第7章 真柴亮氏、死亡
堀田の訃報を聞いた翌朝、美咲は勤務を外れた。更衣室で制服を脱ぎ、袖を畳もうとしたが、左右の長さが揃わない。何度直しても、少しずつずれる。
明日、話す。
堀田はそう言った。美咲は、伝えますと答えた。その返事が、いまも耳に残っていた。伝えるだけでなく、その場で誰かを呼べばよかった。一人にしなければよかった。考えるたび、別の可能性が生まれた。どの可能性にも、もう手は届かない。
帰宅すると、亮が台所にいた。湯を沸かしている。美咲を見ると、何も聞かずに椅子を引いた。
「私、明日って言われて、安心したの」
亮は火を止めた。
「明日があるんだと思った。あの人にも、私にも」
亮は向かいへ座った。慰めを探す顔になったが、口を閉じた。患者を看取ってきた妻に、いま何を言っても、彼女の言葉を遮るのだとようやく気づいた。
美咲はその沈黙の中で泣いた。
昼近く、亮は桐生から届いた連絡を読み上げた。堀田の死について、当初の見立てを前提にせず、記録を保存させているという。何がわかり、何がまだわからないか。亮は区別して話した。
「俺が久我を助けたから、という考え方は、違うんだと思う」
美咲は顔を上げた。
「そう思うと、殺した人間がいなくなる。俺たちが、助ける相手を選び間違えた話になってしまう」
亮は自分にも言い聞かせるように続けた。
「でも、堀田さんを殺したのは、俺たちじゃない」
美咲はすぐにはうなずけなかった。わかることと、受け入れられることの間には、距離がある。亮はその距離を急がせなかった。
午後になって、美咲は堀田が話した言葉を、覚えている限り書き出した。自分の推測と、本人が口にしたことを分けた。亮は隣で、日付と時刻だけを確かめた。
誰かを救えなかった時間を、なかったことにはできない。せめて、その人が最後に言おうとしたことを、別の話に変えずに残したかった。
*
新聞が来なくなってからも、朝は来た。
亮は4時に目を覚まし、玄関の鍵を開け、空のポストを見た。住宅街には何の変化もなかった。隣家の植木鉢に水が溜まり、向かいの家の軒先に小さな蜘蛛の巣が張っていた。人が死ぬと知らされない朝が、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
何も起きていないのではない。自分が知らないだけだ。
その考えは、亮を昼も夜も追いかけた。新聞の事故欄を端から読み、知らない名前に安堵し、安堵した自分に嫌気が差した。
美咲は玄関に座るのをやめろとは言わなかった。ただ、寒い朝には上着を置き、寝不足の日には車を運転しないように言った。亮はその言葉には従った。世界の仕組みがわからなくなっても、妻に心配をかけていることだけは、疑いようがなかった。
10月の終わり、桐生が家を訪ねてきた。仕事の話をする前に、亮の顔を見て言った。
「待つことと、調べることは違うぞ」
亮は反論できなかった。
それからは、朝の1時間を取材ノートの整理に使った。葛西が告発しようとした先。法人の役員の交代時期。補助金の申請書。一枚の紙が届かなければ何もできない人間になってしまうことを、亮は恐れ始めていた。
明日の新聞がないからこそ、今日の取材をしなければならない。
そう考えられるようになったのは、11月に入ってからだった。
*
午前4時。真柴家の玄関前。
数日後の朝も、ポストは空だった。亮は蓋の冷たい金属を指で押さえたまま、何もない底を見た。
さらに翌朝、何もなかった。配達の気配を聞き逃したのではないかと、二度目を開ける。やはり空だった。
その次の日も、別の朝も。陽が昇り、会社へ行き、妻と夕飯を食べ、また朝が来る。何も届かない時間は、思いのほか長かった。
10月20日、27日、11月3日。卓上の暦を破るたび、事件に結びつかない日が一日増えた。亮はその事実を、救いと考えてよいのかわからなかった。
24日間、明日の日付の紙は来なかった。
*
北陵日報の社会部。
テレビのニュース。
「知事選への出馬を表明していた久我俊之県議は、体調不良を理由に、選挙活動を当面休止すると発表しました」
久我は、表舞台から姿を消した。残されたシャンパンからは、本来含まれない薬物が検出されたという。だが、それを警察に届ける者はいなかった
*
桐生のアパート。
桐生が、ジャージ姿でカップ麺をすすっている。机の上に、亮から預かった紙のコピー。
桐生さんは、沢渡の会社を調べたことを理由に、自宅待機を命じられた
*
紗季の祖母の声を聞いたあと、亮はすぐに記事を書きたいと思った。葛西が夜中に見回っていた。入所者の家族がその声を残していた。3年前の記事を覆す、強い材料だった。
その勢いのまま電話をかけようとして、紗季が帰り際に言った言葉を思い出した。
おばあちゃんの声、変なふうに切らないでね。
亮は携帯電話を置いた。動画の中で、祖母は施設のことだけを話していたわけではない。孫の演奏会のこと。持ってきてもらった靴下のこと。食堂で隣になる人のこと。記事に必要な部分だけを抜けば、告発する老女の声になる。だが、その人は、告発するために電話したのではなかった。
紗季の母親に連絡を取り、改めて話を聞く約束をした。相手は最初、断った。娘を助けてもらったことには感謝している。けれど、新聞の取材を受ける気持ちにはなれない。
亮はわかりましたと答えた。すると、電話の向こうで少し間が空いた。
「それだけですか」
「はい。無理にお願いはしません」
「前は、断っても来ました」
亮は黙った。自分が行ったのか、別の記者だったのか、覚えていない。覚えていないことを、自分ではないと答えてはいけなかった。
「そのときのことも、確認します」
「確認して、どうするんですか」
「俺たちが何をしたか、知る必要があると思います」
相手はしばらく黙っていた。それから、短い時間なら、と言った。
訪ねた家の玄関には、紗季の靴が揃えてあった。母親は、娘は別の部屋にいると言った。取材は自分だけにしてほしい。亮はうなずき、録音してよいか尋ねた。
「録音したら、あとで消せますか」
「記事に使わないと決めた部分の扱いは、相談します。ただ、何を聞いたかの記録として、社内で残す必要がある場合もあります。そこは曖昧に約束できません」
母親は、そうですか、と答えた。気に入った様子ではなかった。けれど、録音は許可した。
祖母の写真が、棚に置かれていた。施設の行事で撮ったものではない。台所で、何かを混ぜている写真だった。顔が少し横を向き、撮影している人に何か言っている。
「母、写真を撮られるのが嫌いで。まともに前を向いたものが少ないんです」
母親は写真を見た。
「施設の説明を聞いたとき、夜も人がいると言われました。見学した日は、職員の人がたくさんいて、母も、ここならいいって言った」
「葛西さんとは、会いましたか」
「何度も。忙しそうでした。母の名前を、部屋番号じゃなくて呼んでくれたのを覚えてます」
亮はノートに書いた。母親はそのペン先を見た。
「それ、記事になりますか」
「まだ、わかりません」
「じゃあ、何で書くんですか」
亮は顔を上げた。
「覚えておきたいからです」
答えてから、格好のよい言葉に聞こえなかったか不安になった。母親は何も言わなかった。棚の写真を少し直した。
「母は、甘い卵焼きが好きでした。私が作ると甘すぎるって言うのに、自分ではもっと砂糖を入れてた」
亮はペンを動かさずに聞いた。母親は、書かないんですか、と尋ねた。
「書いてもいいですか」
「いいです。施設で死んだ人ってだけじゃ、ないので」
亮はうなずいた。3年前、自分は入所者三人と書いた。三人分の暮らしを知らないまま、その数字を繰り返した。
帰り際、母親は玄関で言った。
「娘を助けてもらったことと、前の記事のことは、別です」
「はい」
「それは、わかっていてください」
亮は頭を下げた。許されるために取材をしてはいけない。そのことを、相手に教えさせてしまった。
外へ出ると、2階の窓でカーテンが少し動いた。紗季が見ているのかもしれなかった。亮は見上げず、門を閉めた。聞けた話と、まだ聞かせてもらえない話。その境目を越えずに帰ることも、取材の一部なのだと思った。
*
新聞の来ない朝が続いた10月の下旬、亮は県庁の資料閲覧室へ通い始めた。最初に求めたのは、緑風会に関する過去の公開資料だった。窓口の職員は、何を調べたいのかと尋ねた。亮は、人員配置と補助金の申請について、と答えた。
机に届いた書類は、思っていたより少なかった。公開されているものと、申請して開示を求める必要のあるものは違う。申請すればすぐに全部が出るわけでもない。亮は窓口で説明を受け、必要な手続きを確認した。今日中に何かわかるはずだという期待が、少しずつ削られた。
それでも、待つだけではなかった。
法人の役員の名前を並べる。年度ごとの事業報告を比べる。施設の閉鎖前後に、どの事業がどこへ移ったかを追う。一つの資料では意味を持たない数字が、別の資料の数字と隣り合うことで、問いに変わった。
人件費が減った年に、委託費が増えている。
亮はその行に付箋を貼った。横領だ、と書きたくなった。だが、費用の分類が変わっただけかもしれない。委託先の業務が増えたのかもしれない。疑いは取材の始まりであって、結論ではない。
早瀬へ連絡し、資料を見てもらった。早瀬は、数字の単位が違うページがあると指摘した。亮は見落としていた。千円と円。桁を揃えれば、思っていたほどの差ではない部分もあった。
「すみません、勢いを削ぐみたいで」
早瀬が言った。
「削いでくれ。必要なら、何度でも」
亮は答えた。自分が見つけたいものに合わせて数字を読む。その癖は、慎重になろうと決めただけでは消えなかった。
二人は表を作り直した。出所、対象年度、単位、確認した日。見た目の整った一覧にすると、わかった気になりやすい。だから、わからない欄は空けたままにした。
夕方、閲覧室を出ると、空はもう暗かった。亮は携帯電話を見た。明日の新聞に関する連絡はない。美咲から、夕飯はどうする、というメッセージが来ていた。
帰る、と返した。
送信してから、少し驚いた。帰ってからもできる作業を、会社に残って続けるつもりでいた。仕事が終わっていないことを、帰らない理由にする癖がついていた。終わらない仕事なら、家に帰る時刻は、自分で決めなければならない。
その夜、亮は食卓で資料を広げなかった。美咲は、何かわかった、と尋ねた。亮は、わからないことが増えた、と答えた。
「前より、悪くなったの」
「いや。前は、わからないことがあると気づいてなかった」
美咲は箸を止め、それから、そう、と言った。立派な答えだと褒めるのではなく、味噌汁の椀を亮のほうへ少し寄せた。
食事のあと、二人で洗い物をした。亮が皿を洗い、美咲が拭いた。3年前から、同じ台所に立つ時間が減っていた。狭いので肩がぶつかる。以前なら、どちらかが邪魔だと言っただろう。今夜は、二人とも少しずつ場所を譲った。
*
数日後、亮は元職員の一人と会った。相手は、現在の勤務先には知らせないでほしいと言った。名前も記事には出さないでほしい。亮は、その条件を最初にノートへ書いた。匿名にすれば絶対に特定されないとは約束できないことも説明した。
相手は、なら話さないほうがいいですか、と尋ねた。
「話すかどうかは、あなたが決めてください。俺が安全だと言い切って、決めさせることはできません」
元職員は長く黙った。喫茶店の窓の外を、通学の生徒たちが歩いていた。
「葛西さん、よく謝る人でした」
最初に出たのは、その言葉だった。
「夜勤を増やせなくてすみません。休みを替わってもらってすみません。入所者の家族にも、待たせてすみませんって。あの人が謝るから、事務長は出てこなくて済んだ」
亮は葛西が門の前で頭を下げた姿を思い出した。あのときも、謝る人間を、責任を認めた人間だと思った。
「施設長にも、できることはあったと思います。もっと早く外へ言うとか。でも、私も同じです。辞めるとき、引き継ぎの紙に、夜は人が足りないって書いた。それだけで、自分は伝えた気になってた」
元職員は、鞄から小さな封筒を出した。中には、退職時に受け取った書類の写しがあった。個人の情報を含む部分は見せられないと言った。亮は、見せられる範囲だけでよいと答えた。
紙には、当時の勤務日が残っていた。法人の提出資料に載っている日と、合わない箇所があった。
亮の胸が高鳴った。だが、すぐに、同じ名前の別の職員ではないか、予定と実績の違いではないかと尋ねた。相手は、そこまでは自分にもわからないと言った。
「わからない、でいいです」
亮は言った。
「あなたが確かに覚えているところを、教えてください」
元職員は少し顔を上げた。
「前の取材のときは、もっと、答えを言わされた気がしました」
亮はペンを止めた。
「俺が聞きましたか」
「いえ、別の人。でも、新聞の人でした。施設長の指示ですよね、って。違うと思うと言ったら、思うだけですかって」
亮は自分も同じ聞き方をしたことがあるとわかっていた。欲しい答えが出るまで、質問の形を変える。相手が疲れてうなずいたら、確認が取れたと考える。
取材を終えるとき、亮は話した内容を記事に使う前に、引用する部分を確かめると伝えた。元職員は、少し考えてから、葛西さんのことを全部いい人にしないでくださいと言った。
「怒ると怖かったし、融通が利かないところもありました。でも、それと、やってないことをやったことにされるのは、違うから」
亮はその言葉をノートの最後に書いた。無実の人を、完全な善人に作り替える必要はない。人を取り戻すことと、人を美しくすることは違った。
*
桐生の自宅待機が決まった日、亮は彼のアパートへ行った。部屋には洗濯物が干してあった。仕事着ではないシャツが、窓際で揺れていた。
「警察官にも、洗濯はあるんですね」
亮が言うと、桐生は記者にもあるだろう、と返した。
机の上には、亮が渡した紙の写しと、事件の時系列があった。桐生は、職務上の権限を使ってできることと、いま個人としてできることを分けていた。宮内から来る連絡も、何でも受け取るわけではないと言った。
「お前のために、後輩まで規則を破らせるつもりはない」
「俺のためじゃなく、事件のためなら」
「そう言えば、何でもよくなると思うな」
桐生の返事は早かった。亮は黙った。
「正しい目的があると、自分のやり方を疑わなくなる。俺も、昔やった」
桐生はカップ麺の蓋を押さえた。湯を入れたばかりだった。
「上の判断に従ったことも、逆らえばよかったと思ってることも、どっちも本当だ。だが、逆らった俺は正しい、で終わる話でもない。必要な記録を残す。正式に意見を出す。あとから見た人間が、何があったか追えるようにする。地味なほうを、面倒がって飛ばした」
亮は自分のノートを見た。記事になる話ばかりを集め、取材の過程を十分に残さなかった。結論が正しければよいと思っていた。
「葛西さんの家族に、謝りましたか」
亮が尋ねると、桐生は少し間を置いた。
「当時、説明には行った。謝ったとは言えんな。納得してもらうための説明だった」
「俺も、同じです」
「同じにするな。お前のしたことは、お前が引き受けろ。俺のしたことは、俺が引き受ける」
亮はうなずいた。仲間ができると、責任まで分け合いたくなる。二人で後悔すれば、少し軽くなる気がする。だが、軽くするために会っているのではない。
桐生は蓋を開けた。湯気が上がった。
「食うか」
「もう一つ、あります?」
「ある」
亮は湯を沸かし直した。部屋の中に、麺の匂いが広がった。事件の話をしているあいだも、腹は減る。眠くなる。洗濯物は乾く。人が生きていることは、そういう細かい出来事の連続だった。
その連続を、誰かが一行で終わらせようとしている。
亮はまだ湯の入っていない容器を持ったまま、壁の時計を見た。明日の新聞が来なくても、沢渡の時間は進んでいる。自分たちも進まなければならなかった。
*
元職員から受け取った書類を照合しているうちに、亮は同じ日に2か所で勤務したことになっている名前を見つけた。片方は、やすらぎの丘。もう片方は、同じ法人が運営していた別の事業所だった。
早瀬は移動して両方に入った可能性があると言った。亮は時刻を確かめた。重なっている。だが、予定表なのか実績表なのかが、まだはっきりしない。
二人は、本人へ確認することにした。連絡先は、元職員を通じて尋ねた。勝手に番号を渡すのではなく、取材を受ける意思があるか、先に確かめてもらった。
返事は、断りだった。
亮は机に肘をついた。ここまで来たのに、と言いかけた。早瀬は、本人の都合もありますから、と言った。
「わかってる」
亮の声が強くなった。早瀬が黙った。
亮は顔を上げた。
「すまない。わかってるなら、そんな言い方をしなくていいな」
早瀬はいえ、と答えた。だが、すぐには次の話をしなかった。亮はその沈黙を埋めなかった。自分が謝れば、相手がすぐに元の調子へ戻るべきだと思うのも、勝手だった。
翌日、元職員から連絡が来た。本人は会えないが、書面なら答えられるかもしれない。亮は質問を短くまとめた。その日に、どちらの事業所で働いたか。手元に記録があるか。書類の名前は自分のものか。
不正に使われたのではないか、という言葉は入れなかった。答えを先に渡したくなかった。
数日後、返事が届いた。自分は、その日、別の事業所で働いていた。やすらぎの丘へは行っていない。手元の給与明細と勤務の控えを確認した。必要なら、個人の情報を伏せた写しを見せられる。
亮は紙を読んだ。強い材料だった。だが、これだけで、誰が勤務表を書き換えたかはわからない。早瀬は、その点を一覧の備考へ書いた。
二人は、確認できた事実と、そこから生まれた疑問を、別の色の付箋にした。机の上は見にくくなった。きれいな図にすれば、一つの筋が見える。だが、まだ一つにしてはいけない。
亮は勤務表の写しを桐生へ見せた。桐生は、入手した経緯を詳しく聞いた。誰が持っていたか。いつ受け取ったか。原本か写しか。亮は順番に答えた。
「これで、捜査は進みますか」
亮が尋ねると、桐生は進める材料にはなる、と答えた。
「逮捕できるか、って意味なら、いまは答えられん」
亮はうなずいた。大きな結果をすぐに求める癖が、まだ残っている。小さな確認を積み重ねる仕事を、自分は人に求めながら、自分では待てない。
帰社すると、早瀬が資料を整理していた。亮は、今日はここまでにしようと言った。早瀬は時計を見た。思っていたより遅い時刻だったらしい。
「真柴さんは」
「俺も帰る」
亮は答えた。
資料を保管し、机の上を片づけた。付箋のついた紙を重ねると、問いは見えなくなった。だが、なくなったわけではない。明日、同じ場所から始められるように、何をどこまで確かめたかを書いておいた。
*
北陵総合病院の病室。
窓際のベッド。柏木奈緒が、ゆっくりと上体を起こしている。意識が戻って3日目。
ベッドの脇に、亮と桐生。少し離れて美咲。
「……あの日、屋上で、あなたの顔を見て、あなたのせいだって言った。ごめんなさい」と柏木が言った。
「本当のことです」
「違う。全部、私がやったの。……沢渡事務長に言われて、夜勤の記録を書き換えた。葛西施設長の印鑑も、事務長が持ってた。指示書は、事務長が作ったの」
「その指示書が、3年前、北陵日報に届いた」
「葛西さんは、本当の記録を全部コピーして、日誌にまとめてた。県に告発するつもりだった。事務長はそれを探してた。……葛西さんが死んだあと、事務所の金庫も、施設長室も、全部ひっくり返したけど、日誌は出てこなかった」と柏木が言った。
「どこにあったんですか」
「亡くなる前の日、葛西さんが言ってたの。『信頼できる記者に、全部送った』って」
沈黙。
「……記者?」
「名前は、聞いてない。でも、3年前、あの件を追いかけてた記者なんて、何人もいなかったでしょう」と柏木が言った。
亮は言葉を失う。
桐生は亮の横顔を見る。
「……俺は、受け取ってない。受け取ってたら、俺は……」
美咲が、何か思い出そうとするように、眉を寄せる。
*
宇佐見は息子へ電話をかけた。三度目でつながった。病室からではなく、廊下の端の椅子に座っていた。声を聞いた瞬間、何でもないと言いそうになった。
「怪我、どうなの」
息子が先に尋ねた。宇佐見は、命に別状はないと答えた。便利な言い方だった。どこが痛むか、何が怖いかを説明せずに済む。
「仕事のことで、話がある」
息子は黙った。宇佐見は、就職のときに久我の事務所へ頼んだことを話した。面接の機会だけだったと言いかけて、やめた。自分が何を期待して頼んだかは、自分が知っている。
「採用に、有利になるようにと思った」
宇佐見は言った。
電話の向こうで、何かを置く音がした。息子は、やっぱり、と言った。
「知ってたのか」
「入ったあと、言われた。お父さん、顔が広いねって。冗談みたいに」
宇佐見は目を閉じた。息子を助けたつもりだった。その息子に、職場で何を言われたか、聞こうともしなかった。
「どうして、言わなかった」
口にしてから、宇佐見は自分の問いを恥じた。
息子は少し笑った。
「父さんが、何のことだって言ったから」
就職が決まった日。ありがとうと言われて、何のことだと答えた。あのとき息子は、確かめようとしていたのかもしれない。父親がしたことを、父親自身の口から聞こうとしていた。
「すまなかった」
宇佐見は言った。
「謝られても、俺、もう働いてるから。毎日、そこへ行ってるから」
息子の声が少し強くなった。
「父さんが何をしたかと、俺がそこでしてる仕事は、同じじゃない。でも、同じに見られる。だから、ちゃんとやろうと思って、余計に休めなくなった」
宇佐見は何も言えなかった。息子の仕事を知らない。どんな相手と話し、何を作り、何に疲れているかも知らない。助けるという言葉で、自分が手を出した部分だけを見ていた。
「そのことで、新聞の仕事でも、間違ったことをした」
宇佐見は続けた。資料の出所を隠した。部下に保証した。間違いを疑う機会を、奪った。
息子は、長く黙っていた。
「俺のためにやったって、言うの」
宇佐見は首を振った。電話では見えない。だから、声に出した。
「言わない。俺が、そうした」
「本当に、そう言って」
息子は答えた。
通話が終わったあと、宇佐見はしばらく椅子に座っていた。息子は許すとも、もう会わないとも言わなかった。次にいつ帰るかも決まらなかった。
それでよかった、とは思えなかった。だが、よい結末をその場で求めることが、また息子へ負担をかけるのだとわかった。
宇佐見は病室へ戻り、紙を取り出した。3年前に資料を受け取った日を、手帳で確かめた。誰に何を言ったか。亮へ何を隠したか。息子へ頼んだことも、別の紙に書いた。
自分の記憶だけでは、曖昧なところがあった。そこを、部下が調べてくれるだろうと思いかけて、やめた。調べてもらう前に、自分が出せるものを出す必要がある。
机の引き出しに残っているはずの名刺。久我の事務所から届いた案内。沢渡との連絡の記録。妻へ連絡し、捨てずにそのまま置いておいてほしいと頼んだ。
妻は、何があったの、と尋ねた。
宇佐見は退院したら話す、と言いかけた。
「いま、話す」
そう言い直した。
*
北陵総合病院の屋上。
亮と桐生はフェンスにもたれている。
「葛西が日誌を送った記者が、お前じゃないなら、誰だ」
「当時、あの件を追ってたのは、うちと、全国紙の支局と、テレビが1社……」
「沢渡は日誌を探してる。3年間ずっとな。第三者委員会が動き出す前に、日誌と、その中身を知ってる人間を、全部消したい」と桐生が言った。
「だから、リストを順番に」
「そして、最後の一人が、日誌を受け取った記者だ」
亮は空を見上げる。
*
宇佐見が来る前日の夜、美咲は押し入れの整理をしていた。冬の布団を出すためだった。亮は居間で資料を読んでいる。紙をめくる音が、襖越しに聞こえた。
段ボールの側面に、自分の字があった。亮・取材資料。さわらない。引っ越しのときに書いたものだ。触らないでほしいという夫の希望を、そのままラベルにした。
美咲は箱を少しずらした。底が重かった。何が入っているのか、細かくは覚えていない。古いノート、録音機、名刺、封筒。夫の仕事に関するものは、勝手に捨てないようにしていた。
封筒。
その言葉が、頭の中で引っかかった。
何かを捨ててほしいと言われたことがある。仕事の資料だった。見たくないと言われた。いつのことだったか。3年前、夫が眠れなくなったころ。美咲は布団を抱えたまま、しばらく立っていた。
居間から亮の声がした。
「重いか。手伝う」
美咲は平気、と答えた。箱を元へ戻した。思い出せないことを、いま話しても仕方がない。そう考えた。
あとになって、その判断を何度も悔やむことになる。だが、その夜の美咲には、箱は冬の布団を出すために動かしたものにすぎなかった。事件の鍵は、最初から鍵の形をしているわけではない。
布団を干すには遅い時刻だったので、乾燥機を使った。機械の低い音が寝室に満ちた。美咲は居間へ戻り、亮の向かいに座った。
「最近、少し寝てる?」
「前よりは」
「前って、いつ」
亮は答えに困った。美咲は責めるつもりではなかった。ただ、比較する相手がいつもいちばん悪い時期だと、よくなっているかどうかわからない。
「病院で相談してもいいと思う。事件が本当でも、眠れないことまで放っておかなくていい」
亮は資料を閉じた。
「明日の新聞が届くって言ったとき、病院へ行こうって言っただろ」
「うん」
「俺、あのとき、信じてもらえなかったと思った」
美咲はうなずいた。
「信じられなかった。いまでも、紙を見なかったら、同じことを言ったと思う」
亮は顔を上げた。美咲は続けた。
「でも、あなたが苦しんでることは信じてた。それは、新聞が本当かどうかとは別だった」
亮は長く黙った。それから、相談することを考える、と答えた。
美咲は考えるだけではなく、予約できるところを調べようと言った。亮は、わかったと答えた。すぐにすべてが変わるわけではない。それでも、夫が助けを受けることを、仕事の敗北のように考えなくなればと思った。
寝室の機械が止まった。美咲は立ち上がった。押し入れの箱のことを、もう一度思い出しかけた。だが亮が、ありがとうと言ったので、そちらへ気持ちが向いた。
何に、と聞くと、亮はいろいろ、と答えた。
「いろいろ、じゃわからない」
美咲が言うと、亮は少し笑った。
「今日、帰ってこいって言ってくれたこと」
美咲は帰ってきたのは自分で決めたんでしょう、と答えた。亮はうなずいた。その小さなやり取りの中で、思い出しかけた封筒は、また日常の奥へ沈んだ。
*
真柴家の居間。
呼び鈴。亮が出ると、宇佐見が立っている。手に一升瓶。
「……近くまで来たんでな」
*
真柴家の居間。
ちゃぶ台を挟んで、亮と宇佐見。美咲がお茶を出して、台所へ下がる。
「駅の階段のこと、ちゃんと礼を言ってなかった」と宇佐見が言った。
「いえ」
宇佐見は湯飲みを両手で包む。
「……真柴。3年前、葛西から、何か受け取ってないか」
亮は顔を上げる。
「なぜ、デスクがそれを」
「いや……噂だよ。葛西が、死ぬ前に、どこかのマスコミに資料を送ったって噂が」と宇佐見が言った。
「誰から聞いたんですか。沢渡ですか」
宇佐見は湯飲みを置く。
「……受け取ってないなら、いい」
宇佐見は立ち上がる。
「それと、もう一つ」。宇佐見は湯飲みの縁を見たまま言った。「これから先、俺が何を言っても、確認しろ。俺を信じるな、ということじゃない。俺だけを信じるな」
「……どういう意味です」と亮が言った。
宇佐見は答えずに出ていく。
台所の入口で、美咲がそれを見送っている。
*
真柴家の寝室。
美咲は押し入れの奥を見つめている。何かを思い出しかけている顔。
三年前、夫がほとんど眠れなかった頃。何か届いた。押し入れへ入れたのは、たしか自分だった。美咲は中途半端に口を開けた段ボールの手触りを思い出しかけていた。
亮が入ってきて、美咲は思考を中断する。
*
11月9日、午前3時58分。霧に包まれた玄関前へ、亮は何の期待もないふりをして出ていった。
11月9日。冷たい霧。
亮はもう半ば諦めた顔で、玄関の外に立っている。
自転車の音。
24日間ぶりの、あの音。
角を曲がってきたフードの配達員が、亮の姿を見て、一瞬止まる。そして、止まったまま、ポストに新聞を差し込む。
二人の距離、3メートル。
「……24日間、どうしてた」
配達員は、答えない。
「堀田さんが死んだ。新聞に載らない死に方で」
配達員の肩が、わずかに震える。
配達員は、自転車を反転させ、霧の中へ消えていく。
亮はポストを開ける。紙を広げる。
北陵日報 11月11日
いつもと違い、日付は2日先だった。事件が起きるのは翌朝。配達人は、今度だけは亮に丸1日の猶予を与えたらしい。
社会面のトップに、大きな見出しがあった。
北陵日報記者・真柴亮氏(38)死亡 東町踏切で列車にはねられ
10日午前4時3分ごろ、北陵市東町の東町踏切で、男性が下り貨物列車にはねられ、死亡した。死亡したのは北陵日報社会部記者、真柴亮さん(38)。現場は3年前、真柴さんが取材していた介護施設の元施設長が死亡したのと同じ踏切で、同じ時刻だった。同僚によると、真柴さんは3年前の記事について長く悩んでいたといい、北陵署は自殺とみて調べている。
亮は紙を持ったまま、声もなく立ち尽くす。
「……自殺、か」
自分の名前。自分の年齢。自分の死。
そして、自分が3年前、別の男について書いた文章と、ほとんど同じ言葉。
*
真柴家の台所。
紙を読んだ美咲が、テーブルに手をついて震えている。
「明日の朝、4時3分……」。美咲は数字を口にしてから、また鉄の音を聞くのだと気づいた。
「葛西さんの、命日だ。3年前の11月10日、午前4時3分」
「行かないで」
「美咲」
「どこにも行かないで。家から出ないで。踏切になんか近づかなければ、死なない!」と美咲が言った。
「俺が死ななかったら、誰かが代わりになる。今までずっとそうだった」
「それでもいい!」
美咲は叫んでから、自分の言葉にはっとする。
「……それでもいい。ひどいこと言ってるのはわかってる。でも、それでもいいの。私は、あなたに生きててほしい」
亮は美咲を抱きしめる。
「……わかった。行かない」と亮が言った。
*
桐生のアパート。
亮と桐生。紙を前にしている。
「悔恨に追い詰められた記者が、妻と同じ踏切で死ぬ。三年前の記事を読んだ人間なら、筋が通って見える」。亮はゆっくり言った。「筋が通るからこそ、誰かが作った話だ」
「葛西さんのときと、同じ手口」
「そうだ。同じ人間が書いた筋書きだ」
桐生は腕を組む。
「明日の朝まで、お前は家から一歩も出るな。俺が外で張る。宮内にも、こっそり声をかけておく」と桐生が言った。
「自宅待機中でしょう」
「だから、こっそりだ」
*
自分の死亡記事には、誤字がなかった。
真柴亮。38歳。北陵日報社会部記者。
亮はその三つを、何度も読み返した。自分が死んだあと、他人が確かめるための情報だった。そこには、朝に靴下の片方を探すことも、美咲の作る卵焼きが好きなことも、冬になると左の奥歯が痛むことも書かれていない。
人が死ぬと、他人が説明できる部分だけが残る。
「同僚によると、長く悩んでいた」
亮はその一文を指で押さえた。悩んでいたことは本当だ。だからといって、死のうとしたことにはならない。葛西について書いたとき、亮はその違いを考えなかった。
台所から米を研ぐ音が聞こえた。美咲が流す水は、明日の朝食のための水だった。亮はその当たり前の用意を、初めて奪われるものとして見た。
亮は居間の引き出しを開け、使っていない便箋を取り出した。美咲へ、と書いて、ペンを止めた。遺書に見えるものを残してはいけない。誰かの筋書きに使われる。
便箋を裏返した。
代わりに、明日やることを書いた。桐生に電話。紗季の母親に取材内容の確認。柏木の証言の整理。台所の蛍光灯を買う。
最後の一行を見て、亮は少し笑った。
美咲が居間に来て、便箋を覗いた。
「蛍光灯、ずっと言ってたのに」
「明日、買う」
美咲は何か言いかけてやめた。それから、便箋のいちばん下に、自分の字で書き足した。
一緒に行く。
その短い約束を、亮は死亡記事より長く見ていた。
*
午後8時。真柴家の居間。
カーテンを閉め切った居間。亮と美咲。外には桐生の車。
美咲のスマホが鳴る。病院から。
「はい、真柴です。……え? 柏木さんが?」
美咲の顔色が変わる。
「急変したって。人が足りないから、すぐ来てほしいって」と美咲が言った。
「行くな」
「柏木さんは、私が担当してるの」
「罠かもしれない」
「病院の関係者だと名乗ったの。村瀬さんに代わって連絡しているって。声は知らない人だった」と美咲が言った。
亮は窓の外の桐生を見る。
「桐生さんに送ってもらえ。病院の中まで」
*
真柴家の玄関前。
桐生の車に、美咲が乗り込む。
「頼みます」
「病棟の前まで送ったら、すぐ戻る。宮内が交代に来るまで、鍵を閉めて待っていろ」
美咲は窓越しに亮を見る。
「すぐ帰ってくるから」と美咲が言った。
車が走り去る。
亮は玄関の鍵を閉める。
*
午後9時。真柴家の居間。
亮は一人で座っている。時計の秒針の音。
宮内から、到着が遅れると連絡が入った。桐生は病院から戻る途中だった。
桐生から電話。
「奥さんを病棟の入口で降ろした。今から戻る」
「ありがとうございます」
電話を切る。
9時28分。
……カタン。
亮は顔を上げる。ポストの音。
夜の9時に。初めて。
亮は玄関へ走り、ドアを開ける。通りの先、自転車が角を曲がって消える。今度は、明らかに急いでいる。
ポストの中に、一枚の紙だけ。新聞はない。
北陵日報 11月11日
今朝の紙と、同じ日付。同じ社会面。
だが、トップの記事が違う。
看護師・真柴美咲さん(35)死亡 東町踏切で乗用車と貨物列車が衝突
10日午前4時3分ごろ、北陵市東町の東町踏切で、線路内に止まっていた乗用車に下り貨物列車が衝突した。車内から、市内に住む看護師、真柴美咲さん(35)が遺体で見つかった。
そして紙の余白に、初めて、手書きの文字。
……あなたが来なければ、代わりに彼女が。
亮はスマホを掴み、美咲にかける。
呼び出し音。出ない。
もう一度。電源が入っていない、というアナウンス。
亮は病院の代表番号にかける。
「北陵総合病院ですか。看護師の真柴美咲の夫です。今、病棟に……」
「真柴さんですか? 今夜は、真柴さんのシフトは入っていませんが……」
「柏木奈緒さんが急変したと、呼び出しが」
「……柏木さんは、先ほど確認しましたが、安定していらっしゃいます。病棟から、そのような連絡は出していません」
亮の手から、スマホが滑り落ちる。




