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第9話 雨の夜

その日は、朝から空が重かった。


 昼を過ぎた頃には、窓の外が薄暗くなり。


 夕方には、ぽつぽつと雨が降り始めた。


 そして。


「……すごい雨ですね」


 窓の外を見ながら、エレナが呟いた。


 激しい雨が、王宮の窓を叩いている。


 遠くで雷が鳴った。


 ごろごろと低い音が響き、窓ガラスが小さく震える。


「今日は早めに帰った方がよさそうですね」


 同僚の一人がそう言った直後。


 王宮の廊下を、早足でこちらへ向かってくる文官がいた。


「王都東側の街道で冠水が始まったそうです!」


 ざわ、と室内が騒がしくなる。


「馬車は?」


「現在、運行を見合わせています。復旧の見込みは、まだ分かりません」


「……参ったな」


 誰かが呟いた。


 エレナも窓の外を見る。


 雨は、ますます激しくなっていた。


 寮までは、歩いて帰れない距離ではない。


 けれど。


 この雨と雷の中を歩くのは、さすがに危険だ。


 どうしたものかと思っていると。


「今日は全員、王宮に残るように」


 アレクシスの声が響いた。


 室内が静かになる。


「馬車が動かない以上、無理に帰る必要はない。天候が落ち着くまで待機する」


「はい」


 アレクシスはすぐに職員の宿泊場所を確認し始めた。


 女性職員には女性用の仮眠室。


 男性職員には別の休憩室。


 食事の手配まで指示していく。


 その判断の早さに、エレナは感心した。


 こんな状況でも、迷いがない。


 ――やっぱり、すごい人だ。


 仕事ができる。


 判断が早い。


 そして。


 部下の安全まで、きちんと考えている。


 エレナは、アレクシスを見る。


 その横顔はいつもと変わらず、冷静だった。


    ◇


 夜。


 雨はまだ止まなかった。


 エレナは女性職員用の仮眠室へ向かっていた。


 王宮の廊下には、普段より人が少ない。


 窓の外は真っ暗で、雨音だけが響いている。


 そのとき。


 ――ゴロゴロッ!!


「……っ!」


 突然、近くで大きな雷が鳴った。


 エレナの肩がびくりと跳ねる。


 昔から、雷が少し苦手だった。


 怖くて仕方がない、というほどではない。


 ただ。


 大きな音が突然響くのだけは、どうしても慣れない。


「……大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 そのときだった。


「エレナ嬢?」


「……局長?」


 振り向くと、アレクシスが立っていた。


「こんなところで、どうした?」


「仮眠室へ戻るところです」


「そうか」


 アレクシスの視線が、エレナの顔へ向く。


「……雷が苦手なのか?」


「え……」


 エレナは少し迷った。


「……少しだけ、です」


 恥ずかしい。


 子どもみたいだと思われるかもしれない。


 けれど。


 アレクシスは笑わなかった。


「そうか」


 ただ、それだけだった。


 そして。


「では、少しここにいる」


「……え?」


「この天候では、不安だろう」


 アレクシスは廊下の窓から外を見る。


「雨が弱まるまで、話し相手くらいにはなれる」


「でも……局長もお疲れでは」


「私は問題ない」


 いつもの言葉。


 けれど。


 今は、少し違って聞こえた。


「……ありがとうございます」


 エレナは小さく頭を下げた。


    ◇


 二人は、廊下に置かれた椅子に並んで座った。


 雨音が、ずっと聞こえている。


 しばらく沈黙が続いた。


 けれど、不思議と気まずくはなかった。


「エレナ嬢」


「はい?」


「君の故郷は、ここからかなり遠いのだったな」


「はい。王都から馬車で二日ほどです」


「そうか」


「父が領地を管理しているのですが、とても厳しい人で……」


 そこまで話して、エレナは少し笑った。


「でも、家族のことはとても大切にしてくれています」


「……良い父親なのだな」


「はい」


 エレナは頷いた。


 少しずつ。


 緊張がほどけていく。


 普段の仕事中なら、こんな話はしない。


 必要なことだけを話して。


 必要な仕事だけをする。


 それが当たり前だった。


 けれど今夜は。


 なぜか、もっと話していたいと思った。


「局長は?」


「私?」


「はい。王都のご出身ですよね?」


「ああ」


「ご家族は……」


「両親と姉がいる」


「お姉様が?」


「ああ。少し変わった人だ」


「ふふっ」


 思わず笑ってしまった。


 アレクシスも。


 ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その瞬間。


 エレナの胸が、どくん、と鳴った。


 ――え?


 今。


 笑った?


 いつもの冷静な表情とは違う。


 ほんの少しだけ。


 柔らかい。


 優しい顔。


 エレナは思わず見つめてしまった。


「……どうした?」


「い、いえ!」


 慌てて目を逸らす。


 胸が、妙に騒がしい。


 また雷が鳴った。


 けれど。


 さっきまでのような怖さは、もうあまり感じなかった。


    ◇


 しばらくして。


 雨は少しだけ弱くなった。


「そろそろ休んだ方がいい」


 アレクシスが立ち上がる。


「はい」


 エレナも立ち上がった。


 そして。


「……局長」


「何だ?」


「今日は、本当にありがとうございました」


「礼を言われるようなことではない」


「でも……」


 エレナは少し考えて。


「心強かったです」


 そう言って微笑んだ。


 アレクシスが、わずかに目を見開く。


「……そうか」


 それだけだった。


「おやすみなさい」


「ああ。おやすみ」


 エレナは仮眠室へ向かった。


 数歩進んだところで。


 なぜか、振り返りたくなった。


 振り返る。


 アレクシスはまだ、その場に立っていた。


 そしてこちらを見ていた。


 目が合う。


 エレナは慌てて前を向いた。


 ――どうして。


 胸が、こんなにどきどきするのだろう。


    ◇


 仮眠室に戻ってからも。


 エレナはなかなか眠れなかった。


 布団に入って、目を閉じる。


 すると。


 先ほどのアレクシスの顔が浮かんでくる。


 優しい声。


 落ち着いた話し方。


 自分が雷を苦手だと知っても、笑わなかった。


 ただ、そばにいてくれた。


「……局長って」


 こんなに優しい人だったのだろうか。


 今まで知っていたのは。


 仕事のできる人。


 厳しくて、少し怖そうな上司。


 それだけだった。


 けれど。


 今日、少しだけ。


 違う顔を見た気がする。


「……もっと、知りたい」


 ぽつりと呟いた。


 その言葉に。


 自分自身が一番驚いた。


「……え?」


 もっと知りたい。


 アレクシスのことを。


 家族のこと。


 休日の過ごし方。


 好きなもの。


 苦手なもの。


 どんなことを考えているのか。


 次々と知りたくなる。


 エレナは布団の中で、そっと胸元に手を当てた。


 心臓が、まだ少し速い。


「……変なの」


 そう呟いて。


 目を閉じる。


 けれど。


 眠りにつくまで。


 アレクシスの柔らかな笑顔が、頭から離れなかった。


    ◇


 翌朝。


 雨はすっかり上がっていた。


 街道も復旧し、職員たちは順番に帰宅の準備を始めている。


 エレナも荷物をまとめ、王宮を出る準備をしていた。


「エレナ嬢」


 声をかけられて振り向く。


 アレクシスだった。


「おはようございます、局長」


「おはよう」


 いつもの挨拶。


 いつもの声。


 なのに。


 昨日までとは、何かが違って聞こえる。


「昨日は、ありがとうございました」


「……ああ」


「では、失礼します」


 エレナは一礼して、王宮を出た。


 馬車に乗り込み。


 窓から王宮を振り返る。


 その姿が見えなくなるまで。


 なぜか、ずっと気になった。


 そして。


 エレナはまだ知らない。


 自分の中で生まれたその小さな変化が。


 やがて、一人の男性への特別な感情へと変わっていくことを。

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