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明日の新聞  作者: ぽむぽむ


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8/10

第8章 妻の名前

美咲の名前が載った紙は、亮のものと同じ重さだった。

同じ大きさ。同じ厚さ。同じように折り畳まれ、同じようにポストへ入れられていた。けれど手に持つと、腕の骨まで冷えるようだった。

自分が死ぬと書かれた朝、亮は怖かった。それでもまだ、怖がっている自分を外側から見る余裕があった。妻の名前を見た瞬間、その余裕はなくなった。

桐生が何かを言っている。聞こえるのに、意味が頭へ入ってこない。

「真柴。俺を見ろ」

桐生が亮の肩を掴んだ。

「いま確かめられていることだけ言う。美咲さんは病院前で車を降りた。呼び出した者は病院の職員ではなかった。携帯はつながらない。ここまでだ」。桐生は目をそらさなかった。「まだ、生死は確認できていない」

亮はうなずいた。

「この紙に書かれていることは、まだ事実じゃない」

桐生は1語ずつ区切った。

「お前は記者だろう。書いてあることと、起きたことを、混ぜるな」

亮は紙を握る手を緩めた。

まだ死んでいない。

希望は折れる。確認した事実にも限りがある。その小さな足場へ、亮は片足ずつ置くしかなかった。

亮は美咲の名前をもう一度読んだ。読み終えると、紙を机の上に置いた。

「何をすればいい」

桐生はすぐに答えた。

「奥さんが最後にいた場所を、確かめる」

*

午後9時35分。真柴家の玄関。

亮が床に落ちたスマホを拾い上げたところへ、桐生の車が戻ってくる。

桐生が飛び込んでくる。亮は、紙を突きつける。

桐生は読む。顔が強張る。

「……病棟の入口で降ろした。中に入るのを、俺は見てない」と桐生が言った。

「病院は、呼び出してないと言ってる」

桐生はすぐにスマホを取り出す。

「宮内。北陵総合の夜間通用口と正面玄関の記録映像の保全を依頼しろ。令状が必要なものは手配する。時間がないからこそ、手順を飛ばすな」

*

午後10時。北陵総合病院の警備室。

モニターの前に、宮内。録画映像を巻き戻している。

正面玄関。美咲が車から降りてくる。中へ入ろうとしたところで、病院職員の白衣を着た男に呼び止められる。

男が、職員通用口の方を指さす。美咲は、男についていく。

別のカメラ。職員駐車場。美咲と男が、黒いセダンに近づく。

後部座席のドアが開く。中から別の手が伸び、美咲を引き込む。

ドアが閉まる。セダンが走り去る。

宮内はナンバーを拡大する。

「……沢渡圭吾の、個人名義の車です」

*

午後10時10分。真柴家の居間。

亮のスマホが鳴る。画面には「美咲」。

「美咲!」と亮が言った。

「奥さんは無事ですよ、真柴さん。今のところは」

「……沢渡」

「午前4時3分。東町踏切。一人で来てください。葛西の日誌を持って」

「日誌なんて、俺は持ってない」

「宇佐見さんは、そうは言っていませんでしたよ。3年前、葛西は確かにあなた宛てに何かを送った。宇佐見さんは、あなたの家のポストにその封筒が入るのを、確かめてから私に教えてくれた。……ようやくね」

亮は言葉を失う。

「警察が一人でも見えたら、奥さんは、明日の新聞の通りになります。いや、新聞の通りというのは、なかなか面白い言い回しですね」

通話が切れる。

桐生は亮の顔を見る。

「日誌は」

「……知らない。俺は、本当に、何も……」と亮が言った。

*

午後10時。真柴家の寝室。

亮は押し入れの中身を全部引きずり出している。段ボール、古いアルバム、取材ノート。

「どこだ……どこにある……」

床に、美咲が書いた引っ越しのラベル。

亮・取材資料(さわらない)

亮はその箱を開ける。古い名刺の束。ボイスレコーダー。

その一番下に、未開封の茶封筒。

宛名は、几帳面な手書きの文字で「北陵日報 真柴亮様」。

差出人。

葛西誠一

消印は、3年前の11月9日。葛西が死ぬ、前の日。

亮の手が、震える。

*

3年前のことだった。

美咲(32)が、ポストから封筒を取り出す。差出人の名前を見て、表情が曇る。

居間で、やつれきった亮(35)がテレビの葛西の死亡ニュースを見ている。

「亮……これ、届いてた」

亮は差出人の名前を見る。顔から血の気が引く。

「……捨ててくれ」

「でも」と美咲が言った。

「頼む。開けたら、俺は、もう書けなくなる」

美咲は封筒を胸に抱いて、黙ってうなずく。

*

3年前のことだった。

美咲が一人、段ボールに封筒をそっと入れている。

捨てられないよ。……あなたが、いつか開けられる日が来るまで

美咲はラベルを貼る。「さわらない」。

*

現在の真柴家の寝室に、時間が戻った。

亮は3年間眠っていた封筒の封を切る。

中から、黒い表紙の大学ノート。USBメモリが一本。そして、便箋が三枚。

亮は便箋を開く。

「真柴亮様。突然のお手紙をお許しください。あなたが書いた記事は、読みました。あなたを責めるつもりは、ありません」

*

3年前のことだった。

蛍光灯の下、葛西が一人で手紙を書いている。

「あなたに渡された資料は、偽物です。夜勤の記録を書き換え、私の印鑑で指示書を作ったのは、事務長の沢渡です。人員を削ったのは久我理事長です。本当の記録と、私が一年間つけてきた日誌を、同封します」

葛西、ペンを止める。窓の外の闇を見る。

「それから、これは書くべきか迷いましたが、あなたには知る権利があると思います。偽物の資料を北陵日報に持ち込んだのは、匿名の誰かではありません。沢渡が宇佐見さんに資料を渡しているところを、私は見ました。あなたに渡った資料と同じものか、どうか確かめてください」

*

現在の真柴家の寝室に、時間が戻った。

亮は便箋を握りしめる。

「私は明日、県庁に告発に行くつもりです。もし私に何かあったら、この日誌を、あなたが書いてください。あなたは間違った記事を書いた。けれど、間違ったことを書いた記者にしか書けない記事が、きっとあります」

最後の便箋。

「真柴さん。私はあなたを恨んでいません。ただ、本当のことを書いてほしい。それだけです。 葛西誠一」

亮は便箋を胸に押し当て、声を殺して泣く。

桐生はドアの陰で、それを黙って見ている。

*

葛西の手紙を読み終えたあと、亮は便箋を元の順番に重ねられなかった。指が震えて、紙の角が揃わない。

3年間、誰かが真実を隠していた。亮はそう考えていた。宇佐見。沢渡。久我。警察の上層部。その中に自分を入れることだけは、避けていた。

けれど封筒は、ここにあった。

亮が眠り、着替え、休日に横になっていた部屋の、押し入れの中に。

受け取っていない、と柏木に言った。記憶の中では、本当にそうだった。封筒を見た瞬間の恐怖と、捨ててくれと言った自分の声を、亮は長い時間をかけて、起きなかったことに変えていた。

嘘をつくつもりがなければ、嘘ではないのか。

違う。亮は便箋を押さえた。少なくとも、記者がそれを言い訳にしてはいけない。

桐生が寝室の入口に立っていた。

「読めるか」

亮はうなずいた。

「いまのことも、俺は供述に残す。お前が封筒を受け取っていたことも、開けなかったことも」

「残してください」

桐生は短くうなずいた。

その態度に、亮は救われた。許してもらうには早すぎる。責められることに耐えている時間もない。事実として残す。その言葉だけが、いまの亮を次へ動かした。

日誌の最後のページには、入所者の名前が並んでいた。死んだ三人だけではなかった。夕方になると家へ帰りたがる人。甘いものを隠している人。孫の写真を毎日見せに来る人。

葛西は証拠を残すためだけに日誌をつけていたのではない。そこにいる人を、覚えておくために書いていた。

亮は日誌を閉じた。

この人を、自分は施設長という肩書だけで書いた。

その後悔を、美咲を助けるための道具にしてはいけない。日誌は妻と引き換えるためだけのものではない。葛西が託した言葉を、亮の家の押し入れから、ようやく外へ出さなければならなかった。

*

日誌の最初のページには、天気が書かれていた。晴れ。気温が下がった。朝、廊下の窓を閉めた。亮は、その書き出しを何度も読んだ。告発のための資料なら、もっと直接的に不正から始まると思っていた。

だが、葛西の1日は、窓を閉めることから始まっていた。

次のページには、入所者の食事の量が書かれていた。いつもより少ない。家族へ連絡。職員へ申し送り。その下に、夜勤の欠員についての記述があった。法人へ増員を要請。返答なし。

亮はページをめくった。返答なしという言葉が、何度も出てきた。返答がないことも、返答の一つだったのかもしれない。現場が何とかすれば、今日も施設は開く。葛西が夜に残れば、誰もいない時間は、書類の上ではなくなる。

日誌の中で、葛西は自分を英雄にしていなかった。疲れた。怒鳴ってしまった。職員に謝る。そんな記述もあった。入所者の家族へ連絡が遅れたことを、悔やんでいる日もあった。

亮はその弱さに胸を突かれた。3年前、自分は葛西の弱さを見つけるたび、不正をした人間のほころびだと思った。声が震えれば、追い詰められている証拠。言葉に詰まれば、隠している証拠。いま読む日誌には、追い詰められながら、それでも翌日の仕事を残そうとする人がいた。

途中のページに、小さな紙片が挟まっていた。買い物のメモだった。電池、テープ、白い靴下。施設で使うものなのか、家で頼まれたものなのか、わからなかった。裏には、別の筆跡で、帰りが遅くなるなら電話、とあった。

妻の字かもしれない。亮はそう思ったが、ノートには書かなかった。確かめられないことは、いまは確かめられないままにしておく。

日誌の後半になると、文章が短くなった。日付の横に時刻が増えた。誰が来たか。誰から電話があったか。話した内容の要点。記録の目的が変わっている。葛西は、自分の記憶だけでは足りないと気づいたのだろう。

その中に、真柴という名前があった。

北陵日報、真柴記者。説明。資料の確認を依頼。

亮は息を止めた。日誌の中の自分は、まだ、説明を聞く相手だった。敵でも、加害者でもなかった。葛西は、記者なら確かめてくれると思っていた。

次の日には、掲載内容、事実と異なる、とあった。

その下に、再度連絡。返答待ち。

亮は目を閉じた。電話が来た記憶はあった。締め切り前で、あとでかけ直すと言った。かけ直したのか。留守番電話を聞いたのか。自分の記憶だけでは、もう確かめられなかった。

桐生が向かいに座った。亮の顔を見て、読むのを代わろうかと尋ねた。

「読めます」

亮は答えた。だが、声が出なくなった。桐生は急かさず、水の入ったコップを置いた。

亮は水を飲んだ。喉が痛かった。泣くための時間をもらっているのではない。次のページを読むために、体を動かし直しているのだと思った。

最後のほうに、県へ持参する資料の一覧があった。写しを新聞社へ送付。万一のため、原本とは別に保管。葛西は、すべてを一人に預けたわけではなかった。それでも、新聞社へ送った写しは、亮の家で眠っていた。

自分が開けていれば、すべてが変わったとは言い切れない。だが、何かを変える機会を、自分が閉じたことは確かだった。

亮は日誌を閉じ、桐生へ渡した。

「俺の家にあったことを、隠さないでください」

「隠さん」

「美咲が保管したことは、俺が捨てろと言ったからです。あいつが隠したんじゃない」

桐生は亮を見た。

「それも、本人から聞く。お前が奥さんの分まで説明するな」

亮はうなずいた。妻を守るために、妻の言葉を先に決めてはいけない。美咲が帰ってきて、自分のしたことを自分で話せるようにする。そのために、いま動かなければならなかった。

*

午後11時。宇佐見の自宅の玄関。

古い一軒家。呼び鈴が何度も鳴る。

ドアを開けた宇佐見の胸ぐらを、亮が掴んで壁に押しつける。

「あんたが、渡したのか」

宇佐見は抵抗しない。

「3年前の封筒。匿名なんかじゃなかった。沢渡から受け取って、俺の机に置いた」

「……ああ」と宇佐見が言った。

「なぜだ!」

「息子がな。どこにも就職できなかった。久我の口利きで、県の外郭団体に入れてもらった。それと……部数だ。うちの新聞は、毎年何1000部も減ってた。でかいスクープが、どうしても欲しかった」

「それで、葛西さんを」

「人が死ぬなんて思わなかった! あいつらが人を殺すなんて、思わなかったんだ!」と宇佐見が言った。

「美咲が、さらわれた」

宇佐見は凍りつく。

「あんたが沢渡に教えたんだろう。葛西さんの封筒が、俺のところに届いたって」

宇佐見はずるずると壁を滑り落ちて座り込む。

「……駅の階段の次の日、沢渡に呼び出された。日誌の行方を言わなきゃ、次は本当に落とすと言われた。……言うつもりはなかった。だが、俺は……」

「『俺を信じるな』っていうのは、そういう意味か」と亮が言った。

「……すまん」

亮は手を離す。

「沢渡は、どこにいる」

「……やすらぎの丘だ。閉鎖されてから、あいつがずっと鍵を持ってる。あそこで、俺と会った」

*

閉鎖された『やすらぎの丘』の旧夜勤室。

埃をかぶったナースステーション。割れた蛍光灯。古い車椅子に、美咲が両手を結束バンドで縛られて座っている。

沢渡が、パイプ椅子に腰かけて、彼女を眺めている。

「……ここ、やすらぎの丘ね」と美咲が言った。

「さすが看護師さんだ。匂いでわかりますか」

「消毒液と、長く人がいた部屋の匂い」

沢渡はくすりと笑う。

「三人、ここで死んだのね。夜中に、ナースコールを押しても、誰も来なくて」

「人件費というのは、経営の中で一番削りやすいんですよ。数字の上ではね」と沢渡が言った。

「葛西さんは」

「あの人は、真面目すぎた。夜中に一人で見回りをして、記録をこっそりコピーして。……あの夜、午前3時50分に電話をかけた。『話がある。踏切まで来てくれ』と」

「……あなたが」

「あの人が飲んだ缶コーヒーには、細工がしてあった。いつも同じ銘柄だった。あとは、4時3分の貨物を待つだけです。貨物列車は音が大きい。叫んでも、誰にも聞こえない」と沢渡が言った。

美咲は沢渡を睨みつける。

「どうして、そんなことを、私に話すの」

「明日の新聞に、あなたの名前が載るからですよ」

旧夜勤室の入口に、フードの人物が立っている。

「来たか」

美咲はその人物を見る。暗くて、顔は見えない。

「紹介しましょう。この子は、ご主人を世界で一番恨んでいる人間です。今夜、ご主人に最後のお別れをする役目を、自分から買って出てくれた」と沢渡が言った。

フードの人物は、黙って立っている。

美咲はその人物の手元を見る。だらりと下がった右手。指先が、黒ずんでいる。

……この指

*

旧夜勤室には、まだ掲示物の跡が残っていた。美咲は壁を見ながら、どれほどの人がここで朝を待ったのだろうと思った。日勤へ引き継ぐまでの時間。電話が鳴らないことを祈りながら、同時に、必要ならすぐに気づかなければならない時間。

看護師の夜勤にも、似た静けさがある。だが、ここには人の気配がなかった。使われなくなった部屋は、物が残っていても、暮らしの音だけが抜け落ちる。

沢渡は携帯電話を見ていた。美咲のほうを見ない。見られないことが、怖かった。人質として必要なあいだだけ、生かされている。その必要がなくなれば、自分の名前も、年齢も、夫のいる家も、この男には関係がなくなる。

美咲は息を数えた。落ち着こうとするほど、呼吸が浅くなった。仕事で患者へかける言葉を、自分に言ってみた。ゆっくり。急がなくていい。だが、体は言うことを聞かなかった。

「寒いです」

美咲は言った。何かを求めることで、相手の中に、自分が生きている人間だと残したかった。

沢渡は顔を上げた。

「少しの辛抱です」

「毛布はありませんか」

沢渡は戸棚から古い毛布を出した。洗剤ではなく埃の匂いがした。美咲は肩へ掛け、冷えた手首をその中へ隠した。

「ありがとうございます」

美咲は言った。感謝しているわけではなかった。だが、礼を言う自分の声を聞くと、少しだけ、いつもの自分へ戻れた。

沢渡はまた携帯電話を見た。

「夫は、ここへ来るんですか」

「日誌を持ってくれば、あなたは帰れます」

美咲はその言葉を信じなかった。信じているように見せるべきなのか、考えた。だが、どんな顔をすればよいのか、わからなかった。

「夫は、日誌を持っていないと言っていました」

沢渡は小さく笑った。

「持っていないと思っているだけです。あの人は、見たくないものを見ないのがうまい」

美咲の胸に、押し入れの箱が浮かんだ。段ボールの側面の自分の字。捨ててくれと言われた封筒。

自分が覚えていなかったものを、この男は探していた。

美咲は顔を伏せた。思い出したことを悟られないようにした。亮が家へ戻れば、見つけられるだろうか。自分がいなければ、箱の位置もわからないかもしれない。

沢渡が電話をかけた。美咲には相手の声が聞こえなかった。だから言葉だけでなく、話した順番や沈黙の長さを覚えた。あとで伝えられるかもしれない。〈あとで〉という言葉を持っていなければ、今ここにいる自分が消えてしまいそうだった。

沢渡が窓へ近づいたとき、美咲は壁の跡をもう一度見た。四角い紙が貼られていたらしい、日焼けの差がある。かつて、そこに勤務表があったのかもしれない。誰かが毎日、自分の名前を確かめた場所。

美咲は夫の名前を心の中で呼んだ。助けて、ではなかった。来ないで、でもなかった。呼べば、自分のいる場所が、家とつながる気がした。

*

午前1時。北陵日報の社会部。

夜の社会部には、キーボードを叩く亮の音だけが響いていた。社外へ出すためではなく、まず自分の間違いを会社の記録へ戻すために、彼は書き続けていた。

画面の見出し。

3年前の本紙報道は誤りでした やすらぎの丘入所者死亡 元施設長は告発者だった

早瀬が、寝癖のまま駆け込んでくる。

「真柴さん! こんな時間に何ですか」

亮はUSBメモリと葛西の日誌のコピー、そして書きかけの原稿のデータを早瀬に押しつける。

「早瀬。4時半までに、俺から連絡がなかったら、これを編集局長に渡せ。デスクじゃない。局長だ」

「……何ですか、これ」

「3年前に、俺が書かなきゃいけなかった記事だ」と亮が言った。

「連絡がなかったらって……真柴さん、どこ行くんですか」

亮は答えずにジャケットを羽織る。

*

編集部で、早瀬は原稿の受け渡しの手順を確かめていた。亮が戻れなければ、自分が資料を引き継ぐ。言葉にすると、怖さがはっきりした。

「戻れなかったら、なんて、簡単に言わないでください」

早瀬が言うと、亮は顔を上げた。

「簡単に言ってるつもりはない」

「だったら、戻るための連絡も決めてください」

亮は黙った。自分が死んだあとの記事ばかりを考えていた。残された人間が、いつから自分を探せばよいのか、その手順を考えていなかった。

桐生が、連絡の窓口を自分にまとめると言った。早瀬は時刻と連絡先を確認した。資料の保管場所も、亮の端末だけにしない。誰がどの写しを持つかを、紙に残した。

三上は、掲載の判断は編集局で行うと明言した。亮の原稿を、そのまま載せる約束はしない。本人が戻れなくても、確認できないことは書かない。

亮はお願いしますと答えた。自分の最後の願いだからといって、原稿を無条件で正しいものにしてはいけない。その線を引かれたことが、いまはありがたかった。

早瀬は資料の束を受け取った。紙そのものは軽い。そこには三年前に届き、開けられなかった封筒と、それを開けないと決めた人間の時間が詰まっていた。

「真柴さん」

早瀬は言った。

「これ、戻ってきて、自分で説明してください。俺が代わりに、いい話にするのは嫌です」

亮は少し笑った。

「するな。いい話にしなくていい」

「だったら、戻ってきてください」

亮はわかったと答えた。絶対に戻るとは言わなかった。早瀬も、その約束を求めなかった。

亮が出ていくと、編集部の音が急に大きくなった。電話。キーボード。遠くで回る空調。早瀬は机へ戻り、資料の最初のページを開いた。

待つだけではない。受け取った仕事を、いま進める。亮が戻ってきたとき、ここから続きを始められるように。

*

午前2時。閉鎖された『やすらぎの丘』の正面。

懐中電灯を持った桐生と亮。割られた鍵。

*

閉鎖された『やすらぎの丘』の旧夜勤室。

誰もいない。

床に、切られた結束バンド。そして、美咲のヘアクリップ。

亮はそれを拾い上げる。

桐生は壁を照らす。古いホワイトボードに、夜勤の配置表がそのまま残っている。夜勤:一名。

その横に、マジックで新しく書かれた文字。

4時3分

「……先回りされた」

「最初から、踏切しかなかったんだ」

*

午前3時40分。東町踏切に向かう道。

冷たい霧。亮が一人で歩いている。手には、葛西の日誌の本物。

イヤホンから、桐生の声。

「俺と宮内は200メートル手前で待機してる。沢渡がお前の姿を確認したら、俺たちは動けない。合図はしなくていい。お前が奥さんを取り戻すまで、絶対に勝手に動くな」

「……桐生さん。もし俺が」と亮が言った。

「言うな。明日の新聞に、そんな記事は載せない」

亮は小さく笑う。イヤホンを外して、ポケットにしまう。

*

午前3時59分。東町踏切。

霧の中に、遮断機の輪郭。柱の根元に、萎れた菊。

亮は踏切の手前で立ち止まる。

線路の上。踏切のちょうど真ん中に、黒いセダンが停まっている。ヘッドライトは消えている。

助手席に、人影。美咲。動かない。

車の脇に、沢渡が立っている。

「時間通りですね、真柴さん。新聞記者の鑑だ」

「美咲を降ろせ」

「日誌が先です」

亮は日誌を掲げる。

沢渡は腕時計を見る。

「4時3分まで、あと4分」と沢渡が言った。

遠くで、かすかに、貨物列車の走行音が聞こえ始める。


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