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明日の新聞  作者: ぽむぽむ


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3/10

第3章 落ちる女

柏木奈緒が勤めるスーパーには、午前の安売りを知らせる旗が出ていた。亮は駐車場に車を止め、入口の自動ドアを見た。買い物客が出入りするたび、店内の明るい照明と、焼きたてのパンの匂いが外へ漏れた。

人が今日を生きている場所だった。

その店の従業員が、今夜死ぬ。亮の胸ポケットの中では、それがもう過去形で書かれている。

柏木はレジにいた。客に釣り銭を渡すとき、両手を添える人だった。小さな子供が菓子を落とすと、会計を止めて拾ってやった。死亡記事には、そういうことは載らない。パート従業員、42歳。住所。発見された時刻。それで一人の人間の輪郭を描いたことになる。

亮はレジが空くまで待った。

北陵日報の真柴です、と名乗ると、柏木の表情が変わった。堀田と同じ変わり方だった。驚きより先に、何かを守ろうとする硬さが顔に現れた。

「仕事中なので」

柏木は声を低くした。

「少しだけ。今夜、駅前へ行く予定はありませんか」

「ありません」

返事が早すぎた。

「誰かに呼ばれているなら、行かないでください」

柏木は亮を見た。その視線は、なぜ知っているのか、と尋ねていた。けれど次の客が籠を置くと、もう顔を上げなかった。

亮は店を出てから自分の浅はかさに腹が立った。死ぬと書かれていると告げれば、相手は警戒してくれる。そんな単純な話ではない。危険の中にいる人ほど、危険だと口にした途端、居場所まで失うことがある。

車へ戻る途中、店の窓に柏木の姿が映った。客に頭を下げる角度まで、さっきと同じだった。彼女はその動作を繰り返しながら、何を待っているのだろう。

*

真柴家の台所。

テーブルに三枚の紙が並んでいる。水野紗季。堀田正臣。柏木奈緒。

亮と美咲は向かい合って座っている。どちらも一睡もしていない顔。

「警察に言おう」と美咲が言った。

「誰が信じる。それに……現場にいるのは、いつも俺なんだ。桐生って刑事は、もう俺を疑ってる」

「じゃあ、この人のことはどうするの」

亮は柏木奈緒の記事を見つめる。

「……助ける」

「助ければ、次の紙が来るんでしょう」美咲は責めるでもなく言った。「その人たちの暮らしを、あなたはどうやって守るの」

「わかってる」

「わかってて、続けるの?」

「目の前に、明日死ぬ人の名前があるんだ。見なかったことには、できない」

美咲は夫の包帯の手にそっと触れる。

「……じゃあ、約束して。私には、全部話すって」と美咲が言った。

「……約束する」

*

柏木は仕事の前に銀行へ寄るつもりだった。通帳を記帳して、今月の引き落としを確かめる。それだけの用事を、3日も先延ばしにしていた。残高が足りないわけではない。数字を見ると、これから何か月暮らせるのかを数えてしまうからだった。

緑風会を辞めたあと、事務の仕事を探した。経理の経験があると言えば、面接までは進めた。以前の勤務先を尋ねられると、相手の表情が変わった。気のせいだったこともあるだろう。だが柏木は変わったと思った瞬間から、うまく話せなくなった。

スーパーの採用担当は、前の職場のことを深く聞かなかった。土日に入れるか。夕方の時間はどうか。重い箱を運ぶこともあるが大丈夫か。答えられる質問ばかりだった。それで働き始めた。

レジの仕事には、正しい終わりがあった。金額を確かめ、代金を受け取り、釣り銭を返す。閉店後に合計が合えば、その日の仕事は終わる。緑風会では、数字が合うことが、何かを隠すために使われた。

夜勤の勤務表を直してほしいと言われた最初の日、柏木は単なる転記の間違いだと思った。予定と実績が違っていた。沢渡は、休んだ人の代わりに別の人が入ったのだから、実際に働いた形に整えるのだと説明した。

柏木は名前を直した。

次には、誰も入っていない時間を埋めるように言われた。施設長が見回っていたから大丈夫だという。施設長は勤務表の夜勤職員に数える人なのか。柏木が聞くと、細かい扱いは事務長の自分が責任を持つ、と沢渡は答えた。

責任を持つ。その言葉は、柏木の手を動かした。誰かが引き受けると言っている。自分は指示された作業をしているだけだ。そう考えると、目の前の欄を埋められた。

だが、埋めた字は柏木の字だった。

退職する日、机の引き出しから、入職したばかりのころの名札が出てきた。葛西が渡してくれたものだった。よろしくお願いします、と施設長は頭を下げた。事務の人がいてくれると、現場が助かります、と言った。

助けたかった。少なくとも最初は、そうだった。

携帯電話が震えた。画面に、登録していない番号が出た。切れるまで待った。すぐに短いメッセージが届いた。

昔の書類について確認したい。今夜、駅前で。

場所と時刻が続いていた。最後に、家へ行くより、そのほうがいいでしょう、とあった。

柏木は台所の窓を見た。カーテンの向こうに、隣家の壁がある。どこから見られているのか、わからない。沢渡は退職後の住所を知っていた。いま働いている店も、知っているのだろう。

警察へ行くことを考えた。何を言えばいいのか。勤務表を直した。施設長の指示ではなかった。なぜ3年前に言わなかったのかと聞かれたら、何と答えるのか。

怖かった。仕事を失いたくなかった。自分のしたことが知られたくなかった。

そのどれもが本当で、どれを言っても、亡くなった人の家族には許されない気がした。

出勤すると、店長が売り場の配置を変えると言った。柏木は返事をして、エプロンをつけた。鏡の前で名札を留める。柏木。いまの職場では、その名前を呼ばれても、誰も3年前のことを尋ねない。

その日、レジの前に真柴亮が立った。

新聞社の名を聞いた瞬間、柏木は沢渡が何かを始めたのだと思った。自分が話す前に、また記事が出る。自分の名前が、今度こそ悪い人間として載る。

今夜、駅前へ行く予定はないか。記者はそう聞いた。

柏木はない、と答えた。言葉を選ぶ時間はなかった。嘘をついたのは、沢渡を守るためではない。自分の怖さを、知られたくなかったからだ。

記者が去ったあと、次の客が買い物籠を置いた。牛乳。食パン。小さな袋の飴。柏木は一つずつ読み取った。合計金額を告げ、釣り銭を両手で返した。

客が、ありがとうと言った。

柏木はいま自分がしていることの中にも、間違っていないものがあるのだと思った。そう思った途端、涙が出そうになった。レジの画面へ顔を向け、次の客を待った。

*

北陵日報の社会部。

亮は柏木奈緒を検索している。SNSに、スーパーの制服姿の写真。「ハッピーマート北陵南店」。

宇佐見が書類を投げてよこす。

「真柴。今夜7時、久我俊之の出馬会見だ。お前が行け」

「……私がですか」

「やすらぎの丘を書いた記者が、やすらぎの丘の元理事長に質問する。いい絵になる」と宇佐見が言った。

「今夜は、外せない取材が」

「どの取材より大事だ。行け」

亮は腕時計を見る。会見は7時。転落は8時15分。

*

会見へ向かう前、亮は宇佐見にもう一度、今夜の取材を外してほしいと頼んだ。理由を言え、と宇佐見は答えた。

「人の安全に関わる取材です」

「それならなおさら、何の話か言え」

宇佐見の言うことは正しかった。亮がデスクなら、同じことを言う。取材先を守るために情報を限ることはある。だが、記者が危険を感じているなら、上司が知らなくてよい話ではない。

亮は紙を見せるか迷った。自分でも信じ切れないものを、信じてもらうために使う。その順番が、どうしても怖かった。

「根拠は、まだ確認中です」

「確認中の話を、確認済みの仕事より先に置くな」

宇佐見は言って、手元の原稿へ目を戻した。

亮は動かなかった。

「デスク。3年前も、俺は確認中のまま書きました」

宇佐見の指が止まった。

「今度は、間違っているかもしれないという理由で、何もしないのも違う気がするんです」

「お前が何を言いたいのか、わからん」

宇佐見は顔を上げた。怒っているようにも、疲れているようにも見えた。

「3年前のことを理由にすれば、何でも通ると思うな」

亮は口を閉じた。その言葉は痛かった。自分の後悔を、特別な事情として扱ってほしい気持ちが、確かにあった。

「わかりました。会見には行きます。ただ、終わったら別の現場へ向かいます」

宇佐見は返事をしなかった。

席へ戻ると、早瀬が顔を上げた。話は聞こえていたはずだが、何も尋ねなかった。代わりに、会見資料の写しを渡した。

「久我さんの福祉政策、前回の県議選のと比べました。表現は変わってますけど、数字はほぼ同じです」

亮は受け取った。早瀬は付箋を指さした。

「ここ、待機者の数です。対象の定義が違う資料を並べてるみたいで」

亮は資料を読み直した。未来の新聞ばかり見ていた自分の隣で、早瀬は今日の資料を確かめていた。

「ありがとう。使わせてもらう」

「真柴さん」

早瀬は声を落とした。

「危ない取材なら、連絡先だけでも残してください。何も知らないと、探しようがないんで」

亮はノートの端に、駅前の駐車場の名前を書いた。時刻は書かなかった。まだ隠している。それでも、何も残さずに出るよりはよいと思った。

「ここへ行く。夜になっても連絡がなかったら、電話してくれ」

早瀬は紙を折り、自分のノートに挟んだ。

「会見の原稿、こっちで受けます」

亮はうなずいた。助けてもらうというのは、相手に全部を理解してもらうことではないのかもしれない。わからない部分を残したまま、それでも引き受けてくれる仕事がある。

会見場へ向かう車の中で、亮は早瀬の付箋を見た。数字の横に、小さく、同じ条件か要確認、と書いてあった。

3年前、自分の資料にも、その5文字があればよかった。そう考え、すぐに打ち消した。あればよかったのではない。自分で書かなければならなかったのだ。

*

ホテルへ着くと、亮はまずロビーの時計を見た。携帯電話の時刻と同じだった。自分の時計が遅れているのではないかという、子供じみた不安があった。時刻が違えば、記事の予告も違う意味になる。そんな逃げ道を探していた。

会見の受付で名刺を出すと、広報の担当者が席へ案内した。前列はテレビ局のカメラで埋まっていた。亮は出入口に近い席を選んだ。終わったらすぐに出るためだった。

隣の記者が、久しぶりだな、と声をかけた。他社の県政担当だった。最近、施設の件をまた調べているのかと聞かれ、亮は顔を向けた。

「どこで聞いた」

「役所。昔の資料を見たいって来てる記者がいるって」

亮はうなずいた。自分が動けば、相手にも伝わる。隠しているつもりでも、取材は人の口を通る。

「何か出るのか」

「まだ、わからない」

隣の記者は、そうか、と答えた。それ以上は聞かなかった。亮は、こちらから話すべきか迷った。1社だけで抱えるより、ほかの目があったほうがよいかもしれない。だが、まだ確かめていない疑いを渡せば、その疑いだけが走り始める。

亮は資料が揃ったら話す、と言った。

「出す前に、ってことか」

「必要なら」

隣の記者は少し驚いた顔をした。独自の記事を競う相手に、掲載前の情報を渡す。簡単なことではない。亮自身も、実際にできるかはわからなかった。それでも、一番に書くことだけを考えていた3年前とは、違う選択肢を持っていたかった。

壇上でマイクの確認が始まった。音が一瞬大きくなり、会場の人々が顔を上げた。亮は携帯電話を見た。柏木からの連絡はない。自分の名刺を渡した。電話が来れば、話せる。だが、名刺を渡しただけで、相手が助けを求められると思うのは、こちらの都合だった。

亮は柏木の勤務先へ電話をかけることを考えた。だが、職場へ何度も記者から電話が来れば、本人が困る。警察へ相談するほうが先だ。桐生へ、駐車場へ向かうと短く送った。

送信を終えたところで、久我が入ってきた。拍手が起きた。亮は資料を開き、ペンを持った。目の前の仕事をしながら、別の場所で進む時間を忘れない。その難しさが、手首の緊張になって残った。

*

午後7時。北陵グランドホテルの会見場。

フラッシュの嵐。演壇に立つ県議会議員・久我俊之(63)。銀髪、柔らかな笑顔。

その斜め後ろに、私設秘書の沢渡圭吾(44)。無表情。隙のないスーツ。

「県民の皆様が安心して老いることのできる北陵県を。それが私の原点です」

質疑応答。亮は、手を挙げる。

「北陵日報の真柴です。久我さんが理事長を務めていた緑風会の『やすらぎの丘』について、県が第三者委員会を設置します。3年前の入所者死亡について、改めてどうお考えですか」と亮が言った。

会場がざわつく。久我は、穏やかに微笑む。

「真柴記者。3年前、あなたの記事のおかげで、我々は膿を出し切ることができた。施設長の葛西君のことは、本当に残念でしたが」

「……」

「第三者委員会には全面的に協力します。隠すことは何もありませんから」

拍手。亮は、何も言い返せない。

沢渡が、じっと亮を見ている。

*

午後7時40分。北陵グランドホテルのロビー。

亮は足早に出口へ向かう。沢渡が行く手に立つ。

「真柴さん。秘書の沢渡です」と沢渡が言った。

名刺を差し出す。

「先生は、あなたに本当に感謝していらっしゃる。3年前のことで、あなたが今でも苦しんでいるなら、それは筋違いですよ。あなたは正しいことを書いた」

「……失礼します。急ぐので」

「お急ぎですか。こんな時間に」

沢渡は薄く笑う。亮は、名刺をポケットにねじ込んで駆け出す。

*

午後7時52分。北陵市内の幹線道路。

亮の軽自動車が信号を抜けていく。

後方から赤色灯。パトカーではなく、覆面車。拡声器。

「前の軽、左に寄せろ」

亮は舌打ちして停車する。

運転席の窓を、桐生が叩く。

「火事の件で話がある。署まで来てもらう」と桐生が言った。

「今は無理です!」

「任意だ。だが、放火の現場にいた理由を聞きたい」

「8時15分に、人が死ぬんです」

「……何?」と桐生が言った。

亮はダッシュボードから紙を引き抜き、桐生に突きつける。

桐生は紙を読む。日付。見出し。名前。

「……ふざけてるのか」

「踏切の子も、堀田さんも、ここに載ってた。全部、起きる前に」

桐生は腕時計を見る。午後8時2分。

長い一瞬。

「……乗れ。俺の車だ。外れたら、そのまま署に連れていく」

*

北陵市内の覆面車の中。

サイレンを鳴らして走る車。桐生がハンドルを握る。

「誰が作ってる」と桐生が言った。

「わかりません。毎朝4時に、ポストに入ってる」

「その話を俺に信じろと?」

「信じなくていい。8時15分になれば、わかります」

*

午後8時14分。北陵駅前の市営立体駐車場の屋上。

がらんとした屋上。数台の車。風が強い。

柵の近くに、エプロン姿のままの柏木奈緒(42)が立っている。震えている。

その背後に、フードの男。顔は暗くて見えない。

男が何かを囁く。柏木は、首を横に振る。

男が柏木の腕を掴み、柵の方へ押しやる。

階段室の扉が開く。亮と桐生が飛び出してくる。

「警察だ! 動くな!」と桐生が言った。

フードの男は、柏木を突き放し、反対側の階段へ走る。

「真柴、女を頼む!」

桐生は男を追う。

柏木はよろめいて柵にぶつかる。古い柵の留め具が外れ、体が外へ傾く。

「柏木さん!」

亮は飛び込んで柏木の手首を掴む。

柏木の体が、柵の外にぶら下がる。下は7階分の闇。

「離すな!」

「……あなた……真柴、さん……」と柏木が言った。

柏木は亮の顔を見て目を見開く。

「あなたの、記事のせいで……全部……」

「話は後で聞く! 手を……」

汗で、指が滑る。

「頼む……!」

柏木の手が、亮の指の間から抜ける。

「……!」と亮が言った。

鈍い音。

亮は柵から身を乗り出す。柏木は、一つ下の階の張り出した庇の上に倒れている。動かない。

「救急車! 誰か、救急車を!」

*

北陵駅前の非常階段。

桐生は階段を駆け降りる。1階の出口。誰もいない。

夜の駅前ロータリー。人混み。フードの男の姿は、どこにもない。

「……くそっ」

桐生は腕時計を見る。午後8時15分。

*

北陵総合病院の救急搬入口。

ストレッチャーで運び込まれる柏木。

当直の看護師たちの中に、美咲がいる。

美咲は患者の顔を見て、凍りつく。

「……柏木、奈緒さん」

同僚の村瀬が叫ぶ。

「真柴さん! ボーッとしない!」と村瀬が言った。

美咲は我に返って処置に加わる。

*

柏木の家族へ連絡がつくまで、時間がかかった。亮は廊下の端に立ち、病院の職員が電話をかける声を聞いていた。内容は聞き取れない。聞き取ろうとしている自分に気づき、少し離れた。

記者の耳は、仕事をやめるのが下手だった。

やがて、柏木の姉だという女性が来た。コートの下に部屋着らしい服を着ていた。足元は左右で色の違う靴下だった。亮は見ないふりをした。女性は、どこですか、と職員に尋ねた。説明を受けると、何度もうなずいた。

亮が名乗ると、女性はすぐに新聞社の名前を聞き返した。

「妹のことを、もう記事にするんですか」

「いえ。今夜、現場にいました。救急車に同行して」

「どうして現場に」

亮は答えに詰まった。桐生が近づき、警察で事情を確認していると説明した。女性は二人の顔を見た。誰を信じればよいかわからないという目だった。

「妹、飛び降りたんですか」

桐生が首を振った。

「自分から飛び降りたと決まったわけではありません。いま調べています」

女性は口元を押さえた。泣き声は出なかった。

「最近、電話しても、元気だって言うだけだったんです。仕事はどうって聞いても、大丈夫って」

亮は柏木のレジでの姿を思い出した。大丈夫という言葉の中には、相手を安心させたい気持ちと、それ以上聞かれたくない気持ちが、一緒に入ることがある。

女性は亮を見た。

「新聞に、住所を詳しく出さないでください。家に知らない人が来たら、あの子、帰る場所がなくなる」

「はい」

亮は答えた。掲載を決める立場ではない。だから、はい、だけでは足りなかった。

「その希望を、編集部に必ず伝えます。今夜、俺から詳しい住所を出すことはしません」

女性はうなずいた。亮は名刺を渡した。連絡が必要なら、と言いかけて、違う言葉にした。

「こちらから話を聞きたいときも、先に連絡します。急に家へ行くことはしません」

女性は名刺を見ずに鞄へ入れた。感謝されるとは思っていなかった。それでも、名刺が乱暴に折られなかったことに、亮は小さく安堵した。その安堵まで、自分のためのものだった。

女性が病室へ案内されると、亮は壁に背をつけた。桐生が隣に立った。

「さっき、どうして来たか答えられなかったな」

「ええ」

「俺には、全部話せ」

亮は胸ポケットを押さえた。紙が三枚、重なっていた。人を助けるためだと言いながら、紙を隠すことで、誰かが判断する材料まで隠している。

亮は紙を取り出した。今度は、見せるために。

*

北陵総合病院のICU前の廊下。

亮は長椅子にうなだれている。両手が震えている。

桐生が、自販機の缶コーヒーを二本持ってくる。一本を亮に渡す。

「命は取り留めた。だが、意識が戻るかはわからん」

「……俺が、手を離した」

「離さなきゃ、二人とも落ちてた」

桐生は亮の隣に座る。

「フードの男は消えた。だが、一つだけ確かなことがある。あの女は、自分で飛び降りようとしたんじゃない。誰かに追い詰められてた」と桐生が言った。

「……」

「見せろ。他の新聞も、全部だ」

亮は胸ポケットから三枚の紙を出す。桐生は、一枚ずつ丁寧に見る。

「水野紗季。堀田正臣。柏木奈緒。……ばらばらだな。年齢も、住所も、職業も」

「ええ」と亮が言った。

「だが、お前はこの三人全員の現場にいた。それだけが共通点だ」

「俺は、助けようとしただけだ」

「わかってる。……少なくとも、今夜のお前は本気だった」

桐生は紙を亮に返す。

「明日の朝、また届いたら、俺に連絡しろ」と桐生が言った。

*

病院の廊下で、亮は自分の右手を開いた。掌の付け根に、柵の塗料が黒くついていた。洗面所で洗っても、爪の際に残った。

柏木の手は冷たかった。重さがあった。新聞に名前を打つときには感じたことのない重さだった。

落とした。

そう考えるたび、桐生の言葉が割り込んだ。離さなければ二人とも落ちていた。事実なのだろう。けれど事実は、必ずしも人を慰めない。

亮は洗面台の縁に両手をついた。鏡の中の男は、ひどく老けて見えた。38歳。さっきまでその数字を、自分の名前の後ろに置いたことがなかった。

記者の年齢が記事になるのは、受賞したときか、何かを起こしたときか、死んだときだ。

自分はどれになるのだろう。

廊下へ戻ると、桐生が紙コップのコーヒーを飲んでいた。亮を見ると、隣の椅子を顎で示した。

「あの女の人、レジで両手を添えるんです」

亮は言うつもりのなかったことを言った。

桐生は聞き返さなかった。

「釣り銭を渡すときです。子供が物を落としたら、拾ってやってた」

「そうか」

「俺、そのことを、記事にしようとは思わなかった」

桐生はコーヒーの蓋を押さえた。

「まだ生きてる。話を聞く時間はある」

その言葉を聞いて、亮は初めて柏木が生きているという事実を、失敗した予言の残りではなく、本人にこれから続いていく時間として受け止めた。

*

北陵総合病院の集中治療室には、機械が作る一定のリズムが満ちていた。

柏木はまだ目を開けない。胸の上下だけが、誰にも代わることのできない仕事を続けていた。

病棟の手順に従って柏木の持ち物を確認していた美咲は傷んだトートバッグから財布と鍵、古い携帯を取り出した。内ポケットの縫い目に、硬い角が引っ掛かった。

バッグの内ポケットから、角の擦り切れたカードが一枚出てくる。

社会福祉法人緑風会 経理課 柏木奈緒

美咲は名刺を見つめ、勝手に結論を出しかけた。持ち物は、本人のものだ。事件の手掛かりに見えても、夫へ気軽に渡してよい情報ではない。その判断を、このあと何度も問われることになる。

*

北陵総合病院のICU前の廊下。

美咲が出てきて、亮にカードを渡す。

「これ……関係あるかわからないけど」

亮はカードを見る。顔から血の気が引いていく。

「……緑風会」

「知ってるの?」

「やすらぎの丘を、運営してた法人だ」と亮が言った。

美咲は息を呑んだ。緑風会。三年前、夫を沈黙させたあの名前が、病院の白い廊下にまでついてきた。

堀田さんは言った。『病死だと書けと言われた』。柏木さんは言った。『あなたの記事のせいで』。……偶然じゃない

*

午前4時。真柴家の玄関前。

亮は玄関の外に立って待っている。もう隠れない。

自転車の音が近づいてくる。

角を曲がってきた配達員が、亮の姿に気付き、ブレーキをかける。

数十メートルの距離。フードの下の顔は、街灯の逆光で見えない。

「君か。君が、届けてるのか」

配達員は、答えない。

「教えてくれ。誰が、何のために」

配達員は、自転車の前カゴから1部の新聞を抜き取り、道の真ん中にそっと置く。

そして、反転して走り去る。

「待て!」

亮は追いかける。だが、路地を何本か抜けたところで見失う。

亮は引き返し、道に置かれた新聞を拾う。

間に挟まった、一枚の紙。

北陵日報 10月14日

県警刑事、ひき逃げされ死亡 北陵川河川敷

13日午後9時30分ごろ、北陵市川端町の北陵川河川敷の市道で、歩いていた男性がワゴン車にはねられ、死亡した。死亡したのは県警捜査一課の警部補、桐生透さん(45)。車はそのまま逃走しており、北陵署はひき逃げ事件として行方を追っている。

亮は顔を上げる。

「……桐生さん」と亮が言った。

夜明け前の空に、カラスが鳴く。


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