操られし吸血姫
砂漠を南へ進む街道。
外気はじりじりと肌を焦がし、岩壁が陽炎に揺れていた。
けれど馬車の中は別世界だった。
壁に貼られた一枚のステッカーから、ひんやりとした風が絶え間なく流れ、涼しさが全身を包んでいる。
ラシィナは両腕を広げ、目を丸くした。
「……すごい、外はこんなに暑いのに、中はぜんぜん平気……! どうして?」
リュシエルは煙草をくわえ、紫煙を吐きながら口元を緩めた。
「どうしてって……それが《マジックステッカー》さ。魔法を刻んで、力を引き出す仕組みになってる」
ルーサーが補足するように言う。
「覚えておけ、ラシィナ。
コモンステッカーはただの飾り。
マジックステッカーは、術式を描いて魔力を込める魔具だ。
お前の村にあったのは前者だな」
ラシィナは目を瞬かせ、壁のステッカーに触れそうになって、慌てて手を引っ込める。
「……じゃあ、この涼しさは……本当に魔法……」
リュシエルは笑みを深めた。
「そうさね。あんたも弟子入りした以上、いずれ作り方を叩き込んでやるよ」
荷台の端に積まれた木箱をちらりと見やり、ラシィナは声を上げる。
「あの……村のサボテンも、もしかして……?」
リュシエルはにやりと煙草をくわえ直す。
「よく気づいたねぇ。サボテンから取れるデンプンは、下地紙の粘りを強める。魔力の通りもよくなるんだ」
ラシィナは口を押さえ、驚きに声を漏らした。
「すごい……! 本当にすごい人についてきちゃったんだ、あたし……!」
ルーサーは横で小さく息を吐く。
「ようやく理解したか」
数日が過ぎ、首都ウルシャナ・オアシスの尖塔が遠くに揺らめき始めた頃――。
突如として風がやみ、空気がぴたりと張り詰めた。
カリムが槍を握り直す。
「……来るぞ」
ルーサーはラシィナを荷台へ押し込み、短く命じた。
「外へ出るな。絶対にだ」
リュシエルも指で木箱を叩き、にやりと笑う。
「これは“遊び”じゃ済まない相手さ。じっと隠れてな」
ラシィナは怯えながらも、目だけを荷台の隙間から外へ向けた。
砂漠の陽炎の向こう、影のように歩み寄る人影があった。
女の様――だが、その歩みはぎこちなく、ひと息ごとに苦痛を噛み殺すようだった。
「……誰だ?」
カリムが槍を構え、低く唸る。
リュシエルは煙草を口にくわえたまま、じろりと睨む。
「わざわざ真昼間に現れる敵なんざ、ロクなもんじゃないね」
女は言葉を発さず、ただ紅い光を宿した瞳で一行を射抜いた。次の瞬間、虚空に影の槍が生まれ、一直線に飛ぶ。
「来るよ!」
リュシエルは咄嗟に風の魔法を放ち、砂塵を巻き上げて槍を弾く。
そこからは激しい応酬だった。
火炎、氷刃、闇の鎖――女は立て続けに魔法を繰り出し、リュシエルはその全てを相殺し、切り払う。
「はっ……面倒な奴だねぇ! まるで呼吸みたいに魔法を操ってやがる!」
額に汗を滲ませながらも、リュシエルは剣を一閃し、迫る影を切り裂いた。
その時、女の衣が裂け、蒼白な肌が露わになる。陽光を浴びた瞬間、じゅっと煙が立ち上り、女は苦悶の声を上げた。
「……吸血鬼……? 昼に出てくるなんて有り得ない!」
カリムが驚愕に叫ぶ。
ルーサーの眼差しが鋭くなる。
「違う……ただの吸血鬼じゃない。陽光への耐性の強さ、魔力の密度――間違いない。上級吸血鬼だ」
「上級だってぇ?」リュシエルが目を細める。
「でも、妙だね……本来ならもっと速く、もっと重く来るはずだろ」
女は苦しげに身を震わせながらも、なおも魔法を撃ち続ける。
その姿は誇り高き吸血種というより、無理矢理引きずり出された獣のようだった。
ルーサーは掌をかざし、解析魔術を強める。
「……見える。魔力の流れに異常がある。体の奥じゃない、外から……何者かに“操られている”」
彼の声には、冷たい怒気が混じっていた。
リュシエルは剣を振り払い、迫る氷刃を断ち切る。
「……上等だよ。だったら、あたし達が止めるしかないじゃないか!」
砂漠の熱と魔法の閃光が入り混じり、戦いはさらに熾烈を極めていく。
砂を焦がす陽光の下、リュシエルとレオノーラの魔法の応酬が続く。
ルーサーは魔術式を解析しながら、女の魔力の流れを凝視していた。
「……違う。これは本人の意思じゃない」
彼の低い声が戦場に溶ける。
その瞬間、影が地面からせり上がり、十体、二十体と兵士の形を取った。
全身が黒く塗り潰された異形――影兵だ。
「クソッ、影兵まで!」
カリムが槍を構え、馬上から躍り出る。鋭い槍捌きが影を貫き、砂塵を舞い上げながら一体、二体と吹き飛ばしていく。
「ふんっ! こんな虚ろな人形、俺の槍で十分だ!」
だが影兵は次々と湧き出し、切りがない。
カリムの額に汗が滲み、槍を振るうたびに苦々しい声を上げる。
「際限が無いぞ! このままじゃ押し切られる!」
リュシエルは風刃で影を裂きながら、ルーサーへ叫ぶ。
「ルーサー! 早く見抜きな! あたしらじゃ埒が明かないよ!」
黒衣の魔術師は、片膝をつきながらも視線を逸らさない。
レオノーラの胸奥に絡みつく異質な魔力、その根源を探るように。
「……見えた」
ルーサーの声は低く震えた。
「これは……操っているのは魔道具じゃない。“男”だ。全ての魔道具に身を沈めた歪んだ存在……支配欲そのものが、彼女を絡め取っている」
レオノーラの口から、嗚咽のような声が漏れた。
「……やめ、て……苦しい……」
ルーサーの瞳が怒りに燃え上がる。
「日の下に縛り付けて苦しませ、己の欲を満たす道具にするだと……! 俺は絶対に許さん!!」
怒号とともに、彼の周囲に魔力が奔流となって迸った。
閃光が影兵を薙ぎ払い、次々と消し飛ばす。
「ルーサー……!」
リュシエルが目を見張る。
「お前の鎖は、ここで断ち切る!!」
ルーサーの詠唱が極点に達し、魔力の縄が雷のように奔り、レオノーラの四肢を縛り上げた。
一瞬、操り人形の糸が断たれたように彼女の動きが止まり、肩で荒く息をする。
「……た、すけ……」
その瞳には、かすかな理性の光が戻っていた。
「今だ! 止めろ!」カリムが叫ぶ。
だがその刹那、レオノーラの体に黒い刻印が浮かび上がり、影兵の残骸が一斉に爆ぜた。
爆風と砂塵の中、彼女の体は黒い霧に包まれ――拘束は無惨に断ち切られる。
「逃がすか――!」
ルーサーが追撃の魔法を放つが、霧は砂漠の風に散り、跡形もなく消え去った。
沈黙が訪れる。
残されたのは、焦げた砂と、砂塵の中で震える少女の声だけだった。
ラシィナが荷台から顔を出し、小さく呟く。
「……いまの人……泣いてた……」
ルーサーは拳を握り締め、唇を噛む。
「必ず救い出す。彼女をあの男の鎖から……」
リュシエルは紫煙を吐き、苦々しく笑った。
「リンボの鍵、厄介な因縁になったもんだねぇ」
〜〜〜〜〜
黒い霧となって逃げ延びたレオノーラは、荒れた石造りの広間へと転がり込んだ。
月光も届かぬ地下の玉座、その奥に座すのは全身を魔道具で覆った男――オルフェクト。
「……ご無事、でしたか……」
か細い声で膝を折るレオノーラ。
だがその背に、ぴたりと冷たい視線が突き刺さった。
「無様だな」
オルフェクトは唇を歪め、片手でグラスを掲げる。
中に満たされた赤い液体――ワインを、彼はゆっくりと立ち上がって、レオノーラの肩へ傾けた。
陽光に焼かれ裂けた肌の上へ、冷ややかな液が流れ込む。
「……ッッ!!」
上級吸血鬼の肉体が痙攣し、焼け爛れた傷口に異様な痛みが走る。
呻き声を上げて地に崩れ落ちる彼女を見下ろし、オルフェクトはいやらしい笑みを浮かべた。
「高貴なる不死者も、こうして嬲ればこの通り……。泣き叫び、媚び、ただの肉人形だ」
レオノーラは涙で顔を濡らしながら、ついに絶叫した。
「もう……やめて……! 誰か……誰か助けて!!」
その悲鳴を、オルフェクトは嗤いで踏み躙る。
「誰も来ぬ。お前も、貴様の父も、私の掌の中だ。心臓一つで縛られた哀れな家系……最後は血も魂も絞り尽くし、“魔道具”として磨り潰してやるわ!」
彼の高笑いが、冷たい石壁に響き渡る。
レオノーラは嗚咽に沈みながら、なお胸の奥でひとつの記憶を掴んでいた。
――戦場で、自分を“人”として見抜いた黒衣の男。
“必ず救い出す”と断言した声。
(ルーサー・グランディール…あなたが……あなただけが……私を見てくれた……)
光なき闇の底で、彼女は唯一その名に縋った。
絶望の只中にありながら、その一縷の希望だけが心を支えていた。




