外伝『エルネスト戦記』・【火種】
雨音が止んだ後の夜は、不自然なほど静かだった。
収容区の片隅で、焚き火の明かりに照らされたドワーフの少女は、まだ体を震わせていた。
彼女の名はティリス。帝国の強制労働を科された鍛冶工房からの逃亡者。帝国に逆らった一族の生き残り。
泥に塗れた頬を伏せ、言葉を飲み込む少女に、エルネストは黙って草の煎じ液を差し出した。
温もりが掌を伝うと、彼女はわずかに目を見開いた。
「どうして……助けるんだ」
震える声。問いかけというより、自分でも理解できないという吐露。
エルネストは短く答えた。
「お前は、生きている。それだけで理由は足りるだろ?」
焚き火の火花が弾ける。
その言葉に、少女の目から涙が溢れた。押し殺していた嗚咽が零れ、肩が震える。
奴隷たちはその場を黙って見守った。
虎の青年の言葉には、なぜか人の心を解きほぐす力があった。
──エルネストは慰めない。憐れまない。
ただ事実を見据えて、肯定する。
それは奴隷たちが一番欲していたものだった。
数日後、ティリスは収容区に残る決意をした。
逃げ続ければ、追っ手に捕らわれるだけ。だが、ここには彼がいる。
エルネストの瞳を見たとき、自分の手で何かを変えられるかもしれないと直感したのだ。
ティリスは働き始めた。
炭の残り火を使い、釘を打ち直し、壊れた桶の金具を直す。
その手さばきに、奴隷たちは目を丸くした。
「ドワーフって……やっぱり鉄の扱いが上手いんだな」
「いや、あの子は子供だろ? それでも、俺らよりずっと手際がいい」
エルネストは黙ってそれを見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「力を合わせれば、もっとできるはずだ」
その一言が火種になった。
ティリスの知識と、エルネストの理論。
二人の存在は、徐々に収容区の空気を変えていった。
文字を知らない獣人に、エルネストは泥に指で文字を書いて見せる。
力しか知らない男たちに、ティリスは工具の使い方を教える。
「力だけじゃ鉄は曲がらない。熱と道具がいるの」
「考えれば、戦う以外のこともできる」
小さな講義。小さな工夫。
けれど、その積み重ねは確かに人々の目を変えていった。
奴隷たちは気づき始める。
檻の中でも、未来を思い描くことができると。
夜。焚き火の前で、ティリスがぽつりと聞いた。
「ねえ……あなたは、檻から出たい?」
エルネストは炎を見つめたまま答えた。
「虎は檻に慣れることはない。……だが、出るには牙がいる」
その目は鋭く、けれど静かに燃えていた。
その視線に、ティリスは震えながらも頷いた。
「じゃあ、私が鉄を打つ。あなたがわたし達を導いて。きっと、何かを変えられる」
焚き火が大きく弾けた。
その音は、檻の中に眠る者たちの心を揺さぶった。
その日、確かに火種が灯った。
まだ小さな光。だが、やがて帝国を焼き尽くす炎の始まりだった。




