第2章 燃える家
3年前のスクープを、亮は長いこと「ある夜」に押し込めて記憶していた。宇佐見から封筒を受け取った夜、原稿を打った夜、先輩に肩を叩かれた夜。けれどひとつの誤報ができあがるには、その前に、もっと長くてありふれた時間が必要だった。
部数が落ちるたび社会部の会議は長引いた。発表資料をなぞるだけなら広報と変わらない。独自のネタを取れ。数字を動かせ。どれも正論に聞こえた。正論が積み重なると、その下敷きになった一人の声は、かえって聞こえなくなる。
当時35歳だった亮は自分がまだ若手と呼ばれることに苛立っていた。後輩の原稿を直し、夜勤を引き受け、休日に呼び出されても断らなかった。それでも署名が大きく載る仕事は、なかなか回ってこなかった。
葛西誠一の名前を内部資料で見つけたとき、亮の頭に先に浮かんだのは、亡くなった入所者ではなかった。一面の見出しの幅だった。その順番こそが、誰にも知られたくない過去だった。
他人に話せなかったのではない。自分の中でさえ、正しい順番に並べ直してしまったのだ。
美咲にも、宇佐見にも。自分に対してさえ、亮は社会の不正を暴きたかったのだと言い聞かせていた。不正を暴きたかったのは嘘ではない。けれど、それだけではなかった。
いま机の上にある堀田正臣の死亡記事は、その言い訳を許さなかった。まだ起きていない火事を、亮は知っている。知っていて何もしなければ、今度は取材不足という言葉で逃げることもできない。
*
3年前。まだ、葛西誠一が生きていた頃のことだ。
夜の社会部には蛍光灯の唸りだけが残っていた。当時35歳の亮は後輩の原稿の直しを終えても席を立たず、次の事件を待っていた。
宇佐見が机に茶封筒を滑らせた。封の糊は剥がされ、書類の角がわずかに突き出ていた。
「匿名で届いた。社会福祉法人緑風会、特養『やすらぎの丘』の内部資料だ」と宇佐見が言った。
封筒から出てきたのは、夜勤表、聞き取りメモ、施設長印のある指示書。どれも仕事場で使われたらしい傷を持っていた。そこに本物らしさを見たことを、亮は後まで忘れなかった。
「入所者が三人、立て続けに……施設長が、記録の書き換えを指示してる」
「中身は本物だ。俺が保証する。真柴、お前が書け」
胸の奥に火がついた。誰かを助けたいという熱と、署名を大きく載せたいという熱を、亮は区別しなかった。
数時間後、端末の画面には、まだ裏づけを欠く疑いが、新聞の見出しの形に整えられていた。
特養で入所者相次ぎ死亡 虐待隠蔽か 施設長が記録改ざん指示
*
翌日、亮は施設の門へ向かう前に県の担当課へ電話をかけた。死亡事案を把握しているか。担当者は個別の事案に答えられないと言った。否定しなかった、と亮はノートに書いた。〈確認できなかった〉と書かなかったことが、すでに間違いの始まりだった。
電話を切ってから、宇佐見へ報告した。担当課は否定しなかった。宇佐見は、否定しないことと認めることは違うぞ、と言った。亮は、わかっていますと答えた。
わかっているつもりだという返事は、わかっていない者ほど早く口にする。
資料には、職員の聞き取りメモがあった。夜勤の人数を減らすよう施設長に言われた。記録は施設長の指示で整えた。名前は伏せられていたが、部署と勤続年数が書いてあった。亮は、その具体性を本物らしさだと思った。
本人に会えないかと宇佐見に尋ねた。宇佐見は、情報提供者を危険にさらせないと答えた。
「声だけでも」
「俺が確認してる」
情報提供者を守ることと、書かれている事実を確かめることは、本来別の仕事だ。その区別を亮は知識としては知っていた。だが先輩が確認済みと言った瞬間、自分の確認を手放す口実にした。
施設の門の前には、すでに他社の記者がいた。誰かが情報を流している。亮は焦った。独自の記事として出せる時間が、短くなっている。電話で宇佐見へ伝えると、今夜の紙面で行く、と言われた。
亮はまだ葛西の話を十分に聞いていないと言った。
「コメントは取れ。否定するなら、否定も載せる」
それで、公平な記事になると思った。
「施設長は否定している」と一行添えれば両論を載せたことになる。亮はそう考えた。けれど本文の入り口から出口まで、読者が進む道筋はあらかじめ決めてあった。否定の言葉は、疑いを強める道具にしかならなかった。
亮はその読み方を知っていた。知っていて、構造を変えなかった。
帰社すると見出しの候補が表示されていた。〈記録改ざん指示〉。本文には〈指示したとされる〉と留保したはずだった。宇佐見は本文を読めばわかると言った。亮もそう思うことにした。見出しだけで立ち止まる人の生活を、紙面を作る人間が想像しなかった。
亮は見出しだけを読む人のことを考えなかった。いや、考えたが、紙面の勢いを止めるほどの理由にはしなかった。
締め切りの前、葛西から電話が来た。いま資料を確認している。事務室で管理していた印鑑について、説明したい。亮は、いまは原稿を送る時間なので、あとでかけ直すと言った。
葛西はあとで、とは何時ですかと尋ねた。
亮は落ち着いたら、と答えた。
受話器の向こうで葛西が息を吸った。亮は怒鳴られると思った。けれど返ってきたのは「お願いします」という声だった。その一言だけが、3年たっても正確に耳の奥へ残っている。
亮は電話を切った。
記事を送信すると、編集部の空気が少し緩んだ。宇佐見が亮の肩を叩いた。よくやった、と言った。亮はうれしかった。疲れた体の中に、熱いものが広がった。
その夜、帰宅して美咲に、明日の新聞を見てくれと言った。美咲は、どんな記事、と聞いた。亮は、施設の不正だ、と答えた。人が亡くなっていると話すと、美咲の顔から笑みが消えた。
「家族の人にも、話を聞いたの」
「これから。まず、仕組みの話だから」
「仕組みの話だから」と亮は答えた。仕組みを語るとき、人を後回しにできる。その都合のよさに、気づいていなかったのではない。気づかないようにしていた。
翌朝、亮はコンビニで自分の新聞を買った。家にも届くが、待てなかった。紙面を開くと、署名があった。真柴亮。大きな見出しの下で、その名前は、いつもより少し重く見えた。
店の外へ出ると、空は晴れていた。亮は携帯電話を取り出した。葛西へかけ直すべきだと思った。だが、その前に、会社から連絡が入った。他社が追いかけている。続報を急げ。
亮は葛西の番号を閉じ、会社へ向かった。
*
現在。窓のない社会部で、パソコンの換気音が鳴っていた。
亮は目を開ける。机に突っ伏して眠っていた。
「真柴さん、また徹夜ですか」
亮はパソコンで「堀田正臣」と検索する。
北陵市西町で長く開業していた内科医。5年前に閉院。それ以上の情報はない。
「早瀬、西町の堀田医院って知ってるか」と亮が言った。
「ああ、うちのばあちゃんが昔通ってました。院長さん、奥さん亡くしてから酒浸りで、今は一人暮らしらしいですよ」
亮は紙を見る。11日午後11時40分。今夜だ。
*
北陵総合病院のナースステーションでは、日勤の引き継ぎが続いていた。
美咲は点滴の準備をしている。同僚の看護師・村瀬(40)が声をかける。
「真柴さん、顔色悪いよ」
「夫が、最近まともに寝てなくて。夜中の四時になると玄関に座ってるの。あれ、誰かを待ってる顔なんだよね」
「4時?」と村瀬が言った。
「3年前にね、一度、心が折れかけたことがあるの。あの人。仕事のことで。……また、あの頃みたいになってるんじゃないかって」
「話、聞いてあげなよ」
「話さないの。たいしたことない話はするくせに、いちばん聞かなきゃいけないことを黙ってしまう人だから」
*
堀田は呼び鈴が鳴る前から、玄関に人がいることに気づいていた。道路に車が止まる音がした。庭の砂利を踏む足音が、途中で一度止まった。荒れた庭を見ているのだろう。妻が生きていたころは、玄関までの道に草が出ることなどなかった。
妻は季節ごとに花を植えた。名前を聞いても、堀田はすぐに忘れた。診療所に来る患者の薬は覚えられるのに、庭の花は覚えられない。そのことを妻は笑った。覚えなくてもいいから、たまには見て、と言った。
閉院してから、庭を見る時間は増えた。けれど、何が咲いていたのか、もう誰にも聞けなかった。
玄関を開けると、男が名乗った。真柴。北陵日報。その二つが耳に入った瞬間、堀田の中で、3年前の朝が開いた。
新聞を持って来たのは沢渡だった。診療所の裏口から入り、診察が始まる前の椅子に腰を下ろした。施設長の不適切な指示が問題になっています、と沢渡は言った。これで現場も立て直せます。先生には、引き続きお力を貸していただきたい。
堀田は新聞を読んだ。葛西の名前があった。自分が記した死因もあった。書かれていないことは、もっと多かった。亡くなった入所者を診た時刻。職員が何度も連絡してきたこと。夜勤の人数を増やすように、自分が口頭で求めたこと。
求めただけだった。
紙に残さなかった。県へ伝えなかった。嘱託をやめるとも言わなかった。病院へ運ぶべきではないかという若い職員の声に、朝まで様子を見ようと答えた夜もあった。
沢渡が帰ったあと、堀田は葛西に電話した。つながらなかった。もう一度かけようとして、受話器を置いた。施設長の不正を報じる新聞が目の前にあった。あの男が指示したのなら、自分も騙された側なのではないか。そんな考えが、胸の中に居場所を作った。
妻は診察室へ入ってきて、何があったの、と聞いた。堀田は、施設のことで少し、と答えた。それ以上は話さなかった。
葛西が死んだと知った日も、同じ答えをした。施設のことで少し。言葉を小さくすれば、したことまで小さくなる気がした。
いま、玄関の外で記者が何かを尋ねている。最近、変わったことはないか。不審な人物は来ていないか。
不審な人物なら、毎朝、洗面所の鏡に映る。白衣を脱いでも、医者だった顔は消えない。患者のために働いてきたという記憶も、消えてくれない。その記憶があるからこそ、あの夜だけを別の自分のしたことにできなかった。
「帰れ」
堀田は言った。
記者が怯んだ。堀田はその顔を見て、少しだけ満足した。その小さな満足が、すぐに自分を惨めにした。
この男に怒れば、葛西に電話をかけ直さなかった自分を忘れられる。新聞が間違っていたと言えば、書類に名前を記した自分は、騙された医者でいられる。
「二度と来るな」
戸を閉めた。鍵をかける指が滑った。
台所へ戻ると、食卓に昨日の茶碗があった。妻の使っていた茶碗は、戸棚の奥にしまってある。捨てられないものは、奥へ入れる。見えなくなると、片づけた気になる。
堀田は酒の瓶を持ち上げた。中身は少なかった。昼から飲むな、と妻が言う声を思い出した。記憶の中の妻は、いつも同じ言葉しか言わなくなっていた。自分が覚えていることだけを繰り返す。本人が生きていたら、もっと違うことを言っただろう。
電話の横に、古い手帳があった。葛西の番号は、まだ残っている。
堀田はそこを開いた。かけても誰も出ない。だから開けるのかもしれなかった。答えを求められない相手にだけ、謝ろうとしている。
玄関の外で車の扉が閉まった。堀田は手帳を閉じた。記者に話すことはないと言った。だが、話さなければならないことなら、3年前から、いくつもあった。
*
堀田家の玄関前。
古い木造2階建て。庭は荒れ放題。軒下に灯油のポリタンク。
亮は呼び鈴を押す。しばらくして、無精髭の堀田正臣(70)がドアを開ける。酒の匂い。
「……何だ」と堀田が言った。
「北陵日報の真柴と申します。地域医療の取材で、少しお話を」
「新聞屋に話すことはない」
「最近、何か身の回りで変わったことはありませんか。不審な人物とか」
堀田は亮の顔をじっと見る。
「真柴……北陵日報の、真柴」と堀田が言った。
堀田の顔色が変わる。
「あの記事を書いた男か」
「……え」
「帰れ! 二度と来るな!」
ドアが叩きつけられる。亮は、立ち尽くす。
あの記事……なぜ、この人が
*
北陵日報の社会部。
亮は宇佐見の席の前に立つ。
「デスク。堀田正臣という元医師、ご存じですか」と亮が言った。
宇佐見の手が、一瞬だけ止まる。
「……知らんな。なんだ急に」
「3年前の記事のことを、知っているようでした」
「3年前のことなんか、県民全員が知ってる。お前は有名人なんだよ。悪い意味でな」
宇佐見は新聞を広げて顔を隠す。
*
県警本部の捜査一課。
桐生は机に2冊のファイルを並べている。
1冊は昨日の踏切の件。もう1冊は、背表紙の色褪せた古いファイル。
葛西誠一 鉄道自殺 処理済
相棒の若手刑事・宮内(30)が覗き込む。
「桐生さん、それ3年前のやつですよね。もう終わった件じゃ」と宮内が言った。
「水野紗季のスマホにメッセージを送った『ゆりかご』って垢、昨日の夜のうちに消えてた。発信元も追えない」
「ただのいたずらじゃないってことですか」
「女子高生を狙って、時刻まで指定して、踏切に誘導した。で、その時刻ぴったりに、たまたま記者が居合わせた」
桐生は古いファイルを開く。葛西誠一の現場を写した記録写真。踏切の柱。
「3年前の朝も、あいつは誰より早く現場にいた」と桐生が言った。
*
美咲が亮と初めて長く話したのは、病院の休憩室ではなく、市民会館の廊下だった。地域の救急体制についての説明会があり、美咲は職場から頼まれて受付を手伝っていた。亮は取材に来ていた。
説明会のあと、会場に残った高齢の男性が、配られた資料を何度もめくっていた。亮は片づける人の邪魔にならない場所へ椅子を移し、男性の話を聞いていた。美咲はそのとき、記者はずいぶん長く話を聞く仕事なのだと思った。
あとで聞くと、記事にはならなかったという。
「じゃあ、どうしてあんなに」
美咲が尋ねると、亮は少し困った顔をした。
「帰りのバスまで時間があるって言われて」
立派な理由ではなかった。それが美咲にはよかった。使命感を語られるより、その場にいた人間の返事らしかった。
結婚してから、亮は待つことが苦手な人だとわかった。電子レンジの残り時間を何度も見る。返事のない取材先へ、早すぎる確認の電話をかける。バスを待つ男性の話を聞いていた人と同じなのかと思うこともあった。
人には、いろいろな面がある。美咲は仕事で毎日それを見ていた。穏やかな人が痛みで怒鳴ることも、怒ってばかりいた人が家族の前では小さな声になることもある。だから、亮が変わったと簡単には思いたくなかった。
けれど3年前、夫は本当に変わった。
食卓で新聞を開かなくなった。休日に遠出をしなくなった。電話が鳴ると、先に画面を見るようになった。眠れない夜に何を考えているのか聞くと、締め切りのことだと答えた。締め切りのない日も同じだった。
美咲は何度か、仕事を休んだらと言った。亮は怒らなかった。怒るより困った顔をした。休めば何が変わるんだ、と小さく言った。
その返事が、美咲にはいちばんつらかった。自分と一緒にいる時間まで、何も変えないものに数えられた気がした。
今夜も、電話の向こうで亮は張り込みだと言った。何の張り込みかと聞くと、帰ったら話すと答えた。
帰ったら。落ち着いたら。仕事が終わったら。
夫婦の大事な話は、いつも、その言葉の向こうへ置かれた。そこへたどり着く前に次の仕事が来て、次の朝になった。
通話を切ったあと、美咲は洗い物をした。夫の茶碗も洗った。まだ帰っていないのに、使う予定のない茶碗まで洗ってしまい、自分で少し笑った。
怒っているからといって、心配しなくなるわけではない。心配しているからといって、怒りがなくなるわけでもない。
美咲は居間の時計を見た。11時を過ぎていた。寝室へ行こうとして、やめた。待つのをやめたいと思いながら、待たずに眠る方法を知らなかった。
窓の外で、救急車の音がした。最初は遠かった。だんだん大きくなり、また遠ざかった。美咲は音の向きを確かめるように顔を上げた。
病院へ向かう音だ。そう思っただけなのに、胸の奥がざわついた。
夫が取材しているのは、どんな人なのだろう。その人は、今夜、家に帰れるのだろうか。亮は人の帰り道を記事にして、自分の帰り道だけを後回しにしているのかもしれない。
美咲は携帯電話を裏返した。もう一度かけたら、責める声になってしまう。聞きたいことはある。だが、聞くための言葉が、心配の形にならなかった。
*
午後11時10分。堀田家の前の路上。
亮は少し離れた路上に停めた車の中で、堀田家を見張っている。
2階の窓に灯り。テレビの音が漏れている。
亮のスマホが鳴る。美咲。
「今日も遅いの?」
「ああ、張り込みでさ」
「……何の張り込み?」
「……ごめん。帰ったら話す」
「それ、3年前も聞いた」
通話が切れる。亮は、スマホを見つめる。
午後11時32分。2階の灯りが消える。
亮はふと、庭の奥で何かが動いたのに気付く。
黒い服の人物が、軒下のポリタンクを持ち上げている。
亮は車を降りる。
*
午後11時38分。堀田家の裏庭。
強い灯油の匂い。勝手口の周りが、濡れて光っている。
「おい!」
黒い人物は、振り返る。目出し帽。次の瞬間、ライターの火が放られる。
ボッ……と炎が立ち上がり、勝手口を舐める。
黒い人物は、塀を乗り越えて闇に消える。
亮は一瞬追いかけかけて……家を見上げる。
「堀田さん!」と亮が言った。
*
堀田家の中。
煙が廊下に満ちていく。亮は、袖で口を覆い、階段を駆け上がる。
寝室。堀田が酔いつぶれて布団に倒れている。
「起きろ! 火事だ!」
堀田はうめく。亮は、堀田の体を背負い、階段を降りる。
炎が台所から廊下へ回ってくる。熱で、亮の手の甲が赤く焼ける。
玄関の引き戸を蹴破り、二人、庭へ転がり出る。
*
堀田家の庭。
咳き込む堀田。燃え上がる家。近所の人々が飛び出してくる。
堀田は亮の胸ぐらを掴む。焦点の合わない目。
「葛西……すまん……許してくれ……俺は、サインしただけなんだ……」
「……葛西?」
「病死だと……書けと……言われたから……」と堀田が言った。
堀田は意識を失う。
亮はその手を握ったまま、燃える家を見上げる。
*
堀田家の規制線の前。
消防車、救急車。亮は、手の甲に包帯を巻かれている。
桐生が、規制線をくぐってくる。
「二度目だな、真柴」
「……」
「昨日は踏切、今日は火事。お前の行く先々で、人が死にかける」
「黒い服の男を見ました。灯油を撒いて、火をつけた」と亮が言った。
「その男の顔は」
「目出し帽で……」
「便利な男だな」
鑑識の男が桐生に耳打ちする。
「……勝手口に灯油。ストーブの不始末に見せかけようとした痕跡がある、だとさ」と桐生が言った。
桐生は亮をじっと見る。
「で、お前はなぜ、夜の11時に、元医者の家の前に車を停めてた」
亮は答えられない。
「答えなくていい。今はな」
*
火事の現場を離れる前、亮は消防の隊員から、勝手に中へ入らないよう強く言われた。助かったからよかったという話ではない。救助する人間が増えれば、現場の危険も増える。
亮は頭を下げた。反論する気はなかった。堀田を助けられたという安堵の中で、自分が正しいことをしたと思いかけていた。結果がよかったから、やり方まで正しかったことにはならない。
桐生は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。亮が戻ると、車へ乗れと言った。暖房がついていた。亮は、寒かったのだと、そこで初めて気づいた。
「助けるつもりで、死ぬな」
桐生が言った。
「死ぬつもりは、なかったです」
「みんな、そうだ」
亮は返事をしなかった。窓の向こうで、家の壁から水が落ちていた。さっきまで火が出ていた場所が、黒く濡れている。
「俺、記事を知ってたんです」
亮は言った。
桐生は顔を向けた。
「何の記事だ」
亮は未来の日付の新聞のことを話しかけ、止まった。まだ紙を見せられない。家にある。説明だけなら、信じてもらえないだろう。
「家へ来てもらえますか」
桐生は亮を見た。
「いまは、現場を離れられん。あとで連絡する」
亮はうなずいた。自分の不安が大きいからといって、相手の仕事を止められるわけではない。桐生には、いま目の前の火事を調べる責任があった。
「紙があるんです。見てもらいたい」
「捨てるな。何も書き足すな。そのまま置いておけ」
桐生はそう言った。
亮は初めて、紙を信じるかどうか以外の扱い方を教えられた気がした。信じなくても、残す。わからなくても、調べる。その間にできることがある。
帰りの車で、美咲の声を思い出した。何時に帰るの。答えなかった問いが、耳の中に残っていた。
亮は電話をかけた。呼び出し音が一度鳴る前に、美咲が出た。
「いま、帰る」
それだけ言うと、声が詰まった。美咲は、何があったの、と尋ねた。亮は、家で話す、と答えた。今度こそ、話すために帰るのだと思った。
*
午前2時。真柴家の居間。
美咲は灯りもつけずにソファに座って待っている。
亮が帰ってくる。煤だらけ。手に包帯。
美咲は立ち上がる。
「……何、それ」
「なんでもない」と亮が言った。
「なんでもない人は、煤まみれで夜中の2時に帰ってこない!」
沈黙。
「3年前、あなたが毎晩眠れなくなったとき、私、何も聞かなかった。聞いたら壊れちゃいそうだったから。でも、今度は聞く。何を隠してるの」
亮は長い沈黙の後、胸ポケットから二枚の紙を出してテーブルに置く。
「……明日の新聞が、届くんだ」
美咲は紙を見る。日付。記事。
「……亮」と美咲が言った。
「信じなくていい。俺も信じてない。でも、この子は本当に踏切にいた。この人の家は、本当に燃えた」
美咲は紙と夫の顔を交互に見る。その目に浮かぶのは、恐怖ではなく、心配。
「……明日、病院に一緒に行こう。いい先生、知ってるから」
「美咲」
「疲れてるの。あなたは、3年間ずっと」と美咲が言った。
亮は何も言えずにうつむく。
*
美咲は夫が眠ってから、包帯の袋を片づけた。開封口を指で押さえると、薄いビニールが小さく鳴った。その音で亮が目を覚まさないか、しばらく待った。
結婚したころ、亮はよく取材の話をした。川で拾われた財布が持ち主に戻ったこと。閉店する食堂の主人が、最後の日まで常連の好物を覚えていたこと。話しながら笑うと、片方の頬だけに浅い皺が寄った。
大きな事件を書きたいの、と美咲が尋ねたことがある。亮は、そうだな、と答えたあとで、でも小さい記事もなくならないほうがいい、と言った。
その顔を、3年間見ていない。
病院で美咲は家族に説明をする医師の隣に立つことがある。説明の内容が同じでも、聞く側に届く順番は違う。病名が先に入る人。仕事を休まなければと思う人。夕飯の支度をしていないことを、急に気にする人。
だから夫の言葉を、すぐに否定したくはなかった。けれど、明日の新聞という言葉を受け止めるには、夫の疲れた顔があまりに現実的だった。
美咲は居間へ戻り、二枚の紙をもう一度読んだ。日付と名前だけでなく、句読点まで追った。堀田正臣さん、70歳。亮が背負って運び出したという老人にも、こうして数字にできる年齢がある。
紙を裏返した。何も書かれていない白い面が、かえって不気味だった。
美咲は白い裏面を見つめた。夫の疲れが作り出したものか、誰かが外から持ち込んだものか。今は決められない。決められないまま、見たことと聞いたことを順序どおり覚えよう。人を診る仕事では、そこから始めるしかない。
*
午前3時50分。夫の寝息がようやく規則正しくなったころ、美咲は目を開けたまま、朝が近づくのを感じていた。
美咲は眠れずに目を開けている。隣で、亮がようやく浅い眠りに落ちている。
美咲はそっと布団を出る。
*
午前3時58分。美咲は玄関の戸をわずかに開け、冷えた外気の中で息を殺した。
カーディガンを羽織った美咲が、玄関の陰に立っている。
車の音よりも小さな、自転車の車輪が水気を弾く音が近づいた。
若い配達員が、フードの陰に顔を隠したまま新聞を差し込んだ。手袋はしていなかった。
美咲は息を詰めて見ている。配達員の後ろ姿。細い肩。
配達員の肩が一度だけ揺れた。振り返るのかと思ったが、顔は上がらず、自転車は通りの角へ消えていった。
美咲はポストを開ける。新聞の間に、一枚の紙。
北陵日報 10月13日
元会社員の女性、立体駐車場から転落死 北陵駅前
12日午後8時15分ごろ、北陵駅前の市営立体駐車場の屋上から女性が転落し、死亡した。死亡したのは市内に住むパート従業員、柏木奈緒さん(42)。屋上には争った跡はなく、北陵署は自殺の可能性が高いとみている。
美咲の手が震える。
背後で、玄関の戸が開く。亮が立っている。
「……本当に、あの紙が届いたのね」美咲の声は小さく、自分に確かめるようだった。
亮は黙ってうなずく。
「今の人……配達の人だった。若い男の子」
「顔は」
「見えなかった。でも……振り返りかけたの。私が見てるの、気付いてたみたいに」と美咲が言った。
二人は、薄明るくなり始めた通りを見つめる。




