チャプター26
〜シュラーフェンの森・奥地 ヘレンの家〜
エルリッヒに言われるままキッチンでフライパンを動かそうと奮闘しているヘレンの横に立つと、それを片手で軽々と持ち上げてしまった。そもそも、この数日エルリッヒが料理に勤しむ様をすぐ近くで見ていたヘレンは、その手に握られたフライパンに意識を向けることなど一度もなかった。それほどまでに、普通のフライパンに見えていたのである。それが、いざ自分が持ってみると、重たすぎてぴくりとも動かない。普通のフライパンでないことは、すぐにわかった。
「このフライパン、とっても重たい金属でできているんです。私は毎日重たい鍋を持ったりフライパンを振ったり、料理で鍛えられてる部分はありますが、それでも全然気になりません。人間じゃないから、普通の女の子とは身体能力が異なるんです。だから、自然の毒もほとんど効かなくて、あのキノコもただの苦いキノコでした」
「やれやれ。おまえさんが並外れた腕力を持っているってことと、このフライパンが普通じゃないってことと、あの毒キノコを食べても平気だったってことはわかったよ。でもね、お前さん、どう見ても人間じゃないか。それをしてドラゴンですと言われたって、はいそうですかと信じられるほどお人好しじゃないよ」
キッチンを離れ、ヘレンはテーブルに戻った。それを追うように、エルリッヒもフライパンを置き、ヘレンと向かい合うようにして座った。
「……ですよね。信じられないと思いますけど、一旦色々説明させてください」
信じる信じないはヘレンに委ねるとしつつも、ゆっくりと口を開き、事情を説明していった。
「私の一族は、人と竜の姿を行き来することができるんです。それで、小さい頃から人間の世界に興味があった私は、生まれ育った故郷の土地を離れて人間の世界に飛び込みました。それが、およそ三百年前です」
「人と竜の姿? 三百年? 長く生きていろんなもんを見てきたつもりだったけどね、理解が追いつかないよ。それに、信じろって言うのも無茶な話だね。まあ、お前さん自身もそれはわかってるみたいだね。でも、ドラゴンがどうだっていう話の証拠としちゃ弱いし、それを信じるのも難しい話さね。他に、何かあるのかい?」
そうだ、これが普通の反応だろう。こんな話を信じろと言われても、信じられないのが当然だ。それでも、耳を傾けてくれるだけでもありがたいし、信じられないということは、恐怖で石を投げられることもないということでもある。それは少し安心だった。
「それに、今ここでその大事な話ができるってことは、すでに知られてる話なんだろう? まずはその辺から聞こうじゃないか。それくらいの方が、信憑性があるってもんだ」
「そうですね。じゃあ、色々と説明させてもらいます。あの時、私は魔族の将軍みたいなのを討伐するために、元の姿に戻って戦ってました。その後、王都近くの森で人目につかないようにこの姿に戻って街に戻ろうとしたところをフォルちゃんに見つかって、色々話してるうちに正体を教える流れになって、そしたら私が戦ってるところを見てた人がいて、怖がられると思ったんですけど、王様が私を救国の人みたいに奉ってくれて、怖がられることは無くなったんですけど……」
取り止めもなく語りながら、テーブルの上で組まれたその手は僅かに震えていた。人間社会で生きることを選んだエルリッヒにとって、今いるコミュニティから拒絶されることは、何よりも恐れていることだった。
今、本来覚えるはずの恐怖と拒絶を向けられていないのは、目の前で本来の姿を見せていないからに他ならず、もし本来の姿を晒してしまったら、きっとその時は街のみんなが恐れてしまうのではないかと考えていた。そこまで考えると、手の震えが強くなってきた。
ヘレンはヘレンで、テーブル越しにエルリッヒの手が震えていることに気づいていた。これが冗談や作り話の類であれば、そんなことにはならないはずだ。信じられない話だからといって疑う気はなかったが、こういう様子を見ると、ますます本当のことなんだと思い知らされる。長く生きているつもりでも、まだまだ知らないことがあるものだ。いや、目の前のエルリッヒが本当にこの世界で三百年以上生きているのだとすれば、長く生きていると考えるのも烏滸がましいのかもしれない。
「そんなに震えながら話さなくてもいいんじゃないかね。少なくとも、それはお前さんが過ごしてきた本当の時間なんだろう? だったら胸を張って話せばいいじゃないか。まあ、流石のアタシもお前さんの本当の姿とやらを見たら、びっくりして腰を抜かしちまうかもしれないけどね」
「腰を、抜かす? ふふっ、そうですね。確かに、怖がって石を投げるよりも先に、腰を抜かしちゃいますよね。今ここで元の姿に戻ったら、この家は木っ端微塵になっちゃいますから。あ、でも、できるだけ元の姿には戻りたくないので、家の外でも、できればお見せしたくはないんですが……」
柄にもなく言ってみたの冗談のおかげか、少しだけ、笑顔が戻ってきた。それでも、最後にはまた表情が曇ってしまった。ヘレンは震える手に優しく自分の手を添えると、ふっと表情を緩めて語って聞かせた。
「話の流れから、そうだろうとは思ったよ。けど、曲がりなりにも本当の姿なんだろう? 忌み嫌ってるのかい? それに、魔物を倒すためにその姿を晒したんだろう? だったら、それなりに理由があれば、元に戻るんだろう?」
「……私にとって、元の姿、本当の姿は、親から受け継いだ誇らしい姿です。忌み嫌ってるわけでも、恥ずかしいわけでもありません。でも、この、人間の世界で晒すには強大すぎます。仲間や、街の人たちが脅威にさらされて命の危険にさらされるような時には、やむをえず元の姿に戻って戦うことを選びましたが、極力戻らないようにしています。さっきも言いましたよね、石を投げるよりもって。あまりにも人間とかけ離れた存在が目の前に現れたら、恐怖だと思うんです。そうして恐怖から恐れられて、嫌われてしまうのが怖かったんです。ううん、今だって怖いです。今そういう関係になっていないのは、単純にその姿を見せていないからに過ぎません。きっと、その姿を見たら、みんな恐れ慄くと思うんです」
せっかく手の震えを和らげてやろうと手を握っているのに。また震えが強くなった。それほどまでに周りから拒絶されるということに怯えているのかと、思いの強さを感じ取る。
「そういうことなら、見せておくれよ、今、ここで」
「え? それって、元の姿にってことですよね。でも、なんで……」
ヘレンはそんな提案をしてきたのだろう。できるだけ人間社会ではその真の姿を晒したくないと伝えているのに、それをわかっている上で見せろと言うその真意はどこにあるのか。ヘレンの四倍は人間社会で生きているであろうエルリッヒでも推し量れないでいた。
こう言う時、人間でないことによる心持ちの違いが現れているのではないかと実感してしまうのだが、感情がネガティブモードに入っており、普段の察しが発揮できていないという事実には気づけていなかった。
「簡単な話さ。アタシがお前さんの本当の姿を見ても石を投げなかったら、安心するだろう? 少なくとも、ここにはお前さんを受け入れるヤツがいる。それだけでも十分じゃないか。都合のいいことに、フォルクローレはまだ目を覚ます気配がないしね。できるだけ見られたくないんだろう? あの子にも。だったら、アタシとお前さんだけの秘密でいいじゃないか」
「ありがとうございます。でも、逆にびっくりしすぎちゃうかもしれませんよ? ふふ」
また少しだけ、笑顔が戻る。こう言う様を見ていると本当に若い娘のようで、本当に三百年、それこそヘレン自身も上の世代からの伝聞でしか知らない魔王が現れるよりも前からこの地上で暮らしていたのだろうかと疑いたくなる。それほどまでに、語って聞かせてくれた内容と今目の前にいる娘の姿にはギャップを覚えた。
「そこは、保証はできないね。驚いてぶっ倒れちまったり、腰が抜けちまったら、看病してくれればいいさ」
「わかりました。じゃあ、お見せします」
もう、手に震えはなかった。瞳にも、明るい光が戻っていた。
〜つづく〜




