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女剣客・富河小虎


 日が傾き、森の影が長く伸び始めた頃。


 芦屋玄道は、深手を負ったルーサーを肩に担ぎ、ひたすらに山道を駆けていた。


 ルーサーの脇腹にはすでに布が巻かれ、応急の止血はしてある。

 だが血はなお滲み、呼吸も浅い。長くは持たない――玄道は歯を食いしばった。


 森を抜け、斜面の奥にひっそり建つ木造の小屋へ辿り着く。

 忍びであった頃、彼が隠れ家として使った場所。

 人目につかぬよう造られたその小屋は、帰るべき家など持たぬ者にとって唯一の「影の帰る所」だった。


 荒い息で扉を押し開けた瞬間、玄道の瞳が細まる。


 ――先客。


 焚き火の明かりに照らされ、干し肉を炙っていた小柄な女が振り向いた。

 虎を思わせる鋭い双眸。腰には太刀と脇差し。

 小柄な身体には虎獣人特有の縞模様が走り、焚き火の光で影となる尾が揺れていた。


 華奢な体つきは少年のようにも見えるが、ただ立っているだけで研ぎ澄まされた気配を纏っている。


 女は肉をかじりながら、飄々と笑った。


「……ふむ、物騒な格好だな。旅の途中で腹が減ってな。廃屋かと思って休んでいたんだが」


 玄道は即座にルーサーを床に下ろし、鞘から忍者刀を抜く。

 低い声で問いただす。


「ここに人がいるはずがない。何者だ」


 女は肩を竦める。


「ただの流れ者さ。――そう睨むな。糧秣を少し拝借して、代わりに路銀を置いて立ち去るつもりだった」


 その気安い口調に、玄道の警戒心は逆に強まった。


「口先で誤魔化せると思うなッ」


 鋭い踏み込み。忍者刀が弧を描き、女の肩口を狙う。

 瞬間、甲高い金属音が響いた。


 女は腰の太刀をすらりと抜き放ち、流れるような動作で受け止めていた。

 鍔と鍔が噛み合い、火花が散る。


「ほう……速いな」


 玄道が低く唸る。

 だが女は表情ひとつ変えず、力を込めもせずにその太刀筋を受け流した。


 次の瞬間、玄道の手首が軽く捻られる。

 半虎獣人ならではのしなやかな膂力で、彼の体は床に投げ伏せられていた。


「ぐっ……!」


 息が詰まる玄道。

 女は淡々と刀を下ろし、焚き火の光に照らされながら言った。


「――遊んでいる暇はないだろう。その魔術師、血が止まりきっていない。今すぐ手当てしなければ、日が暮れる前に息絶えるぞ」


 玄道は驚愕し、振り返る。

 確かにルーサーの包帯は真っ赤に染まり、かすかな寝息すら危うい。


 悔しげに奥歯を噛み、玄道は刀を収めた。


「……助言に感謝する。だが、ここは忍びの隠れ家だ。どうしてこんな場所を見つけられた?」


 女は困ったように笑い、首を傾げる。


「さあな。森で道に迷って、腹が減った時に偶然見つけただけだ。廃屋と思ったが……なるほど、そういう場所だったか」


 その答えは拍子抜けするほど飄々としていた。

 だが虚偽を嗅ぎ取れず、玄道はわずかに眉をひそめる。


 女は太刀を鞘に納め、軽く名乗った。


「富河小虎――とがわ ことら。武者修行の身だ。世界最強の女剣士を目指している。……厄介事なら、少しは力になれるかもしれんぞ?」


 焚き火の炎に照らされたその横顔は、年若くも古武士めいた凛とした気配を放っていた。

 虎の耳がかすかに動き、尾が静かに揺れる。その仕草は、人と虎の血を継ぐ流浪の剣客の孤高さを際立たせていた。


 玄道はしばし無言で彼女を見つめ――


「……小虎、か」


 とだけ呟き、深手の友を見下ろす。


 ルーサーの荒い呼吸が、森の夕闇に震えていた。


 古びた寝台に横たえられたルーサーの顔は蒼白で、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


 小虎は膝をつき、傷口へ手を伸ばす。

 虎獣人特有の鋭い嗅覚で血の匂いを嗅ぎ分けると、軽く息を吐いた。


「……脇腹。深いが、臓までは達していない。まだ助かる」


 腰の袋から取り出したのは、乾燥させた薬草と清めの酒。

 小柄な体からは想像できないほど迷いのない手つきで、布を裂き、草を揉み潰し、酒に浸して傷口へ押し当てた。


 ルーサーの眉がわずかに歪み、浅い呻きが漏れる。


「耐えろよ、魔術師。……死ぬには惜しい顔をしてる」


 淡々とした声に、玄道は目を細める。

 敵ではないと分かっていても、あまりに自然に手当てを進める様に、言葉を失っていた。


「……お前、ただの武者修行者には見えん。剣だけでなく、治療まで心得ているとはな」


 小虎はちらりと視線を向け、口の端を上げた。


「流浪の剣客ってのはな、斬り合いよりも後の始末で生き残るんだ。仲間を縫えずに全員死んだら、刀など無用の長物だろ」


 器用に縫合を済ませると、包帯を新しく巻き直し、掌でそっと圧をかける。

 ルーサーの呼吸は少しずつ整い、やがて安堵するように寝息へと変わった。


 小虎は静かに立ち上がり、尾をひと振りして言った。


「――命は繋いだ。あとは休ませることだな」


 玄道は深く頭を下げる。


「助かった。俺ひとりではどうにもならなかった……礼を言う」


 小虎は軽く手を振り、壁際に腰を下ろす。

 焚き火に照らされた横顔は、どこか飄々としているのに、その虎の耳と鋭い瞳は野性の光を宿していた。


「礼なんざいらん。……だが、あの傷を負わせた相手は只者じゃないな。並の人間の速さじゃない……お前ら、よほど厄介な戦に巻き込まれている」


 玄道は黙り込み、視線をルーサーに落とす。

 その肩には、忍びの矜持と友への責任が重くのしかかっていた。


 沈黙を破ったのは、小虎だった。


「……いいさ、聞かなくても分かる。お前たちが進む道は血の匂いしかしない。なら、わたしも混ぜてもらう。世界最強を目指すには、修行の場は選ばん」


 彼女の声は軽い。だが瞳だけは真剣で、焚き火に映えた縞模様が一層濃く見えた。


 玄道は腕を組み、しばし考え――やがて短く頷いた。


「……勝手にしろ。ただし、命を落とす覚悟がいる」


「覚悟なら、剣を握った時から出来ている」


 尾がふわりと揺れ、小虎は涼しい顔で干し肉を口に運んだ。


 その仕草は、戦の匂い漂うこの隠れ家に、不思議と安堵をもたらしていた。

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