第10章 今日の新聞
森下湊は姓を変えたとき、それだけで少しは別の暮らしが始まると思った。郵便物の宛名を見ても、父の名前へ心が戻らない朝が来るのではないか、と。そんな朝は、一度も来なかった。
葛西と呼ばれるたび、誰かの目が動いた。あの施設長の、と声を潜める人がいた。面接で家族のことを聞かれると、答える前に相手の表情を読もうとした。相手が何も知らなくても、湊のほうが先に身構えた。
母の旧姓を名乗るようになってから、知らない町へ来たような気がした。住んでいる場所は同じなのに、店で名前を呼ばれても、父の顔が浮かばなくなった。
それを楽だと思った自分が、許せなかった。
父を忘れたいわけではない。ただ、父が死んだあとの自分として、毎日を始めることに疲れていた。
大野は理由を聞かなかった。履歴書を見て、配達は朝が早いぞ、とだけ言った。湊は、早いほうがいいです、と答えた。夜に眠れなくても、朝になれば仕事がある。それだけで、少し息ができた。
新聞を配る仕事は、嫌いではなかった。町が目を覚ます前に、玄関先へ紙を置く。会わない人の暮らしを、毎朝少しずつ知る。傘が増えた家。植木鉢がなくなった家。昨日まで点いていた玄関灯が消えた家。
新聞は、鍵をかけていない人の時間へ入り込む。父の名前が載った朝も、紙は町の何百という玄関を通り抜けた。湊はそれを配る側へ回り、何をしようとしているのか自分でもわからないまま、配る家をひとつ増やした。
そのことを考えると、湊はハンドルを握る手に力を入れた。
真柴亮の家を担当したいと言ったのは、母が死んでからだった。恨みを育てるためだったのか、それとも、恨み以外の何かを見つけたかったのか。いまでも、湊にはうまく説明できなかった。
*
あの10月10日の朝のことを、湊は忘れられなかった。
フードの下の横顔。森下湊(24)。
あの朝、俺は、あなたを殺すつもりだった
湊はバッグの口を開けた。新聞の束の下、タオルに包んだナイフがあった。触れてみると刃ではないほうまで冷たかった。
その横に、一枚の紙。湊が何晩もかけて作った、北陵日報そっくりの紙面。
北陵日報記者・真柴亮氏(38)死亡
親父の命日に、同じ踏切で、と沢渡さんは言った。でも、俺は待てなかった。毎月10日の朝、ここに止まる車があることを、俺は知っていた
ヘッドライト。古い軽自動車が近づき、踏切の手前で止まる。
湊はナイフの柄を握る。
運転席のドアが開く。
亮が車を降りる。手には、小さな白い菊の花束と、缶コーヒーが一本。
亮は柱の根元にしゃがみ、枯れた花の横に、新しい花をそっと置く。缶コーヒーを、その隣に立てる。
湊の目が、缶コーヒーのラベルに釘付けになる。
親父が、毎朝飲んでいた銘柄だった
亮は両手を合わせ、頭を下げる。長い、長い時間。
「……葛西さん。すみません。……今月も、何も、できませんでした」と亮が言った。
小さな、かすれた声。
湊はナイフを握ったまま、動けない。
毎月10日、踏切に花が置いてあった。誰かが置いているとは知っていた。母さんが死んでからも、花は続いた
亮は車に戻る。ドアが閉まる。車は、そのまましばらく動かない。曇ったガラスの向こうで、運転席の男が顔を覆っている。
3年間、毎月。……俺は、その人の顔を、初めて見た
警報。遮断機。午前4時3分。貨物列車。
車窓の明滅が、湊の顔を照らす。泣いている。
列車が去る。車が走り去る。
湊の右手が、バッグから出てくる。何も握っていない。
*
10月10日の朝を、湊は何度も思い返す。あの日、取り返しのつかないことを一つ選ぶ寸前で、自分の指が止まった。
湊は肩で息をしながら、ポケットから折り畳んだ紙を取り出す。沢渡から渡された「リスト」。
水野紗季(17) 10日 午後4時12分 東町踏切
堀田正臣(70) 11日 午後11時40分 自宅
柏木奈緒(42)……
沢渡さんは、これは親父を追い詰めた連中のリストだと言った。でも、一番上にあったのは、17歳の女の子の名前だった
湊は紗季のSNSの画面を見る。祖母の留守番電話の動画。
「……葛西さんだけが、夜中にね、来てくれるの……」
湊は顔を覆う。
親父を追い詰めた連中じゃない。親父と同じものを、見てしまった人たちだった
湊はパソコンを開く。画面には、自分が作った真柴亮の死亡記事の紙面。
湊はその記事を消す。
そして、空いた場所に、新しい見出しを打ち込み始める。
女子高生、踏切ではねられ死亡 北陵市東町
あなたを殺すために作った新聞で、あなたに、人を助けさせようと思った
*
父が死んだあと、湊は冷蔵庫の中の缶コーヒーを捨てられなかった。父が買い置きしていたものだった。母は、飲んでいいのよと言った。湊は、あとで、と答えた。
飲めば減る。減れば、父が買ったものがなくなる。そんなことを考えている自分が幼く思えて、誰にも言えなかった。
家の電話は、何度も鳴った。取材の申し込みも、無言の電話もあった。母は最初、丁寧に答えていた。夫はそんな人ではありません。資料を確かめてください。話を聞いてください。電話を切るたびに、母の声は小さくなった。
湊はもう出なくていいと言った。母は、誰かが話を聞いてくれるかもしれないと答えた。
その誰かの中に、真柴亮もいた。
湊は新聞の署名を覚えた。名前を検索した。ほかの記事を読んだ。地域の困り事を丁寧に伝える記事もあった。被災した家族を取材した文章もあった。そういうものを読むたび、湊は腹が立った。人の苦しみをわかるように書ける人間が、なぜ父の話を聞かなかったのか。
母は、記事を切り抜いて封筒に入れた。抗議のために必要だと言った。だが、途中から、何をどこへ送ったかを忘れるようになった。疲れているのだと、湊は思った。病院へ行こうと言うと、母は、いまはそれどころではないと答えた。
父の死の説明を求めることが、母の生活の中心になった。朝起きて、電話をかけ、返事を待つ。返事がなければ、次の日にまたかける。湊は働きながら、母の食事を用意した。最初は自分も一緒に電話をした。だが、何も変わらない日が続くと、声を出すこと自体が嫌になった。
ある晩、母が、あなたまで黙らないで、と言った。
湊は黙っているんじゃない、仕事で疲れているんだ、と怒鳴った。母は謝った。その謝り方が父に似ていて、湊はますます腹が立った。
「父さんだって、家では何も言わなかったじゃないか」
言ってから、湊は後悔した。母は食卓の端を見ていた。
「言えなかったんでしょうね」
母はそう答えた。
湊は自分の部屋へ戻った。扉を閉めたあとも、母が食器を片づける音が聞こえた。翌朝、謝ろうと思った。だが、母が普通の声で朝食のことを聞いたので、何もなかったように返事をした。
謝らなかった言葉は、消えなかった。何もなかったように暮らす日々の中へ、沈んでいった。
母の入院が決まったころ、湊は仕事を減らした。収入が減ると、家賃と病院へ通う交通費を、同じ紙の上で計算するようになった。父の名誉の話をしていたはずなのに、いつの間にか、明日の支払いの話ばかりになった。
母は病室で、家の窓を開けているかと聞いた。湊は、開けていると答えた。本当は、カーテンも閉めたままだった。外から家を見られるのが嫌だった。
「たまには、空気を入れて」
母は言った。
湊はうなずいた。帰宅して窓を開けると、部屋の匂いが動いた。父の上着を掛けた場所に、埃がたまっていた。湊は雑巾を持ってきて拭いた。父の物を片づけることは、父を忘れることではない。そう思いたかったが、上着を畳むところまではできなかった。
母が亡くなったあと、家は静かになった。電話が鳴っても、出る人がいない。湊は、呼び出し音を小さくした。父のために話し続けた母の声を、自分は止めたかったのだろうか。そう考えると、何も手につかなくなった。
沢渡が訪ねてきたのは、そのころだった。
最初は、線香を上げたいと言った。湊は断ろうとした。だが、父の死について知っていることがあると言われ、扉を開けた。
沢渡は父の名前を丁寧に呼んだ。葛西さんは、現場のために働いた人でした。責任を押しつけられた。私にも、止められなかったことがある。
湊はその言葉を聞きたかった。
誰かが父を悪くないと言ってくれる。しかも、施設の中にいた人間が。疑うべき相手だと、頭のどこかではわかっていた。それでも、話を聞いた。
沢渡は新聞がすべてを決めたと言った。記者が父を追い詰めた。役所も警察も、記事が出たあとでは引けなくなった。父を守れなかった自分たちも悪いが、最初に人を殺す言葉を書いたのは、真柴だ。
湊は机の上の新聞を見た。署名があった。何度も検索した名前だった。
沢渡はすぐに何かを頼んだわけではない。何度か訪ねてきて、母の話を聞いた。病院の費用は大変だったでしょうと言った。湊が答えないと、無理に聞かなかった。聞かないことまで、優しさに見えた。
やがて、父を追い詰めた人間たちの名前を知っていると言った。
湊はその話へ自分から近づいた。
あとになって、騙されたと言えば、少しは楽になったかもしれない。だが、湊は聞きたい話を選んで聞いた。沢渡が父を守ろうとした人間に見えるように、都合の悪い疑問を脇へ置いた。
父を殺したのは誰か。その問いを、一人の記者の名前へ縮めることで、自分の怒りに行き先ができた。
販売所へ入ったのは、生活のためでもあった。夜明け前の仕事なら、人と長く話さずに済む。だが、亮の家の担当を希望したのは、自分の意思だった。
大野は理由を聞いた。湊は、家から近いので、と答えた。嘘だった。大野は、それ以上聞かなかった。聞かれないことに、湊はまた救われた気がした。沢渡に対して感じたものと似ていると気づき、嫌になった。
配達を始めると、家ごとに生活の時間が違うことがわかった。まだ暗いのに台所の灯りがついている家。犬が吠える家。玄関に、起こさないでくださいと貼り紙のある家。湊は新聞を差し込む音を小さくするようになった。
真柴家の台所にも、灯りがついている日があった。窓越しに人影が動く。看護師の服を着た女性が、弁当を詰めていた。
ある朝、真柴家のポストに〈配達の方へ〉と書かれた袋が下がっていた。寒い中、ありがとうございます。使い捨てのカイロが一つ入っていた。
ある朝、玄関の前に、配達の人へ、と書いた袋が置いてあった。中に使い捨てのカイロが入っていた。寒い中、ありがとうございます。短いメモだった。
湊は持ち帰らなかった。ほかの配達員のために置かれたものかもしれないと思った。だが、次の日も同じ場所にあった。3日目、大野に話すと、もらっておけと言われた。
湊は袋を鞄へ入れた。メモは捨てた。カイロは使わなかった。使えば、真柴家から何かを受け取ったことになる気がした。
そのカイロは、部屋の引き出しに残っていた。偽の新聞を作るために紙を探した夜、湊はそれを見つけた。握ると、中の粉がかすかに動いた。
父を奪った記者の家から届いた、小さな親切。
父の名前を汚した記者の家から届いた小さな気遣い。湊は引き出しを閉めた。誰かを憎み続けるには、見ないことにしておくものが多すぎた。
*
北陵日報東町販売所。
店を閉めかけている大野の前に、亮が血のついた自転車を引いて立っている。
大野は自転車を見て、すべてを悟った顔になる。
「7番の自転車。森下くんのですね」
「……あいつ、今朝から来てねえ」
「大野さん。森下くんは、誰なんですか」
大野は長い沈黙の後、煙草に火をつける。
「葛西湊。……葛西誠一さんの、一人息子だ」と大野が言った。
亮は目を閉じる。
「3年前、親父さんがあんなことになって、母親の旧姓に変えた。行くとこがなくて、うちに来た。俺は昔、葛西さんにお袋の介護で世話になってな。黙って雇った」
「……」
「あんたの家の担当にしてくれって言ったのは、あいつだ。半年前、母親が死んだあとだよ」
大野は煙を吐く。
「あいつは、あんたを恨んでた。間違いなく。でもな、記者さん。恨んでる人間ってのは、恨んでる相手のことを、誰より毎日見てるもんだ」と大野が言った。
亮のスマホが鳴る。美咲。
「亮。思い出した。あの手……森下典子さん。半年前に、うちの病棟で亡くなった患者さん。息子さんが毎晩、仕事の前にお見舞いに来てたの。指先が、いつもインクで黒かった」
「……ああ」
「典子さん、亡くなる前の晩に、私に言ったの。『主人が自分で命を絶ったとは、どうしても思えない』って。……旦那さん、3年前に、踏切で亡くなったって」
「葛西誠一さんの、奥さんだ」
電話の向こうで、美咲が息を呑む。
「大野さん。あいつが行く場所、わかりますか」
「行くとこなんか、一つしかねえよ」と大野が言った。
*
浄光寺の葛西家の墓。
高台の古い寺。墓地の向こうに、町の灯りと、東町踏切の赤い警告灯が小さく見える。
「葛西家之墓」の前に、湊が座り込んでいる。左腕に、自分のTシャツを裂いて巻いた布。赤く染まっている。
足音。湊は、顔を上げない。
亮が、墓の前に立つ。
「……来ると思った。記者は、人の居場所を嗅ぎつけるのが仕事だから」
「その腕、病院に行こう」
「行ったら、警察が来る」
「来ていい。もう、隠れなくていい」と亮が言った。
湊は笑う。力のない笑い。
「隠れてたのは、あなたのほうでしょう。3年間、毎月10日、夜明け前に、誰にも見られないように」
亮は黙って湊の隣に腰を下ろす。
長い沈黙。
「……どうして、俺を殺さなかった」
「殺すつもりだった。十月十日。ナイフを持ってあの踏切で待っていました」。湊は父の墓碑に触れなかった。触れれば、父に聞かれている気がした。
「……」と亮が言った。
「あなたは車から降りて、菊と缶コーヒーを置いた。ずっと頭を下げていた」。湊は声を絞った。「一人きりのつもりで謝っている人を見たら、刺すために用意した言葉が、全部消えたんです。許したわけじゃない。でも、殺せなかった」
亮はうつむく。
「沢渡さんは、二か月前、この墓の前で俺に声をかけてきた。親父を殺したのは真柴亮の記事だ、親父を追い詰めた連中に、思い知らせてやろうって。……俺は、その言葉が欲しかった。誰かのせいにしたかった」
「俺の記事が、あの人を追い詰めた」。亮は湊の顔を見た。「それは、何がわかっても変わらない」
「違う」と湊が言った。
湊は初めて亮の顔を見る。
「記事だけじゃない」。湊はようやく亮を見た。「父の印鑑で偽の書類を作り、記録をねじ曲げて、最後に踏切へ呼んだ人がいる。だから、あなたにも責任がある、という言い方だけで終わらせたくないんです」
「……」
「警察が信じられなかったのは本当です。でも、それを理由にするのは卑怯なんです」。湊は包帯を押さえた。「俺は沢渡に人の行動を教えた。危険だと知ってからも。自分が巻き込まれるのが怖くて、真柴さんだけに紙を配った。そのせいで助けられなかった人もいる」
「だから、新聞を」と亮が言った。
「あなたは、記者でしょう」
湊の声が震える。
「親父は、あなたに日誌を送った。本当のことを書いてくれって。……あなたは、3年間、開けなかった」
「……ああ」
「だから俺が届けた。明日の日付の新聞を」。湊は唇を噛んだ。「あなたなら自分の足で現場へ行くと、勝手に決めた。助けられた人がいた。それも事実です。でも、試す相手に選ばれた人たちの気持ちを、俺は聞いていなかった」
湊は空を見上げる。
「父が望んだことは、今もわかりません」。湊の声は震えていた。「ただ、あの人が書き残したことを、俺が消すわけにはいかなかった。それだけです」
亮は声を殺して泣く。
「……君を、ずっと探してた。誰が、何のために、って」
「答え、出ましたか」
「君が誰かを助けようとしたことは、事実だ」。亮は答えた。「だが、それで二人がしたことが相殺されるわけじゃない。俺も君も、これから別々に引き受けなきゃならない」
湊は目を閉じる。体がぐらりと傾く。
「湊くん!」
亮は湊の体を支える。腕の布から、血が滴り落ちる。
「しっかりしろ!」
「……真柴さん。お願いがあります」
「何だ」と亮が言った。
「俺のことも書いてください。沢渡に人の暮らしを教えたことも、新聞を作った理由も」。湊の呼吸が乱れた。「どちらかだけなら、また別の嘘になるから」
亮は湊を背負って立ち上がる。
「書く。でも、いまは死ぬな」。亮は湊を背負い直した。「何を書くか、俺一人で決めるつもりはない。君が生きていてくれないと、確かめることもできない」
湊は亮の背中で、かすかに笑う。
「……それは、困りますね」
*
北陵総合病院の救急処置室。
ストレッチャーの湊。処置にあたる医師と看護師たち。その中に、美咲。
美咲は湊の顔を見下ろす。
「……湊くん」と美咲が言った。
湊は薄く目を開ける。
「……真柴さんの、奥さん。母が、お世話になりました」
美咲は処置の手を止めずに、湊の耳元で言う。
「典子さんから、伝言があるの。ずっと、誰に渡せばいいか、わからなかった」
「……」
「『湊には、あの子の暮らしを生きてほしい』って」と美咲が言った。
湊の目から、涙がこぼれる。
*
湊が目を覚ましたとき、窓の外は明るかった。朝なのか昼なのか、すぐにはわからなかった。腕が重い。起き上がろうとすると、看護師が声をかけた。まだ無理をしないで、と言った。
湊は新聞を配らなければと思った。そう考えたあとで、自分が病院にいることを思い出した。踏切。車。亮の背中。母の名前を呼んだ看護師の声。
典子さんから、伝言があるの。
湊は目を閉じた。母が死んでから、誰かが母の名前を普通の声で呼ぶのを、あまり聞いていなかった。父の妻。事件の遺族。そういう説明の中に、母の名前は埋もれていた。
看護師に、美咲に会えるかと尋ねた。看護師は、確認しますと答えた。すぐに会えるとは言わなかった。その返事が、湊には少し安心だった。会いたいと言えば会える世界ではない。だが、確認すると言った人が、確認して戻ってくる。その小さな約束が守られることを、いまは信じてみたかった。
美咲は患者として別の場所で休んでいると聞かされた。湊は、自分がしたことの広さを、そこで改めて知った。亮だけを試したつもりだった。だが、亮には妻がいた。妻には仕事があり、同僚がいて、帰りを待つ人がいた。自分が紙に名前を打ち込んだ人たちにも、同じように暮らしがあった。
大野が来たのは、午後だった。病室の入口で帽子を取った。いつも販売所で被っているものだった。
「自転車、壊しました」
湊が言うと、大野は椅子を引いた。
「それは、あとで話す」
「すみません」
「謝る相手は、俺だけじゃねえだろ」
湊はうなずいた。大野は持ってきた袋を床へ置いた。着替えが入っていた。湊の部屋へ入る許可を、警察と本人に確認してから取ってきたという。
「勝手に片づけてねえからな」
大野は言った。
湊はその言葉で泣きそうになった。父が死んだあと、家には何人も人が来た。必要だからと言って、物を動かし、紙を集め、部屋の中を変えていった。自分の部屋なのに、どこへ何を置いてよいのかわからなくなった。
「仕事、もうできませんよね」
大野はすぐには答えなかった。
「いま決めることじゃねえ。まず、したことを話せ。体を治せ。その先の話は、その先だ」
「待ってくれるんですか」
「待つって言えば、お前は安心するのか」
湊は口を閉じた。
「安心させるために、決めてもいないことを言う気はねえ。ただ、話を聞く場所はなくさない」
大野は袋からタオルを出した。販売所の名前が入っていた。古いが、きれいに洗ってあった。
湊は受け取った。父の名誉が回復すれば、自分の暮らしも戻ると思っていた。だが、戻るのではない。したことを抱えたまま、これからの暮らしを作らなければならない。その難しさを、大野は優しい言葉で隠さなかった。
*
県警本部の取調室。
治療を受けた湊は数日後、腕を吊った姿で桐生の聴取を受けた。
湊は自分のスマホを机に置く。
「沢渡との会話を録音しました。全部ではありません。録れた分を、この場で提出します。改ざんしたかどうかも調べてください」。湊はスマートフォンを机に置いた。
湊は現場で見たことと、沢渡から聞かされたことを分けて話した。放火や襲撃の実行役には、沢渡が金で動かした別の人間がいた。湊が調べた生活の時間が、その人間たちへ渡っていた。
「自分で手を出していないから、関係ないとは思ってません」と湊は言った。
沢渡は襲撃を少しずつ実行し、事故や自殺に見せようとした。湊には日々の配達と見張りの予定が渡され、その一部から紙を作った。だが予定の変更を知らされない時もあった。堀田への二度目の襲撃を知らなかったことは、湊の関与を消さない。
なぜすぐに資料を外へ渡さなかったのか、と桐生が尋ねると、湊は長く黙った。
「警察が信じられなかったのは本当です。でも、それだけじゃない。真柴さんを試したかった。助けに行くかどうか、見たかったんです」
湊は机の上の指を見た。
「そのために、人の命を使いました」。湊は膝に置いた手を見た。「助けようとしたから正しかった、とは書かないでください」
桐生はスマホを手に取る。
「10月20日の夜のファイルを聞いてください。沢渡さんが、酒に酔って、親父のことを話してます」
桐生はイヤホンを耳に当てる。
「あの施設長は、俺の渡した缶コーヒーを飲んだ。四時三分の貨物は本当に音がでかい」。録音の向こうで沢渡が笑った。桐生は一度だけ停止し、再び再生した。声紋も前後関係も、これから確かめる必要がある。
桐生はイヤホンを外す。長い息を吐く。
「……3年かかったな」
「3年と、少しです」と湊が言った。
桐生は宮内を振り返る。
「部長に伝えろ。葛西誠一の件は、殺人で再捜査だ。録音を正式に保全して、供述と照合する。今度は、上の見立てだけで終わらせないとな」
*
掲載を決めるまでの数日間、亮は何度も原稿を書き直した。最初の稿には、沢渡の犯罪と葛西の告発が、大きな流れとして書かれていた。読めば、何が起きたかはわかる。だが、自分のしたことが、流れの途中の小さな石になっていた。
早瀬はそこを指摘した。
「真柴さんが封筒を開けなかったこと、ここだけだと、受け取りの手違いみたいに読めます」
亮は画面を見た。確かに、受領後、確認されないまま保管されていた、と書いてあった。誰が確認しなかったか、主語がない。
「俺が開けなかった、と書く」
「それと、捨ててくれと言ったことも」
亮はうなずいた。指摘されるまで書かなかった自分が、情けなかった。だが、情けなさを原稿に足しても、事実の代わりにはならない。
〈私は封筒を開けず、妻に処分を頼んだ。妻は私に告げずにそれを保管していた〉。主語を書き戻したとき、文章はかえって短くなった。
書き換えると、文章は短くなった。短くなった分だけ、逃げ場がなくなった。
三上は別の箇所に線を引いた。施設長の指示を裏づける資料が存在しなかった、と断定している部分だった。
「存在しなかったのか。俺たちが確認できなかったのか」
亮は資料を見直した。偽造された指示書はあった。存在しなかったのは、本物の指示を示す証拠だ。だが、すべての資料を見たわけではない。
「当時、指示の真正を十分に確認しないまま掲載した、とします」
三上はうなずいた。
「謝罪の記事だから、強く書けば誠実になるわけじゃない。確認できた範囲を、正確に書け」
自分を悪く書けば誠実な記事になるわけではない。謝罪する気持ちと、確認できた事実の範囲は違う。亮は行き過ぎた断定を削り、削った箇所に質問を残した。
原稿は、亮以外の記者にも読まれた。3年前の取材に関わっていない人間が、資料と引用を照合した。亮が話したことも、証言の一つとして扱われた。自分の記憶だから正しいとはされなかった。
亮は何度も苛立った。自分がしたことを本人が話しているのに、なぜまだ疑うのか。その苛立ちを覚えるたび、葛西にも、説明を何度求められても信じてもらえない時間があったのだと気づいた。
湊の話については、弁護士を通じて取材の範囲を確かめた。捜査中の事柄を、本人が話したからという理由だけで、すべて載せることはしなかった。偽の新聞を作った動機と、犯罪への関与は分けた。人を救った場面を大きく描いて、責任を小さく見せないようにした。
「俺を、いい人にしないでください」
湊はそう言った。
亮はいい人か悪い人かを決めるための記事ではないと答えた。言いながら、自分がその区分に何度も逃げてきたことを思った。
掲載の前夜、亮は葛西の写真を選んだ。施設の前で撮られたものと、家族が持っていたものがあった。家族写真を使えば、人柄は伝わるかもしれない。だが、湊が公開したくないと言えば、使わない。
湊は父だけが写っている写真を選んだ。庭で何かを直している写真だった。顔は横を向いている。
「正面の、きれいなのじゃなくていいですか」
写真担当の記者が尋ねた。
「これが、うちの父なので」
湊は答えた。
亮はその言葉を記事へ入れなかった。取材で聞いたからといって、すべてが紙面のものになるわけではない。ある記憶を家族のところへ残すことも、記者の仕事だと思った。
*
北陵日報の社会部。原稿の最終稿に赤字の修正が並び、亮の机には照合済みの資料が積まれていた。
亮は最後の一行を送信し、手を止めた。キーボードに残る指の熱が消えるまで、しばらく画面を見ていた。
早瀬と、局長の三上が、背後から画面を覗き込んでいる。
「裏は」
「沢渡の録音と原本、葛西さんの日誌、関係者の証言を別々に照合しました。未確認の部分は未確認と書いてあります。捜査中で出せない部分は、記事から外しました」
「お前自身のことは」と三上が言った。
「原稿の中に書きました。三年前、裏づけが足りないまま記事を出したこと。葛西さんから届いた封筒を開けなかったこと。捨てるよう妻に頼んだこと。毎月十日に、取材にもならない謝罪を続けていたこと」
三上は、しばらく画面を見つめ、うなずく。
「載せよう」。三上は言った。「一面だ。ただし、明日から社内の検証も始める。この記事ひとつで終わらせるな」
早瀬が、走り出す。
*
印刷工場に入ると、機械の熱とインクの匂いが一度に押し寄せた。
巨大な輪転機が動き出した。重い音の下に、細い紙の擦れる音がある。亮は、そちらを聞いていた。
白い帯が機械の中を通り、文字をまとい、幾重にも折られてゆく。名前を載せた紙が誰の手に届くのか、印刷の現場にいてもわからない。
刷り上がった一部を受け取ると、指先が黒くなった。文字の向こうで葛西が息をしていた時間のことを、亮は思った。
ざらつく紙。温かなインク。今度はその手触りから目をそらさなかった。
日付は夜明けを待つ紙の最上段に印刷されていた。まだ翌日の日付だった。
読者がそれを開くころには、今日の新聞になる。書いた者には、その一日を引き受ける仕事が残る。
*
北陵西高校の音楽室で、紗季はクラリネットを吹いていた。祖母の声の録音は、いつでも再生できる場所にある。だが今日は、音を止めずに最後まで吹ききることを選んだ。
病院のリハビリ室では、柏木奈緒が手すりに指をかけ、一歩進んだ。付き添いが数を数えるのを、もう少しゆっくり、と本人が頼んだ。
久我の事務所では捜査員が資料を運んでいた。ガラスに貼られた緑の葉の標章だけが、変わらず外を向いている。
宇佐見は面会室で息子と向き合った。謝罪の用意をしてきたのに、口を開くと何も言えなかった。息子も、父を楽にする言葉を探さなかった。
県警本部の会見場で権藤が頭を下げた。桐生は横に立ち、三年前の捜査の何が再検証されるのか、聞かれたことにだけ答えた。
「……3年前、自殺として処理した葛西誠一さんの事案について、殺人事件として再捜査を……」
*
午前四時。真柴家の玄関前に、冷えた朝が来た。
亮と美咲は並んで立っていた。美咲が外へ出ようと言ったわけではない。亮が誘ったわけでもなかった。二人とも、部屋で紙の音を待ちたくなかった。
自転車の音。
角から来たのは販売所の大野だった。慣れない手つきで朝刊を取り出し、亮へ差し出す。インクが爪に入り込んでいた。
「今日は俺が配る。代役の大野だ」。大野は笑い、すぐ真顔になった。「読んでやってくれ」
亮は新聞を受け取る。
一面。大見出し。
3年前の本紙報道は誤りでした
やすらぎの丘 元施設長は告発者だった 元県議秘書の関与を捜査
その下に、署名。
社会部 真柴亮
美咲は亮の手を取った。祝福するためではない。自分の手がそこへあることを、互いに確かめたかった。
「……日付、見て」
亮は紙面の上の欄を見る。
北陵日報 11月18日
紙に印刷されていたのは、今日の日付だった。そこには、今日を生きる人間の名前があった。
「……ああ。今日の新聞だ」
*
同じ朝の東町踏切。柱の根元には、いつもの菊を置くための僅かな空きがあった。
亮は白い菊と缶コーヒーを置いた。車は道路の安全な場所へ停めてある。初めてここに来た日のように、誰の目も避けてはいなかった。
足音。桐生が、自分の缶コーヒーを手に、隣に立つ。
「同じ銘柄か」
「ええ」と亮が言った。
桐生も缶コーヒーを置いた。二本が少し離れて並んだ。二人はその距離を直さなかった。
二人は、並んで手を合わせる。
午前4時3分。貨物列車が通り過ぎていく。
*
訂正記事が出た日、新聞社には電話が続いた。謝って済むのかという声。なぜいままで黙っていたのかという声。もう購読をやめるという声。勇気のある記事だという声もあった。
亮はどの電話にも、自分から評価をつけなかった。褒められたから正しくなったわけではない。責められたから、書かなければよかったわけでもない。
編集局は外部の人を交えた検証の手続きを始めた。誰が資料を受け取り、誰が確認し、どこで疑問が止まったのか。亮も宇佐見も、検証される側になった。三上は、自分が最終的に掲載を決めた責任を、社内向けの説明で明言した。
葛西の名誉を回復する記事と、自分たちの過失を調べる記事は別の仕事だった。前者が読者の胸を打っても、後者の手続きを省略できない。
湊は退院後も聴取を受けた。知らせる新聞を作ったことと、沢渡の指示で人の行動を調べたことは、分けて記録された。人を助けたから、したことが消えるわけではなかった。
亮は湊に、無罪になるとも、すぐに元の暮らしへ戻れるとも言わなかった。自分に決められないことを、約束してはいけない。
ただ、話を聞きに行く前には、必ず連絡を入れた。記事に使う言葉は確かめ、使わないと決めたことは、理由を説明した。湊が答えたくないと言った質問には、いったん線を引いた。
紗季は祖母の音声の公開範囲を、自分で決めた。柏木は回復を待ちながら、当時の書類を一枚ずつ確認した。堀田の遺族には、本人が語ったことと、まだ確かめられていないことを分けて伝えた。
大きな見出しは出た。だが事件は、そこで終わらなかった。
亮と美咲は以前から切れていた蛍光灯を買いに行った。似た箱が何種類も並び、二人で古い型番の写真を覗き込んだ。間違えないように、という美咲の言葉がおかしくて、亮は小さく笑った。
そのあとで、美咲が急に黙った。亮は理由を聞かなかった。帰りの車で、彼女が話し始めるまで待った。
「病院の前に着いたときのこと、夢に見る」
「うん」
「しばらく、一人で夜に出るの、怖いかもしれない」
「わかった」
もう大丈夫とは言わなかった。大丈夫でないまま暮らす日にも、朝食は要り、電球は切れる。その続きを二人でやることが、生き残ったということなのだろう。
*
12月に入ってから、亮は堀田の遺族に会った。最初の申し込みは断られた。もう話すことはないと言われた。亮は、返事を求めない手紙を送った。自分が何を聞きたいか、何を伝えたいかを書いた。取材を受けなくても、伝えるべき事実は文書で届けると記した。
返事が来たのは、二週間後だった。会うが、録音はしないでほしいという。
遺族は、堀田が昔使っていた診療所の待合室で待っていた。椅子は残っていたが、雑誌はなかった。壁には、四角い時計の跡だけがあった。
「父は、いい医者だったと言われてきました」
遺族は言った。
「いまも、そう言ってくれる人がいます。だから、今回のことを、どこまで受け止めればいいのか」
亮は堀田が関わったと確認できたことと、まだ捜査で確かめられていることを分けて説明した。生前に話そうとしていた内容も、本人の発言として残っている範囲だけを伝えた。
「最後に話そうとしたから、許されるんですか」
亮は首を振った。
「俺には、許されるかどうかを決めることはできません」
「新聞は、決めるでしょう。悪い人だったとか、悔い改めたとか」
亮は待合室を見た。何人もの人が、この椅子に座って堀田を待ったのだろう。診てもらって助かった人もいた。だからといって、施設での責任が消えるわけではない。施設で責任があったからといって、それ以前の仕事が、すべてなかったことになるわけでもない。
「どちらか一つにまとめないようにします」
亮は答えた。
遺族は、長く黙っていた。それから、堀田の妻が手入れしていた庭の写真を出した。火事の前のものだった。花の名前が、裏に書いてあった。
「父、花の名前を覚えなかったんです。母が何度教えても」
亮は写真を受け取った。記事に使うためではなく、見せられたものを見るために。
「この写真は、載せないでください」
「はい」
今度は、亮にも約束できた。使わないと決めた写真を、自分から編集部へ出す必要はない。
帰り際、遺族は、来てよかったとは言わなかった。亮も、話してもらえてよかったとは言わなかった。誰かにとって必要な時間が、同時に、つらい時間であることはある。取材の終わりに、気持ちのよい言葉を置かなくてもよかった。
*
春になり、柏木は店へ戻った。以前と同じ時間を働けるわけではなかった。店長と相談し、短い時間から始めた。亮は取材を申し込んだが、店では会わないことにした。仕事の場所を、事件の場所に変えたくなかった。
公園のベンチで会うと、柏木は釣り銭を数えるのが遅くなったと言った。指が思うように動かない日がある。客を待たせると焦る。焦ると、また間違えそうになる。
「でも、待ってくれる人もいます」
柏木はそう言った。
亮は回復したという言葉を使おうとしていた。だが、本人の話は、その言葉に収まらなかった。戻ったものと、戻らないものがある。働ける日と、休まなければならない日がある。
「私の名前、出していいです」
柏木は言った。
「ただ、被害者ってだけには、しないでください。書類を直したのは、私なので」
亮はうなずいた。柏木は、自分のしたことについて、警察でも話し続けていた。何が問われるかは、まだ決まっていない。怖くないわけではないと、本人は言った。
「怖いから黙ったのに、黙っていたほうが、ずっと怖くなったんです」
風が吹き、ベンチの下の葉が動いた。亮は、勇気を出した人という見出しを、頭の中で消した。柏木は勇気という言葉を使っていない。怖さを抱えたまま、話している。そのままを書けばよかった。
取材を終えると、柏木は買い物へ行くと言った。今夜は姉が来る。何を作るか、まだ決めていない。
亮は何が好きなんですかと尋ねた。柏木は少し考えた。
「私が好きなものですか」
「はい」
柏木は笑った。
「最近、あまり聞かれなかった。何があったか、ばかりだったので」
亮は謝りそうになり、やめた。いまは答えを待つ場面だった。
「餃子。作るのは面倒だけど」
柏木はそう言って、立ち上がった。亮はノートを閉じた。餃子という言葉を記事に使うかどうかは、まだわからない。それでも、柏木が今夜の食事を考えていることを、忘れないでいようと思った。
*
紗季が音楽室へ戻った最初の日、友人たちは何も聞かなかった。何も聞かないよう、先生に言われていたのかもしれない。紗季は、自分から話すべきか迷った。話せば、みんながどんな顔をするか想像できなかった。
楽器を組み立てると、指がいつもの場所へ動いた。だが、息を入れた瞬間、音が裏返った。隣の生徒が、リード替えた、と尋ねた。紗季は、まだ、と答えた。
それだけの会話だった。踏切のことでも、新聞のことでもない。楽器の話をしてもらえたことが、紗季にはありがたかった。
休憩の時間、一人の友人が近づいてきた。
「動画、見た」
友人の言葉に紗季の肩がこわばった。友人はそれに気づいて話を止めた。何か励ます言葉を探すより、まず表情を見てくれたことが、紗季にはありがたかった。
「おばあちゃんの。前に載せてたやつ」
紗季はうなずいた。
「また、載せるの」
「わからない」
「そっか」
友人はそれ以上聞かなかった。紗季は、少しだけ話したくなった。
「おばあちゃん、あの動画では、いいことしか言ってないでしょう」
友人は首をかしげた。
「本当は、けっこう口うるさかった。靴下を裏返しで脱ぐなとか、夜に爪を切るなとか」
「うちも言われる」
友人が笑った。紗季も笑った。祖母のことを笑って話すと、裏切ったような気持ちになるかと思っていた。だが、違った。死んだ人のことを、悲しい声だけで話さなくてもよいのだと思った。
家へ帰ってから、紗季は動画を見直した。祖母の声の前後に、自分の返事が入っていた。うん。わかった。あとでね。祖母の話を、ちゃんと聞いていないような返事だった。
その部分を消そうとして、指を止めた。
祖母と自分の会話は、いつも立派だったわけではない。面倒だと思った日もある。早く電話を切りたかった日もある。いま寂しいからといって、昔の自分まで、よい孫に直すことはできなかった。
母が部屋へ来た。紗季は画面を見せた。
「ここ、私、ちゃんと聞いてない」
母は再生を聞いた。
「聞いてないね」
「そんなに、はっきり言わなくても」
「でも、電話に出てる」
母は言った。
「おばあちゃん、あなたが出るだけで、うれしかったと思う」
紗季は画面を見た。母は、思う、と言った。知っているとは言わなかった。祖母の気持ちは、もう確かめられない。それでも、一緒に考えることはできる。
動画を公開し直すとき、紗季は施設について話している部分だけを抜かなかった。演奏会のことも、靴下のことも、残した。ただ、祖母が個人のことを話している箇所は、母と相談して外した。
亮から掲載の確認が来たとき、紗季は自分で決めた範囲を伝えた。全部を渡す必要はないと、母が言ってくれた。
公開したあと、知らない人から多くの言葉が届いた。励ましも、質問もあった。紗季は、すべてに返事をしなかった。返事をしないことを、悪いことだと思わないようにした。
練習を終えた夜、紗季は祖母の声を一度だけ聞いた。会いたい気持ちは消えない。だが、今日あったことを話しかけてから、再生を止められるようになっていた。
*
美咲が仕事へ戻る日、亮は車で送ると言った。美咲は最初、断った。毎日送ってもらうわけにはいかない。一人で行けるようにならなければと思った。
亮は今日だけでも、と言った。
「今日だけって、明日も言うでしょう」
美咲が言うと、亮は少し考えた。
「明日どうするかは、明日、聞くよ」。亮はそう答えた。
その返事なら、笑えた。元に戻る期限を決めるのではなく、その日のことをその日に選んでよい。美咲には、それだけで少し空気が入った。
病院の駐車場へ着くと、美咲はしばらく降りられなかった。夜ではない。人もいる。警備員が歩いている。それでも、車の扉へ手をかけると、手首が冷たくなった。
亮は時計を見なかった。美咲は、そのことに気づいた。遅れる、と言われるのが怖かった。言われないことにも、気を使わせていると思ってしまう。
「先に行っていいよ」
美咲は言った。
「俺は、まだ行かない」
亮は答えた。
「待たせてるって思うから」
「じゃあ、俺もここで少し休む」
美咲は夫を見た。うまい言い方ではなかった。だが、うまく言おうとしているのがわかった。
二人はしばらく黙って座った。やがて美咲は自分で扉を開けた。外の空気が入った。足を地面につけ、立った。亮も降りたが、腕を取らなかった。
病院の入口で、美咲は振り返った。
「帰り、連絡する」
「わかった」
それだけで、建物へ入れた。
職場では、師長が勤務の調整について説明した。無理をしないで、とだけ言われるのではなく、どの時間を誰が担当するか、具体的に決めた。美咲は、その具体性に助けられた。
患者の部屋へ入ると、いつものように名乗った。自分の声が、少し硬い。相手は気づかなかったかもしれない。美咲は、気づかれないように完璧に振る舞うことを、今日は目標にしなかった。
昼休み、亮へ短く送った。午前、終わった。
返事はすぐに来た。俺も、午前、終わった。
美咲は笑った。二人とも、今日の半分を終えた。それだけの報告を、しばらく続けてもよいと思った。
*
夏。湊から父のことを話したいと連絡が来た。事件以外のことも。亮は新しい取材ノートを一冊持ち、待ち合わせへ向かった。表紙の次の頁に書いたのは、ただ〈葛西誠一〉という名前だけだった。
湊はその字を見て、少し黙った。
「何から、話せばいいですか」
「話したいところから」
「それが、わからないんです」
亮はペンを置いた。
湊は父が自転車の修理をした話を始めた。何でも直せると思っている人だった。直せないものまで分解して、元へ戻せなくなる。母に怒られても、あと少しでわかると言い張る。
亮は聞いていた。施設長としての葛西とは違う。日誌に記録を残した人とも、少し違う。家では、意地を張って部品をなくす父親だった。
「いい人の話じゃなくて、すみません」
湊が言った。
「謝らなくていい」
亮は答えた。
「俺は、その人を知らなかったから」
湊はうなずいた。話は途切れながら続いた。父が好きだった食べ物。運転中に道を間違えたこと。母と喧嘩すると、台所の蛇口を磨き始めたこと。
亮は聞き続けた。記事にできるかを考えないことは、取材する責任から逃げることではない。話されたもののうち何を外へ出すかを、あとで確かめるための時間だった。
湊は途中で、これ、載せますかと尋ねた。
「載せたい部分があれば、改めて確認する」
「載せなくても、聞いてくれますか」
亮は顔を上げた。
「聞く」
亮がうなずくと、湊は母へ贈った安い花瓶の話をした。父は値札を剥がし忘れていた。母は値札を見て、ちょうどいい値段だね、と笑い、その花瓶を長く使った。
亮はその花瓶がいまどこにあるか尋ねなかった。湊が話したくなれば、話すだろう。
帰り際、湊は今日は記事のためじゃなかったかもしれないと言った。亮は、そうかもしれないと答えた。
「でも、ノートは持って帰ってください」
湊は言った。
「誰かが、覚えてるものがあってもいいと思うので」
ノートを閉じると、父の名前の下には事件と関係のない言葉が増えていた。間違いを訂正する記事には載らない言葉だ。だが、ひとりの人間がそこに生きていたことを確かめるには、必要な言葉だった。
*
一年が過ぎた。十一月十日の夜明け前、真柴家の玄関には冬の匂いがした。
亮は上着の襟を立てて外へ出た。少し増えた白髪に、冷気が触れる。
角を曲がる車輪の音がした。新聞の束が揺れる、聞き慣れた音だった。
フードを被らない配達員が、街灯の下へ入ってきた。
森下湊、二十五歳。左腕の古い傷は薄い線になっていた。傷が消えたわけではない。湊も、それを隠さなくなっていた。
湊は自転車を停め、スタンドを立てた。それから前籠のいちばん上にあった朝刊を、両手で取った。
二人のあいだには一メートルほどの距離がある。かつては、それだけの距離でも越えられなかった。
初めて、顔を見て、一枚を直接手渡した。紙の端が、指から指へ移った。
「おはようございます。今日の新聞です」
亮は紙を受け取った。以前と同じ薄さの、ただの朝刊だった。
「ありがとう」
「日付、確かめなくていいんですか」
亮は少しだけ笑った。
「確かめるさ。今日の紙だから、ちゃんと読む。間違っていたら、間違っていると言わなきゃいけないから」
湊は目を伏せ、それから照れたように笑った。
「行くんでしょう。踏切」
「ああ。一緒に来るか」
「……この近くの配達を済ませたら、寄ります」
*
東町踏切から少し離れた場所に、亮の古い軽自動車が停まっていた。
その横に、配達の順路を調整して来た湊の自転車が並んだ。
二人は道路の端を歩いて柱の前へ進んだ。以前はそれぞれが別の場所に隠れ、同じ人を思っていた場所だった。
白い菊が一束。缶コーヒーは二本。片方の缶に、昨夜の冷気が小さな水滴になっていた。
カン、カン、カン。
遮断機が下りる。目の前を横切る赤い棒は、止まるべき場所を教えていた。
二人は同時に頭を下げた。誰のために何を祈ったのか、確かめ合わなかった。
午前四時三分。貨物列車が、いつもの時刻に通り過ぎた。地面が震え、缶の中でわずかに液体が揺れた。
通り過ぎる車窓が二人の顔を交互に照らす。湊の瞼の下に、涙が残っていた。亮は見えなかったふりをしなかった。ただ、何も言わなかった。
列車が去り、遮断機が上がった。踏切の向こうには、もう一本の道が続いていた。
東の空が白み始めた。町のどこかでシャッターが上がり、最初のバスが走り出す。
明日の新聞は、もう届かない。明日のことを知る人は、誰もいない。だから亮たちは、その日にわかったことを、その日書く。それを読む人には、まだ続いている暮らしがある。
二人はそれぞれの乗り物へ戻り、踏切を渡った。行き先は違う。どちらも、今日の仕事へ向かっていた。
あとに残った菊の白さを、夜明けの光が少しずつ確かなものにしていった。
完
最後まで『明日の新聞』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
もし、明日の出来事が書かれた新聞が、ある日突然、自分のもとに届いたら。そこに大切な人の死が記されていたら、あなたはどうするでしょうか。
本作は、そんな一つの問いから始まる物語です。
未来を知ることができれば、不幸を避けられるかもしれない。誰かの命を救えるかもしれない。しかし、未来を知ることと、未来を変えられることは、決して同じではありません。そして、正しいと信じて選んだ行動が、必ずしも誰かを幸せにするとは限らないのです。
主人公の真柴亮は、新聞記者として真実を追い求めながら、自らが過去に書いた記事の重さと向き合うことになります。
新聞に掲載されるのは、ほんの数行の出来事かもしれません。しかし、その数行の向こうには、一人ひとりの人生があり、家族があり、積み重ねてきた日常があります。記事を書く側にとっては過去の出来事でも、そこに名前を記された人々にとっては、決して終わらない現実なのかもしれません。
この物語で描きたかったのは、未来を予知する不思議な新聞そのものではなく、過ちを犯した人間が、その事実から目を背けずに生きていけるのか、ということでした。
失われた命は戻りません。傷ついた心が、簡単に元どおりになることもありません。それでも、人は謝り、耳を傾け、誰かの痛みを知ろうとすることができます。その小さな積み重ねが、過去を消すことはできなくても、これからの生き方を変えていくのだと思います。
物語の最後、亮のもとに届くのは、未来を告げる特別な新聞ではなく、ごく普通の今日の新聞です。
明日のことは誰にもわからない。だからこそ、今日という一日を大切にしなければならない。
読み終えた皆様が、身近な誰かの声に少しだけ耳を傾けたり、当たり前に訪れる朝をこれまでとは違う気持ちで迎えたりしてくださったなら、これ以上の喜びはありません。
皆様の明日が、希望のある一日となりますように。
最後までお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。




