第3章 落ちる女
柏木奈緒が勤めるスーパーには、午前の安売りを知らせる旗が出ていた。亮は駐車場に車を止め、入口の自動ドアを見た。買い物客が出入りするたび、店内の明るい照明と、焼きたてのパンの匂いが外へ漏れた。
人が今日を生きている場所だった。
その店の従業員が、今夜死ぬ。亮の胸ポケットの中では、それがもう過去形で書かれている。
柏木はレジにいた。客に釣り銭を渡すとき、両手を添える人だった。小さな子供が菓子を落とすと、会計を止めて拾ってやった。死亡記事には、そういうことは載らない。パート従業員、42歳。住所。発見された時刻。それで一人の人間の輪郭を描いたことになる。
亮はレジが空くまで待った。
北陵日報の真柴です、と名乗ると、柏木の表情が変わった。堀田と同じ変わり方だった。驚きより先に、何かを守ろうとする硬さが顔に現れた。
「仕事中なので」
柏木は声を低くした。
「少しだけ。今夜、駅前へ行く予定はありませんか」
「ありません」
返事が早すぎた。
「誰かに呼ばれているなら、行かないでください」
柏木は亮を見た。その視線は、なぜ知っているのか、と尋ねていた。けれど次の客が籠を置くと、もう顔を上げなかった。
亮は店を出てから自分の浅はかさに腹が立った。死ぬと書かれていると告げれば、相手は警戒してくれる。そんな単純な話ではない。危険の中にいる人ほど、危険だと口にした途端、居場所まで失うことがある。
車へ戻る途中、店の窓に柏木の姿が映った。客に頭を下げる角度まで、さっきと同じだった。彼女はその動作を繰り返しながら、何を待っているのだろう。
*
真柴家の台所。
テーブルに三枚の紙が並んでいる。水野紗季。堀田正臣。柏木奈緒。
亮と美咲は向かい合って座っている。どちらも一睡もしていない顔。
「警察に言おう」と美咲が言った。
「誰が信じる。それに……現場にいるのは、いつも俺なんだ。桐生って刑事は、もう俺を疑ってる」
「じゃあ、この人のことはどうするの」
亮は柏木奈緒の記事を見つめる。
「……助ける」
「助ければ、次の紙が来るんでしょう」美咲は責めるでもなく言った。「その人たちの暮らしを、あなたはどうやって守るの」
「わかってる」
「わかってて、続けるの?」
「目の前に、明日死ぬ人の名前があるんだ。見なかったことには、できない」
美咲は夫の包帯の手にそっと触れる。
「……じゃあ、約束して。私には、全部話すって」と美咲が言った。
「……約束する」
*
柏木は仕事の前に銀行へ寄るつもりだった。通帳を記帳して、今月の引き落としを確かめる。それだけの用事を、3日も先延ばしにしていた。残高が足りないわけではない。数字を見ると、これから何か月暮らせるのかを数えてしまうからだった。
緑風会を辞めたあと、事務の仕事を探した。経理の経験があると言えば、面接までは進めた。以前の勤務先を尋ねられると、相手の表情が変わった。気のせいだったこともあるだろう。だが柏木は変わったと思った瞬間から、うまく話せなくなった。
スーパーの採用担当は、前の職場のことを深く聞かなかった。土日に入れるか。夕方の時間はどうか。重い箱を運ぶこともあるが大丈夫か。答えられる質問ばかりだった。それで働き始めた。
レジの仕事には、正しい終わりがあった。金額を確かめ、代金を受け取り、釣り銭を返す。閉店後に合計が合えば、その日の仕事は終わる。緑風会では、数字が合うことが、何かを隠すために使われた。
夜勤の勤務表を直してほしいと言われた最初の日、柏木は単なる転記の間違いだと思った。予定と実績が違っていた。沢渡は、休んだ人の代わりに別の人が入ったのだから、実際に働いた形に整えるのだと説明した。
柏木は名前を直した。
次には、誰も入っていない時間を埋めるように言われた。施設長が見回っていたから大丈夫だという。施設長は勤務表の夜勤職員に数える人なのか。柏木が聞くと、細かい扱いは事務長の自分が責任を持つ、と沢渡は答えた。
責任を持つ。その言葉は、柏木の手を動かした。誰かが引き受けると言っている。自分は指示された作業をしているだけだ。そう考えると、目の前の欄を埋められた。
だが、埋めた字は柏木の字だった。
退職する日、机の引き出しから、入職したばかりのころの名札が出てきた。葛西が渡してくれたものだった。よろしくお願いします、と施設長は頭を下げた。事務の人がいてくれると、現場が助かります、と言った。
助けたかった。少なくとも最初は、そうだった。
携帯電話が震えた。画面に、登録していない番号が出た。切れるまで待った。すぐに短いメッセージが届いた。
昔の書類について確認したい。今夜、駅前で。
場所と時刻が続いていた。最後に、家へ行くより、そのほうがいいでしょう、とあった。
柏木は台所の窓を見た。カーテンの向こうに、隣家の壁がある。どこから見られているのか、わからない。沢渡は退職後の住所を知っていた。いま働いている店も、知っているのだろう。
警察へ行くことを考えた。何を言えばいいのか。勤務表を直した。施設長の指示ではなかった。なぜ3年前に言わなかったのかと聞かれたら、何と答えるのか。
怖かった。仕事を失いたくなかった。自分のしたことが知られたくなかった。
そのどれもが本当で、どれを言っても、亡くなった人の家族には許されない気がした。
出勤すると、店長が売り場の配置を変えると言った。柏木は返事をして、エプロンをつけた。鏡の前で名札を留める。柏木。いまの職場では、その名前を呼ばれても、誰も3年前のことを尋ねない。
その日、レジの前に真柴亮が立った。
新聞社の名を聞いた瞬間、柏木は沢渡が何かを始めたのだと思った。自分が話す前に、また記事が出る。自分の名前が、今度こそ悪い人間として載る。
今夜、駅前へ行く予定はないか。記者はそう聞いた。
柏木はない、と答えた。言葉を選ぶ時間はなかった。嘘をついたのは、沢渡を守るためではない。自分の怖さを、知られたくなかったからだ。
記者が去ったあと、次の客が買い物籠を置いた。牛乳。食パン。小さな袋の飴。柏木は一つずつ読み取った。合計金額を告げ、釣り銭を両手で返した。
客が、ありがとうと言った。
柏木はいま自分がしていることの中にも、間違っていないものがあるのだと思った。そう思った途端、涙が出そうになった。レジの画面へ顔を向け、次の客を待った。
*
北陵日報の社会部。
亮は柏木奈緒を検索している。SNSに、スーパーの制服姿の写真。「ハッピーマート北陵南店」。
宇佐見が書類を投げてよこす。
「真柴。今夜7時、久我俊之の出馬会見だ。お前が行け」
「……私がですか」
「やすらぎの丘を書いた記者が、やすらぎの丘の元理事長に質問する。いい絵になる」と宇佐見が言った。
「今夜は、外せない取材が」
「どの取材より大事だ。行け」
亮は腕時計を見る。会見は7時。転落は8時15分。
*
会見へ向かう前、亮は宇佐見にもう一度、今夜の取材を外してほしいと頼んだ。理由を言え、と宇佐見は答えた。
「人の安全に関わる取材です」
「それならなおさら、何の話か言え」
宇佐見の言うことは正しかった。亮がデスクなら、同じことを言う。取材先を守るために情報を限ることはある。だが、記者が危険を感じているなら、上司が知らなくてよい話ではない。
亮は紙を見せるか迷った。自分でも信じ切れないものを、信じてもらうために使う。その順番が、どうしても怖かった。
「根拠は、まだ確認中です」
「確認中の話を、確認済みの仕事より先に置くな」
宇佐見は言って、手元の原稿へ目を戻した。
亮は動かなかった。
「デスク。3年前も、俺は確認中のまま書きました」
宇佐見の指が止まった。
「今度は、間違っているかもしれないという理由で、何もしないのも違う気がするんです」
「お前が何を言いたいのか、わからん」
宇佐見は顔を上げた。怒っているようにも、疲れているようにも見えた。
「3年前のことを理由にすれば、何でも通ると思うな」
亮は口を閉じた。その言葉は痛かった。自分の後悔を、特別な事情として扱ってほしい気持ちが、確かにあった。
「わかりました。会見には行きます。ただ、終わったら別の現場へ向かいます」
宇佐見は返事をしなかった。
席へ戻ると、早瀬が顔を上げた。話は聞こえていたはずだが、何も尋ねなかった。代わりに、会見資料の写しを渡した。
「久我さんの福祉政策、前回の県議選のと比べました。表現は変わってますけど、数字はほぼ同じです」
亮は受け取った。早瀬は付箋を指さした。
「ここ、待機者の数です。対象の定義が違う資料を並べてるみたいで」
亮は資料を読み直した。未来の新聞ばかり見ていた自分の隣で、早瀬は今日の資料を確かめていた。
「ありがとう。使わせてもらう」
「真柴さん」
早瀬は声を落とした。
「危ない取材なら、連絡先だけでも残してください。何も知らないと、探しようがないんで」
亮はノートの端に、駅前の駐車場の名前を書いた。時刻は書かなかった。まだ隠している。それでも、何も残さずに出るよりはよいと思った。
「ここへ行く。夜になっても連絡がなかったら、電話してくれ」
早瀬は紙を折り、自分のノートに挟んだ。
「会見の原稿、こっちで受けます」
亮はうなずいた。助けてもらうというのは、相手に全部を理解してもらうことではないのかもしれない。わからない部分を残したまま、それでも引き受けてくれる仕事がある。
会見場へ向かう車の中で、亮は早瀬の付箋を見た。数字の横に、小さく、同じ条件か要確認、と書いてあった。
3年前、自分の資料にも、その5文字があればよかった。そう考え、すぐに打ち消した。あればよかったのではない。自分で書かなければならなかったのだ。
*
ホテルへ着くと、亮はまずロビーの時計を見た。携帯電話の時刻と同じだった。自分の時計が遅れているのではないかという、子供じみた不安があった。時刻が違えば、記事の予告も違う意味になる。そんな逃げ道を探していた。
会見の受付で名刺を出すと、広報の担当者が席へ案内した。前列はテレビ局のカメラで埋まっていた。亮は出入口に近い席を選んだ。終わったらすぐに出るためだった。
隣の記者が、久しぶりだな、と声をかけた。他社の県政担当だった。最近、施設の件をまた調べているのかと聞かれ、亮は顔を向けた。
「どこで聞いた」
「役所。昔の資料を見たいって来てる記者がいるって」
亮はうなずいた。自分が動けば、相手にも伝わる。隠しているつもりでも、取材は人の口を通る。
「何か出るのか」
「まだ、わからない」
隣の記者は、そうか、と答えた。それ以上は聞かなかった。亮は、こちらから話すべきか迷った。1社だけで抱えるより、ほかの目があったほうがよいかもしれない。だが、まだ確かめていない疑いを渡せば、その疑いだけが走り始める。
亮は資料が揃ったら話す、と言った。
「出す前に、ってことか」
「必要なら」
隣の記者は少し驚いた顔をした。独自の記事を競う相手に、掲載前の情報を渡す。簡単なことではない。亮自身も、実際にできるかはわからなかった。それでも、一番に書くことだけを考えていた3年前とは、違う選択肢を持っていたかった。
壇上でマイクの確認が始まった。音が一瞬大きくなり、会場の人々が顔を上げた。亮は携帯電話を見た。柏木からの連絡はない。自分の名刺を渡した。電話が来れば、話せる。だが、名刺を渡しただけで、相手が助けを求められると思うのは、こちらの都合だった。
亮は柏木の勤務先へ電話をかけることを考えた。だが、職場へ何度も記者から電話が来れば、本人が困る。警察へ相談するほうが先だ。桐生へ、駐車場へ向かうと短く送った。
送信を終えたところで、久我が入ってきた。拍手が起きた。亮は資料を開き、ペンを持った。目の前の仕事をしながら、別の場所で進む時間を忘れない。その難しさが、手首の緊張になって残った。
*
午後7時。北陵グランドホテルの会見場。
フラッシュの嵐。演壇に立つ県議会議員・久我俊之(63)。銀髪、柔らかな笑顔。
その斜め後ろに、私設秘書の沢渡圭吾(44)。無表情。隙のないスーツ。
「県民の皆様が安心して老いることのできる北陵県を。それが私の原点です」
質疑応答。亮は、手を挙げる。
「北陵日報の真柴です。久我さんが理事長を務めていた緑風会の『やすらぎの丘』について、県が第三者委員会を設置します。3年前の入所者死亡について、改めてどうお考えですか」と亮が言った。
会場がざわつく。久我は、穏やかに微笑む。
「真柴記者。3年前、あなたの記事のおかげで、我々は膿を出し切ることができた。施設長の葛西君のことは、本当に残念でしたが」
「……」
「第三者委員会には全面的に協力します。隠すことは何もありませんから」
拍手。亮は、何も言い返せない。
沢渡が、じっと亮を見ている。
*
午後7時40分。北陵グランドホテルのロビー。
亮は足早に出口へ向かう。沢渡が行く手に立つ。
「真柴さん。秘書の沢渡です」と沢渡が言った。
名刺を差し出す。
「先生は、あなたに本当に感謝していらっしゃる。3年前のことで、あなたが今でも苦しんでいるなら、それは筋違いですよ。あなたは正しいことを書いた」
「……失礼します。急ぐので」
「お急ぎですか。こんな時間に」
沢渡は薄く笑う。亮は、名刺をポケットにねじ込んで駆け出す。
*
午後7時52分。北陵市内の幹線道路。
亮の軽自動車が信号を抜けていく。
後方から赤色灯。パトカーではなく、覆面車。拡声器。
「前の軽、左に寄せろ」
亮は舌打ちして停車する。
運転席の窓を、桐生が叩く。
「火事の件で話がある。署まで来てもらう」と桐生が言った。
「今は無理です!」
「任意だ。だが、放火の現場にいた理由を聞きたい」
「8時15分に、人が死ぬんです」
「……何?」と桐生が言った。
亮はダッシュボードから紙を引き抜き、桐生に突きつける。
桐生は紙を読む。日付。見出し。名前。
「……ふざけてるのか」
「踏切の子も、堀田さんも、ここに載ってた。全部、起きる前に」
桐生は腕時計を見る。午後8時2分。
長い一瞬。
「……乗れ。俺の車だ。外れたら、そのまま署に連れていく」
*
北陵市内の覆面車の中。
サイレンを鳴らして走る車。桐生がハンドルを握る。
「誰が作ってる」と桐生が言った。
「わかりません。毎朝4時に、ポストに入ってる」
「その話を俺に信じろと?」
「信じなくていい。8時15分になれば、わかります」
*
午後8時14分。北陵駅前の市営立体駐車場の屋上。
がらんとした屋上。数台の車。風が強い。
柵の近くに、エプロン姿のままの柏木奈緒(42)が立っている。震えている。
その背後に、フードの男。顔は暗くて見えない。
男が何かを囁く。柏木は、首を横に振る。
男が柏木の腕を掴み、柵の方へ押しやる。
階段室の扉が開く。亮と桐生が飛び出してくる。
「警察だ! 動くな!」と桐生が言った。
フードの男は、柏木を突き放し、反対側の階段へ走る。
「真柴、女を頼む!」
桐生は男を追う。
柏木はよろめいて柵にぶつかる。古い柵の留め具が外れ、体が外へ傾く。
「柏木さん!」
亮は飛び込んで柏木の手首を掴む。
柏木の体が、柵の外にぶら下がる。下は7階分の闇。
「離すな!」
「……あなた……真柴、さん……」と柏木が言った。
柏木は亮の顔を見て目を見開く。
「あなたの、記事のせいで……全部……」
「話は後で聞く! 手を……」
汗で、指が滑る。
「頼む……!」
柏木の手が、亮の指の間から抜ける。
「……!」と亮が言った。
鈍い音。
亮は柵から身を乗り出す。柏木は、一つ下の階の張り出した庇の上に倒れている。動かない。
「救急車! 誰か、救急車を!」
*
北陵駅前の非常階段。
桐生は階段を駆け降りる。1階の出口。誰もいない。
夜の駅前ロータリー。人混み。フードの男の姿は、どこにもない。
「……くそっ」
桐生は腕時計を見る。午後8時15分。
*
北陵総合病院の救急搬入口。
ストレッチャーで運び込まれる柏木。
当直の看護師たちの中に、美咲がいる。
美咲は患者の顔を見て、凍りつく。
「……柏木、奈緒さん」
同僚の村瀬が叫ぶ。
「真柴さん! ボーッとしない!」と村瀬が言った。
美咲は我に返って処置に加わる。
*
柏木の家族へ連絡がつくまで、時間がかかった。亮は廊下の端に立ち、病院の職員が電話をかける声を聞いていた。内容は聞き取れない。聞き取ろうとしている自分に気づき、少し離れた。
記者の耳は、仕事をやめるのが下手だった。
やがて、柏木の姉だという女性が来た。コートの下に部屋着らしい服を着ていた。足元は左右で色の違う靴下だった。亮は見ないふりをした。女性は、どこですか、と職員に尋ねた。説明を受けると、何度もうなずいた。
亮が名乗ると、女性はすぐに新聞社の名前を聞き返した。
「妹のことを、もう記事にするんですか」
「いえ。今夜、現場にいました。救急車に同行して」
「どうして現場に」
亮は答えに詰まった。桐生が近づき、警察で事情を確認していると説明した。女性は二人の顔を見た。誰を信じればよいかわからないという目だった。
「妹、飛び降りたんですか」
桐生が首を振った。
「自分から飛び降りたと決まったわけではありません。いま調べています」
女性は口元を押さえた。泣き声は出なかった。
「最近、電話しても、元気だって言うだけだったんです。仕事はどうって聞いても、大丈夫って」
亮は柏木のレジでの姿を思い出した。大丈夫という言葉の中には、相手を安心させたい気持ちと、それ以上聞かれたくない気持ちが、一緒に入ることがある。
女性は亮を見た。
「新聞に、住所を詳しく出さないでください。家に知らない人が来たら、あの子、帰る場所がなくなる」
「はい」
亮は答えた。掲載を決める立場ではない。だから、はい、だけでは足りなかった。
「その希望を、編集部に必ず伝えます。今夜、俺から詳しい住所を出すことはしません」
女性はうなずいた。亮は名刺を渡した。連絡が必要なら、と言いかけて、違う言葉にした。
「こちらから話を聞きたいときも、先に連絡します。急に家へ行くことはしません」
女性は名刺を見ずに鞄へ入れた。感謝されるとは思っていなかった。それでも、名刺が乱暴に折られなかったことに、亮は小さく安堵した。その安堵まで、自分のためのものだった。
女性が病室へ案内されると、亮は壁に背をつけた。桐生が隣に立った。
「さっき、どうして来たか答えられなかったな」
「ええ」
「俺には、全部話せ」
亮は胸ポケットを押さえた。紙が三枚、重なっていた。人を助けるためだと言いながら、紙を隠すことで、誰かが判断する材料まで隠している。
亮は紙を取り出した。今度は、見せるために。
*
北陵総合病院のICU前の廊下。
亮は長椅子にうなだれている。両手が震えている。
桐生が、自販機の缶コーヒーを二本持ってくる。一本を亮に渡す。
「命は取り留めた。だが、意識が戻るかはわからん」
「……俺が、手を離した」
「離さなきゃ、二人とも落ちてた」
桐生は亮の隣に座る。
「フードの男は消えた。だが、一つだけ確かなことがある。あの女は、自分で飛び降りようとしたんじゃない。誰かに追い詰められてた」と桐生が言った。
「……」
「見せろ。他の新聞も、全部だ」
亮は胸ポケットから三枚の紙を出す。桐生は、一枚ずつ丁寧に見る。
「水野紗季。堀田正臣。柏木奈緒。……ばらばらだな。年齢も、住所も、職業も」
「ええ」と亮が言った。
「だが、お前はこの三人全員の現場にいた。それだけが共通点だ」
「俺は、助けようとしただけだ」
「わかってる。……少なくとも、今夜のお前は本気だった」
桐生は紙を亮に返す。
「明日の朝、また届いたら、俺に連絡しろ」と桐生が言った。
*
病院の廊下で、亮は自分の右手を開いた。掌の付け根に、柵の塗料が黒くついていた。洗面所で洗っても、爪の際に残った。
柏木の手は冷たかった。重さがあった。新聞に名前を打つときには感じたことのない重さだった。
落とした。
そう考えるたび、桐生の言葉が割り込んだ。離さなければ二人とも落ちていた。事実なのだろう。けれど事実は、必ずしも人を慰めない。
亮は洗面台の縁に両手をついた。鏡の中の男は、ひどく老けて見えた。38歳。さっきまでその数字を、自分の名前の後ろに置いたことがなかった。
記者の年齢が記事になるのは、受賞したときか、何かを起こしたときか、死んだときだ。
自分はどれになるのだろう。
廊下へ戻ると、桐生が紙コップのコーヒーを飲んでいた。亮を見ると、隣の椅子を顎で示した。
「あの女の人、レジで両手を添えるんです」
亮は言うつもりのなかったことを言った。
桐生は聞き返さなかった。
「釣り銭を渡すときです。子供が物を落としたら、拾ってやってた」
「そうか」
「俺、そのことを、記事にしようとは思わなかった」
桐生はコーヒーの蓋を押さえた。
「まだ生きてる。話を聞く時間はある」
その言葉を聞いて、亮は初めて柏木が生きているという事実を、失敗した予言の残りではなく、本人にこれから続いていく時間として受け止めた。
*
北陵総合病院の集中治療室には、機械が作る一定のリズムが満ちていた。
柏木はまだ目を開けない。胸の上下だけが、誰にも代わることのできない仕事を続けていた。
病棟の手順に従って柏木の持ち物を確認していた美咲は傷んだトートバッグから財布と鍵、古い携帯を取り出した。内ポケットの縫い目に、硬い角が引っ掛かった。
バッグの内ポケットから、角の擦り切れたカードが一枚出てくる。
社会福祉法人緑風会 経理課 柏木奈緒
美咲は名刺を見つめ、勝手に結論を出しかけた。持ち物は、本人のものだ。事件の手掛かりに見えても、夫へ気軽に渡してよい情報ではない。その判断を、このあと何度も問われることになる。
*
北陵総合病院のICU前の廊下。
美咲が出てきて、亮にカードを渡す。
「これ……関係あるかわからないけど」
亮はカードを見る。顔から血の気が引いていく。
「……緑風会」
「知ってるの?」
「やすらぎの丘を、運営してた法人だ」と亮が言った。
美咲は息を呑んだ。緑風会。三年前、夫を沈黙させたあの名前が、病院の白い廊下にまでついてきた。
堀田さんは言った。『病死だと書けと言われた』。柏木さんは言った。『あなたの記事のせいで』。……偶然じゃない
*
午前4時。真柴家の玄関前。
亮は玄関の外に立って待っている。もう隠れない。
自転車の音が近づいてくる。
角を曲がってきた配達員が、亮の姿に気付き、ブレーキをかける。
数十メートルの距離。フードの下の顔は、街灯の逆光で見えない。
「君か。君が、届けてるのか」
配達員は、答えない。
「教えてくれ。誰が、何のために」
配達員は、自転車の前カゴから1部の新聞を抜き取り、道の真ん中にそっと置く。
そして、反転して走り去る。
「待て!」
亮は追いかける。だが、路地を何本か抜けたところで見失う。
亮は引き返し、道に置かれた新聞を拾う。
間に挟まった、一枚の紙。
北陵日報 10月14日
県警刑事、ひき逃げされ死亡 北陵川河川敷
13日午後9時30分ごろ、北陵市川端町の北陵川河川敷の市道で、歩いていた男性がワゴン車にはねられ、死亡した。死亡したのは県警捜査一課の警部補、桐生透さん(45)。車はそのまま逃走しており、北陵署はひき逃げ事件として行方を追っている。
亮は顔を上げる。
「……桐生さん」と亮が言った。
夜明け前の空に、カラスが鳴く。




