩れる姉を、クロエは見ていた。
「……」
ほんの一瞬、あの光景が脳裏をよぎる。
だが──
「……関係ない」
クロエは再び歩き出した。
今さら、何を思ったところで何も変わらない。
自分には、やらなければならないことがある。
「神器……」
クロエは屋敷の中を探し始めた。
書斎。
寝室。
棚。
引き出し。
人目につかない場所。
一つずつ確認していく。
「……どこよ」
姉のことだ。
神器ほどのものを、簡単に見つかる場所へ置いているはずがない。
クロエは魔力を集中させる。
僅かな魔力の流れ。
術式の痕跡。
何かを隠している場所がないか。
屋敷の中を探っていく。
そして──
「……」
ある場所で、僅かな違和感を感じた。
「ここ……?」
クロエは壁へ手を触れる。
何もない。
ただの壁に見える。
だが──
「……隠蔽魔法」
クロエは小さく笑う。
「姉さんらしいわね」
術式を調べる。
複雑だった。
簡単には解除できない。
「……チッ」
一つ。
また一つ。
魔法の構造を読み解いていく。
時間だけが過ぎていく。
「ほんっと……」
額に汗が滲む。
「こういうところまで……」
さらに一つ。
術式を解除する。
「ムカつくくらい……」
最後の構造を読み解き、魔力を流す。
「……完璧なのよね」
術式が消えた。
同時に、何もなかったはずの壁に小さな保管場所が現れる。
「……」
クロエは息を呑む。
そこに、神器があった。
「……見つけた」
かつて、自分も受け継ぐために戦ったもの。
レイコと戦い、全力を尽くし、それでも手に入れることができなかったもの。
クロエは神器へ手を伸ばす。
「……」
一瞬、指先が止まった。
神器を盗む。
それが何を意味するのか。
分からないほど愚かではない。
オリヴィエ家が、代々守り続けてきたもの。
自分自身も、そのために幼い頃から魔法を学んできた。
それを今から、自分の手で奪う。
「……だから何よ」
クロエは神器を掴んだ。
「もう……どうでもいい」
神器を手に取る。
不思議な気分だった。
あれほど、姉に負けたことが悔しかった。
神器を受け継げなかったことも、また姉が選ばれたことも、腹が立った。
なのに今、こうして神器を手にしても、何の喜びもなかった。
「……こんなもの」
欲しかった理由が、もう違う。
認めてほしいからではない。
姉に勝ちたいからでもない。
ただ、必要だから。
魔導機を完成させるために。
「これで……」
クロエは神器を見つめる。
龍の心臓。
そんな存在するかどうかも分からないものなど、必要ない。
「ヴァルキュリアを完成させられる」
そして、姉に対抗できるだけの力を手に入れる。
天国塔を登り、最上階へ辿り着き、願いを叶える。
「……愛を」
クロエの瞳から、迷いが消える。
「この世界から、なくしてやる」
◆
クロエは神器を手に、レイコの屋敷を後にした。
これで、ヴァルキュリアは完成する。
あとは神器を核として組み込み、細かな調整を残すだけ。
「……これでいい」
クロエは神器を強く握り締める。
もう、オリヴィエ家へ戻るつもりはなかった。
向かう場所は、ノアの街にそびえ立つ――天国塔。
そこでヴァルキュリアを完成させる。
そして、最上階へ辿り着く。
「……」
クロエは一度だけ、自分が生まれ育った街を振り返った。
姉に認めてほしかった。
一族に認めてほしかった。
人を助ける人形を完成させたかった。
バルドと結婚して、いつか子供が生まれて、そんな未来を、本気で望んでいた。
もう、何一つ必要ない。
「……さようなら」
クロエは前を向く。
人を救うために作られるはずだった人形。
その研究は、皮肉にも、愛を破壊するための魔導機を完成させるために使われることになる。
その名は――ヴァルキュリア。
「待ってなさい。私が、この世界から……愛をなくしてあげる」
神器を奪ったクロエは、完成間近のヴァルキュリアと共に、天国塔へと向かった。




