第1章 明日の日付
新聞には、折り目がある。
真柴亮は記者になってから、その当たり前のことを幾度も忘れた。編集画面の上では、名前も年齢も死亡時刻も、所定の幅へ流し込めば整った長方形になる。だが刷り上がった紙には厚みがある。朝の食卓で開く手があり、見出しの途中で止まる指があり、読み終えたあとに二度と開かれない折り目もある。
3年前、亮の署名記事は、ひとつの家で開かれた。最初に紙を手にしたのが妻だったか息子だったか、今も知らない。施設長の名を見つけた誰かの指が、そこで止まったはずだ。亮は、その手を想像することさえ避けてきた。
知らなかったのではない。知ろうとしなかった。
10月10日、夜明け前の北陵市には、ひと晩降った雨の匂いが残っていた。商店街のシャッターは沈黙し、点字ブロックの窪みにたまった水が街灯を揺らしている。東町踏切を抜ける貨物列車の震動だけが、まだ眠る町の足もとを伝わってきた。
踏切の脇には、花が置かれていた。誰が供えたかを、新聞は書かない。
*
午前3時五58分。東町踏切。
雨の止んだアスファルトには遮断機の赤い光が映り、点滅のたび、細い血管のように伸び縮みした。
踏切脇の柱の根元に、枯れかけた白菊が数輪、輪ゴムで束ねられている。茎は黒ずみ、花びらの端が透けていた。
坂の上から自転車が一台下りてきた。前籠には朝刊の束。深くフードを被った配達員の顔は、街灯の輪の外にあった。
配達員は踏切の手前でブレーキを握った。止まることには、慣れていた。
背後から古い軽自動車のヘッドライトが近づき、白線のところで一時停止した。
エンジンは低く唸り、ワイパーが一度だけ動いた。そこにはもう、拭うほどの雨粒はなかった。
なのに車は、先へ進まなかった。
助手席側でドアの開閉する鈍い音がした。配達員には車体が邪魔で、その人物の姿は見えなかった。
配達員は肩越しに運転席を振り返った。窓は内側から曇り、ハンドルを握る人間の表情を隠していた。
肩掛けバッグの内側へ、配達員の右手が入った。指は布の奥の硬いものを探り当てる。
カン、カン、カン。踏切の警報が、二人のあいだに割って入った。
午前四時三分。貨物列車がレールを震わせて通過した。規則正しく並ぶ窓の光が、配達員の頬を一瞬ずつ切り取り、次の暗闇へ渡していく。
列車が去り、遮断機が上がった。残ったのは、濡れた鉄の匂いだった。
軽自動車が踏切を渡っていった。追いかけるには遅く、呼び止める理由も、もうなかった。
配達員がバッグから手を抜いた。握りしめた拳をほどくと、掌には何もなかった。
柱の根元には、枯れた菊の隣に新しい白菊と缶コーヒーが一本、増えていた。缶の側面に、誰かの指紋がかすかに残っている。
配達員は長いあいだそこを見ていた。やがて視線を外し、ペダルを踏んだ。まだ終わらない配達があった。
*
午前5時。真柴家の玄関前。
築30年の小さな借家。軽自動車が停まる。
車から降りてきたのは真柴亮、三十八歳。夜勤明けのジャケットには、取材ノートの角でできた皺が残っていた。
ポストから北陵日報を抜き取り、鍵を開けて中へ入る。
*
真柴家の台所。
灯りがついている。看護師の制服の上にカーディガンを羽織った真柴美咲(35)が、弁当を詰めている。
「おかえり。早番だから、もう出るね」と美咲が言った。
「ああ……悪い、起こしたか」
「起きてたの。……また眠れなかった?」
「仕事だよ。県議会の資料が遅れてて」
美咲は亮の顔をじっと見る。亮は、視線を外して新聞を広げる。
「そういえば昨日ね、半年前に亡くなった森下さんっていう患者さんの息子さんが、わざわざ病棟に挨拶に来てくれたの。お母さんがお世話になりましたって。ああいう子、今どき珍しいよね」と美咲が言った。
「……そうか」
亮は上の空だった。新聞の間から、一枚だけ紙質の違う紙がはらりと落ちる。
亮は拾い上げる。北陵日報の社会面。見慣れた題字、見慣れた書体。
だが、日付の欄が……。
北陵日報 10月11日
「……11日?」
「今日、10日だよ」
亮は紙面に目を走らせる。社会面のトップ。
女子高生、踏切ではねられ死亡 北陵市東町
10日午後4時12分ごろ、北陵市東町の東町踏切で、市内の高校2年水野紗季さん(17)が下り普通列車にはねられ、搬送先の病院で死亡が確認された。北陵署は事故と自殺の両面で調べている。
亮は紙を折り直す手を止めた。日付を確かめる指にだけ、血が通っていないようだった。
「東町踏切……」と亮が言った。
「どうしたの?」
「……いや。誤植だ。刷り直しの紙が紛れたんだろ」
亮は紙を折り畳んで胸ポケットへしまう。
美咲は玄関で靴を履きながら振り返る。夫の背中が、妙に硬い。
*
亮が初めて自分の署名を見たのは、河川敷の清掃活動を伝える小さな記事だった。大学を出て半年、警察署の記者室へ通う仕事にもまだ慣れていなかった。記事の隣にはスーパーの広告が入り、本文より、卵の値段を知らせる数字のほうが大きかった。
掲載紙を実家へ送ると、父から電話があった。よかったな、と言ったあとで、父は、どこを掃除したんだ、と尋ねた。記事に場所は書いてある。亮がそう答えると、いや、そこは知ってる、昔お前を連れていったところだ、と父は言った。
亮は覚えていなかった。
川で靴を濡らしたこと。帰り道、父の自転車の荷台に乗ったこと。父が話すたび、記事に書かなかった景色が、電話の向こうから現れた。亮はその夜、取材ノートの余白に、記事の外にも続きがある、と書いた。
それを宇佐見に見られたことがある。
「詩人になるのか」
笑われたので、亮は慌ててノートを閉じた。宇佐見は、その手を止めた。
「悪くない。だが、続きがあると思うなら、次に会ったときに聞け。いい言葉で終わらせるな」
亮はその忠告を長く覚えていた。覚えていることと、守っていることは違った。
いま、社会部の机には、前夜の紙面が積まれていた。自分が書いた県議会の記事も載っている。どの会派が何を求めたか。県がどう答えたか。数字と肩書を間違えず、締め切りまでに送った。誰からも直しは入らなかった。
3年前から、亮の原稿には大きな直しが入らなくなっていた。書く量が減り、取材先の発言を丁寧に並べ、結論を急がない文章になった。慎重になった、と言う同僚もいた。本人には、傷つけることを恐れて、人の中へ入らなくなっただけだとわかっていた。
早瀬が机の横に立った。片手に、市内の祭りを知らせる案内を持っている。
「この出店の人、去年も真柴さんが取材してますよね。連絡先、残ってますか」
亮はノートを探した。引き出しの奥から、角の折れた名刺が出てきた。早瀬に渡しかけて、手を止めた。
「奥さんが入院してた。いまどうしてるか、最初に聞いてやってくれ」
「記事に関係あります?」
「関係があるかどうかは、聞いてから考えればいい」
早瀬は少し首をかしげたが、名刺の裏に書きつけた。
亮はその背中を見送った。若いころ、自分もそういう質問をしただろう。記事になるかどうか。見出しに使えるかどうか。何もかもを、仕事の中へ収まる大きさに測っていた。
胸ポケットに手を入れると、紙の角が指に当たった。
まだ生きている少女を、死んだと書いた文章。誰が書いたのかわからないその記事は、亮が長いあいだ遠ざけてきた場所へ、彼を押し戻そうとしていた。
亮は学校の代表番号を調べた。名乗って、在籍する生徒について確認したいと伝えた。電話口の職員は、当然のように断った。個人のことは答えられない。どのような用件か。
亮は口を開いた。今日、その生徒が踏切で死ぬかもしれない。そう言えば、どうなるだろう。根拠を聞かれる。紙を見せる。警察へ連絡されるかもしれない。そうなれば、少なくとも少女を守れるのではないか。
だが、いたずらだったら。誰かが記者をからかうために作った紙だったら。自分の思い込みで学校を騒がせ、生徒の名前を広めることになる。
「真柴さん、用件をお願いします」
亮は地域の交通安全の取材です、と答えた。職員の声が硬くなった。取材なら事前に書面で申し込んでほしいという。
通話を終えたあと、亮は受話器を置いた右手を見た。嘘をついた。まだ誰も死んでいないのに、すでに一度、事実から目をそらしていた。
紙を机の下で開く。記事の中の少女は反論しない。死亡記事の主語になった人間は、新聞の上では決して口を開けない。だからこそ自分の判断を疑わなければならない、と亮は考えた。
取材ノートを左右に区切った。左に〈紙に書かれたこと〉、右に〈実際に確かめたこと〉。左欄には姓名、日時、踏切、死亡の四つが埋まる。右欄には、公開記録で在籍を確かめた、と一行だけ。空白の大きさが、これまで見落としてきたものの形に似ていた。
左右の欄の差は大きかった。その差を埋めるために、午後は自分で踏切へ行く。それだけを決めた。
*
亮は駅前の喫茶店で新聞を広げた。朝の客は少なく、店員は水を置いてすぐに離れた。亮は普通の朝刊と、未来の日付の紙を並べた。題字の大きさ。罫線の位置。記事の段数。見慣れた紙面なのに、細かく比べようとすると、自分が普段どれほど形を見ていないかがわかった。
広告の店名を調べた。実在する店だった。電話をかけると、今週の広告は出していないと言われた。亮は日付を言い直しかけ、やめた。未来の日付の広告について聞けば、説明がつかなくなる。
通話を終え、広告の隅に線を引いた。普通の朝刊から切り取って組み合わせた可能性がある。そう考えると、紙は少しだけ現実のものになった。
次に、少女の名前を調べた。学校の演奏会の記録に、同じ名前があった。クラリネット。写真は小さく、本人かどうかは断定できない。亮は画面を拡大しなかった。顔を知るために必要な範囲と、勝手に人の暮らしへ入り込むことの境目が、まだ自分にはわからなかった。
水を飲むと、冷たさが喉に残った。紙の上の時刻まで、まだ何時間もある。何時間もあるのに、何をすればよいかわからない。
警察へ持っていくべきだろう。亮は桐生の番号を表示した。3年前の事件以来、仕事以外ではほとんど連絡していない。桐生は、葛西の件を自殺と断定することに最後まで慎重だった。だが、結局はその判断に従った。亮は、自分と同じように、何かを飲み込んだ人間だと思っていた。
呼び出しの印へ指を置き、離した。桐生に笑われるのが怖いのではない。紙を見せて、ただの偽物だと言われたら、何もしなくてよい理由ができる。それが怖かった。
亮はノートに、広告は既存のものを流用した可能性、と書いた。偽物かもしれない。だが、偽物の中に本当の危険が書かれている可能性は、まだ消えていない。
店を出るとき、会計の金額を聞き逃した。店員がもう一度言った。亮は謝り、財布を開いた。日常の小さな手順を間違えるほど、頭の中は紙でいっぱいだった。
外へ出てから、亮はもう一度、少女の名前を見た。水野紗季。死亡という言葉を指で隠した。名前だけなら、まだ何も決まっていない。自分が今日会うのは、死者ではなく、生きている人間なのだと、確かめた。
*
北陵日報の社会部。
雑然とした編集フロア。電話の音。
若手記者・早瀬(26)がコーヒーを差し出す。
「真柴さん、夜勤明けなのに帰らないんですか」
「早瀬。明日の社会面のゲラ、もう出てるか」と亮が言った。
「明日? 出てるわけないじゃないですか。まだ朝の9時ですよ」
亮は自席のパソコンで「水野紗季」と検索する。
北陵西高校・吹奏楽部の演奏会の写真。2年、クラリネット。実在する。
背後から、社会部デスク・宇佐見修司(56)が覗き込む。
「珍しいな。学校の取材でも始めるのか」
「……デスク。冗談はいいです」
「冗談ついでに仕事の話だ。久我俊之が、来月の知事選に出る」と宇佐見が言った。
亮は顔を上げる。
「それに合わせて、県が『やすらぎの丘』の第三者委員会を立ち上げるそうだ。3年前の件を、もう一度洗い直すんだと」
「……」
「お前の書いた記事だ。逃げるなよ」
宇佐見は亮の肩を叩いて去る。
亮は胸ポケットの紙に手を当てる。
*
北陵日報東町販売所。
チラシの束と新聞のインクの匂い。店主の大野(62)が帳簿をつけている。奥で、若い配達員の森下湊(24)が黙々とチラシを折り込んでいる。
「真柴です。東町3丁目の。うちの配達、どなたが」と亮が言った。
「3丁目なら森下だな。おい、森下」
湊は手を止めて顔を上げる。物静かな青年。
「今朝の新聞に、これが挟まってた」
亮は紙を見せる。大野は、老眼鏡をずらして覗き込む。
「……なんだこりゃ。日付が明日になってる。こんなもん、うちじゃ刷れねえよ」
「森下さん、配る前に何か気付きませんでしたか」と亮が言った。
「……僕は、届いた新聞をそのまま入れてるだけです」
湊は亮の目をまっすぐ見る。
「僕が配るのは、新聞です」
「……そうですか」
湊は再びチラシを折り始める。その指先が、わずかに黒ずんでいる。
*
踏切へ向かう前、亮は線路沿いの道を歩いた。記事にあった場所を、記憶だけで選ばないためだった。東町には小さな踏切がいくつかある。地元の人間が同じ呼び名で呼んでいても、記事の正式な名称は違うことがある。
柱の表示を確かめ、道路の幅を見た。歩道は途中で細くなり、自転車と歩行者がすれ違うには窮屈だった。学校から来る生徒たちは、手前の角で何組かに分かれた。紗季がどの道を通るかは、わからない。
亮は記事に時刻が書かれているからといって、その時刻に来ればよいと思っていた自分に気づいた。事故の瞬間だけを知っていても、その前に何が起きるかを知らなければ、止められない。
線路へ入らず、周囲の安全な場所から見渡した。人を待つには、目立ちすぎないほうがよいのか。いや、相手が高校生なら、知らない男が陰から見ているほうが不審だ。亮は名刺を取り出し、すぐに見せられる場所へ入れた。
近くの商店の人が、何かお探しですかと声をかけた。亮は新聞社の名を告げ、踏切の通行の様子を見ていると答えた。店の人は、夕方は自転車が多いと言った。朝は車が詰まる。雨の日は、みんな急ぐ。
「前にも、ここで」
店の人はそこまで言って、口を閉じた。亮の顔を見たのだろう。3年前のことを知っているのかもしれなかった。
亮ははい、とだけ答えた。
「花、いつもあるでしょう」
店の人は柱のほうを見た。
「枯れたのは、ときどき片づけてます。置く人が来るまで、そのままも悪いと思って」
亮は礼を言った。自分が置いた花のその後を、考えたことがなかった。誰かが片づけ、水を替え、道の端へ寄せていた。
頭を下げる自分の時間の外にも、人の手があった。
亮は柱へ近づいた。枯れかけた菊が、濡れた地面に触れないよう、少し高い場所へ寄せられていた。触れずに見て、それから顔を上げた。今日は、花を置きに来たのではない。まだここを通っていない少女を、待ちに来たのだった。
*
午後3時50分。東町踏切。
下校途中の高校生たちが行き交う。亮は、踏切脇の電柱の陰に立っている。
柱の根元に、今朝の白い菊。亮は、それを見ないようにしている。
腕時計。3時58分。4時5分。
何を……してるんだ、俺は
4時10分。坂の上から、イヤホンをした女子高生が一人で歩いてくる。水野紗季(17)。制服、クラリネットのケース。
亮は息を呑む。
紗季はスマホを見つめたまま踏切に近づく。
カン、カン、カン……警報が鳴る。遮断機が降り始める。
紗季は止まらない。降りてくる遮断棒をくぐり、線路の真ん中で立ち止まる。
「おい!」と亮が言った。
紗季はスマホの画面を見つめたまま動かない。
遠くに列車のライト。警笛。
亮は遮断棒を跳び越え、紗季の腕を掴んで引き戻す。二人は、線路脇の砂利に倒れ込む。
轟音。下り列車が、1メートル先を走り抜けていく。
紗季のイヤホンが外れ、スマホが砂利の上に転がる。
「……っ、離して!」
「死ぬ気か!」
「おばあちゃんが……ここで待ってるって……」
亮は転がったスマホを拾う。画面には、匿名アカウント「ゆりかご」からのメッセージ。
ゆりかご:4時12分の電車に乗れば、おばあちゃんに会えるよ。本当のことも、全部教えてくれる。
「……誰だ、これは」と亮が言った。
紗季は泣き崩れる。
亮は腕時計を見る。午後4時12分。
*
パトカーの赤色灯。通行人の通報で駆け付けた警官たち。
毛布をかけられた紗季の横に、亮が座っている。
私服の男が近づいてくる。県警捜査一課の刑事、桐生透(45)。
「北陵日報の、真柴さんだな」
「……桐生さん」
「覚えててくれて光栄だ。ここで何をしてた」
「たまたま通りかかっただけです」と亮が言った。
「たまたま、ね」
桐生は柱の根元の白い菊に目をやる。
「3年前も、あんたはここにいたな。葛西誠一が死んだ朝に」
「……」
「記者ってのは、人が死ぬ場所に鼻が利くもんらしい。今日は、死ななかったけどな」と桐生が言った。
桐生は紗季のスマホを証拠袋に入れる。
「また会うだろうな、真柴さん」
*
紗季が帰宅したとき、母は玄関の鍵を二度確かめた。普段は閉め忘れることもある人だった。台所へ戻ってからも、やかんの火をつけずに立っていた。
「お母さん」
呼ぶと、母は振り返った。
「何か飲む?」
「いらない」
「温かいもののほうが」
「いらないって」
強く言ってしまってから、紗季は口を閉じた。母の手が止まった。怒られると思ったが、母は何も言わず、戸棚からマグカップを二つ出した。自分のために湯を沸かすのだとわかり、紗季はかえって申し訳なくなった。
居間の隅に、クラリネットのケースを置いた。留め具に砂が入っていた。爪で掻き出そうとして、指先が震えた。
死にたかったのかと聞かれても、うまく答えられなかった。祖母に会えると本気で思ったのかと聞かれても、違う気がした。祖母がもういないことは知っている。それでも、祖母のことを知っているという相手の言葉を、切り捨てられなかった。
最初のメッセージは優しかった。動画を見ました。おばあさまは、つらい思いをされたのですね。誰にも言えないことがあったら、聞きます。
母は祖母の話になると黙った。学校の友人は、施設の名前も知らなかった。知らない相手だから話せることがある。紗季はそう思っていた。
相手は少しずつ、祖母の声を聞く方法を知っていると言い始めた。紗季が疑うと、祖母の入っていた部屋の位置を言った。窓から見えた木のことを言った。公開した動画には映っていないことだった。
それで、知っている人なのだと思った。
台所から湯の沸く音がした。紗季は携帯電話を持ち直した。警察で画面を確認されたあと、必要な記録を残すために預けることになった。いま手にしているのは、母が貸してくれた古い端末だった。祖母の留守番電話は、そこにも保存してあった。
再生の印に指を置き、押さずに離した。
母が向かいに座った。カップを紗季の前へ置き、自分のものを両手で包んだ。
「私も、見たくなかったの」
紗季は顔を上げた。
「おばあちゃんのいた施設の記事。あなたが動画を載せたとき、消しなさいって言ったでしょう」
母はカップの縁を見ていた。
「また何か言われると思った。あの施設に預けた家族が悪いって。自分で面倒を見ればよかったのにって。前にも、そういう電話があったから」
紗季は知らなかった。
「誰から」
「知らない人。名前も言わなかった」
母は笑おうとした。うまくいかなかった。
「仕事をやめて家で看ればよかったって、私も考えた。でも、やめたら生活できなかった。施設を選んだとき、これで少し安心できると思ったの。安心したことまで、悪かったみたいになった」
紗季は祖母が死んでから母が祖母の話をしなくなった理由を、初めて少し理解した。忘れたのではなかった。話し始めたら、自分を責める言葉しか出てこなくなるのだ。
「私、おばあちゃんに、聞きたいことがあった」
「うん」
「最後、怖かったのかなって」
母の目から涙が落ちた。紗季は慌てた。泣かせるつもりではなかった。けれど母は、謝らなくていいと言った。
「わからない。私も、わからないの」
その答えは、知らない相手から届いたどの優しい言葉より、紗季には確かに聞こえた。わからないことを、わかると言わない。会えない人に、会えると言わない。
紗季はカップを持った。中には薄いココアが入っていた。祖母が作るものより甘くなかった。
「助けてくれた記者の人、変だった」
母は目元を拭いた。
「どんなふうに」
「怒ってたのに、あとで、私より震えてた」
母は、そう、とだけ答えた。
「おばあちゃんの記事を書いた人だよね」
「そうだと思う」
「悪い人なのかな」
母はすぐに答えなかった。紗季も返事を急がせなかった。今日、自分の腕を掴んだ手の強さと、祖母の名前が載った紙面の冷たさは、まだ頭の中で一つにならなかった。
クラリネットのケースを開けると、楽器は傷ひとつなく収まっていた。紗季は管の水分を拭き、キィを確かめ、決まった順序で元へ戻した。今日、踏切で失いかけたものは元へ戻らない。それでも、指の覚えている順序が、自分の部屋を少しずつ取り返してくれた。
*
帰宅した亮を迎えた居間には、夕飯の匂いが薄く残っていた。
美咲は帰宅した亮の靴を見る。泥と砂利がこびりついている。
「どこ行ってたの」
「取材だよ」
「手、震えてる」と美咲が言った。
亮は自分の手を見る。確かに震えている。
「……寒いんだ」
美咲は何か言いかけて、やめる。
*
台所へ戻ると、湯飲みの底に冷えた茶が残っていた。亮は口をつけ、すぐに置いた。舌の上に苦みだけが残った。
水野紗季は生きている。その事実を何度も頭の中で確かめた。警官に名前を聞かれ、母親に抱き締められ、嫌がるように肩を動かしていた。新聞の中では死亡したと書かれていた少女が、現実では、自分の足で立っていた。
それでも亮の胸に広がったのは、安堵だけではなかった。助かった少女には明日がある。紙面の「死亡」には、なかった時間だ。
記事を外したのではない。記事に書かれた出来事を、外側から押し曲げたのだ。そう考えた途端、自分の行為がひどく大きなものに触れた気がした。
携帯電話を取り出し、警察の番号を表示した。未来の新聞が届く。書かれた時刻に人が死にかけた。そう説明する自分の声を想像すると、発信の指が止まった。桐生はきっと、紙ではなく亮の顔を見る。
三年前にも、電話をかけ直すべき時刻があった。葛西が死ぬ前に、聞くべき声があった。番号を知っていたくせに、かけなかった。あの怠慢は、いまも誰の記録にも載っていない。
今度こそ電話をかけよう。そう思ったのに、亮が最初に検索したのは、堀田正臣という名前だった。
人の死を止める方法を、亮は知らない。人の名前を調べる方法なら知っている。画面の白い検索窓に文字を打ち込んだ。指先の震えは、まだ止まらなかった。
*
真柴家の寝室。
暗い天井。美咲は寝息を立てている。
亮は目を開けたまま、胸ポケットから取り出した紙を握りしめている。
誤植でも、いたずらでもない。あの子は、本当に死ぬところだった
枕元の時計。午前3時45分。
亮はそっと布団を抜け出す。
*
午前3時55分。真柴家の玄関。
亮は玄関のドアに背をつけて座り、外の気配に耳を澄ませている。
しんとした住宅街。遠くで犬が鳴く。
亮のまぶたが重くなる。
……カタン。
亮は跳ね起きてドアを開ける。
通りの角を、自転車のテールランプが曲がって消えていく。
「待ってくれ!」
裸足で通りに飛び出す。誰もいない。
亮はポストを開ける。北陵日報。その間に、また一枚。
北陵日報 10月12日
社会面。昨日の女子高生の記事は、どこにもない。
代わりに、同じ位置に別の見出し。
元医師の男性、自宅火災で死亡 北陵市西町
11日午後11時40分ごろ、北陵市西町の住宅から出火、木造2階建て住宅を全焼した。焼け跡から、この家に住む元医師、堀田正臣さん(70)の遺体が見つかった。北陵署は暖房器具の火の不始末とみて調べている。
亮は紙を持ったまま、裸足で立ち尽くす。
「……一人助けたら……別の誰かが」
朝刊の一面は、今日の日付を示していた。握り込んだ一枚だけが、まだ来ない日を告げていた。
東の空が、わずかに白み始めている。




