第6章 破られた予言
久我俊之を助けるべきか。
亮はその問いを、口にする前から恥じていた。誰かの命を選別する権利などない。頭ではそうわかっている。けれど、葛西が夜中に一人で施設を回っていたあいだ、久我はどこで眠っていたのかと考えると、胸の奥が冷たくなった。
「助けたら、あの人、また何もなかった顔で笑うかもしれない」
美咲は責める口調ではなく言った。亮が考えていることを、そのまま机の上へ置くように。
「そうだな」
「それでも助ける?」
亮は新聞に載った久我の顔写真を見た。人のよさそうな笑顔だった。その笑顔を見て安心した人も、実際に助けられた人もいるのだろう。だからこそ、そこからこぼれ落ちた人の声が聞こえにくくなる。
「助ける」
言ってから、少し間を置いた。
「生きて、答えてもらう」
美咲はうなずいた。
亮は正義という言葉を使わなかった。その言葉を使うと、自分の中の醜い気持ちまで、きれいに見せてしまう気がした。久我を助けたいわけではない。久我に、逃げてほしくないのだ。
それでも、今夜この男が死なないために動くことはできる。気持ちが正しく整うのを待っていたら、時間は過ぎる。亮はジャケットを手に取った。
*
真柴家の台所。
亮は美咲、そしてテーブルの上の紙。
「久我って、あの久我さん? テレビに出てる」と美咲が言った。
「やすらぎの丘の、元理事長だ。沢渡はその秘書」
「じゃあ、どうして自分のボスを」
「わからない。でも、この紙が正しいなら、今夜8時に久我は死ぬ」
「……助けるの? その人も」と美咲が言った。
亮は少し黙る。
「3年前の真相を知ってる人間が死ねば、真相も一緒に死ぬ。久我が何を知ってるにしても、死なせたら終わりだ」
「あなた、記者の顔に戻ってる」
「……そうか?」
「3年ぶりに見た」と美咲が言った。
*
久我の事務所には施設の開設式の写真があった。真新しい建物の前で赤白の幕が風に膨らみ、中央の久我は自信ありげに笑っている。端に写る葛西は笑っていない。だから不満だったのだ、と決めかけて亮は首を振った。写真が記録するのは、その一瞬の顔でしかない。
亮はその写真の前で足を止めた。葛西は笑っていなかった。だから不満があった、と考えかけて、やめた。写真の一瞬から、人の気持ちを決めてはいけない。まぶしかったのかもしれない。声をかけられる直前だったのかもしれない。
受付の職員が、先生は外出中ですと言った。沢渡なら会えるという。
冊子の表紙には〈誰も取り残さない県政〉とあった。飾った言葉の虚偽を暴きたい気持ちが、亮の中に先に立った。けれど、綺麗な言葉だから嘘なのではない。実際に誰が残されたか、その記録を確かめる必要があった。
沢渡が入ってきた。亮の前に紅茶が置かれた。
「先生の政策に、ご関心が」
「関心はあります」
亮は冊子を閉じた。
「3年前の人員削減について、決定した人を確かめたい」
沢渡は座り直した。
「経営判断は、法人として行っています」
「法人の、誰ですか」
「当時の理事会の記録をご確認ください」
「確認します。その前に、あなたが何を知っているか聞いています」
沢渡は笑った。
「真柴さん。質問の仕方が変わりましたね」
亮は黙った。沢渡は、その沈黙を楽しむように紅茶へ手を伸ばした。
「昔は、もっと早かった。資料をお渡しすれば、翌日には記事になった」
亮は顔を上げた。
「あなたが渡したんですか」
「法人として、必要な情報提供はしていましたよ」
沢渡は誰に渡したかを言わなかった。亮は、その言葉をノートに残した。怒りで次の質問を急ぐと、いま聞いたことまで曖昧になる。
「葛西さんが、県へ告発しようとしていたことは」
沢渡の指が、カップの取っ手で止まった。すぐに動いた。
「いろいろなことを言っていた人です」
「どんなことを」
「人を増やせ。設備を直せ。現場を知らない経営者にはわからない。そういうことです」
「その要求は、間違っていましたか」
沢渡は少し間を置いた。
「要求するだけなら、誰にでもできます」
亮は机の向こうの男を見た。人の命を支える仕事を、要求する側と数字を合わせる側に分ける。その分け方の中で、誰かがいなくなっても、欄だけは埋まる。
「要求を受けて、何をしましたか」
沢渡は答えなかった。
その沈黙を、亮は勝手に自白に変えなかった。答えなかったという事実だけを残した。3年前、葛西が言葉を飲み込んだとき、自分は、その沈黙を都合のよい意味に読んだ。今度は、同じことをしたくなかった。
*
久我俊之事務所の応接室。
緑の葉のロゴが入ったガラス扉。応接室で、亮と沢渡が向かい合っている。
「先生へのご忠告、ですか」
「今夜の後援会パーティーで、久我さんが狙われる可能性があります」
「根拠は」
「お話しできません。ただ、ここ一週間、3年前のやすらぎの丘の関係者が、次々と命を狙われています。火事、転落、ひき逃げ」と亮が言った。
沢渡は顔色一つ変えない。
「物騒な話ですね。警察には」
「警察は、知事選の前に久我さんの周りを触りたがらない」
「賢明な判断だ」
沢渡は紅茶に口をつける。
「真柴さん。あなたは3年前、正しい記事を書いた。施設長は罪を認める代わりに、自分で責任を取った。それで終わった話です。終わった話を蒸し返すと、また誰かが傷つく。……今度は、あなたの大切な人かもしれない」と沢渡が言った。
「……それは、脅しですか」
「ご忠告です。あなたと同じように」
沢渡は立ち上がる。
「パーティーは8時からです。プレス席をご用意しておきますよ」
*
久我は、沢渡が部屋を出たあと、政策冊子の見本を閉じた。写真の色が少し暗い。広報の担当者は、印刷で調整できると言っていた。久我は、明るくしすぎないようにと指示した。現場の厳しさも伝えたい、と言った。
自分の言葉を、久我は本気でそう思っていた。
政治の仕事を始めたころ、地元の施設へ何度も通った。家族の介護で仕事を辞めた人の話を聞いた。施設が増えれば救われる人がいる。そう考え、予算を求めた。反対する人間へ、数字を示し、必要性を説明した。
施設ができた日、久我はうれしかった。開設式の写真に写る自分を、いまも嫌いではなかった。
だからこそ、その施設で人が死んだとき、すぐに認めることができなかった。
問題があったと認めれば、事業全体が否定される。事業が止まれば、これから入るはずの人が困る。現場の失敗を、仕組みの失敗に広げてはいけない。そう説明した。説明するうちに、自分でも信じた。
沢渡は数字を整えるのがうまかった。削減した費用を、別の事業へ回す。委託先との関係を調整する。県の担当者へ、必要な説明を先に入れる。久我は、細かいことは任せると言った。
細かいこと。その中に、人のいない夜があった。
机の電話が鳴った。支援者からだった。最近、昔の施設のことを記者が聞いて回っている。選挙に影響はないか。久我は、問題はないと答えた。
「必要な説明は、しています」
通話を終えると、喉が乾いた。水を飲んだ。問題がないなら、なぜ沢渡の顔色を確かめるのか。必要な説明をしているなら、なぜ記者が来るたび、誰が何を話したかを気にするのか。
久我は、葛西の名前が載った古い資料を取り出した。増員の要望が書かれていた。余白に、沢渡の字で、現場対応にて調整、とあった。
久我はその文字を指でなぞった。自分は、現場対応の中身を聞かなかった。聞けば、何かを決めなければならなくなる。任せたと言えば、決めた責任を持たずに済む。
扉が開き、沢渡が戻ってきた。久我は資料を閉じた。
「真柴は、何を持っている」
沢渡はまだわかりませんと答えた。
「まだ、とは何だ」
久我の声が強くなった。沢渡は、こちらで対応しますと言った。
久我はうなずきかけた。いつもなら、それで話は終わった。だが、その日だけは、言葉を足した。
「余計なことはするな」
沢渡はもちろんですと答えた。
何を余計なことと呼ぶのか。二人は確かめなかった。確かめないことで、同じ言葉の中に、それぞれ違う逃げ道を残した。
*
県警本部の刑事部長室。
桐生が、刑事部長の権藤(58)の前に立たされている。
「県議の秘書の会社を調べてるそうだな」と権藤が言った。
「ひき逃げに使われた車のリース元です」
「知事選まで一か月を切ってる。今、久我陣営に手を出せば、県警が選挙に介入したと言われる」
「人が死にかけてるんです」
「その『死にかけた』現場に、毎回同じ新聞記者がいるそうじゃないか。調べるなら、そっちだ」と権藤が言った。
「……」
「堀田正臣の病室の警護も、今日で解く。人手が足りん」
「部長、堀田は放火の被害者ですよ!」
「放火かどうかもまだ確定していない。以上だ」と権藤が言った。
*
北陵総合病院の堀田の病室。
包帯を巻いた堀田が、ベッドの上で窓の外を見ている。
美咲が点滴を替えに来る。
「……あんた、あの記者の奥さんだそうだな」
「……はい」
「旦那に伝えてくれ。俺が悪かったと。3年前、俺は書かされた。三人とも誤嚥性肺炎だと。本当は……夜中に誰も見回りに来なくて、痰を詰まらせて死んだんだ。人を減らしたのは理事長で、記録を書き換えたのは事務長だ。葛西は……葛西はそれを県に告発しようとしてた」
美咲は手を止める。
「明日、ちゃんと話す。警察にも。もう、逃げるのはやめだ」と堀田が言った。
「……伝えます。必ず」
堀田は少しだけ笑う。
*
午後7時50分。北陵グランドホテルの宴会場。
華やかな後援会パーティー。数十0人の支援者。壇上に久我。
プレス席から、亮が会場を見渡している。
沢渡が、壇の脇で招待客と談笑している。
ウェイターたちが、グラスを載せた盆を運んでいく。
乾杯の準備。壇上の久我に、一人のウェイターがシャンパングラスを差し出す。
亮はそのウェイターの手元を見る。グラスは一つだけ、盆の端に別に置かれていた。
「それでは、久我先生のご健勝を祈りまして……」
久我がグラスを掲げる。
亮はプレス席を飛び出す。
「乾杯!」
久我がグラスを口元へ……。
亮は壇上に駆け上がり、久我の手からグラスを叩き落とす。
グラスが割れる。会場が凍りつく。
「何をする!」
亮は警備員に押さえ込まれる。
「飲むな! そのグラスを調べろ!」
久我は、呆然と亮を見下ろしている。
沢渡が、ゆっくりと壇に近づいてくる。その目が、一瞬だけ、亮ではなく、こぼれたシャンパンの水たまりを見る。
「……真柴さん。これはさすがに、度が過ぎますね」
亮が連れ出されていく。
例のウェイターは、もう会場のどこにもいない。
*
北陵グランドホテルの控え室。
警備員に囲まれて座る亮。
ドアが開き、久我が一人で入ってくる。
「下がっていい。二人で話す」と久我が言った。
警備員が出ていく。
久我は、亮の前に座る。さっきまでの笑顔はない。
「……床にこぼれたシャンパンを、うちの若いのがハンカチで拭いた。そのハンカチを、こっそり知り合いの医者に回した」
「……」
「結果はまだだ。だが、君の顔を見ればわかる。あれは、ただのシャンパンじゃなかった」
「狙われる心当たりは」と亮が言った。
久我は、長い沈黙。
「3年前……私は、金の話しかしていない。人件費を削れ、夜勤を減らせ、補助金は満額で申請しろ。それだけだ。人が死ぬ話は、していない」
「三人死にました。そして、施設長も」
「葛西君のことは……本当に、自殺だと思っていた」
「誰がそう思わせたんですか」と亮が言った。
久我は、亮をまっすぐ見る。
「沢渡に聞け。私は、あの男に、汚い仕事を任せすぎた。気付いたら、私のほうが、あの男に首輪をつけられていた」
「なぜ、今それを俺に」
「知事選に出ると決めたとき、私は沢渡を切るつもりだった。……沢渡はそれに気付いたんだろう」
久我は、立ち上がる。
「君に助けられたのは、皮肉だな。3年前は、君の記事に助けられた」と久我が言った。
*
堀田は病室で、警察へ話す内容を紙に書こうとした。美咲が置いていったメモ用紙には、病院の名が薄く印刷されていた。最初の一行を書いて、止まった。
私は、死亡診断書に。
その先へ進めなかった。何をどう判断したか。誰に何を言われたか。自分がその場で見たことと、あとから聞いたことが、3年のあいだに混ざっていた。
沢渡に言われたから、と書けば簡単だった。だが、言われても断ることはできた。葛西が求めていたように、記録を残すこともできた。自分は医者で、署名したのは自分だった。
堀田は紙を裏返した。今度は、亡くなった人の名前を書いた。三人の顔を思い出そうとした。すぐに浮かぶ顔と、はっきりしない顔があった。顔を思い出せないことを、堀田は恐れた。
診療所に来ていたころ、一人はよく天気の話をした。もう一人は、薬の袋をきれいに畳んで持ってきた。水野ハルは、孫が楽器を始めたと言っていた。笛のようなものだ、と説明して、名前が出てこないことを笑った。
人を診ていたはずだった。いつから、施設から届く報告を読んで、状態を判断するだけになったのか。往診へ行く回数を減らしたのは、忙しかったからだけではない。行けば、足りないものが見える。見えれば、何かを求められる。求められても変えられないと、最初から決めていた。
廊下で台車の音がした。堀田は顔を上げた。看護師が別の病室へ入っていく。人がいる。そのことが、今夜はひどくありがたかった。
火事の中で、記者の背中に揺られていた感覚を思い出した。自分より小柄な男だった。なぜ助けたのか。自分を責めるためなら、死なせたほうが簡単だったはずだ。
堀田はそんな考え方をしている自分に気づいた。責めるため。助けるため。人の行動を、どちらかへ分けようとしている。あの男は、目の前で家が燃えていたから入ってきたのかもしれない。自分が誰かを診るときも、最初はそうだった。目の前に、苦しんでいる人がいた。
紙の表へ戻った。私は、という言葉のあとに、時刻と場所を書いた。覚えていない部分には、覚えていないと書いた。自分をよく見せる文章にしないために、誰かに読んでもらう必要がある。
美咲が来たら、頼もうと思った。明日ではなく、今夜のうちに。
だが、病室へ入ってきた足音は、美咲のものではなかった。
堀田は顔を上げた。男は穏やかに、少し話を、と言った。堀田の指の下で、メモ用紙がかすかに鳴った。
*
午後10時。北陵総合病院の堀田の病室。
病室の前。昨日まで立っていた警官の姿はない。
静かな廊下。
*
ホテルの控え室を出たあと、亮はトイレの洗面台で手を洗った。指先が冷えていた。久我へ向けた質問の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。もっと違う聞き方があったかもしれない。相手を追い詰めることが目的になっていなかったか。
鏡を見ると、目が充血していた。寝ていない。食事も、いつ何を食べたか曖昧だった。こんな状態で正しい判断ができるのか。美咲が病院で相談しようと言った理由が、少しわかった。
携帯電話に、早瀬からメッセージが来た。会見でのやり取りについて、確認したい。亮は電話をかけた。
早瀬は亮の質問を聞いた他社の記者から問い合わせが来ていると言った。根拠を示せるのか。紙面にする予定はあるのか。
「いま、答えられる範囲を整理する」
亮は言った。
「真柴さん、何か食べました?」
早瀬が尋ねた。亮は答えに詰まった。
「食べてください。話が大きくなってるときほど、変な判断しますから」
亮は若い後輩にそんなことを言われるとは思わなかった。だが、反論できなかった。
ロビーの売店でパンを買った。袋を開ける手がうまく動かず、端を破りすぎた。椅子に座って食べると、急に空腹がはっきりした。
美咲へ連絡しようとした。病院は忙しいかもしれない。そう考えて、短いメッセージにした。取材は続いている。無理はしない。食事はした。
送ってから、最後の1文が、子供の報告のようだと思った。美咲から返事はなかった。仕事中なら当然だ。
亮はパンの袋を畳んだ。紙の上の未来を変えようと走り続けて、自分の体がいまここにあることを忘れていた。疲れた体で人を助けようとしても、間に合わないことがある。
駐車場へ向かう途中、桐生から電話が来た。声を聞いた瞬間、亮は立ち止まった。言葉の前に、何かが起きたとわかった。
食べたばかりのパンが、喉の奥へ戻ってくるような気がした。
*
午後10時20分。北陵グランドホテルの駐車場。
亮が外に出ると、桐生の車が待っている。
「乗れ。悪い知らせだ」
*
北陵総合病院の堀田の病室。
規制線。警官たち。
病室のトイレのドアが開け放たれている。中は見えない。
廊下の隅で、美咲が村瀬に支えられて泣いている。
亮と桐生が駆け込んでくる。
「……亮。堀田さんが……明日、全部話すって、言ってたのに……」
亮は美咲を抱き寄せる。
桐生は鑑識の倉田と小声で話している。
「病室内で亡くなっていました。自殺の可能性がある、というのが上の見立てです」
「あの体の状態と、現場の状況は合うのか」と桐生が言った。
「……難しいでしょうね」
桐生は亮のところに戻ってくる。
「新聞には、載ってなかったな」
「……ええ」
「今までは、全部、新聞の通りに起きてた。俺たちはそれを、先回りして止めてきた。だが、これは載ってなかった」と桐生が言った。
「計画が、変わった」
「殺す側が、気付いたんだ。誰かが計画を漏らしてるってことにな。だから、知らせる側も知らない手を打ってきた」
亮は病室を見つめる。
「……俺が、久我を助けたから」
「違う。お前が助けたから、今まで何人も生き延びているんだ」と桐生が言った。
*
堀田の死を知らされたあと、美咲は病院の廊下で、師長の前に立った。自分がもっと早く話を聞いていれば、と言った。師長は、何を知っていたかを、順番に話してほしいと答えた。
美咲は堀田が何かを話したがっていたことを伝えた。診療のこと。3年前のこと。自分は勤務中で、十分に時間を取れなかった。あとで、と言った。
「あとで、って言ったんです」
美咲の声が震えた。
師長はうなずいた。すぐに、あなたのせいではないとは言わなかった。そう言われれば、美咲は自分のせいだと思う理由を、もっと並べただろう。
「いま、覚えていることを残しましょう」
師長は言った。
美咲は記録を書いた。自分が病室へ入った時刻。堀田が話した言葉。自分が答えたこと。書きながら、もっとよい返事があったと何度も思った。だが、実際に言った言葉を、あとから直してはいけない。
警察へ説明するときも、同じことを話した。相手の警察官は、聞き取れなかったところを確かめた。美咲は、わからない部分を、わからないと答えた。
終わると、体が急に重くなった。休憩室の椅子へ座り、携帯電話を見た。亮から、食事はした、というメッセージが来ていた。美咲は、その短い言葉を見つめた。
夫は、まだ、誰かを助けられると思っているのだろうか。自分は、目の前にいた人の言葉を、最後まで聞けなかった。
そう考えてから、美咲は夫と自分の仕事を競わせていることに気づいた。誰がどれだけ助けたかを数えても、堀田は戻らない。いま残せるものを残すしかない。
美咲は亮へ、堀田のことは病院から正式に説明がある、と送った。それから、もう1文を書いた。帰ったら、少し話を聞いてほしい。
送信すると、すぐに既読がついた。返事は、聞く、だった。
美咲は画面を伏せた。話を聞いてほしいと、自分から言えた。そのことだけを、今夜は小さく覚えておこうと思った。
*
亮が一人、柱の根元にしゃがみ込んでいる。
10日に置いた白い菊が、もう萎れかけている。
足音。美咲が来る。
「やっぱり、ここにいた」。美咲は息を切らしていたが、亮を見つけたことを責めなかった。
「よくわかったな」
「毎月10日の朝、帰りが遅いの。3年間ずっと。気付いてないと思ってた?」
亮は苦笑する。
「ここで、葛西さんが死んだ。俺の記事が出て、二週間後だった」と亮が言った。
「知ってる」
「あの人は、何も隠してなかった。隠してたのは、別の人間だった。俺は、あの人に何も聞かずに書いた」
美咲は亮の隣にしゃがむ。
「だから、毎月ここに来て、謝ってたの?」
「謝っても、何も戻らない。それでも、来るのをやめたら、あの人まで記事の中に閉じ込めてしまいそうだった」
美咲は亮の手を握る。
「ここで謝ることと、外で確かめて書くことは、別のことだよ」。美咲は手を離さずに言った。「いまは、その両方をしているでしょう」
遠くで、貨物列車の汽笛。
*
午前二時。東町販売所の奥で、プリンターだけが眠らずにいた。
フードの人物は排紙口を見つめていた。印刷された薄い紙が一枚、静電気で次の紙にまとわりつく。その端を剥がす指は、思うように動かなかった。
入口から革靴の音がした。磨かれた爪先だけが先に光へ入ってきた。沢渡だった。
「……最近、真柴が妙に先回りしてる。踏切、火事、駐車場、河川敷、駅の階段、そして今夜のパーティー」
フードの人物は、振り返らない。
「正確な時刻を知っているのは俺とお前だけだ。誰が教えたか、調べればすぐわかる」。脅しのはずが、沢渡の声には薄い不安が混じっていた。
沢渡はプリンターのトレイに手を伸ばし、白紙を一枚取り上げる。指先でこする。
「上質紙か」と沢渡が言った。
沈黙。
「まあいい。どうせ最後は、お前の手で終わらせる約束だ。……忘れるなよ。お前の親父を殺したのは、誰だったか」
沢渡は紙をプリンターの上に戻して出ていく。
男が去ると、フードの人物は刷りかけの紙を握り潰した。紙の角が掌へ食い込む。まだ死んでいない人の名前が、皺の奥で読めなくなった。
*
午前3時50分。亮は玄関に立ち、何度も時計を確かめた。
亮は玄関の外に立っている。
午前4時。
通りは静まり返っている。
4時10分。自転車の音は来ない。
四時半。ポストは空だった。自分から新聞を待つようになっていたことが、亮には恐ろしかった。
「……どうした」
5時。いつもの新聞配達のバイクが来て、普通の朝刊だけを入れていく。別の配達員。
亮は新聞を開く。全ページをめくる。
明日の日付の紙は、どこにもない。
初めて、明日の日付の紙が届かなかった。
亮は朝焼けの通りに立ち尽くす。




