外伝『エルネスト戦記』・【檻の中の虎】
三百年前──フィルバーレルの北、鉄と暴力、偏見に支配されたカグラガムル帝国には、あらゆる「異種」が奴隷として囚われていた。
人族以外の存在である獣人、ドワーフ、エルフ、は「劣等」とされ、呼吸を許されたのは労働と服従のためだけ。
その帝都郊外、腐臭と土埃の漂う収容区の一角。
泥と石を積み上げただけの粗末な小屋に、一人の少年が生きていた。
虎獣人の奴隷、エルネスト。
獣の耳、しなやかな尾、鋭い爪。
その身体はまだ小柄でありながら、背筋には並々ならぬ緊張感が宿っていた。
黄金の眼は深く、檻の向こうの空を見つめていた。
無力なはずのその目に、誰もがなぜか逆らえなかった。
──獣の野性と、人の理性が、そこに共存していたからだ。
彼は生まれながらにして、収容区の「例外」だった。
文字を読み、数式を解き、腐ったポーションの代替となる薬草の抽出法すら独学で身につけていた。
重症の奴隷仲間が運び込まれたとき、手持ちの包帯と薪で止血し、出血を防いだときのことを、誰もが覚えている。
「なんでそんなこと知ってるんだ?」と問われても、彼はただ、
「誰かが、知ってなきゃいけないと思っただけさ」
とだけ答えた。
彼は治療者であり、教師でもあった。
簡易のチョークで壁に数式を書き、泥に文字を書き、人々の悩みに耳を傾ける。
奴隷たちは、いつしか彼を「エルネスト先生」と呼ぶようになった。
それは異常なことだった。
奴隷に知性は不要。命令と労働、それだけが存在理由。
だが、彼には“教える”という行為が、当たり前のように存在していた。
帝国の兵士たちは彼を警戒した。
なぜなら、知恵ある獣は「反逆の芽」だからだ。
彼に目をつけた帝国の学徒さえいた。
「本当は人族ではないのか」とさえ噂された。
ある日など、収容区の外から密かに通う人族の青年が、震える声で言った。
「エルネストの知識は俺たちの学府にすら無い。なぜ、お前はこんなところで、そんな事を知っている?」
その時、エルネストは笑った。
その笑みには、獣の威圧でも、卑屈さでもない、ただの“人としての温かさ”があった。
「ここは檻さ。でも──中にいる虎が、檻に甘んじるとは限らないだろ?」
そして、時が経ち、成長したエルネストに運命の日が訪れる。
ドワーフの逃亡者が、夜の雨とともに現れた。
ボロをまとい、泥まみれで倒れ込んだその少女は、帝国貴族に反抗した一族の“生き残り”だった。
家族を囮にし、命をつないだ。まだ幼い彼女に、剣も魔法もなかった。ただ逃げるしかなかった。
「……誰か、いるの……?」
彼女の声が闇を裂いたとき、収容区の焚き火の傍にいたエルネストは、黙って彼女に上着をかけた。
震える少女に、温かいスープと、言葉を差し出した。
「よう、夜は冷えるからな」
その夜から、すべてが静かに動き出した。
変化の歯車が回り出した音を、まだ誰も知らなかった。




