リュシエル誘拐
王都を発って間もない午後。
街道を進む馬車は、まだ人影の少ない丘陵地帯に差しかかっていた。
御者台で手綱を取る芦屋玄道の耳に、異様な沈黙が刺さる。
「……虫も鳴いておらん」
その声と同時に、乾いた弦音。
矢の雨が幌を貫き、木材が裂け、馬が悲鳴を上げる。
「来たかッ!」
リュシエルが跳ね起き、ルーサーが即座に魔力障壁を展開する。
だが丘の上から飛び降りてきたのは十数人の影。
鎖鞭を振るう者、脚具で跳躍する者、盾を纏う魔道具で突進する者。
皆、魔道具で強化された傭兵たちだった。
轅が粉々に砕け、馬車は横転。木片と砂埃が舞い上がる。
「散れッ!」
ルーサーが結界を張りながら叫び、リュシエルは剣を抜き、閃く刃が飛来する鎖を叩き落とす。
玄道は式札を投げ、火花の閃光で敵の目を一瞬奪った。
三人は木立へ飛び散り、それぞれの戦場へと分断された。
藪を抜けたリュシエルの前に、白銀の髪が立ち塞がった。
ソルミア・ヴェルハイン。
蒼白の頬に涙の痕を残し、それでいて微笑を浮かべている。
「やっと……会えた。あなたを壊したら……少しは満たされるかしら」
声は震えているのに、底には飢えた狂気が潜んでいた。
「物騒な挨拶だね」
リュシエルは片手剣を構えた。
次の瞬間、空間が軋む。
目に見えぬ鋸歯が縦横に走り、枝や石を切り裂いた。
リュシエルは剣で受け、飛び散る火花のような魔力の軋みに歯を食いしばる。
「……なるほど、いやらしい魔法だ」
斬り結ぶ。
リュシエルは剣速で空間の刃を弾き、逆に斬撃を叩き込む。
だがソルミアは震える指先で更なる“枷”を重ね、リュシエルの四肢を縛ろうとする。
空気に編まれた枷が、鋸の痛みを纏って迫る。
「苦しい? ねえ、もっと……泣いてよ」
声は嗚咽のようで、嘲笑のようでもあった。
「初めてなのに……どうしてこんなに憎らしいの。どうして、みんな……あなたを見るの」
リュシエルは跳躍して躱し、土を抉って着地する。
だが肺が焼けるほどの緊張。
ソルミアの動きは異様に粘ついていて、攻撃の合間に涙をこぼす姿すら狂気じみていた。
「病んでるねぇ……」
皮肉を吐くが、次の瞬間ソルミアが懐から取り出したのは灰色の魔道具。
「……これなら、あなたも壊れる」
ピン、と金属を弾く音がして、小片が空中で花開く。
見えない霧のような波が、リュシエルの耳の奥へ忍び込んだ。
ふいに、世界の輪郭が遠のく。脳の奥の何かが、柔らかな指で逆撫でされる。
それはエルフの精霊感受性を逆手に取った、違法な精神操作の魔道具によるものだ。
「……っぐ……!」
リュシエルの視界が揺らぎ、剣が落ちる。
倒れ込む刹那、彼女は唇を歪めた。
「……気持ち悪ぃ女だ……」
(やば……)
踏み込もうとした足が、土に縫い付けられたように重い。
意識の縁が黒く削れ、膝が砂を打つ。
波紋が広がり、リュシエルの意識は黒く塗り潰された――。
意識を落としたリュシエルの身体が地面に崩れる。
ソルミアは膝をつき、白い髪を垂らしたまま、その頬に指先を這わせた。
「……やっと……私のものに……」
ソルミアの胸に燃え上がるのは、嫉妬、憎悪、そしてどうしようもない渇望だった。
崩れたリュシエルを見下ろしながら、嗚咽と笑いが同時に漏れる。
だが背後から、甲高い笑いが重なる。
「ははぁ、見事に効いたじゃないか。さすが私の魔道具――《逆流結晶花》だ」
木陰から現れたのは、紫のローブをまとった女、イルミナ・カースベルン。
金の刺繍に飾られたその装束は華美で、彼女の目には下卑た好奇心が宿っていた。
倒れたリュシエルの頬を、イルミナがつま先で軽く突いた。
にやり、と犬歯がのぞく。
「エルフは精霊感受性が強い。そこに混濁した魔力を逆流させれば……ほら、意識なんて簡単に沈む」
崩れたリュシエルを見下ろしながら、イルミナは舌なめずりするように笑う。
ソルミアはその姿に顔を歪めた。
「触らないで」
ソルミアが低く言う。細い肩が、わずかに震えていた。
嫉妬か、怒りか、自分でも分からない感情が喉を焼く。
「ふうん。あなた、相変わらず“泣き虫”の顔をしている」
イルミナが鼻で笑う。
「でもま、役には立つ。……哀れなレオノーラみたいに」
ソルミアの指がぴくりと動く。空気の歯車が、短く鳴った。
「レオノーラの名を、軽く言わないで」
ソルミアの指先が震える。涙が滲んで、頬を濡らし、爪が食い込むほど、拳を握る。(いつか……あなたを殺す)
イルミナはそれすら玩具を見るような目で眺め、肩をすくめた。
「勝手にすればいいさ。どうせ、レオノーラもお前も、私にとっちゃ同列だ。壊れても、代わりはいくらでもいる」
二人の女の間に、冷えた敵意が走る。
その時、藪を押し分ける重い足音。
金鎖をじゃらつかせ、派手な刺繍の袖を揺らす男が現れた。丸々とした恰幅、にやけた顔に金歯が光る。
「間に合ったか、お嬢さん方。……で、これが例の“ステッカー屋”か」
バルザック。
奴隷商人で、リンボの鍵の運び屋にして成金趣味の男。
彼は顎に手を当て、倒れたリュシエルを上から下まで眺めた。
「さて、問題はどうやって検問を抜けて、オルフェクト様のところまでお運びするか、だ」
ふんぞり返って言う彼に、イルミナは薄笑いを向けた。
「あなたの“金と道”の見せ所でしょう?」
「そりゃそうだがね。王都近辺は今、例の工房のせいで目が厳しい。表は無理、裏も詰まり気味だ」
軽口の下で、ソルミアはリュシエルの手首に自作の透明な枷を嵌める。
微弱な魔力が脈打ち、意識の復帰を遅らせる留め具だ。
「急いで」
ソルミアは短く言う。その声は冷たいが、どこか切迫していた。
「……置いていかれたくない」
「なにか言ったか?」
「いいえ」
バルザックは肩を竦め、指を鳴らす。
藪の奥から、覆いを掛けた荷車が二台、静かに押し出される。
「酒樽の下に二重底、さらに死体袋。臭い消しも撒いてある。……鼻の利く犬でも誤魔化せるぜ」
イルミナは退屈そうにあくびをし、荷車へ先に乗った。
ソルミアは倒れたリュシエルの肩を抱き起こす。細い腕が、驚くほど優しく首を支える。
頬が触れそうな距離で、白い息がこぼれた。
「早く……終わらせて。あなたを、これ以上、壊したくない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
ソルミアは目を伏せ、そのままリュシエルを荷へ滑り込ませた。
別の戦場。
鎧袖一触の勢いで現れた巨影が、大鎌を振り下ろす。
「魔術師に忍び……珍しい取り合わせだな」
赤い布を巻いた仮面の男――【赤鎌】グラド。
その一撃が地面を割り、ルーサーの結界を容易く砕いた。
「っ……!」
魔力障壁を裂かれ、肋骨に痛みが走る。
だが冷静に詠唱を続けるルーサーの背後で、玄道の封符が閃光を放ち、大鎌の軌道をわずかに逸らす。
「忍法・影縫い!」
地面から伸びる影が鎌を絡め取り、動きを鈍らせる。
しかしグラドは怪物じみた膂力で影ごと斬り払い、嗤った。
「小細工だ」
幾合も応酬が続く。
火花が散り、式札が弾け、結界が裂ける。
それでも二人は連携し、辛うじて命を繋いでいた。
やがてグラドは鎌を担ぎ直し、鼻を鳴らした。
「……十分だ。時間は稼いだ」
そして冷笑を残す。
「ルーサー・グランディール。お前の女は預かった」
砂煙と共にその姿は消えた。
「リュシエル……!」
血を滴らせて膝をついたルーサーを、玄道が支える。
「まだ死ぬな。忍びの隠れ家まで持つか」
「必ず……取り戻す」
二人は闇へ消える。
その先で、思わぬ客人が待つとも知らずに――。




