旅立ちの準備
黄昏。
工房の奥の机に、厚い帳面と数枚の羊皮紙が並んでいた。
リュシエルは煙管をくわえながら、それらをセレスティアの前に押しやる。
「――これが、あたしのレシピだ。マジックステッカーも、コモンステッカーも、全部写しを残した。
《世界魔物シリーズ》《宝物シリーズ》《名言シリーズ》……どれも抜けはないはずさ」
セレスティアは菫色の瞳を細め、帳面を手に取る。
その横顔は凛として、まさに貴族の娘らしい品のあるものだった。
「責任が重すぎるわね。……でも、わたくしがやるわ。孤児院の子たちも預かっているもの。あの子らを導くのは、わたくしの務め」
「頼もしいことだ。ついでに、グルバザーンに残してきた二人の弟子も……よくしてやってほしい」
「任せなさい」
短いやり取り。けれど、その背後に宿る信頼の重みを、互いに感じていた。
そのとき。
戸口から小さな声がした。
「……リュシエル姉ちゃん、また行っちゃうの?」
孤児院の子どもたちが顔をのぞかせていた。
ティオ、ケント、ジュノ、ジャスティン――それに小さな女の子たちも。
みんなの瞳が、名残惜しさと不安で潤んでいた。
リュシエルは煙管を外し、子どもたちの頭をぽんぽん叩いていく。
「心配するんじゃないよ。アンタらは強い。……それに、ここにはセレスがいるだろ?」
セレスティアが微笑み、しゃがみこんで子どもたちと目線を合わせる。
「ええ、任せて。リュシエルが残してくれたものを、わたくしが守る。みんなが困ったら、わたくしが助けるから」
「ほんとに?」
「姉ちゃんの代わり?」
「代わりなんかじゃないわ。――“もうひとりのお姉ちゃん”よ」
その言葉に、子どもたちの表情がぱっと明るくなる。
リュシエルは、思わず肩をすくめた。
「……あたしより上手くやってるじゃないか」
だが次の瞬間。
セレスティアは帳面を閉じ、微笑みながらも声の色を変えた。
「ただひとつ――ルーサーのこと。もし“彼と何か”あったら……あなたと話し合いをしなくてはならないわね」
笑顔は崩れない。だがその奥に潜む怒気は、凍るように鋭かった。
リュシエルは煙を吐き出し、わざと肩をすくめる。
「へぇ? 何の話だい? アタシがルーサーと何しようと、勝手だろう?」
言葉は軽い。
だが視線だけは、冷えた刃のように逸らさなかった。
セレスティアの唇がわずかに歪む。
「……ええ、勝手にすればいいわ」
張り詰めた空気の中、ルーサーは心底不思議そうに二人を見比べていた。
「……何を言っているんだ?」と、本気で分かっていない顔で。
それが余計に、二人の女の胸に火花を散らせた。
そんな場を破ったのは、障子を開くように軽やかな声だった。
「仲がよろしいことで」
忍び足で姿を現したのは、浅葱の羽織を纏った芦屋玄道。
天久国の外交官にして、忍び上がりの陰陽師。
「リュシエル殿。次の行き先へ、陛下からの遣いとして迎えに参った。……旅支度は整っておられるかな?」
彼の眼差しには、笑みと警戒の両方が混じっていた。
リュシエルは煙管を置き、肩を回す。
「整ってるさ。……さて、行くとするか」
セレスティアが帳面を胸に抱き、無言で見送る。
その瞳の奥には、女同士の静かな誓いが燃えていた。




