第二十三話 天才魔術師
レイコは、エレンが召喚した六体の魔獣達と共に、ノアの街を駆け回っていた。
自ら天使を相手取ることは出来ない。
人間界の魔法は、天使には通用しないからだ。
そのため天使達の足止めは魔獣達に任せ、レイコは逃げ遅れた人々の救助に専念していた。
「すぐに治すから、動かないで頂戴」
崩れた家屋の傍らで、脚を負傷した女性へ治癒魔法を施す。淡い光が傷口を包み、流れていた血が止まる。裂けていた皮膚がゆっくりと塞がり、女性は驚いたように何度も自分の脚を見つめた。
「……もう、大丈夫よ」
レイコは優しく微笑み、女性へ手を差し伸べる。
「立てますか?」
「は、はい……!」
女性は恐る恐る立ち上がる。先程まで歩くことすら出来なかった脚は、痛み一つ残っていなかった。
「ありがとうございます……!」
「お礼はいいわ。それより早く避難して」
女性は何度も頭を下げながら走り去っていく。レイコはその姿を見届けることなく、すぐに周囲へ視線を向けた。
「この道は駄目ね……」
前方には崩れ落ちた建物の瓦礫が山のように積み重なっている。このままでは怪我人を連れた人々は通れない。
レイコは短く詠唱する。
すると瓦礫がひとりでに浮かび上がり、砕けた壁や柱がゆっくりと道の両脇へ運ばれていく。
やがて人が十分通れる道が出来上がった。
「通れるようになったわ!」
「動ける人は怪我をしている人を支えてあげて!」
人々は口々に礼を言いながら、その道を駆けていく。
レイコはその背中を見送ることなく、すぐ次の場所へ向かおうとした。
「あ、あの!」
背後から呼び止められる。
振り返ると、一人の男性が不安そうな表情で立っていた。
「あなたは、一体……?」
突然の問い掛けに、レイコは少しだけ目を丸くした。
しかしすぐに、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「私の名前はレイコと申します」
「あっ、ご丁寧にありがとうございます! 僕はこの街の住人です! 実は今、大変なことになっていて……!」
「ええ。存じております」
レイコは遠くへ視線を向けた。
崩れた建物の向こうでは、黒い魔獣達が空を舞う天使と激しく交戦している。
「私も、そのために動いているところです。あちらで戦っている少々変わった生き物達は気にしないでください。味方ですから」
「み、味方……?」
男性は黒い炎を纏った巨大な鳥を見て顔を引きつらせる。
どう見ても天使より恐ろしい。
レイコは思わず苦笑した。
「見た目は少し怖いですけれど、街の人を襲ったりはしませんよ」
「そうだったんですね……。でも、あなたも早く逃げた方がいい! 天使達は本気で僕達を殺すつもりです!」
「そういうわけにもいきません」
「何故ですか!?」
男性の問いに、レイコは静かに答えた。
「私には、出来ることがありますから」
その声には、一切の迷いがなかった。
「私がここで何もしなければ、助からない人が大勢いるでしょう。それだけは避けたいのです」
男性は何かを言い掛ける。
だが、その真っ直ぐな瞳を見て言葉を飲み込んだ。
「……分かりました。どうか、ご無事で」
男性が頭を下げた、その直後だった。
乾いた轟音が、空から街全体へ響き渡った。
――ダァンッ!!
聞き慣れない音だった。
剣とも、魔法とも違う。
空気そのものを弾き飛ばしたような乾いた衝撃音。
「……え?」
男性とレイコは同時に空を見上げる。
遥か上空。
黒い翼を広げた一人の少女が、長大な銃を天使へ向けていた。
距離があり過ぎて、普通の人間には誰なのか判別出来ない。
だが、レイコには分かった。
銀色の髪。
そして、あの黒い翼。
間違いなくエレンだった。
「……銃なんて、どこから出したのよ」
思わず素の口調で呟く。
エレンが銃を扱えることなど聞いたことがない。
そもそも、銃を一体どこへ隠し持っていたというのだろうか。
相変わらず、エレンは常識の範囲を軽々と飛び越えてくる。
男性は呆然と空を見上げたまま尋ねた。
「い、今のは……?」
レイコは小さく息を吐き、穏やかな口調へ戻る。
「大丈夫です。あれも味方ですから」
「そ、そうなんですか……?」
「ええ。ですから、安心して避難してください」
「は、はい! 失礼します!」
男性は深く頭を下げると、急いで避難していった。
その背中を見送りながら、レイコはもう一度空を見上げる。
「全く……」
呆れたように笑う。
「エレンちゃんは、本当に次から次へと驚かせてくれるわねぇ」
しかし、その笑みはすぐに消えた。
今もエレンは、自分の出来ることを全力でやっている。
ならば、自分も立ち止まる訳にはいかない。
レイコは静かに息を吸い、表情を引き締めた。
「さて……私も、そろそろ天使に通用する手段を完成させないとね」
その時だった。
大きな羽音と共に、一羽の巨大な鳥が空からゆっくりと降り立つ。
全身を黒い炎で包んだ魔獣――ナイトメア・フェニックスだった。
黒炎は激しく燃え盛っているにもかかわらず、不思議と熱は感じない。まるで影そのものが炎になったような、異質な存在感を放っていた。
「レイコ。コノ周辺ノ人間ハ、アラカタ逃ゲ終ワッタ。天使モ、大体ハ片付イタゾ」
レイコは安堵したように微笑む。
「ありがとう。本当に助かったわ」
周囲を見渡す。
先程まで悲鳴が響いていた場所には、もう人影はない。
残るのは、崩れた街並みと、遠くで続く戦いの音だけだった。
「ごめんなさいね。人間の魔法が天使に効かないせいで、皆に負担を掛けてしまって」
ナイトメア・フェニックスはゆっくりと首を横へ振る。
「気ニスルナ。適材適所ダ」
その一言に、レイコは優しく微笑んだ。
「……そうね。私には私の役目があるものね」
そこへ、巨大な赤黒い蠍がゆっくりと歩み寄ってきた。
全身を覆う漆黒の甲殻。
巨大な鋏は鮮やかな赤色をしており、長く伸びた尾の先端も血のように赤く染まっている。
デス・スコーピオンだった。
「デモ、何カ策ハアルノダロウ?サッキカラ、主ニ教ワッタ魔法ヲ頭ノ中デ考エ続ケテイルノヲ見テイタゾ」
レイコは苦笑しながら肩を竦めた。
「ええ。惜しいところまでは来ているのよ。まだいくつか……何かが足りないの」
すると今度は、真紅の翼を持つブラッド・ペガサスがゆっくりと歩み出る。
鮮やかな紅色の身体。
背中から大きく伸びる翼。
そして額から突き出した漆黒の一本角が、異様な威圧感を放っていた。
「焦ル必要ハナイ。天使達ノ相手ハ我等ガ引キ受ケル。レイコハ、自分ノ役目ヲ果タセ」
その言葉に続くように、漆黒の獅子――ルナティック・レオが低く唸る。
「主ハ言ッタ。レイコニ時間ヲ作レ、ト。我等ハソノ命令ニ従ウダケダ」
その言葉を聞いたレイコは、ほんの少しだけ目を伏せた。
(エレンちゃん……)
最初から分かっていたのだろう。
自分が最も力を発揮出来る場所を。
直接天使と戦うことではない。
天使を倒せる魔法を完成させること。
だから戦闘向きの魔獣ばかりを、自分の護衛へ回したのだ。
黒い羊の姿をしたダーク・アリエスが、不思議そうに首を傾げる。
「シカシ、不思議ダ。レイコハ街ノ人間ヲ助ケ続ケテイル。ソレナノニ、一度モ考エルノヲ止メテイナイ」
レイコは当然のように答えた。
「当然でしょう?歩いていても、話していても、治療していても、頭の中では、ずっとエレンちゃんから教わった地獄の魔法を解読しているもの」
その一言で、六体の魔獣達が、一斉に静まり返った。
やがて、三つの頭を持つヘル・ケルベロスが、おそるおそる口を開く。
「……エ?」
「喋リナガラ?」
「人助ケシナガラ?」
「頭ノ中デ別ノ事ヲ考エテイルノカ?」
レイコは首を傾げた。
「そうだけど? 慣れれば出来るわよ?」
ヘル・ケルベロスは三つの頭で互いを見つめ合う。
「……」
「……」
「……」
そして三つの頭が同時に叫んだ。
「ソンナ器用ナ真似、頭ガ三ツアル俺達デモ出来ナイゾ!?」
レイコはきょとんとしたまま瞬きをする。
「そうかしら? 私からすると、皆が六人で息を合わせて戦える方が凄いと思うけれど」
その言葉に、今度は魔獣達の方が言葉を失った。
しばらく沈黙が流れる。
そしてナイトメア・フェニックスが、小さく笑うように翼を震わせた。
「……ナルホド。主ガ言ッテイタ意味ガ、少シ分カッタ気ガスル」
レイコは首を傾げる。
「どういう意味?」
「レイコハ、自分ガ天才ダト気付イテイナイ」
その一言に、レイコは困ったように笑った。
「そんなことないわよ。私はただ、出来ることをしているだけだから」
その謙遜に、六体の魔獣達は揃って苦笑するしかなかった。
◆
穏やかな空気が流れる。
ほんの僅かな時間ではあったが、戦場とは思えないほど静かなひとときだった。
しかし――
三つの頭を持つヘル・ケルベロスが、不意に耳をぴくりと動かした。
三つの頭が、それぞれ別の方向へ耳を傾ける。
数秒後、三つの視線が同じ方角へ揃った。
「レイコ」
低い声で呼び掛ける。
「集中シテイル所、悪イ」
「アッチノ方デ、何ヤラ激シイ戦闘音ガスル」
レイコは思考を止めないまま顔だけを向けた。
「戦闘音?」
「アア」
「随分ト派手ダ」
レイコは耳を澄ませる。
しかし、何も聞こえない。
すぐに理由へ思い至った。
ヘル・ケルベロスは犬型の魔獣。
人間とは比べものにならないほど優れた聴覚を持っている。
「なるほどね」
短く詠唱する。
自らへ聴覚強化の魔法を掛けた。
その瞬間、遠く離れた場所の音が、一気に耳へ流れ込んでくる。
建物が崩れる轟音。
何かが激しくぶつかり合う金属音。
天使達の奇声。
そして――
「ちょっと! 何なのよこいつら!ヴァルキュリア! あいつを攻撃して!」
聞き慣れた少女の怒鳴り声。
聞き間違えるはずがない。
レイコは小さく眉を寄せた。
「……クロエ」
よりにもよって、この状況で。
しかも声の様子からして、かなり追い詰められている。
レイコは静かに息を吐いた。
「教えてくれてありがとう」
魔獣達が一斉にレイコを見る。
「どうやら、あちらへ向かわないといけないみたいねぇ」
ナイトメア・フェニックスが翼を広げる。
「知リ合イカ?」
「ええ」
レイコは苦虫を噛み潰したような表情で、戦闘音のする方角を見つめた。
「実の妹よ」
その一言に、六体の魔獣達は驚いたように目を見開く。
だが、レイコはそのまま歩き始めた。
「やれやれ……こんな状況だというのに、あの子まで助けに行かなきゃいけないなんてねぇ」
口ではそう言うものの、その足取りに迷いはない。
クロエが死ねば、ヴァルキュリアの中にある神器が天使達の手へ渡る可能性がある。
それだけは、何としても避けなければならない。
それに――
どれほど考え方が違おうと。
どれほどクロエとわかりあえてなくても。
クロエは、自分にとってたった一人の妹だった。
「行きましょう」
レイコの言葉に応えるように、六体の魔獣達が一斉に駆け出す。
その後ろを追いながらも、レイコの思考は止まらない。
(炎……違う。瘴気だけでもない。まだ……まだ……術式を繋ぐ何かが足りない……)
妹のもとへ向かいながら、レイコはなお、地獄の魔法の解析を続けていた。
◆
「ちょっと、何なのよこいつら!ヴァルキュリア! あいつを攻撃して!」
苛立ちを隠そうともしない声が、戦場へ響き渡る。
クロエの命令を受けたヴァルキュリアは、腕を巨大な鎌へと変形させ、一気に空中へ跳躍した。
鋭い一閃。
大鎌は目前まで迫っていた天使を胴から真っ二つに断ち切る。
青い血が宙を舞い、天使はそのまま地上へ墜落した。
着地と同時に身体を捻り、背後から迫る別の天使へ肘を叩き込む。
鈍い衝撃音。
吹き飛ばされた天使は建物へ激突し、そのまま動かなくなった。
「……思ったより弱いじゃない」
クロエは鼻で笑った。
ほんの少し前まで、自分は天国塔を登っていた。
第三の試練を突破し、更なる上層へ進んでいたはずだった。
だが、次々と現れる聖獣との戦闘で魔力を大きく消耗し、転移装置も見つからない。
一度塔の外で休息を取ろう。
そう考えて外へ出た結果が――この光景だった。
燃え上がる街。
逃げ惑う人々。
空を埋め尽くす白い翼。
(天使……?)
そう結論付けたが、そんなことはどうでもよかった。
「ちょうどいいじゃない」
口元が歪む。
「この騒ぎなら、何人殺しても私のせいにはならないもの」
逃げ惑う街人達へ杖を向ける。
その瞬間、空一面を覆う巨大な魔法陣が展開された。
「……は?」
大量の水が天から降り注ぎ、街を包んでいた炎が一瞬で消え去る。
続いて、人間を襲っていた天使達の動きが止まった。
そして、動きが止まった天使達の眉間の前に黒い光剣がいきなり現れ、天使の眉間を貫いた。
黒い光剣に貫かれた天使達は一瞬で塵になって消滅した。
「何……?」
状況を理解する間もなく、生き残った空を飛んでいた天使達が一斉に動き出す。
その矛先は――クロエだった。
「――ッ!!」
一体の天使が槍を構え、一直線に突撃してくる。
「……は?」
反応するより早く、ヴァルキュリアがクロエの前へ飛び出した。
ギィィンッ!!
剣へ変形した腕で槍を受け止め、そのまま巨大な鎌で天使を両断する。
青い血が舞い、天使は地面へ落下した。
「何なのよ、本当に。私は人間を殺そうとしてるだけなんだけど?」
詠唱を唱え、呆れたように杖を持ち上げる。
「邪魔」
魔法陣が展開され、炎弾が一直線に空中にいる天使へ突き刺さった。
轟音。
爆炎が天使を飲み込む。
だが。
「……は?」
煙が晴れる。
天使は無傷だった。傷一つない。
「……嘘でしょ」
クロエの表情から初めて余裕が消える。
その直後、周囲の天使達が一斉にクロエへ視線を向けた。
静かに距離を取り、隊列を組み始める。
「私まで排除対象ってこと」
クロエは小さく笑った。
「なら遠慮はいらないわね。ヴァルキュリア。全部片付けなさい」
ヴァルキュリアは無言で頷き、鋼鉄の身体を前へ踏み出した。
ヴァルキュリアは一歩踏み込む。
少女の姿をした鋼鉄の塊が地面を砕き、一瞬で天使達との間合いを詰めた。
腕を巨大な剣へと変形させ、そのまま横薙ぎに振るう。
轟音。
数体の天使がまとめて吹き飛び、地上へ叩き付けられる。
追撃を許さない。
ヴァルキュリアは間髪入れず次の天使へ踏み込み、自らの腕を大剣に変化させて振り下ろす。
鋼鉄の刃が白い翼ごと身体を断ち切り、天使は悲鳴を上げながら崩れ落ちる。
「……なんだ」
クロエは鼻で笑った。
「大したことないじゃない」
ヴァルキュリアはそのまま天使達を次々と斬り伏せていく。
槍も。
剣も。
その鋼鉄の身体を貫くことは出来ない。
圧倒的だった。
「拍子抜けね。こんなのが街を壊していたなんて」
クロエは退屈そうに肩を竦める。
「さっさと片付けて、人間狩りでも始めましょうか」
その瞬間だった。
残っていた天使達が一斉に後方へ飛び退く。
まるで申し合わせたかのように一定の距離を保ち、空中へ散開した。
「……?」
クロエが眉をひそめる。
逃げるつもりではない。
ヴァルキュリアがクロエの前へ飛び出した。
ギィィィィンッ!!
激しい火花が散る。
「……え?」
クロエには何も見えない。
だがヴァルキュリアは、確かに何かを剣で受け止めていた。
もう一度。
ギィンッ!!
ギィィンッ!!
金属音だけが何度も響く。
見えない何かが、絶え間なくヴァルキュリアへ襲い掛かっていた。
「ヴァルキュリア……?」
ヴァルキュリアはクロエを庇うように立ち続け、目には映らない攻撃を正確に弾き続けていた。
しかし、その鋼鉄の身体には少しずつ傷が刻まれていく。
「……何が飛んできてるの?」
誰も答えない。
空に浮かぶ天使達は、ただ静かにこちらを見下ろえているだけだった。
◆
クロエは素早く杖を構え直した。
視線は空中の天使達から一瞬たりとも逸らさない。
「ヴァルキュリア」
短く呼び掛ける。
ヴァルキュリアは無言のまま頷き、なおも見えない攻撃を受け止め続けていた。
ギィンッ!!
ギィィンッ!!
金属音だけが絶え間なく響く。
クロエには何も見えない。
しかし、ヴァルキュリアは確実に何かを捉えている。
「……なるほど」
クロエは静かに呟いた。
「あなたには見えてるのね」
ヴァルキュリアは僅かに頷く。その反応だけで十分だった。
(見えていないのは私だけ。ヴァルキュリアには本当の姿が見えている)
クロエは天使達を鋭く見据える。
空に浮かぶ女の姿。
白い翼。
槍や剣を構えたその姿。
だが、それらは一歩も動いていないように見える。
にもかかわらず。
ギィィンッ!!
再びヴァルキュリアの剣へ激しい衝撃が走った。
火花が散る。
「……そういうこと」
クロエは小さく笑う。
「見えている姿は囮。本体は別にいる」
一度そう結論付ける。
だが、すぐに首を横へ振った。
「……違う。幻を見せている訳じゃない。本体そのものを見えなくしているのね」
その瞬間だった。
ヴァルキュリアの肩へ鋭い一撃が叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
鋼鉄の装甲が僅かに軋む。
「厄介ね……」
さらにもう一撃。
今度は脇腹。
そして背中。
見えない斬撃が四方八方から襲い掛かる。ヴァルキュリアはクロエを守ることを最優先にしているため、防戦一方になっていた。
クロエは静かに状況を整理する。
(私の魔法は効かない。相手は見えない。ヴァルキュリアだけが反応出来る。つまり……)
答えは、一つだった。
「今の私には、打つ手がないわね」
そう呟いた瞬間だった。
天使達が一斉に武器を構え直し、勝利を確信したように動き始めた。
四方八方から、見えない刃が降り注ぐ。
ギィィンッ!!
ギィン!!
ガギィンッ!!
ヴァルキュリアは休む間もなく剣を振るい、盾となり、クロエを守り続ける。
正面。
右。
左。
背後。
あらゆる方向から飛来する攻撃を、寸分違わず受け止めていく。
だが――。
ギィィンッ!!
ついに一撃が防ぎ切れず、ヴァルキュリアの脇腹を掠めた。
鋼鉄の装甲が深く抉られる。
「っ……!」
クロエの表情が僅かに曇る。
ヴァルキュリアはすぐに再生を始める。
傷口はゆっくりと塞がっていく。
しかし、その再生が終わる前に次の攻撃が飛来する。
ギィン!!
ガギィィン!!
今度は肩。
続いて脚。
再生速度を上回る勢いで損傷が積み重なっていく。
「……面倒ね」
クロエは舌打ちした。
見えない敵。
効かない魔法。
終わりの見えない猛攻。
どれも最悪だった。
ヴァルキュリアはなおも必死にクロエを庇い続ける。
その姿を見ながら、クロエは冷静に状況を整理した。
(このまま守り続けても、いずれ押し切られる。私の魔法じゃ決定打にならない。ヴァルキュリアの再生も追いついていない)
その時だった。
ヴァルキュリアの身体が大きく揺らいだ。
金属が軋むような音を立て、その場に片膝をつく。
「ヴァルキュリア!」
クロエが思わず叫ぶ。
「ちょっと、どうしたのよ! 立ちなさい!」
ヴァルキュリアは立ち上がろうとする。
しかし、見えない攻撃を受け続けた代償は大きかった。
鋼鉄の身体には深い傷が幾つも刻まれ、再生は続いているものの、その速度は明らかに追いついていない。
それでもヴァルキュリアは立ち上がる。
主を守るためだけに。
傷付いた腕を構え、再びクロエの前へ立ちはだかった。
その姿を見た天使達が、一斉に前へ出る。
「今だ!」
「押し切れ!」
「人間を殺せ!」
槍を構え、剣を掲げ、四方八方から殺到する。
ヴァルキュリアは迎え撃つ。
大剣を振るい、一体を斬る。
盾となって二体を防ぐ。
だが、その隙を縫うように見えない攻撃が次々と叩き込まれていく。
ギィィン!!
ギィン!!
鋼鉄の装甲が軋み、再び膝が沈む。
クロエは奥歯を強く噛み締めた。
(まずい……このままじゃ、本当に押し切られる)
杖を握る手に力が入る。
魔法は効かない。
打開策もない。
残されたのは、ヴァルキュリアが力尽きるまで耐えることだけだった。
そして、その時――。
「行カセヌ!」
上空から、巨大な影が戦場へ舞い降りた。
◆
鋭い咆哮が戦場へ響き渡る。
次の瞬間、黒い炎を纏った巨大な鳥が上空から急降下した。
ナイトメア・フェニックス。
巨大な翼を広げながら天使達の隊列へ突っ込み、鋭い鉤爪で一体の天使を掴み上げ、そのまま地面へ叩き付ける。
轟音。
地面が砕け、天使は断末魔を上げる間もなく消滅した。
続けざまに、赤黒い巨体が戦場を駆け抜ける。
「退ケ!」
デス・スコーピオンが巨大な鋏を振るい、迫っていた天使達をまとめて薙ぎ払った。
「何だ、こいつらは!?」
「わからんが間違いなく敵だ! 囲め!」
天使達が慌てて陣形を組み替える。
だが、その判断は遅かった。
真紅の翼を広げたブラッド・ペガサスが黒い角を前へ向け、一気に敵陣を突き破る。
続いて、ルナティック・レオが大地を蹴り、鋭い牙で一体の天使へ食らい付いた。
ダーク・アリエスは痩せ細った身体からは想像も出来ない勢いで突進し、天使達を吹き飛ばしていく。
最後に、ヘル・ケルベロスが三つの頭でそれぞれ別の天使へ襲い掛かり、戦場は一気に混乱へ包まれた。
天使達の攻勢は、完全に途切れる。
「……何なのよ、今度は」
クロエは呆然と、その光景を見つめた。
見たこともない異形の獣達。
だが、その全てが自分ではなく、天使達へ牙を向けている。
明らかに、自分を守るように戦っていた。
その時だった。
「苦戦しているようね」
聞き慣れた、落ち着いた女性の声。
クロエの身体がぴくりと震える。
魔獣達が作った道を、ゆっくりと一人の女性が歩いてくる。
焦る様子もない。
慌てる様子もない。
まるで散歩でもしているかのような穏やかな足取りだった。
「……姉さん」
思わず、その名を口にする。
そこに立っていたのは、レイコだった。
レイコは片膝をついたヴァルキュリアと、その後ろで杖を握るクロエを順番に見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「やれやれ……こんな所で何をしているの、クロエ」
その声は、戦場とは思えないほど穏やかだった。
「どうしてあんたがここにいるのよ!」
クロエは思わず叫んだ。
その声には驚きと苛立ちが入り混じっていた。
レイコは慌てることもなく、周囲で戦う魔獣達へ一瞬だけ視線を向ける。
「街の人達を助けていたのよ」
淡々と答える。
「その途中で、随分と聞き覚えのある声が聞こえてきたものだから、様子を見に来たの」
「様子を見に来た、ですって?」
クロエは眉を吊り上げる。
「見れば分かるでしょ! 天使共に囲まれてたのよ!」
「ええ」
レイコはあっさり頷いた。
「だから助けに来たの」
その一言に、クロエは一瞬言葉を失う。
そして、すぐに鼻で笑った。
「……私を助ける? 冗談でしょ? 私達がそんな関係だったかしら?」
レイコは静かに首を横へ振る。
「勘違いしないで。別に、あんた自身を助けに来た訳じゃないわ」
その言葉に、クロエは薄く笑う。
「でしょうね」
その答えを予想していたかのようだった。
レイコは続ける。
「ヴァルキュリアの中には神器があるでしょう? あんたがここで倒れたら、その神器が天使達の手へ渡る可能性がある。それだけは避けたいの」
クロエは鼻を鳴らした。
「なるほど。私のためじゃなく、神器のためって訳ね」
「ええ」
レイコは何の迷いもなく頷く。
「その通りよ」
否定もしない。
取り繕いもしない。
あまりにも正直な返答だった。
クロエは盛大にため息をつく。
「……相変わらずね、姉さん。変に優しい嘘くらいつけばいいのに」
レイコは少しだけ首を傾げる。
「嘘をつく必要があるの?」
「あるのよ、普通は」
クロエは呆れたように言う。
だが、そのやり取りの間にも、天使達は魔獣達を押し返そうと攻勢を強めていた。
レイコは静かに前方を見据える。
「クロエ……今だけでいいわ」
その一言で、クロエの表情が険しくなる。
「私と手を組まない?」
静かな提案だった。
一瞬。
戦場の音が遠のいたような気がした。
クロエはゆっくりとレイコを見る。
「……は?」
信じられないものを見るような目だった。
「あんたと? 私が? 協力する?」
一つ一つ確認するように言葉を並べる。
レイコは静かに頷いた。
「ええ。今は天使を止めることが最優先よ」
クロエは何も答えない。
ただ、拳だけがゆっくりと握られていく。
ギリッ、と爪が掌へ食い込む。
(ふざけるな)
胸の奥から込み上げる嫌悪感。
(誰が……誰が、この女なんかと)
目の前にいるのは、これまで何度も殺そうとしてきた相手だ。
愛を語る愚かな人間。
自分とは決して分かり合えない姉。
そんな相手と肩を並べるなど、考えただけで吐き気がする。
だが、視線を横へ向ける。
ヴァルキュリアは傷だらけだった。
再生は続いている。
しかし、このままでは押し切られる。
そして、ヴァルキュリアが破壊されれば、その内部にある神器は天使達の手へ渡る。
それだけは絶対に許せない。
クロエは奥歯を強く噛み締めた。
(最悪……本当に最悪。こんな屈辱的な決断をする日が来るなんて……)
長い沈黙。
戦場では魔獣達が必死に時間を稼いでいる。
その間にも、ヴァルキュリアは傷付き続けていた。
クロエはゆっくりと目を閉じる。
そして――。
「……わかったわ」
絞り出すような声だった。
「今回だけ……本当に、今回だけよ」
レイコは小さく頷く。
「ええ」
クロエは鋭く睨み付けたまま続ける。
「勘違いしないで。あんたを助けたい訳じゃない。神器を守るため。それだけだから」
レイコは穏やかに微笑んだ。
「ええ。それで十分よ」
クロエは眉をひそめる。
「……でも、あいつら、魔法が効かないわよ。どうするつもり?」
レイコは静かに頷いた。
「なんとかするわ。だから、少しだけ時間を稼いで頂戴」
その落ち着き払った返事が、余計に腹立たしかった。
クロエは盛大に舌打ちをする。
「……チッ。本当に気に入らない」
そう吐き捨てると、ヴァルキュリアへ命じた。
「……ヴァルキュリア。私達を守りなさい」
ヴァルキュリアは静かに立ち上がり、レイコとクロエの前へ歩み出る。
その姿を見届けると、レイコは六体の魔獣へ視線を向けた。
「皆。少しだけ時間を頂戴」
ナイトメア・フェニックスが大きく翼を広げる。
「任セロ」
ルナティック・レオが低く唸る。
「時間ハ我等ガ作ル」
六体の魔獣が一斉に駆け出した。
天使達も迎え撃つように動き出し、再び激しい戦いが始まる。
その喧騒の中――
レイコだけは、静かに目を閉じた。
戦場を見ることもなく。
聞こえてくる怒号に耳を貸すこともなく。
意識の全てを、自らの思考の奥底へ沈めていく。
(瘴気……違う。術式は、もうほとんど完成している。足りない。まだ……まだ、何かが足りない)
◆
レイコはゆっくりと目を閉じた。
戦場の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
剣と剣がぶつかり合う音。
魔獣達の咆哮。
天使達の怒号。
崩れ落ちる建物。
爆発音。
ヴァルキュリアへ叩き付けられる無数の斬撃。
クロエの叫び声。
その全てを、意識の外へ静かに追いやっていく。
今、この瞬間だけは戦場を見る必要はない。
耳を澄ませる必要もない。
必要なのは――考えること。
ただ、それだけだった。
(地獄の魔法……)
頭の中へ浮かぶのは、エレンが使っていた黒い炎。
人間界には存在しない術式。
瘴気によって成立する、地獄だけの魔法。
人間には扱えない。
それは最初から理解していた。
(だから、同じものを作る必要はない。同じ結果を生み出せばいい)
その瞬間、思考がさらに深く沈む。
頭の中へ無数の魔法陣が浮かび上がる。
一つ組み立てる。
否定する。
壊す。
もう一度組み直す。
また壊す。
その繰り返し。
誰にも見えない場所で、何十、何百という術式が生まれては消えていく。
(瘴気の役割は何? 燃やすこと?)
違う。
炎なら人間にも扱える。
それだけなら、とっくに再現出来ている。
(腐食?)
それも違う。
腐食だけなら既存の魔法でも近い現象は起こせる。
それでも天使は死なない。
(もっと本質。もっと根本)
思考がさらに加速する。
周囲の時間だけが止まったような感覚。
レイコは、世界から自分だけ切り離されたような静寂の中へ沈んでいく。
(瘴気がやっていることは何? 何を目的として存在している?)
一つずつ。
一つずつ。
可能性を潰していく。
そして――。
(身体を崩壊させる)
その答えへ辿り着いた瞬間。
レイコの思考は、さらにもう一段深い領域へ踏み込んでいった。
◆
(身体を崩壊させる。)
その一文が頭の中へ浮かぶ。
レイコは、その言葉を何度も反芻する。
(そう……瘴気そのものじゃない。瘴気が起こしている現象を再現出来ればいい)
そこまでは辿り着いた。
だが、それだけでは足りない。
(どうやって……どうやって、人間の魔法でそれを再現する?)
思考の海へ、これまで学び続けてきた知識が一斉に流れ込んでくる。
炎。
水。
風。
土。
雷。
治癒。
毒。
腐食。
錬金術。
魔導工学。
薬学。
人体構造。
血液。
筋肉。
神経。
骨。
臓器。
細胞。
ありとあらゆる知識が高速で結び付いては離れ、別の可能性を生み出していく。
(燃やす……)
違う。
燃焼だけでは遅い。
天使はその前に反撃してくる。
(腐食……)
違う。
腐食だけでは威力が足りない。
(毒……)
違う。
即効性がない。
一つ仮説を立てる。
頭の中で術式を組み上げる。
完成する。
だが、次の瞬間には自ら否定する。
(駄目。遅い)
別の術式。
また組み立てる。
完成。
(……違う)
壊す。
さらに別の理論。
また組み立てる。
何度も。
何度も。
何度も。
頭の中では数え切れないほどの魔法の術式が生まれ、その全てが自らの手で崩されていく。
やがて、一つの単語が、ゆっくりと浮かび上がった。
「……細胞」
小さく呟く。
そうだ。
骨ではない。
筋肉でもない。
臓器でもない。
もっと根本。
身体を構成する最小単位。
細胞そのものを崩壊させればいい。
その瞬間、思考が一気に繋がり始めた。
(でも、細胞だけじゃ足りない……もっと速く。もっと根本から)
レイコはさらに思考を深く潜らせていく。
(細胞を崩壊させる。それ自体は可能。でも、それだけでは遅い)
一瞬で戦闘中に、天使を消滅させる。
その条件を満たさなければ意味がない。
(熱量……足りない)
普通の炎では届かない。
もっと高温。
もっと効率良く。
術式を書き換える。
頭の中で新たな魔法術式が組み上がる。
超高温の炎。
その周囲を魔力の膜で覆い、熱を外へ逃がさない。
術者へ熱が伝わらないよう完全に遮断する。
(これなら……)
一瞬だけ完成が見える。
しかし。
「違う」
レイコは静かに首を横へ振った。
まだ足りない。
これでは、高温の炎を作っただけ。
エレンの魔法が見せた”崩壊”には届いていない。
(もっと根本から)
思考をさらに深く沈める。
人体。
骨。
筋肉。
細胞。
血液。
水分。
薬学。
毒物学。
学生時代から読み漁ってきた文献が、次々と頭の中を流れていく。
その時だった。
一つの知識が、ふと浮かび上がる。
「……硫化水素」
静かな呟き。
人体へ極めて強い影響を及ぼす有毒ガス。
細胞の活動を阻害し、生体機能を停止させる物質。
(近い)
レイコの思考が加速する。
(かなり近い。細胞へ直接作用する。瘴気の一部と発想が似ている)
だが、次の瞬間には、自らその考えを否定した。
(でも違う。これだけでは足りない)
硫化水素だけでは、人間なら命を奪えても、天使を一瞬で消滅させることは出来ない。
時間が掛かりすぎる。
それでは意味がない。
(なら……熱を加える)
頭の中で術式を書き換える。
硫化水素。
超高温の炎。
さらに腐食の術式。
人体へ含まれる水分を利用し、崩壊速度を加速させる。
複数の理論を一枚の術式へ重ね合わせていく。
(……これなら)
完成しかける。
だが、レイコは再び首を横へ振った。
「まだ違う」
理論は成立している。
しかし、この術式を放った瞬間、術者自身が発生した熱に耐えられない。
戦う以前に、自分が焼け死ぬ。
(なら……熱を閉じ込める)
炎の外側へ、さらにもう一枚。
魔力の膜を形成する。
熱を内部へ封じ込める。
術者への影響だけを切り離す。
(これなら……)
術式が、ゆっくりと形になっていく。
あと少し。
本当にあと一歩。
だが、レイコはまだ首を縦には振らなかった。
(まだ何かが足りない。決定的な……何かが)
◆
レイコは静かに息を吐いた。
頭の中で組み上げた術式を、もう一度最初から見直す。
硫化水素。
高熱。
腐食。
細胞崩壊。
人体の水分。
熱を閉じ込めるための魔力膜。
理論としては成立している。
それでも、何かが足りない。
(違う……術式じゃない。足りないのは術式じゃない)
思考をさらに深く沈める。
今まで自分は、ずっと”魔法をどう作るか”ばかり考えていた。
だが。
ふと。
頭の中へ、一つの疑問が浮かび上がる。
(待って。そもそも……どうして天使には、人間の魔法が効かないの?)
その瞬間だった。
頭の中で積み上げてきた理論が、一度すべて白紙になる。
魔法を作ることばかり考えていた思考が、初めて相手へ向けられる。
(人間の魔法。天使。効かない……どうして?)
クラディウスが与えた加護。
皆はそう言う。
だが、それは答えではない。
それは”結果”だ。
知りたいのは、その加護が何をしているのか。
(加護は……何を無効化している?)
レイコは静かに目を閉じたまま考え続ける。
魔法とは何か。
魔法学を学び始めた頃、最初に教わった基礎理論。
魔法は。
魔力だけでは成立しない。
魔力を空気中の魔素へ通し、魔素を媒介として初めて現象へ変換される。
その基本中の基本が、ゆっくりと思考の中で形を取り戻していく。
(……そういうこと)
小さく呟く。
人間の魔法が効かないのではない。
違う。
天使は。
人間界の魔素そのものを拒絶している。
だから、人間の魔法だけが成立しない。
その瞬間、今まで組み上げてきた全ての理論が、一つへ繋がった。
「……そういうことだったのね」
レイコの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
最後の一欠片が、ぴたりとはまった感覚だった。
魔法を変える必要はない。
変えるべきだったのは――
魔素の使い方。
「魔素を……」
静かな声が漏れる。
「極限まで減らせばいい」
その瞬間。
硫化水素。
高熱。
腐食。
細胞崩壊。
人体の水分。
熱を閉じ込める魔力膜。
そして。
必要最低限の魔素だけで成立する術式。
それら全てが、一枚の設計図として綺麗に重なった。
頭の中で、無数に崩れ続けていた魔法術式が、初めて崩れなかった。
完成した。
世界で初めて。
人間の理論だけで、地獄の魔法を再構築した術式が。
レイコは静かに微笑む。
「……出来た」
歓喜はない。
興奮もない。
ただ、一人の研究者が。
一つの理論を完成させた。
そんな静かな確信だけが、そこにはあった。
◆
レイコはゆっくりと目を開いた。
先程まで意識の外へ追いやっていた戦場の音が、一気に耳へ流れ込んでくる。
剣戟。
爆発音。
魔獣達の咆哮。
ヴァルキュリアへ叩き付けられる無数の斬撃。
天使達の怒号。
そして。
「姉さん!」
クロエの焦った声。
「まだなの!?」
その声で、レイコは静かに現実へ意識を戻した。
視界へ映るのは、必死に時間を稼ぎ続ける六体の魔獣達。
ナイトメア・フェニックスは黒い炎を纏いながら空を舞い、ブラッド・ペガサスは角を武器に敵陣を駆け抜ける。
ルナティック・レオは牙を振るい、デス・スコーピオンは巨大な鋏で天使達を押し返していた。
ダーク・アリエスとヘル・ケルベロスも、それぞれ全力で天使達を足止めしている。
その後方では、ヴァルキュリアが傷だらけになりながらもクロエの前に立ち続けていた。
鋼鉄の身体は深く抉られ、再生を繰り返している。
しかし、その速度は徐々に追いつかなくなり始めていた。
誰もが限界だった。
レイコは静かに頷く。
「待たせたわね」
その一言だけだった。
クロエは思わず目を見開く。
「……出来たの?」
レイコは穏やかに微笑んだ。
「ええ。理論は完成したわ」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
クロエは半信半疑のまま眉をひそめる。
「理論って……今そんな話をしてる場合じゃ――」
「いいえ」
レイコは静かに遮る。
「大丈夫。もう終わるわ」
その落ち着き払った声音に、クロエは思わず口を閉ざした。
レイコは一歩前へ出る。
それを見た六体の魔獣達が一斉に振り返った。
「レイコ! モウ良イノカ!」
ナイトメア・フェニックスが叫ぶ。
レイコは静かに頷いた。
「ええ。皆、ありがとう。ここからは私がやるわ」
その言葉を聞くと、六体の魔獣達は一切ためらうことなく後方へ飛び退いた。
主の友である人間を、誰一人疑わなかった。
その信頼に応えるように、レイコは静かに両手を胸の前で重ねる。
そして、小さく息を吸い込んだ。
「それじゃあ――」
穏やかな声が戦場へ響く。
「証明するわ」
◆
レイコは静かに両手を掲げた。
魔力がゆっくりと指先へ集まっていく。
膨大な魔力ではない。
むしろ、人間の大魔法としては驚くほど少ない。
しかし、その魔力は極限まで無駄を削ぎ落とされ、一切の淀みなく術式へ組み込まれていく。
空気が静かに震えた。
レイコの頭上へ、一つの巨大な魔法陣が展開される。
その色は、青でも赤でも金でもない。
夜空よりもなお深い漆黒。
まるで光そのものを吸い込むような、黒い魔法陣だった。
その異様な色彩を見た天使達が、思わず動きを止める。
「……何だ、あの魔法陣は?」
「見たことがない……」
「人間の魔法ではないぞ」
誰も知らない。
当然だった。
今、この瞬間まで、この世界には存在しなかった魔法なのだから。
レイコは誰の声にも反応しない。
静かに詠唱を紡ぎ続ける。
その声には怒りもない。
憎しみもない。
焦りもない。
ただ、一つの理論を完成させた研究者が、自ら導き出した答えを確認するように。
一言一句、丁寧に。
静かに。
世界で初めて唱えられる詠唱が、戦場へ響いていく。
詠唱が進むにつれ、漆黒の魔法陣がゆっくりと回転を始めた。
同時に、周囲の空気がわずかに軋む。
まるで世界そのものが、この術式の誕生を拒んでいるかのようだった。
クロエは思わず息を呑む。
「……何よ、これ」
肌が粟立つ。
本能が警鐘を鳴らしていた。
魔力量は決して多くない。
それなのに、目の前で組み上げられている魔法は、これまで見てきたどの禁術よりも危険だと、本能が理解してしまう。
六体の魔獣達も戦いの手を止め、レイコの背中を静かに見つめていた。
誰も声を掛けない。
誰も邪魔をしない。
ただ、その完成を待っている。
やがて、詠唱は最後の一節へ差しかかった。
レイコはゆっくりと目を開く。
その赤茶色の瞳には、自信も慢心もなかった。
あるのは、一人の魔術師として。
一人の研究者としての、静かな確信だけ。
そして――。
静かに両手を振り下ろした。
次の瞬間、漆黒の魔法陣の中心から、一つの黒い炎が静かに姿を現した。
拳ほどの大きさしかない。
炎とは思えないほど静かだった。
燃え盛る音もない。
熱気も感じない。
ただ、漆黒の炎だけが、ゆらりと揺れている。
その異様な光景に、戦場が静まり返った。
「…………」
誰も動かない。
いや、動けなかった。
あまりにも静か過ぎた。
巨大な魔法陣。
長い詠唱。
誰もが大規模な爆発魔法を予想していた。
だが、生み出されたのは掌に収まるほど小さな炎が一つ。
拍子抜けだった。
一人の天使が思わず鼻で笑う。
「……何だ、それは。そんな小さな炎で我々を倒すつもりか?」
別の天使も嘲笑する。
「脅かしおって。人間らしい、小細工だ」
先程までの恐怖が、少しずつ薄れていく。
目の前にあるものが、あまりにも小さかったからだ。
しかし、レイコだけは、その炎を静かに見つめていた。
まるで、自らが完成させた作品を見つめる研究者のように。
「……うん」
小さく頷く。
「術式は正常。魔力の流れも安定。熱の封印も問題なし」
誰に聞かせるでもなく、小さく確認していく。
クロエは思わず額へ手を当てた。
(は? 確認作業してる……)
レイコは、そんなクロエの様子にも気付かない。
黒い炎だけを見つめながら、静かに呟く。
「後は――」
その声は穏やかだった。
「理論が正しいか、確かめるだけね」
そう言って、レイコはゆっくりと右手を前へ差し出した。
黒い炎が、まるで意思を持つかのようにふわりと宙へ浮かび上がる。
その瞬間、先程まで笑っていた天使達の背筋を、理由の分からない悪寒が走った。
何故かは分からない。
目の前の炎は小さい。
込められた魔力も少ない。
それなのに、本能だけが、激しく警鐘を鳴らしていた。
「……撃て」
誰かが叫ぶ。
「完成させるな!」
その号令と同時に、数十体の天使が一斉にレイコへ襲い掛かった。
槍を構え。
剣を掲げ。
無数の魔法陣が空を埋め尽くす。
誰もが理解していた。
あの魔法だけは、完成させてはならないと。
「行カセハシナイッ!!」
黒い炎を纏ったナイトメア・フェニックスが、大きく翼を広げる。
巨大な身体ごと天使達の前へ飛び込み、その進路を塞いだ。
鋭い鉤爪が一閃する。
一体の天使が空中で弾き飛ばされ、そのまま地面へ叩き落とされた。
「突破サセルナ!!」
ブラッド・ペガサスが黒い角を前へ向け、一気に敵陣へ突撃する。
一直線に隊列を貫き、数体の天使をまとめて吹き飛ばした。
ルナティック・レオは咆哮を上げながら跳躍し、鋭い牙で一体の天使へ食らいつく。
デス・スコーピオンの巨大な鋏が唸りを上げ、迫る槍ごと天使を薙ぎ払った。
ダーク・アリエスは低く身を構え、敵陣へ突っ込む。
さらに、ヘル・ケルベロスが三つの頭で別々の天使へ同時に襲い掛かり、その前進を食い止めた。
六体の魔獣が、命を懸けて時間を稼ぐ。
その後方では、ヴァルキュリアが巨大な盾を構えたまま、一歩も退かなかった。
見えない斬撃。
槍。
魔法。
ありとあらゆる攻撃が、鋼鉄の身体へ叩き付けられる。
ギィィィンッ!!
甲高い金属音が響く。
肩が裂ける。
腕が抉れる。
脚部の装甲が砕け散る。
それでも。
ヴァルキュリアは一歩も退かなかった。
その背後には、レイコとクロエがいる。
守るべき主がいる。
「ヴァルキュリア!」
クロエが叫ぶ。
だが、ヴァルキュリアは振り返らない。
ただ黙って、大盾を前へ構え続ける。
何度傷付こうとも、何度吹き飛ばされようとも、その場から退くという選択肢だけは、存在しなかった。
一方、その全てを背に受けながら、レイコは静かに黒い炎を見つめ続けていた。
瞬き一つせず。
呼吸すら乱さず。
まるで戦場の喧騒だけが、自分とは別の世界で起きている出来事であるかのように。
その集中は、一切揺らがない。
「姉さんッ!!」
クロエの叫びが響く。
しかし、レイコは答えない。
あと少し。
本当に、あと少しで。
世界初の術式が、その真価を示す。
◆
レイコは静かに瞳を開いた。
その赤茶色の瞳は、目の前の天使だけを真っ直ぐに見据えている。
恐怖もない。
怒りもない。
憎しみもない。
あるのは、一人の研究者としての冷静な観察だけだった。
「……これで」
穏やかな声が戦場へ響く。
「証明するわ」
レイコは右手を静かに前へ差し出した。
それに呼応するように、黒い炎がゆっくりと宙へ浮かび上がる。
そして、音もなく。
一体の天使へ向かって飛び始めた。
「そんな遅い魔法が当たるものか!」
先頭にいた天使が鼻で笑う。
翼を軽く動かし、横へ身をずらした。
黒い炎は、その動きを追うように軌道を変える。
「なっ――」
驚きの声が漏れる。
天使はさらに急上昇する。
黒い炎も静かに追従する。
急降下する。
炎もまた、ぴたりと後を追う。
「追尾するだと!?」
天使の表情から余裕が消えた。
槍を構え、黒い炎を叩き落とそうと振り抜く。
しかし、槍は黒い炎をすり抜けた。
「馬鹿な!」
炎は霧のように刃を避け、そのまま天使の肩へ静かに触れる。
ただ、それだけだった。
爆発は起きない。
熱もない。
衝撃もない。
「……?」
天使は不思議そうに肩を見る。
「外れ――」
言葉は最後まで続かなかった。
肩口から。
身体そのものが、音もなく崩れ始めた。
「……え?」
黒く焼ける訳でもない。
腐る訳でもない。
まるで砂で作られた彫像が崩れるように、肩が静かに形を失っていく。
腕が落ちる。
胸が崩れる。
翼が砕ける。
「な、何だこれは……!」
天使は慌てて治癒魔法を展開しようとする。
魔法陣が浮かぶ。
しかし、完成するより早く、右腕が崩れ落ちた。
「止まれ! 止まれぇぇぇぇッ!!」
絶叫が戦場へ響く。
細胞が。
筋肉が。
骨が。
血液が。
存在そのものが、内側から崩壊していく。
翼は形を保てず砕け散り。
脚は支えを失い。
声帯さえ崩れ始め、叫び声は途中で途切れた。
数秒後、そこには何も残っていなかった。
灰も。
血も。
肉片すらない。
ただ風だけが、その場所を静かに吹き抜けていく。
戦場から、音が消えた。
◆
静寂が、戦場を包んだ。
誰も動けない。
魔獣達も。
クロエも。
ヴァルキュリアも。
そして、天使達でさえ。
ただ、仲間が消えた場所を見つめていた。
「…………」
理解が追いつかない。
燃えたのではない。
斬られたのでもない。
爆発した訳でもない。
仲間は。
ただ。
存在そのものが崩れ去った。
「な……」
一人の天使が震える声を漏らす。
「何を……した?」
返事はない。
レイコは静かに、何もなくなった空間を見つめていた。
「……成功ね」
ぽつりと呟く。
その声には勝利の喜びはない。
敵を倒した高揚もない。
あるのは、一つの理論が正しかったという確認だけだった。
レイコは小さく頷く。
「細胞崩壊速度……想定通り。 腐食術式も正常。 熱量の制御も問題なし」
まるで実験結果を読み上げるように、一つ一つ確認していく。
自分の掌を見る。
指先は僅かに震えていた。
しかし、それは恐怖ではない。
急激な魔力消費による、ごく自然な身体反応だった。
「術者への負荷も許容範囲……」
さらに小さく呟く。
「追尾速度には改善の余地があるわね。崩壊までの時間も、もう少し短縮出来そう」
クロエは思わずレイコを見た。
「……え?」
思考が止まる。
今、この人は。
世界で初めて。
天使を倒す魔法を完成させた。
それなのに、もう改良点を探している。
「姉さん……」
クロエは呆然と呟く。
「まだ改良する気なの……?」
レイコは不思議そうに振り返った。
「もちろんよ」
その返事はあまりにも自然だった。
「一度成功しただけでは、完成とは言えないでしょう? もっと効率を上げられるなら、その方がいいもの」
クロエは思わず額へ手を当てた。
「……やっぱり。姉さん、頭おかしいわ」
レイコはきょとんと首を傾げる。
「そうかしら?」
「そうよ」
クロエは即答した。
「普通の魔術師は、新しい魔法を作った直後に改良なんて考えないの。まず成功を喜ぶの」
「ええ?」
レイコは本気で不思議そうな顔をした。
「でも、改善点が見えているのに、そのままにする方が気持ち悪くない?」
「その発想が普通じゃないのよ!」
クロエが思わず叫ぶ。
そのやり取りを見ていた六体の魔獣達は、思わず苦笑を浮かべた。
「主ガ言ッテイタ」
ルナティック・レオが静かに呟く。
「レイコハ天才ダト」
ヘル・ケルベロスも三つの頭で何度も頷く。
「ナルホド」
「納得シタ」
「コレハ普通ジャナイ」
一方――。
天使達だけは、その会話を聞きながら、一歩、また一歩と後ずさっていた。
目の前の人間は、自分達を倒したことを喜んでいるのではない。
実験が成功したことを確認し、次の改良を考えている。
その事実こそが、何よりも恐ろしかった。
レイコは再び黒い炎へ視線を戻す。
「色々と改良点はあるけれど」
穏やかな声だった。
「まずは、数を減らしましょうか」
「……は?」
クロエが目を瞬かせる。
その意味を理解するより早く、レイコは静かに両手を広げた。
先程まで一つしかなかった漆黒の炎が、音もなく形を崩す。
小さな火の粉となって分かれ。
二つ。
四つ。
八つ。
さらにその数を増やしながら、空へと広がっていく。
「な……」
一人の天使が震える声を漏らす。
「増えている……?」
やがて、天使達を取り囲むように、無数の黒い炎が空を埋め尽くした。
どれも拳ほどの大きさしかない。
熱もない。
音もない。
それでも、先程、一体の天使を跡形もなく消滅させた炎と、全く同じものだった。
「散開しろ!」
誰かが叫ぶ。
「触れるな!」
「一斉に撃ち落とせ!」
天使達が慌てて武器を構える。
無数の魔法陣が展開され、光弾が黒い炎へ放たれた。
しかし、光弾は炎をすり抜ける。
剣も。
槍も。
何一つ、その進行を止められない。
「どうして当たらない!」
「逃げろ!」
隊列が崩れる。
天使達が四方へ散り、我先にと逃げ始めた。
だが、無数の黒い炎は、それぞれが異なる標的を選び、静かに軌道を変える。
急上昇しても。
急降下しても。
建物の陰へ逃げても。
黒い炎は決して離れない。
レイコは、その様子を静かに観察していた。
「追尾術式。複数同時制御。広域展開」
一つずつ確認しながら、僅かに指先を動かす。
「――発動」
次の瞬間、黒い炎が一斉に天使達へ触れた。
「なっ――」
「やめろ!」
「来るなぁぁぁぁッ!!」
叫び声が重なる。
肩が崩れる。
腕が落ちる。
翼が砕ける。
胸が形を失い。
足が消え。
声さえも途中で途切れていく。
空を埋め尽くしていた天使達が、一体、また一体と音もなく崩壊していく。
爆発はない。
血も流れない。
ただ、存在だけが消えていく。
数秒後、空に残っていたのは、先程までの三割ほどだけだった。
その場にいた天使の、およそ七割。
それだけの数が、跡形もなく消滅していた。
静寂が訪れる。
生き残った天使達は、誰一人として動けなかった。
周囲にいたはずの仲間達が消えている。
声も。
血も。
遺体すらない。
ただ空白だけが、そこに残されていた。
「……少し制御が荒いわね」
レイコが小さく呟く。
「標的が多いと、追尾速度にばらつきが出る。術式をもう少し整理した方が良さそう」
クロエは呆然と空を見上げていた。
天使の軍勢が一度の魔法で、ほとんど消えていた。
「……姉さん」
掠れた声が漏れる。
「今のが……数を減らすって意味?」
「ええ」
レイコは穏やかに頷く。
「全員を相手にするより、その方が効率的でしょう?」
「そういう問題じゃないわよ……」
クロエは額を押さえた。
六体の魔獣達も、消えた天使達のいた空間を見つめている。
「七割……」
ブラッド・ペガサスが低く呟く。
「一度ニ」
ナイトメア・フェニックスも静かに頷いた。
「主ガ認メル訳ダ。コレハ……天才ト呼ブシカナイ」
一方。
生き残った天使達の顔からは、完全に血の気が引いていた。
◆
一人の天使が、震える手で槍を握り直した。
「あり得ない……」
その声は掠れていた。
「人間の……魔法が……我々に効くだと……?」
誰も答えられない。
答えを知る者など、この場には一人しかいなかった。
天使達は互いの顔を見合わせる。
動揺。
困惑。
恐怖。
それまで揺るぎないものだった常識が、目の前で音を立てて崩れていく。
「クラディウス様の加護は……絶対だったはずだ。人間の魔法など、届くはずがない!」
叫ぶように言う。
それは仲間へ向けた言葉というより、自分自身へ言い聞かせる言葉だった。
だが、その叫びを、現実は容赦なく否定する。
仲間達は消えた。
確かに。
目の前で。
跡形もなく。
それが何よりの証拠だった。
レイコは静かに天使達を見つめる。
その表情は穏やかだった。
勝ち誇る様子もなければ、相手を見下す様子もない。
ただ、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
静かな問い掛けだった。
「そんなに驚くことかしら」
その一言に、天使達は思わず息を呑む。
「驚くに決まっている!」
一人の天使が叫ぶ。
「我々には、人間の魔法は効かない! それは、この世界の絶対だ!」
レイコは小さく頷いた。
「ええ。その認識は間違っていないわ」
天使達が目を見開く。
「……何?」
レイコは続ける。
「少なくとも、今までの人間の魔法では、貴方達を倒すことは出来なかったでしょうね」
穏やかな声だった。
否定ではない。
事実を確認するような口調。
「だったら!今の魔法は何だ! 何故、我々を倒せた!」
その問いに、レイコは小さく微笑む。
研究者が、自分の専門分野について尋ねられた時のような、自然な笑みだった。
「それなら、順番に説明するわ」
そう言って、レイコはゆっくりと人差し指を一本立てた。
「まず最初に、一つだけ質問させてもらえるかしら?」
天使達は警戒したままレイコを睨みつける。
何を企んでいるのか。
何故、こんな状況で質問などするのか。
誰にも分からなかった。
「……質問だと?」
「ええ」
レイコは穏やかに頷く。
「人間の魔法は、どうやって発動するか知っている?」
一瞬、戦場に沈黙が流れる。
そんなことか、と言わんばかりに、一人の天使が口を開いた。
「馬鹿にしているのか。そんなもの、魔法学の基礎中の基礎だ。 魔力を空気中の魔素へ通し、その魔素を媒介として現象を発生させる。 それが人間の魔法だ」
レイコは満足そうに微笑んだ。
「正解」
まるで授業で生徒の答えを褒める教師のようだった。
そして、もう一本指を立てる。
「では、次の質問よ。どうして、その魔法は貴方達には効かないのかしら?」
天使達は顔を見合わせる。
その問いにも、一人がすぐに答えた。
「決まっている。クラディウス様が、我々へ加護を授けてくださっているからだ。 その加護によって、人間の魔法は我々には通用しない」
自信に満ちた答えだった。
長年信じ続けてきた、揺るぎない常識。
しかし、レイコは静かに首を横へ振った。
「半分だけ正解」
「……何?」
「確かに、貴方達へ加護が与えられていることは事実よ。でも、それは答えじゃないの」
レイコは天使達を見渡す。
「“加護があるから効かない”というのは、結果でしかないわ。私が知りたいのは、その加護が何をしているのか」
その言葉に、天使達は押し黙る。
考えたこともなかった。
加護とはそういうものだと、ただ受け入れてきた。
何故効かないのか。
その仕組みまで考えたことは、一度もなかったのだ。
レイコは小さく微笑む。
「そこなの。そこを理解しない限り、貴方達の加護は解析出来ない」
戦場は静まり返る。
生き残った天使達は、武器を構えることさえ忘れていた。
まるで戦場ではなく、魔導学の講義が始まったかのような、不思議な空気だけが流れていた。
天使達は、誰一人として答えられなかった。
加護がある。
それだけは知っている。
だが、その加護が何をしているのか。
そこまで考えた者は、一人もいなかった。
レイコは静かに頷く。
「答えは、とても単純よ」
そう言って、右手をゆっくりと掲げた。
指先へ、小さな魔法陣が淡く浮かび上がる。
「人間の魔法は、魔力だけでは成立しない。空気中に存在する魔素を媒介として、初めて現象へ変換される」
その小さな魔法陣を見つめながら続ける。
「つまり、人間の魔法を止めたいなら、魔力を止める必要はない。術式を壊す必要もない。もっと簡単な方法があるの」
天使達は思わず息を呑む。
レイコは静かに天使達へ視線を向けた。
「貴方達の加護は」
一拍置く。
「人間界の魔素だけを拒絶している」
その一言で、天使達の表情が凍り付いた。
「な……」
「馬鹿な……」
「そんなことが……」
誰も否定出来ない。
否定したい。
だが、出来ない。
目の前には、その結論へ辿り着いた人間が立っている。
そして、その理論によって、既に大半の仲間が消滅している。
レイコは穏やかに説明を続ける。
「だから、人間の魔法は途中で成立しなくなる。魔法そのものを無効化しているんじゃない。媒介となる魔素だけを無効化している。結果として、人間の魔法が届かなくなる」
戦場は静まり返っていた。
天使達は言葉を失っている。
レイコは小さく頷く。
「つまり、貴方達が守られているのは、“魔法”からじゃない。人間界の魔素からなの」
クロエも思わず目を見開く。
「……だから、姉さんは魔素を極限まで減らしたの……?」
レイコは微笑みながら頷いた。
「ええ。魔法を成立させるために必要な最低限だけ残した。残りは、人間界に存在する現象だけで補ったの」
その言葉を聞いた瞬間、天使達はようやく理解する。
目の前の人間は、加護を力で破ったのではない。
加護の仕組みそのものを解析し、その隙間を通る術式を新しく作り上げたのだと。
その事実に、誰もが言葉を失った。
◆
沈黙だけが流れる。
レイコの説明は聞こえていた。
一言一句、確かに聞こえていた。
だが、その全てを理解出来た者は、ほとんどいなかった。
やがて、クロエがゆっくりと口を開いた。
「……姉さん」
「何かしら?」
「説明は聞いたわ」
「ええ」
「でも」
クロエは真顔のまま言った。
「……何を言ってるのか、半分くらい分からない」
レイコは一瞬だけ目を丸くした。
「そう?」
「そうよ」
クロエは即答する。
「天使の加護が、人間界の魔素を拒絶しているってところまでは分かるわ。だから、魔素を極限まで減らしたっていうのもね。でも……」
クロエは先程まで黒い炎が浮かんでいた場所へ目を向ける。
「あれだけで、どうして天使の身体が跡形もなく崩れるのよ。人間界に存在する現象で補ったって、具体的に何を組み込んだの?」
レイコは少しだけ考え込んだ。
「ええと……そこから説明すると長くなるのだけれど」
「もう十分長いわ」
クロエは即座に突っ込む。
「これ以上聞いたら頭が痛くなる」
そのやり取りを聞いていた魔獣達も、小さく頷いた。
「正直……」
ヘル・ケルベロスが三つの頭で顔を見合わせる。
「俺達モ」
「途中カラ」
「全然分カラナカッタ」
ブラッド・ペガサスも苦笑する。
「理解ハ出来ナイ。ダガ、出来ナイ事ヲ、出来ルヨウニシタ事ダケハ分カル」
ナイトメア・フェニックスが静かにレイコを見る。
「ソレデ十分ダ」
レイコは困ったように笑った。
「そういうものかしら」
「そういうものよ」
クロエは深くため息をつく。
「普通はね、理論を聞いて理解するんじゃない。結果を見て理解するの」
そう言って、先程まで空を埋め尽くしていた天使達のいた場所を指差した。
「……あれが、その答え」
レイコもその方向へ目を向け、小さく頷いた。
「ええ。証明は終わったわ」
その穏やかな一言に、天使達だけは、誰一人として言葉を返すことが出来なかった。
一人の天使が、震える声で口を開いた。
「つまり……貴様は、地獄の魔法を盗んだというのか?」
その言葉に、レイコはゆっくりと首を横へ振った。
「いいえ」
即座に否定した。
「盗んでなんかいないわ」
その声は穏やかだった。
怒っている訳でもない。
馬鹿にしている訳でもない。
ただ、事実を訂正するように。
「私は」
一歩前へ出る。
「地獄の魔法を真似した訳じゃない」
右手へ、小さな黒い炎が再び灯る。
静かに、揺らめく。
「エレンちゃんが使っていた魔法を見て、何が起きているのかを観察した。その現象を分解して、一つずつ理論へ置き換えて、人間界で再現出来る形へ組み直した」
レイコは黒い炎を見つめる。
「だからこれは……」
一拍置く。
「地獄の魔法じゃない。人間界の理論だけで組み上げた、全く新しい魔法よ」
戦場に再び沈黙が流れる。
誰も口を開けない。
開けるはずがなかった。
天使達は、ようやく理解する。
目の前の人間は、既存の魔法を覚えたのではない。
既存の魔法を改良したのでもない。
世界に存在しなかった術式そのものを、一から作り上げた。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
クロエも小さく息を呑む。
「……姉さん。それって、新しい魔法を作ったってことよね」
レイコは少し考えてから、穏やかに頷いた。
「そうなるわね。もっとも……」
困ったように微笑む。
「まだ試作段階だけれど」
その一言で、クロエは思わず頭を抱えた。
「……試作?一度に七割も消しておいて?」
「ええ」
レイコは何の迷いもなく答える。
「まだ改善点がいくつも見つかったもの。完成とは、とても言えないわ」
その言葉を聞いた天使達の表情が引きつる。
これで完成ではない。
その事実が、先程魔法を受けたこと以上の恐怖となって胸へ突き刺さった。
一人の天使が、槍を握る手を震わせながら後退した。
「試作……だと」
掠れた声だった。
「これほどの魔法が……まだ完成していないというのか」
レイコは静かに首を傾げる。
「ええ。魔法というものは、一度成功しただけでは完成とは言えないもの」
その口調は、どこまでも穏やかだった。
「威力。効率。魔力消費。術者への負担。安定性。再現性。 確認しなければならないことは、まだまだ沢山あるわ」
そう言って、自分の指先へ視線を落とす。
「それに、最初の一体を崩壊させるまで少し時間が掛かってしまったもの。広域展開では、追尾速度にもばらつきが出た。あと少し術式を組み替えれば、もっと短縮出来ると思うの」
天使達の顔から血の気が引いていく。
数秒で、跡形もなく消滅させる魔法。
それを、少し時間が掛かったと評価している。
「あり得ない……」
誰かが呟いた。
「そんな発想をする人間が……いるものか」
レイコは不思議そうに瞬きをした。
「そうかしら? 戦場では、一秒が生死を分けるでしょう?三秒掛かるなら一秒にしたい。一秒なら、もっと短く出来る方法を探したくなるもの」
それは当然のことを話す口調だった。
クロエは大きくため息を吐く。
「……ほらね。こういうところなのよ」
レイコが首を傾げる。
「何が?」
「だから、その感覚が普通じゃないの」
クロエは呆れたように肩を竦めた。
「普通の魔術師は、新しい魔法を完成させたら喜ぶの。改良案なんて、その後でゆっくり考えるものよ」
レイコは少しだけ考え込む。
「でも、改善点が見えているなら、忘れないうちに直したいでしょう?」
「でしょう、じゃないのよ……」
クロエは額を押さえる。
「だから姉さんは怖いの。敵より先に、自分の魔法の改善点を見つけてるんだから」
レイコは困ったように微笑んだ。
「癖みたいなものね」
その何気ない一言に、天使達は、誰一人として声を発することが出来なかった。
目の前にいるのは、戦いを楽しむ戦士ではない。
敵を憎む復讐者でもない。
未知の理論を完成させることだけを考え、その成果を冷静に分析し続ける研究者。
だからこそ、その存在は、どんな狂戦士よりも恐ろしく映った。
◆
誰一人として前へ出ようとしなかった。
槍を握る手は震え、翼は恐怖に強張っている。
先程まで街を蹂躙していた天使達の姿は、もうどこにもなかった。
「どうしたの?」
レイコは静かに首を傾げる。
「来ないの?」
本当に不思議そうだった。
「さっきまでは、あんなに勢いよく襲ってきていたじゃない」
その一言で、天使達は思わず一歩後退する。
挑発ではない。
煽っている訳でもない。
本当に疑問に思っているだけだ。
だからこそ、不気味だった。
「……化け物」
誰かが小さく呟く。
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
しかし、静まり返った戦場では、はっきりと響いた。
レイコはきょとんと目を瞬かせる。
「化け物?……ええ!?」
自分を指差す。
「私のこと?」
返事はない。
返せない。
代わりに、一人の天使が震える声で叫んだ。
「違う!人間が……!こんな魔法を作れるはずがない!一度に、あれだけの数を消せるはずがない!こんなのは、人間じゃない!」
レイコはその言葉を静かに聞いていた。
そして、小さく微笑む。
「いいえ」
穏やかな声だった。
「私は人間よ。貴方達と違って、翼もないでしょう?」
そう言って、自分の背中を軽く叩く。
「ごく普通の、人間の魔術師」
その言葉に、クロエが小さく吹き出した。
「普通、ねぇ……」
思わず漏れた本音だった。
レイコが振り返る。
「何かしら?」
「いや」
クロエは苦笑しながら首を振る。
「普通の人間は、戦場で新しい魔法を完成させたりしないわ」
六体の魔獣達も、揃って何度も頷く。
「普通ジャナイ」
「全然普通ジャナイ」
「主モ同ジ事ヲ言ウト思ウ」
レイコは少し困ったように笑った。
「そう言われても困るわ。出来たものは出来たのだもの」
その何気ない一言に、天使達は、再び言葉を失う。
努力した。
研究した。
考え続けた。
その積み重ねを、本人は当たり前のこととして受け止めている。
だからこそ、目の前の人間は、理解出来ない。
理解出来ないからこそ。
恐ろしかった。
◆
天使達の隊列は、完全に崩れていた。
先程まで整然と並んでいた陣形は消え失せ、生き残った者達が互いの顔を見合わせるだけになっている。
「ど、どうする……」
一人が震える声で呟く。
「このまま戦うのか……?」
「無理だ……」
別の天使が力なく首を振る。
「あの魔法がある限り、近付くことすら出来ない」
「我々の加護が通じない以上……」
「勝てる道理がない」
「既に、七割が……」
その言葉は最後まで続かなかった。
誰もが同じ結論へ辿り着いていたからだ。
その時、一人の天使が思い切ったように叫ぶ。
「一度退くべきだ!クラディウス様へ報告する!この人間は危険だ!」
その提案に、数人の天使が頷きかける。
しかし。
「待て!」
別の天使が鋭く叫んだ。
「勝手に退けば、命令違反になる! 我々は反逆者を探せと命じられている! ここで退けば……!」
言葉は途中で止まった。
続きを口に出来なかった。
その命令を守ろうとしても、目の前の人間を突破する方法が、誰一人思い付かなかったからだ。
重苦しい沈黙が流れる。
その様子を見ていたレイコは、小さく首を傾げた。
「相談は終わったかしら?」
穏やかな声だった。
天使達が、びくりと肩を震わせる。
「もし続けるなら……」
レイコは静かに黒い炎へ視線を落とす。
「私は構わないわ」
その言葉に悪意はない。
脅している訳でもない。
本当に、相手の判断を待っているだけだった。
だからこそ、天使達の背筋を、冷たいものが走る。
レイコは黒い炎を見つめながら、小さく独り言を漏らした。
「今度は、少し術式を変えてみようかしら。崩壊速度を優先するか。それとも魔力消費を抑える方向で試すか……」
考え込むように顎へ手を添える。
「広域展開の精度も、もう少し確認したいし……」
その独り言を聞いた天使達の顔色が、一斉に青ざめた。
この人間は、まだ終わっていない。
まだ、自分達で実験を続けるつもりなのだ。
その事実が、どんな攻撃よりも恐ろしく感じられた。
◆
一人の天使が、ゆっくりと後ろへ下がった。
それを合図にしたかのように、他の天使達も一歩、また一歩と距離を取る。
もう誰も武器を構えようとしなかった。
その様子を見て、レイコは小さく首を傾げる。
「帰るの?」
その問いに、天使達は身体を強張らせる。
誰も答えない。
答えられない。
レイコは困ったように微笑んだ。
「そう。それなら仕方ないわね」
あっさりとした返事だった。
その反応に、天使達は逆に戸惑う。
「……追わないのか?」
一人の天使が思わず口にした。
レイコは不思議そうに瞬きをする。
「どうして?」
「え……?」
「私の目的は街の人達を守ることよ。貴方達を殺すことじゃないもの」
その言葉に、天使達は言葉を失った。
確かにそうだ。
この人間は最初から一度も、自分達への憎しみを口にしていない。
必要だから戦った。
必要だから魔法を作った。
ただ、それだけだった。
レイコは静かに続ける。
「もちろん、また街を襲うなら、その時は止めるわ」
穏やかな口調のまま、黒い炎へ視線を向ける。
「その頃には、もう少し改良も終わっていると思うし」
天使達の表情が引きつる。
改良後。
その言葉だけで、全身に悪寒が走った。
「……行くぞ」
一人の天使が低く呟く。
「これ以上、この場にいるのは危険だ」
誰も反論しない。
ゆっくりと翼を広げ、一人、また一人と空へ舞い上がっていく。
もう隊列はない。
整然とした軍勢でもない。
ただ、生き延びるためにその場を離れていくだけだった。
その背中を、レイコは静かに見送る。
「クラディウスさんにも伝えておいて頂戴」
天使達の動きが止まる。
レイコは穏やかに微笑んだ。
「人間は、考えることをやめない生き物なの。今日出来なかったことも、明日には出来るようになるかもしれない。だから……」
一拍置き、静かな声で続ける。
「次に戦う時は、『人間だから』と侮らない方がいいわ」
その言葉を最後に、天使達は何も言い返さなかった。
ただ黙って翼を翻し、空の彼方へ飛び去っていく。
戦場には、ようやく静寂が戻り始めていた。
◆
天使達の姿が、空の彼方へ消えていく。戦場を覆っていた緊張が、ようやく少しだけ和らいだ。
レイコは静かに息を吐く。
「……終わったわね」
そう呟くと、頭上に展開されていた漆黒の魔法陣が、静かに光を失っていく。
黒い炎もまた、小さく揺らめいたあと、音もなく消え去った。
その様子を見届けると、レイコは軽く肩を回す。
「やっぱり少し疲れるわね。術式を一から組み上げながら戦うのは……」
クロエは思わず眉をひそめた。
「当たり前でしょう……そんなこと普通はやらないのよ」
レイコは苦笑する。
「そうかしら」
「そうよ」
即答だった。
しばらく沈黙が流れる。
クロエはゆっくりとヴァルキュリアへ視線を向けた。
全身が傷だらけだった。
もしレイコ達が来ていなければ、もし、あの魔法が完成していなければ、ここで敗れていたのは、自分だった。
その事実だけは認めざるを得ない。
「……」
小さく息を吐く。
言いたくない。
本当に言いたくない。
だが。
それでも。
「……助かったわ」
絞り出すような声だった。
「今回だけ、礼を言ってあげる」
レイコは優しく微笑んだ。
「どういたしまして」
それだけだった。
恩着せがましくもない。
勝ち誇ることもない。
その自然な返事が、クロエには少しだけ腹立たしかった。
「……本当に」
クロエは視線を逸らしながら呟く。
「昔からそういうところ、変わらないわね」
「そう?」
「ええ。気に入らないくらいに」
レイコは困ったように笑う。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「違う」
クロエは即座に否定する。
「全然違う」
そのやり取りを見ていた六体の魔獣達が、思わず笑い声を漏らした。
「仲ガ良イナ」
ヘル・ケルベロスが三つの頭で笑う。
「全然良クナイ」
レイコは空を見上げる。
遠くでは、まだエレンが戦っている。
銀髪を風になびかせ、紫色の瞳で天使達を見据えながら。
「エレンちゃん」
小さく微笑む。
「教えてくれてありがとう。おかげで、人間でもここまで辿り着けたわ」
その声は風に乗って空へ消えていった。
誰にも届かない独り言。
けれど、その感謝だけは、本物だった。
クロエはヴァルキュリアへ目を向ける。
「行くわよ」
ヴァルキュリアは無言で頷き、クロエの後ろへ立つ。
クロエはそのまま歩き出した。
「クロエ」
レイコが静かに呼び止める。
クロエの足が止まる。
だが、振り返らない。
「何」
その声は冷たかった。
「怪我は――」
「余計なお世話よ」
最後まで聞こうともしない。
鋭く言葉を切り捨てる。
数秒の沈黙。
やがてクロエは低い声で言った。
「勘違いしないで。今回は神器を守るために手を組んだだけ。あんたと協力したかった訳じゃない。もちろん、次に会えば敵同士。その時は迷わず殺す」
レイコも表情を変えない。
「ええ。その時は私も全力で止めるわ」
互いに一歩も譲らない。
姉妹である以前に、思想の違う敵同士だった。
クロエは鼻を鳴らす。
「それと……」
少しだけ肩越しに顔を向ける。
「さっきの魔法。ヴァルキュリアには効かないから」
冷たい目でレイコを見据えた。
「あんまり調子に乗らないでよ」
吐き捨てるように言い放つ。
レイコもその視線を真っ直ぐ受け止めた。
「そう。それなら、次に会う時までに考えておくわ……ヴァルキュリアにも通用する魔法を」
一瞬、空気が凍り付く。
クロエは睨み返したまま、小さく舌打ちした。
「……七十階層で待つ。そこで、決着をつけてやる……やっぱり気に入らない」
そう言い残すと、ヴァルキュリアを従え、その場を後にした。
レイコも追い掛けることはしない。
ただ黙って、その背中が見えなくなるまで見送るだけだった。
◆
クロエとヴァルキュリアの姿が見えなくなる。
レイコは静かに空を見上げた。
遥か彼方。
銀髪を風になびかせながら、一人の少女が今もなお戦い続けている。
紫色の瞳で敵を見据え、その手には黒い剣。
どれほど離れていても、見間違えるはずがない。
エレンだった。
レイコは小さく微笑む。
「ありがとう、エレンちゃん」
静かな声だった。
「おかげで、一歩前へ進めたわ」
エレンが地獄の魔法を教えてくれなければ、この術式は生まれなかった。
もちろん、そのまま使えた訳ではない。
人間には扱えない魔法だった。
だから考えた。
観察した。
分解した。
組み直した。
そして、人間の理論だけで再構築した。
その結果が、今日という答えだった。
レイコはゆっくりと踵を返す。
街にはまだ、助けを必要としている人々が残っている。
泣いている子どももいる。
傷付いた人もいる。
崩れた家屋の下で救助を待つ人もいるだろう。
やるべきことは、まだ終わっていない。
「さて……」
穏やかに呟く。
「研究は一旦ここまで」
一歩、前へ踏み出す。
「今は、目の前で救える命を救いましょう」
そう言うと、レイコは迷うことなく街の中へ駆け出した。
その背中には、世界で初めて天使を倒す魔法を生み出した天才魔術師の姿ではなく――。
一人でも多くの命を救おうと走る、一人の人間の姿だけがあった。




