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明日の新聞  作者: ぽむぽむ


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9/10

第9章 午前4時3分

午前3時59分。

亮は腕時計を見て、窓の中の美咲へ目を戻した。霧のため顔色はわからない。首が、ごくわずかに動いた。彼女がまだ自分の意志で動けるという事実に、膝の力が抜けそうになった。

生きている。

日誌を持つ手に力が入った。沢渡の視線は、ずっとその指に向けられていた。美咲は、男にとってもう人間ではなく、交換を成立させるための重しに過ぎなかった。

「コピーは」

沢渡が尋ねた。

「ある」

亮は答えた。

沢渡の口元から笑いが消えた。

「全部、渡してもらいます」

「ここにはない。俺が戻らなければ、複数の場所へ送られる」。嘘にならない範囲で告げた。早瀬が原本と写しを区別し、公開の可否を確認する手順を組んでいる。

言った瞬間、亮は自分の言葉が妻を危険にさらしたかもしれないと思った。けれど、日誌を渡せば助けてもらえると信じることは、もうできなかった。

沢渡はしばらく亮を見た。

「新聞社は、君のために動きますかね」

「俺のためじゃない」

亮は日誌を持ち直した。

「この記事のために動く」

早瀬に託した原稿は、亮自身の弁明ではない。資料を照合し、本人の言葉さえ疑い、裏づけが取れた部分だけを外へ出すための仕事だ。後輩なら、その仕事をやる。そう信じられたことが、かつての亮との決定的な違いだった。

3年前、自分がやらなかったことを、誰かがやってくれる。その可能性を、亮は初めて、他人に預けていた。

*

霧のたまった東町踏切。赤い警告灯はまだ点いていない。線路を跨いで停められた黒いセダンだけが、時刻の進み方を知っているように動かなかった。

助手席の美咲は身動きができず、車外には沢渡がいる。靴のつま先は踏切の外側を向いていた。逃げ道を残しているのだ、と亮は思った。

亮は日誌を胸の高さへ掲げた。これを渡しても、美咲を返してもらえる保証はない。それでも手ぶらで来るわけにはいかなかった。

「こちらへ。線路の上まで」と沢渡が言った。

亮は線路へ踏み入った。砂利が革靴の下で鳴った。後ろの道路へ戻れる距離が、一歩ずつ長くなっていく。

沢渡は日誌を受け取り、懐中電灯で照らしてめくった。夜勤の人員、引き継ぎ、体調の変化。ひとりの施設長が毎晩残した細かな文字に、男の指が苛立つように滑っていった。

「……3年探して、まさか新聞記者の押し入れにあったとはね」

「美咲を降ろせ」

「まだですよ」

沢渡は上着の内ポケットから、折り畳んだ紙を二枚取り出す。

亮の死亡記事。美咲の死亡記事。どちらも、あの紙。

「届いていた死亡記事は、どれもよくできていた」。沢渡は折り畳んだ紙を広げた。「だが、あなたと奥さんのどちらか一方というのは、私の結末じゃない」

「……」

「正しい記事を教えましょう。『誤報を悔やんだ記者、妻と踏切で心中』。動機まで用意してある。読む人は、細部なんか確かめませんよ。あなたが一番よく知っている」

「美咲は関係ない」

「関係ない人間ほど、よく読まれるんです。近くにいた、それだけで」。沢渡は助手席を見た。「あなたの新聞も、そうだったでしょう」

亮は拳を握る。

「美咲!」

美咲が窓の向こうで顔を上げた。唇が動く。聞こえない声だった。亮は身を乗り出しかけ、沢渡の靴が一歩前へ出たことで止まった。

沢渡は運転席側に回り、ドアを開けて亮を促す。

「どうぞ。運転席へ。奥さんの隣です」

「断ったら」

「断れる立場だと思いますか」と沢渡が言った。

沢渡は霧の向こうへ顎をしゃくる。

「やれ」

*

午前4時1分。踏切脇の濃い霧が、人の形に分かれた。

フードの人物が歩いてくる。自転車のベルは鳴らない。いつもの配達の足取りでもなかった。

右手に刃物があった。先端が揺れるのは、持ち主が震えているからだった。

亮はその姿を見る。毎朝、明日の新聞を届けてきた、その背格好。

「……君だったのか」

フードの人物は、答えない。亮の正面まで歩いてくる。

刃先が胸の高さまで上がった。フードの奥で、若い男が何度も息を呑む音がした。

亮は逃げなかった。逃げられなかった。目の前の相手にも、自分の書いた記事に閉じ込めた人生があるのではないかと思った。

「俺を恨んでいるなら、聞く」。亮は言った。「でも、俺を刺したあとで、美咲を助けるという約束は、あの男には守れない」

沈黙。

フードの奥の目が、亮を見ている。

「何をしている。親父の仇だろう!」。沢渡の声は、間もなく来る列車の音に勝とうとしていた。

フードの内側で、男の目が沢渡と亮のあいだを行き来した。切っ先は、まだどちらにも向けられなかった。

カン、カン、カン。警報が鳴った。

遮断棒が降り始めた。午前4時2分。レールの遠くに、一点の白い光が浮かんだ。

若い男が突然、刃先を自分の足元へ落とすように体を翻した。

肩から沢渡にぶつかった。二人の靴が濡れた砂利を蹴り、車体に鈍い音が伝わる。

「……貴様!」

もつれ合って倒れたはずみに、沢渡の手から日誌が飛んだ。夜勤記録のページが開き、風にあおられた。

沢渡も刃物を抜いた。若い男の左腕に血が走る。男は叫ばず、右手をさらに伸ばした。

沢渡の上着から鍵を引き抜いた男が、亮へ投げた。小さな金属は、車体を叩いてから亮の足元へ落ちた。

「開けろ!」。若い声が霧を裂いた。

初めて聞く、若い男の声。

亮は鍵を拾った。鉄の冷たさが、掌へ食い込んだ。

電子音が一度鳴った。助手席の扉を開くと、美咲の足は座席の下へ引かれ、手首は後部の金具に固定されていた。

結束バンドだった。一本でなく、手首と足首に何重にも巻かれている。車内には、汗と古い芳香剤の匂いがこもっていた。

「美咲!」

「……亮……」と美咲が言った。

レールの向こうから貨物列車のライトが迫ってきた。夜明け前の霧が、正面だけ白く燃え上がる。

長い警笛が鳴った。運転士はもう異常を見つけている。だが、この距離では列車は止まれない。

亮は手首のバンドを引いた。指の皮膚が滑るだけで、切れなかった。

「くそっ……!」

窓の外から刃物が転がり込んだ。若い男が、自分の持っていたナイフを投げたのだ。

亮は刃を自分へ向け、バンドをひとつずつ切った。美咲の皮膚を傷つけないように刃先をずらす、その僅かな動作にも時間が要った。

足首に、最後の一本が残っている。二人の呼吸が重なった。

ヘッドライトの白さが窓を満たす。美咲が「もういい」と言いかけたのを、亮は聞かなかったことにしなかった。首を横に振り、最後のバンドを切った。

亮は美咲を抱えるというより、二人で互いを押した。車の縁に肩を打ちつけながら、外の砂利へ崩れ落ちる。

線路脇の低い斜面を転がった。草の中で美咲の手をつかみ、車輪の届く範囲からさらに身を引いた。

午前4時3分。

列車の警笛が、言葉を残らず消した。

貨物列車の先頭がセダンを捉えた。鋼鉄の塊が車体を押しつぶし、割れた窓の向こうへ火花と破片が散った。急制動の軋みは、それより遅れて斜面へ届いた。

玻璃が砕け、鉄が裂ける音がした。亮は耳を塞がなかった。塞ぐための手は、美咲を押さえていた。

*

砂利と枯れ草の中で、亮は妻の呼吸を探した。自分の心臓の音がうるさくて、最初は何も聞こえなかった。

貨車が頭上を軋みながら過ぎた。車輪の響きが遠ざかるまで、二人は斜面に伏せていた。

「……亮」

「生きてる」。亮は誰にともなく言った。「美咲、ここにいる。俺もいる」

美咲は亮の胸に顔を埋めて泣く。

衝突のあと、列車は長い制動音を残して停止した。町の音が戻り始める。住宅の窓が開き、遠くで犬が鳴いた。

亮は顔を上げる。線路の反対側。

沢渡が、砂利の上に倒れてうめいている。左足が、あらぬ方向に曲がっている。

フードの男はいなかった。白くなった砂利の上に血の滴だけが、不揃いの間隔で続いていた。

線路の上に、点々と、血の跡だけが続いている。

*

宮内は踏切へ向かう車の中で、何度も現在地を確かめた。桐生から届いた連絡は短かった。必要な情報は入っていたが、声の奥に余裕がなかった。

道路の角を曲がると、赤い光が見えた。遮断機が下りている。車が止まっている。人が動いている。宮内は、目に入ったものを、順番に言葉へした。頭の中で結論を先に作ると、見落とす。

現場へ着くと、桐生が指示を出した。宮内は、沢渡の動きから目を離さなかった。何を持っているか。誰に近づこうとしているか。自分が見ていない方向を、別の警察官へ伝えた。

あとで報告を書くとき、宮内は自分が見たことと、桐生から聞いたことを分けた。現場にいたから、全部を知っているわけではない。列車の音で聞こえなかった言葉もある。暗くて見えなかった手元もある。

沢渡が押さえられたあと、宮内は線路のほうを見た。3年前、自分は現場へ着いたあと、すでに起きたことを調べた。今朝は、起きている途中に来た。その違いが、体の中に残っていた。

人が生きている。話を聞ける。何があったかを、本人が答えられる。

その当たり前の条件が、どれほど大きいかを、宮内は初めて実感した。

桐生が、負傷者の確認へ向かった。宮内はその背中を見た。自分の上司は、いつも正しいわけではない。3年前、間違いを止められなかった。だが、いま、その間違いの前へ戻ってきた。

宮内は手帳を開き、時刻を書いた。自分がここで何をしたかを、あとから誰かが確かめられるように。今朝の記録を、次の誰かの空白にしないために。

*

午前4時5分。東町踏切。

午前4時5分。宮内が呼んだ応援と救急のサイレンが近づいた。桐生たちは手前の道路から踏切の非常通報に入り、列車の停止を要請していたが、車体が線路を塞いでからでは制動距離が足りなかった。今は生きている人間を数え、傷を見て、残された証拠を守るしかなかった。

桐生は倒れた沢渡に馬乗りになり、手錠をかける。

「沢渡圭吾。殺人未遂の現行犯で逮捕する」と桐生が言った。

沢渡はうめきながら笑う。

桐生は亮と美咲の方を振り返る。

「無事か!」

「……なんとか」

桐生はジャケットの内ポケットから、一枚の紙を取り出して亮に見せる。

北陵日報 11月11日

元県議秘書を殺人未遂容疑で逮捕 東町踏切 記者夫妻の救出へ

「午前三時ごろ、車のワイパーに挟んであった。踏切から二百メートル離れた、俺たちの待機場所にだ。誰かが、そこまで来ていた」

亮は紙を見つめる。

「最後の紙は死亡記事じゃなかった」。桐生は折り目をなぞった。「俺たちを現場へ来させるための紙だ。だが、記事が実現するのを待ったんじゃない。車が線路へ入った時点で、連絡と救助の準備を始めた」

亮は血の跡が続く線路の先を見る。

*

手錠をかけられた沢渡が押し込まれている。

亮が、開いたドアの前に立つ。

「あの配達人は、誰だ」

沢渡は口の端の血を舐めて笑う。

「配達人? ああ、あいつか。……あいつは、俺が拾ったんだよ。二か月前にな」

「……」

「お前を殺したいって、墓の前で泣いてたガキだ。だから、手伝わせてやった。毎朝新聞を配るついでに、リストの連中の暮らしぶりを、全部調べさせた。何時に家を出て、どの道を通って、何時に寝るか。……そうか。全部、お前にも配ってたのか。俺のスケジュールを」と沢渡が言った。

沢渡はくつくつと笑う。

「恩を仇で返されたな。お互いに」

桐生が、ドアを閉める。

*

救急車の扉が閉まると、列車の音が急に遠くなった。美咲の手首には結束バンドの赤い跡が残っていた。亮は見ないようにし、見まいとする自分の動きに気づいた。

見たくないものから目をそらす。その動作を、これから何度もやめなければならないのだろう。

「痛いか」

美咲は少し考えてから、うなずいた。

「痛い」

亮はよかったと言いそうになって、飲み込んだ。生きているから痛い。それは亮の側の感想で、美咲の痛みを軽くする言葉ではない。

「先生に言おう」

美咲は亮の指を握った。

「私、あの人の話を聞いてた」

「沢渡の?」

「うん。何か覚えて帰らなきゃと思って。でも、途中から、あなたが来たらどうしようって、そればかり考えてた」

亮は妻の手を握り返した。

「来てほしかった。でも、来てほしくなかった」

美咲は目を閉じた。

「そういうの、どっちも本当なんだね」

亮はうなずいた。

人の気持ちは、きれいな一行の見出しには収まらない。憎みながら助けることも、信じながら怖れることもある。美咲がいま言った二つの願いは、どちらかが嘘なのではなかった。

それを一つの理由にまとめてしまうと、人のしたことが、別の話になる。

葛西は悩んでいた。だから自殺した。

亮はその短い筋道を、もう一度、頭の中で断ち切った。

病院へ向かう車の窓に、夜明けの色が差した。亮は美咲の手を離さなかった。

*

北陵総合病院の処置室。

手首に包帯を巻かれた美咲。ベッドの脇に亮。

同僚の村瀬が、涙ぐみながら毛布をかける。

「看護師が患者側に回ってどうするのよ」

「……ごめん」

村瀬が出ていく。

二人きり。

「沢渡が、自分で葛西さんを殺したって言った。飲み物に何かを入れたあと、あの貨物列車が来るのを待ったって」。美咲は言葉を区切った。「私が聞いたのは、そこまで。証拠があるかはわからない」

亮は目を閉じる。

「それから……あのフードの子。やすらぎの丘で、私、あの子の手を見たの」

「手?」

「指先が、黒かった。インクか何かで。……どこかで見た手なの。病院で、私、あの手を見たことがある。ずっと考えてるのに、思い出せない」

*

病院へ着くと、美咲は亮と別の場所へ案内された。二人とも無事なのだから一緒でよいのではないかと、亮は一瞬思った。だが、職員に、まずそれぞれの状態を確認しますと言われ、うなずいた。

待っているあいだ、亮は自分の服を見た。袖が裂け、泥がついていた。何かを掴んだ感覚が、手の中に残っている。美咲の腕。車の扉。誰かの上着。順番を思い出そうとすると、踏切の音が頭の中で大きくなった。

桐生が来た。亮の前に座り、いま話せるかと尋ねた。

「話せます」

「無理なら、あとにする」

「覚えているうちに」

亮は腕時計を見た時刻から話した。記事に書かれていた時刻を、見た時刻と混ぜない。鍵の落ちた位置は思い出せたが、そのあと何秒経ったかは答えられなかった。桐生は、覚えていないと書く、と言った。

途中で、鍵を受け取った順番がわからなくなった。桐生は、そのままでよいと言った。

「俺の記憶と違うかもしれません」

「違っていていい。あとで記録と照らす。最初から合わせるな」

亮はうなずいた。取材でも、複数の証言が一致すると安心した。だが、互いの話を聞いて揃えた記憶なら、独立した裏づけにはならない。

「美咲の話は、俺が聞かないほうがいいんですね」

「いまは、本人が話したいことを聞けばいい。事件の細部を、お前の記憶に合わせようとするな」

亮はその言葉を覚えた。妻を守りたいと思うほど、何があったか知りたくなる。だが、聞かれるたびに、妻はそこへ戻ることになる。

桐生が立ち上がったあと、亮は携帯電話を見た。早瀬から連絡が来ていた。無事ですか。返事は短くていいです。亮は、二人とも生きている、と打った。

送信してから、画面を伏せた。生きている。それだけでは、何もかもが元へ戻るわけではない。それでも、その言葉を誰かへ送れる朝が来た。

美咲が戻ってきたとき、亮は立ち上がった。抱き締めようとして、手を止めた。触れてよいか、わからなかった。

美咲はその手を自分から取った。

「座ろう」

二人は並んで座った。亮は何度も謝りそうになった。謝れば、美咲は大丈夫と言わなければならなくなるかもしれない。だから、言葉を選んだ。

「怖かったな」

美咲はうなずいた。

「怖かった」

美咲の返事を聞いた亮はようやく彼女の恐怖を自分の後悔で覆わずに済んだ気がした。二人は、しばらくそれ以上何も言わなかった。

*

県警本部の取調室。

宇佐見が、桐生の前に座っている。背広を脱ぎ、ネクタイを外している。

「三年前の資料を沢渡から受け取ったのは私です。真柴の知らないところで何を約束したか、全部話します。息子のことも」。宇佐見の声には、もう部下を叱る余裕がなかった。

「記者を辞めるんですか」

「もう、辞めました。今朝、辞表を出してきた」

宇佐見は窓の外を見る。

「真柴に伝えてください」。宇佐見は机の傷を見ながら言った。「俺について書くなら、肩書を伏せないでくれ。自分で引き受ける」

*

県警本部の廊下。

桐生と宮内。

「久我俊之、任意の聴取に応じるそうです。知事選からは、正式に撤退」と宮内が言った。

「沢渡は」

「黙秘です。葛西殺しについても、今回のことも。殺人未遂は現行犯ですけど、3年前の件は……奥さんの証言だけだと、弁護士にひっくり返されるかもしれません」

「もう一人、証人がいる」

「あの配達人ですか」と宮内が言った。

「沢渡のすぐそばで、二か月間、全部を見てきた人間だ」

*

沢渡の供述が届く前に、桐生は権藤の部屋へ呼ばれた。宮内も同席した。机の上には、3年前の事件の記録があった。

権藤は、当時の判断には相応の根拠があったと言った。桐生は、それを否定するために来たのではないと答えた。どの根拠を重く見て、どの情報を採らなかったか、記録で確かめたい。

「結果を知ってからなら、何とでも言える」

権藤の声は硬かった。

「そうです。だから、当時の記録を見ています」

桐生は宮内の手帳の写しを置いた。原本を保全した経緯も添えた。家族が、翌日に県へ行く予定だったと話していた。その情報が、判断の過程でどう扱われたのか。

権藤は紙を見た。

「家族は、受け入れられないものだ」

「受け入れられないことと、事実を話していないことは違います」

宮内が言った。自分でも驚くほど、声が出た。

権藤は宮内を見た。桐生は口を挟まなかった。宮内は続けた。

「俺は当時、その言葉を聞きました。ですが、家族は納得していない、というまとめ方をしました。俺の報告にも問題があります。そこも調べてください」

部屋が静かになった。

桐生は宮内を守るために発言を引き取らなかった。本人が自分の責任を話している。その言葉を、上司の自分が奪ってはいけなかった。

権藤は、再検証の手続きを確認すると言った。桐生は、口頭だけでなく、申し入れを文書で残すと答えた。対立したという事実を、正義の証明にする気はなかった。何がどう動いたか、あとから追えるようにする。それだけだった。

部屋を出ると、宮内が長く息を吐いた。

「言ってしまいました」

「言ったな」

「大丈夫ですかね」

桐生は歩きながら答えた。

「大丈夫かどうかは、俺には決められん。だが、何を言ったかは残る」

宮内はうなずいた。廊下の窓から、朝の光が入っていた。3年前も同じ窓があった。変わったのは建物ではない。窓の前を通る自分が、見ないで済ませたものを、いま見ようとしている。それだけの変化を、宮内は小さく扱わないことにした。

*

三上が亮を待つあいだ、編集局には、ほかの仕事も届いていた。市議会の予算。道路の通行止め。週末の催し。事件が大きいからといって、町の1日が事件だけになるわけではない。

早瀬は通行止めの記事の地名を確認していた。電話口で何度も復唱し、地図と照らした。三上はその様子を見て、若いころの宇佐見を思い出した。細かい間違いを嫌う記者だった。地名を1字違えれば、別の町の人が困る。そう言って、原稿を戻した。

その宇佐見が、資料の出所を隠した。

三上は、一人の人間が変わったという話にすれば、自分の責任が軽くなることを知っていた。だが、掲載を決めたのは自分だった。宇佐見が保証し、亮が書いた。その先に、紙面へ載せる判断があった。

三年前の編集会議で何を聞き、何を聞かなかったか。資料の出所は。葛西の反論は。県の答えは。問いを出した記憶はある。だが返ってきた言葉の根拠を、一段奥まで確かめていない。亮は、会議室の椅子の軋みまで思い出した。

確認したという報告を、確認の代わりにした。

机の上の古い紙面には、三上の赤字が残っていた。見出しを短く。数字を前へ。施設長の肩書を入れる。読みやすくするための指示だった。読みやすくした結果、誰かを疑う文章が、さらに強く読まれるものになった。

三上は、会議用の紙に、自分の名前を書いた。検証の対象から編集局長を外さない。そう明記した。自分から言ったことで、誠実な人間に見られたい気持ちもあった。その気持ちがあることまで、否定しなかった。動機がきれいでなければ責任を取れないのなら、誰も何も始められない。

早瀬が部屋へ来た。亮が病院から向かっていると言った。三上はうなずいた。

「取材する側と、検証される側を分ける必要がある」

三上が言うと、早瀬は少し考えた。

「真柴さんの原稿を、真柴さんだけで確かめない、ということですか」

「そうだ。俺の説明も、俺だけで確かめない」

早瀬はうなずいた。三上は、その返事を、自分への信頼だと受け取らないようにした。いま必要なのは、信頼される上司の顔ではない。疑問を持った人間が、その疑問を止めずに済む仕組みだった。

廊下で足音がした。亮が来た。服は着替えていたが、歩き方が少し硬かった。三上は、まず座れと言った。亮は椅子の前で頭を下げた。

三上は、その頭が上がるのを待った。謝る姿を見て、話が終わった気になってはいけない。これから、何をしたかを聞かなければならなかった。

*

北陵日報の編集局長室。

編集局長の三上(60)が、亮の原稿を読み終えて、眼鏡を外す。早瀬が、入口で固唾を呑んで立っている。

「……いい原稿だ。自分の誤報を、自分の名前で、ここまで書く記者はいない」

「載せてください」

「載せる。ただし、葛西さんが殺されたという部分は、まだ書けない。沢渡は黙秘、当時の物証には限りがある。裏が取れない」と三上が言った。

「……」

「裏を取ってこい、真柴。3年前、お前に一番欠けていたものだ」

亮は深く頭を下げる。

*

亮が病院を出るころには、町は朝の仕事を始めていた。パンを運ぶ車が止まり、店の前で荷物が下ろされている。信号が変わると、人が一斉に歩き出した。誰も、亮の顔を見なかった。

それが、ありがたかった。

美咲は車の助手席で、窓の外を見ていた。亮はエンジンをかける前に、どこへ帰りたいか尋ねた。自宅でよいのか。実家へ行きたいのか。自分が当然だと思っている帰り先を、妻も同じように思っているとは限らなかった。

「家」

美咲は答えた。

「私たちの家へ、帰りたい」

亮はうなずいた。運転を始めると、美咲が、踏切を通らない道にして、と言った。亮は道を変えた。少し遠回りになったが、理由を説明する必要はなかった。

途中で、美咲が眠った。亮は音楽を消した。赤信号で止まるたび、隣の席へ目を向けた。呼吸している。肩が小さく動く。その動きを確かめてから、前を向いた。

家の近くの角を曲がると、いつもの電柱が見えた。何も変わっていないように見える道を、二人は変わってしまった体で戻ってきた。

亮は車を止めた。すぐには起こさなかった。美咲が自分で目を覚ますまで、隣で待った。今日は、待てることがあった。

*

事故の後片付けが終わった踏切。新しい砂利。

亮が一人、柱の根元に立っている。

萎れた菊の横に、まだ新しい、小さな血の染み。

亮は血の跡を目で辿る。線路脇の藪の中へ続いている。

亮は藪をかき分けて入っていく。

*

枯れ草の中に、一台の自転車が倒れている。

前カゴは歪み、ハンドルに乾いた血がこびりついている。

亮は自転車を起こす。

前カゴの泥除けに、色あせたステッカーが貼られている。

北陵日報 東町販売所 七

亮はそのステッカーを見つめる。

「指先が、黒かった。……どこかで見た手なの」

亮はゆっくりと顔を上げる。

夕暮れの踏切に、警報が鳴り始める。


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