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明日の新聞  作者: ぽむぽむ


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第5章 紙の手触り

宇佐見修司は、部下の原稿を直すとき、椅子を少し後ろへ引く癖があった。画面に近づきすぎると全体が見えなくなる。そう教えられたのは、亮が入社して2年目の冬だった。

人の顔が見えない記事は駄目だ。数字だけ並べるな。役所の言い分を、自分の言葉みたいに書くな。

宇佐見から教わった言葉は、亮の仕事の骨組みになっていた。だから宇佐見を疑うことは、自分の立っている床を剥がすことに似ていた。床下に何があるのか、見たくない。けれど腐っているなら、見ないまま暮らすことはできない。

亮は宇佐見の机を眺めた。古い辞書。割れた持ち手を接着剤で直したマグカップ。息子が幼いころに描いたらしい、色の褪せた似顔絵。そこには、悪人の机だとわかるものは何もなかった。

3年前、葛西の机にも、そういうものがあったはずだ。

亮は施設長室で何を見たのか、思い出そうとした。資料の束と、押印された指示書しか浮かばなかった。

机に置かれたものを見ていなかった。机の向こうに座る人を、見ていなかった。

その自分がいま、宇佐見の机を見て、この人は悪くないと思おうとしている。見たいものだけを見ている点では、何も変わっていないのかもしれない。

亮は宇佐見の死亡記事を折り直した。助けることと、信じることは、別にしなければならない。疑うことと、見捨てることも。

*

午前5時。桐生のアパートの居間。

殺風景な部屋。ちゃぶ台の上に、5枚の紙が並べられている。

亮と桐生はそして眠そうな顔の鑑識課員・倉田(50)。

「桐生さんの頼みじゃなきゃ、こんな時間に来ませんよ」と倉田が言った。

倉田は、ルーペで紙を一枚ずつ見ていく。指先で紙の端をこすり、匂いを嗅ぐ。

「……これ、新聞用紙じゃないですね」

「え?」

「新聞の紙は、もっと薄くてざらついてる。これは上質紙です。折り込みの案内などにも使われます。それに、インクじゃなくてトナー。輪転機じゃなく、業務用のレーザープリンターで刷ってます」

「つまり」と桐生が言った。

「誰かが、パソコンで北陵日報そっくりの紙面を作って、プリンターで一枚ずつ刷ってる。題字も書体も、よくできてますけどね」

倉田は、10月12日付の紙を指さす。

「それにほら、この天気欄。12日の北陵市は『晴れのち曇り』になってる。前の晩の予報はそうだった。でも実際は、昼過ぎから雨でしたよね」

「……前の晩に、作ってる」

「少なくとも、紙面のすべてが未来の記録だという証拠にはなりません」と倉田が言った。

倉田が帰っていく。

桐生と亮は紙を見下ろす。

「超能力でも、神様でもない。人間だ」

「人が死ぬ時刻を、前の晩に知ってる人間」

「殺す計画を知ってるってことだ。……つまり、この件には二人いる。殺す奴と、それを知らせる奴」

「知らせている人間は、殺そうとしている人間のすぐ近くにいる」亮は言った。「だから全部を知っているとは限らないが、予定を一部でも盗み見られる位置にいる」

「仲間か、裏切り者か、だな」

*

北陵日報東町販売所。

店主の大野が、奥の業務用プリンターを見せている。

「折り込みの訂正に使う機械だ。夜中は店に配達員しかいない。鍵も、みんな持ってる」大野はプリンターの覆いを開けた。

「配達員は何人」

「8人。学生のバイトから、年寄りまで」と大野が言った。

桐生はプリンターのトレイの中の用紙を一枚抜き取り、指でこする。上質紙。

奥で、湊がチラシの束を運んでいる。桐生の視線が、湊の指先に止まる。黒ずんだ指。

「君、手が汚れてるな」

「チラシのインクです。毎日触ってるので」

「3丁目の担当だったな。真柴の家の」

「はい」と湊が言った。

亮は湊に近づく。

「森下くん。毎朝4時ごろ、うちの前を通るだろう。誰か、怪しい人間を見なかったか」

湊は少し考える。

「怪しい人は、見てません。……ただ」

「ただ?」

「毎月10日の朝、東町踏切で、いつも同じ車が止まってます。踏切が開いても、しばらく動かない車が」と湊が言った。

亮は息を呑む。

「それくらいです」

湊は一礼して作業に戻る。

桐生は亮の顔を横目で見る。

「……お前の車か」

亮は答えない。

*

宇佐見は息子から届いた短いメッセージを見ていた。今週は帰らない。仕事が立て込んでいる。それだけだった。忙しいなら体に気をつけろ、と返し、送信したあとで、自分が息子の仕事をほとんど知らないことに気づいた。

県の外郭団体に入ってから、息子は仕事の話をしなくなった。就職が決まった日には、ありがとうと言った。宇佐見は、何のことだ、と答えた。息子はそれ以上言わなかった。

知らないままではなかったのだろう。

口利きを頼んだとき、宇佐見は面接の機会だけでよいと言った。採用してくれとは言っていない。その言い分を、何度も自分の中で繰り返した。だが、久我の事務所から、よかったですねと連絡が来た日、宇佐見は何がよかったのか尋ねなかった。

沢渡が資料を持って来たのは、その少しあとだった。

地域のためになる話です。施設の不正を、きちんと報じてほしい。沢渡はそう言った。宇佐見は資料を読み、記事になると思った。記事になると思ったことまで、嘘ではなかった。

ただ、誰から受け取ったかを、亮には言わなかった。

言えば、亮は久我との関係を調べただろう。資料の出所を疑っただろう。疑うことが必要だと教えたのは、宇佐見自身だった。だからこそ、疑わせない渡し方を知っていた。

匿名で届いた。中身は本物だ。俺が保証する。

亮はその言葉を信じた。

机の端に、若いころの息子が描いた似顔絵がある。新聞を持った男の絵だった。顔より新聞のほうが大きい。宇佐見はその絵を見て、当時は笑った。父親の仕事がわかっているのだと思った。

いま見ると、顔が紙の陰に隠れているようにも見えた。

電話が鳴った。沢渡だった。

宇佐見は廊下へ出た。編集部の音が遠ざかる。窓の外に、隣のビルの壁があった。

「真柴さん、何か調べていますね」

沢渡の声は穏やかだった。

「仕事だ。記者なんだから」

「あなたも記者でしょう。部下が何をしているか、知っておく必要がある」

宇佐見は黙った。

「昔の資料が、まだどこかにあるようです。葛西が送ったものが」

「知らん」

「知らないなら、調べてください」

沢渡は命令の形を取らなかった。依頼のように話した。3年前と同じだった。

「俺は、お前の部下じゃない」

宇佐見が言うと、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。

「そうですね。息子さんにも、そう説明できますか」

宇佐見は窓枠を掴んだ。怒りが湧いた。息子を持ち出すなと言いたかった。だが、その言葉を口にすれば、自分が息子のために何をしたかまで、認めることになる。

「今夜、少し話しましょう」

沢渡は店の名を告げた。

通話が切れても、宇佐見はしばらく窓の前にいた。廊下の向こうから早瀬が歩いてきた。宇佐見を見ると、原稿の確認を頼んだ。宇佐見は受け取り、赤字を入れた。

主語が曖昧。数字の出所を確認。本人の反論を取れ。

いつもの指示だった。間違ってはいない。自分が守らなかったことを、他人に教えることはできる。その事実が、宇佐見をいちばん深く追い詰めた。

*

北陵日報の社会部。

亮は宇佐見の席の前に立つ。

「デスク。今夜、北陵駅には近づかないでください。特に南口の階段には」

「なんだそりゃ。占いか」と宇佐見が言った。

亮は紙を宇佐見の机に置く。宇佐見は、読んで、笑い飛ばそうとして……笑えない。

「……悪趣味ないたずらだ。俺の死亡記事か。ちゃんと『酒に酔って』と書いてあるのが腹立つな」

「デスク。3年前のあの封筒。本当に、匿名で届いたんですか」

宇佐見の目が、一瞬揺れる。

「……今更、何を言ってる」

「この紙に載る人間は、全員、3年前の記事に関わっています。デスクも、その一人です」と亮が言った。

「俺は、お前の上司として、記事を通しただけだ」

「それなら、なぜ狙われるんですか」

宇佐見は黙って紙を突き返す。

「仕事に戻れ、真柴」

*

柏木の病室へ向かう前、美咲は師長に呼ばれた。夫が事件に関わっている患者を担当することについて、確認が必要だと言われた。

美咲は仕事と私生活は分けているつもりです、と答えた。師長は、つもりの話をしているのではない、と言った。

「あなたが知ったことを、夫に話したくなる場面があるでしょう」

美咲には返事ができなかった。柏木の持ち物から緑風会の名刺を見つけ、夫に示した。危ない人を守りたかった。しかし善意は、患者の個人情報を誰に渡してもよいという許可にはならない。

「患者の安全に関わることは、病院として警察へ伝える。個人で判断しないで」

「はい」

「あなたを疑っているんじゃない。あなたが一人で抱えないために言ってる」

その言葉に、美咲は少しだけ息をついた。

亮は知ったことを外へ出すのが人を守る仕事だと考える。美咲には、知っていても外へ出さないことで人を守る場面がある。夫婦のあいだにできたその細い境界を、今度はちゃんと守りたかった。

病室へ入ると、柏木は目を閉じていた。美咲は名乗り、これからすることを短く説明した。返事がなくても、声をかける。聞こえているかどうかを、自分の都合で決めない。

柏木の手が少し動いた。美咲は顔を近づけた。何か言おうとしている。

そのとき美咲は夫のために聞こうとしているのか、患者のために聞こうとしているのか、一瞬わからなくなった。

「ゆっくりで大丈夫です」

声に出してから、まず自分が急がないようにした。

柏木の唇から、沢渡という名が漏れた。美咲は、聞き取れた言葉と時刻を、その場で記録した。意味を補わなかった。書き換えたのは、という断片も、そのまま残した。

病室を出ると、師長へ報告した。警察への連絡は、病院の窓口を通して行われた。美咲は、自分が夫へ伝えたいと思ったことも話した。

師長はうなずいた。

「それも、記録しておきましょう」

美咲はその返事に少し驚いた。間違いそうになった気持ちまで、残してよいのだ。立派な看護師の顔だけを、仕事の記録に置く必要はない。

休憩に入ってから、亮へ連絡した。病院から警察へ伝えたことがある。詳しくは桐生から確認してほしい。亮は、わかったと答えた。なぜ直接話してくれないのかとは聞かなかった。

それがうれしかった。夫婦だからすべてを共有するのではない。相手の役割を尊重して初めて、助けを求められることもあるのだと、美咲は思った。

*

北陵総合病院のICU。

美咲が柏木の体位を変えている。

柏木の指が、わずかに動く。

「柏木さん? 聞こえますか」と美咲が言った。

柏木の唇が、かすかに動く。

「……さわ……たり……」

「さわたり?」

「……書き換え、たのは……さわ、たり……」

柏木は再び目を閉じた。

美咲はメモ用紙に震える字で書きつける。「さわたり」。

*

午後9時。北陵駅前の居酒屋『とりまさ』。

カウンターで、宇佐見が一人で飲んでいる。

店の外。電柱の陰に、亮。

宇佐見の隣に、男が座る。仕立てのいいスーツ。

亮は目を凝らす。沢渡圭吾。

二人は、低い声で何かを話している。宇佐見の顔が、みるみる強張っていく。

沢渡は1万円札をカウンターに置いて、先に店を出る。

亮はとっさに身を隠す。沢渡は、亮のすぐ前を通り過ぎ、夜の雑踏に消える。

*

午後10時3分。北陵駅の南口の階段。

長い石の階段。人通りはまばら。

千鳥足の宇佐見が、階段の上に現れる。

亮は少し後ろから追っている。

宇佐見の背後に、フードの人物が近づいていく。

午後10時5分。

フードの人物の手が、宇佐見の背中に伸びる。

「デスク!」と亮が言った。

亮は駆け上がる。宇佐見の体が前に傾く。

亮は2段飛ばしで駆け寄り、落ちかけた宇佐見の腕を掴む。

二人は、階段の途中の手すりにしがみつく。

フードの人物は、もういない。

宇佐見は荒い息で座り込む。

「……真柴」

「今の、見ましたか」

「……押された」

宇佐見の顔が、酒ではなく、恐怖で青ざめている。

*

北陵駅前のベンチ。

亮が自販機の水を宇佐見に渡す。

「さっき、居酒屋で沢渡と会ってましたね」と亮が言った。

宇佐見は水を飲む手を止めた。

「久我の秘書と、何を話してたんですか」

「……取材だ。知事選の」

「デスク」

「取材だと言ってるだろう!」と宇佐見が言った。

宇佐見は立ち上がる。

「……助けてくれたことには、礼を言う。だが、3年前のことは、掘り返すな。お前のためだ」

宇佐見はふらつきながら去っていく。

亮はその背中を見送る。

*

県警本部の捜査一課。

桐生はパソコンの画面を睨んでいる。宮内が覗き込む。

「河川敷のワゴン車、下2桁38で、色と車種で絞ったら、3台まで来ました」

「その中に、リース車は」

「一台。……リース元は『株式会社グリーンリーフ』。代表者は、沢渡圭吾」と宮内が言った。

桐生は椅子の背にもたれる。

「緑の葉っぱ、か」

*

真柴家の居間。

亮は美咲から受け取ったメモを見つめている。「さわたり」。

「柏木さんが、そう言ったのか」

「書き換えたのは、さわたりって」

亮は沢渡の名刺を美咲の前に置く。

「……この人」と美咲が言った。

「久我の秘書。3年前は、緑風会の事務長だった」

亮のスマホが鳴る。桐生。

「河川敷のワゴン車、沢渡の会社のリース車だ」

「……沢渡が、殺す側」

「車の契約名義だけでは、誰が運転したかまではわからない。裏づけを重ねる必要がある。上は、知事選の前に久我の周辺を触るなと言ってくる」

「じゃあ、どうすれば」

「もう一人を探せ。知らせる側だ。そいつが、沢渡の計画を全部知ってる」

*

倉田が帰ったあと、桐生は紙をすぐには片づけなかった。5枚を並べ、端を揃えた。亮は、名前の順番を見ていた。

「順番に意味があるんでしょうか」

「あるかもしれん。だが、意味があると決めるな」

桐生は一枚ずつ番号を振った袋へ入れた。亮が触ったもの、美咲が触ったもの、机の上に置いたもの。誰がどこで扱ったかを、わかる範囲で書いた。

「いまさら、指紋なんて」

「出るかどうかは別だ。どう扱ったかを残す。あとで都合のいい説明をしないためにな」

亮は最初の紙を何度も折り直したことを話した。堀田の記事には、火事の現場で触れたかもしれない。桐生は、かもしれない、とそのまま書いた。

「覚えてないところを、覚えてるように埋めるな」

「取材でも同じですね」

「同じだろうな。お前は、誰が何を言ったかを書く。俺は、誰が何をしたかを調べる。どっちも、空白が嫌いだ」

桐生は最後の袋を閉じた。

「空白があると、仕事をしてないように見える。だから、もっともらしい話で埋めたくなる」

亮は3年前の記事を思った。施設長は責任を感じていた。だから命を絶った。空白は、その1文で埋まった。誰が最後に会ったのか。なぜあの場所へ行ったのか。何を持っていたのか。問わなくても済むようになった。

「新聞を作った人間は、そこを知ってるんでしょうね」

亮が言うと、桐生はうなずいた。

「結果を先に書けば、お前が動くと知ってる」

「俺を信用してるんですか」

「信用とは限らん。弱いところを知ってるだけかもしれん」

亮はその言葉を受け止めた。助けるための紙だと考えれば、送り主は味方になる。だが、自分がそう思いたいだけなら、また同じことを繰り返す。

桐生は販売所へ行く前に、亮へ一つ確認した。

「紙を作れる人間を見つけても、それだけで犯人だと思うな。プリンターがある家なんて、いくらでもある」

「わかってます」

「わかってる、で済ませるな。お前の上司が狙われてる。いま、お前は、助けたい相手と疑いたい相手を分けられなくなってる」

亮は反論しようとして、やめた。宇佐見の死亡記事を見た瞬間、怖さより先に、なぜこの人が、と思った。その問いの中には、宇佐見だけは無関係であってほしいという願いがあった。

亮はノートを開き、宇佐見の名前の横に、資料を渡した人物、と書いた。恩人とも、共犯者とも書かなかった。

*

鑑識の倉田が置いていった用紙を、亮は指先で擦った。偽物の新聞と同じ手触りだった。

超常現象でなくなったのなら、安心できるはずだった。けれど亮には、幽霊より現実のほうが怖かった。誰かが紙を選び、余白を計り、まだ生きている人の死を見出しにした。その手つきには、手順があった。

この紙を選んだ人間がいる。余白を調整し、見出しの大きさを決め、名前を打ち込んだ人間がいる。

水野紗季さん、17歳。

堀田正臣さん、70歳。

死んでいない人の死亡記事を作るあいだ、その人は何を考えていたのか。助けてほしいと願っていたのか。それとも、亮が失敗するところを見たかったのか。

桐生は知らせる側も犯罪に関わっている可能性がある、と言った。亮にもわかっていた。善意だけで、殺人の予定表を手に入れることはできない。

美咲が洗濯物を畳みながら、ぽつりと言った。

「どうして新聞なんだろう」

「俺が記者だからじゃないか」

「それなら手紙でもいいよね。何時に誰が狙われる、って」

亮は紙を見下ろした。

手紙であれば頼み事だった。死亡記事は、起きてもいない出来事を完了形で押しつけてくる。

助けてください、ではない。助けなければ、こうなる。書かれた過去を目の前に置くことで、誰かが亮に、未来の責任を引き受けさせている。

「俺に、読ませたかったんだ」

美咲は手を止めた。

「名前を、死んだあとの記事として読ませたかったんだ。読まれたら、その人は反論できない。三年前の葛西さんと同じように」

亮は紙を重ねた。いちばん下にある紗季の記事の角が、何度も折り直されて白く毛羽立っていた。

*

大野は販売所の奥に置かれたプリンターの電源を入れた。機械が低い音を立て、用紙を送る準備を始めた。亮は、その音を聞いていた。何か特別な装置を想像していた自分が、少し恥ずかしかった。

「折り込みの案内を刷る。休刊日の知らせも。配達先への連絡もな」

大野は言った。

「誰でも使えるんですか」

「仕事で必要なら使う。だからって、誰が何を刷ったか、全部覚えてるわけじゃねえ」

亮はうなずいた。機械があることと、偽の新聞を作ったことは違う。大野は、亮の顔を見て付け加えた。

「配る仕事をしてると、新聞の中身まで俺たちが作ってるみたいに怒られることがある。記事が気に入らないから、もう持ってくるなってな」

亮はすみません、と言った。

「お前に謝らせたいんじゃねえ。逆もあるって話だ。記事がよかったからって、配達の遅れがなくなるわけじゃない。作るのと届けるのは、別の仕事だ」

大野は用紙の入った棚を開けた。紙は何種類もあった。厚いもの、薄いもの、色のついたもの。亮は、紙の違いを指先で確かめた。

「でも、届かなきゃ読まれねえ。そこだけは、つながってる」

大野は棚を閉めた。

亮は偽の新聞を作った人間が、なぜ普通の新聞に挟んだのか考えた。郵便で送ることもできた。玄関へ直接置くこともできた。それでも、毎朝届くものの中へ入れた。

亮が疑わずに開くもの。家の中へ入れて、食卓に広げるもの。その習慣を、誰かが知っていた。

大野は配達順の紙を見せることは断った。他の家の情報が載っているからだ。亮は、必要なことは警察から正式に確認してもらうと答えた。

帰り際、奥の机に、小さな定規が置かれているのが見えた。紙の端を揃えるためのものだろう。亮は、その定規を手に取らなかった。何でも手がかりに見えるときほど、見たものを自分の話へ取り込むのが早くなる。

外へ出ると、空はまだ暗かった。新聞を積んだ自転車が、一台ずつ販売所を離れていく。亮はその背中を見た。毎朝、顔を見ずに受け取ってきた紙の向こうに、こんな時間があった。

*

午前2時。北陵日報東町販売所の奥の作業場。

暗い作業場。業務用プリンターだけが、低い音を立てて動いている。

誰かの手が、刷り上がった一枚の紙を取り上げる。黒ずんだ指先。

紙面の見出しは、まだ見えない。

手が、紙を折り畳み、新聞の束の間に差し込む。

*

午前4時。真柴家の玄関前。

ポストの中の紙。亮は、開く。

北陵日報 10月16日

県議・久我俊之氏が急死 後援会パーティー会場で

15日午後8時ごろ、北陵グランドホテルで開かれていた後援会パーティーの会場で、県議会議員の久我俊之氏(63)が突然倒れ、搬送先の病院で死亡が確認された。来月の知事選に出馬を表明していた。

亮は紙を見つめる。

「……久我が、狙われる?」と亮が言った。

殺す側だと思っていた陣営の、頂点の名前。


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