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第10話 目で追ってしまう

雨の夜から、数日が経った。


 王宮には、いつもの日常が戻っていた。


 書類の山。


 慌ただしい廊下。


 各領地から届く報告書。


 そして。


「おはようございます、局長」


「……ああ。おはよう」


 いつもの朝。


 いつもの挨拶。


 何も変わっていない。


 ――そう思っていた。


 少なくとも、エレナはそう思っていた。


「…………」


 けれど。


 気づけば、アレクシスの姿を目で追っている。


 書類を抱えて廊下を歩いているとき。


 部下に指示を出しているとき。


 難しい資料を前に、眉間に皺を寄せているとき。


 ふと顔を上げたとき。


 なぜか、視線がそちらへ向いてしまう。


「……私、どうしたのかしら」


 エレナは小さく呟いた。


 仕事に集中しなくては。


 そう思って書類に目を戻す。


 けれど。


 しばらくすると、また見てしまう。


 そして。


 そのたびに思う。


 ――やっぱり、綺麗な顔をしている。


 以前からそう思っていた。


 けれど、以前とは少し違う。


 ただ「整った顔立ちだ」と思うだけではなく。


 笑ったときの表情。


 真剣な横顔。


 低く落ち着いた声。


 そういうものまで、気になるようになっていた。


    ◇


 昼前。


「エレナさん」


 同僚の男性文官が声をかけてきた。


「はい?」


「この前教えてもらった店なんですが、婚約者がすごく喜んでくれました」


「本当ですか?」


「ええ。ありがとうございます」


「それならよかったです」


 エレナは嬉しくなって笑った。


「彼女なら、きっと気に入ってくれると思っていました」


「また今度、別の店も教えてもらえませんか?」


「もちろんです」


 二人で話していると。


 少し離れたところから、視線を感じた。


 エレナが顔を上げる。


 アレクシスと目が合った。


「あ……」


 アレクシスは、すぐに視線を逸らした。


 エレナも、なぜか少しだけ慌てる。


 ――今、見ていた?


 何となく気になって。


 もう一度、ちらりと見る。


 アレクシスは何事もなかったかのように書類を読んでいる。


 ……気のせいだったのかもしれない。


 エレナはそう思った。


 けれど。


 その日から。


 なぜか、アレクシスと目が合うことが増えた。


    ◇


 午後。


 エレナは資料を抱えて廊下を歩いていた。


 角を曲がったところで。


「……っ」


 誰かとぶつかりそうになった。


 慌てて足を止める。


「すまない」


「局長!」


 目の前にアレクシスがいた。


 近い。


 思わず一歩後ろへ下がる。


「大丈夫か?」


「は、はい」


 アレクシスの視線が、エレナの抱えている資料へ移る。


「重そうだな」


「これくらいなら大丈夫です」


「そうか」


 そう言いながらも。


 アレクシスは資料の一番上を取り上げた。


「局長?」


「半分持つ」


「でも……」


「問題ない」


 いつもの言葉。


 けれど。


 今度は少しだけ、嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 並んで歩く。


 たったそれだけのことなのに。


 エレナは妙に緊張していた。


 隣から聞こえる足音。


 時々、資料が擦れる音。


 近くにいることを意識してしまう。


 ――変だ。


 以前はこんなこと、何とも思わなかったのに。


「エレナ嬢」


「はい?」


「先日の雨の日のことだが」


「……はい」


「その後、体調に問題はなかったか?」


「大丈夫です」


「そうか」


 アレクシスは、それだけ言って前を向いた。


 エレナも前を見る。


 けれど。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 ――覚えていてくれた。


 そんな小さなことが。


 嬉しい。


    ◇


 その日の帰り。


 エレナは王宮の玄関で立ち止まった。


 少し先に、アレクシスがいる。


 侍従と何か話をしている。


 仕事中とは違う、少し柔らかな表情。


 エレナは、何となく見ていた。


 すると。


 アレクシスがこちらを向いた。


 目が合う。


 今度は、どちらもすぐには視線を逸らさなかった。


 ほんの数秒。


 ただ、それだけ。


 なのに。


 エレナの胸が、また小さく跳ねた。


 先に視線を逸らしたのは、エレナだった。


「……どうして、こんなに意識してしまうのかしら」


 自分でも分からない。


 ただ。


 最近、アレクシスのことが以前より気になる。


 少し話せると嬉しい。


 目が合うと、どきりとする。


 気遣ってもらうと、もっと嬉しい。


 そして。


 彼が誰かと話していると、なぜか少しだけ気になる。


 けれど。


 それが何なのか。


 エレナには、まだ分からなかった。


    ◇


 一方。


 自室へ戻ったアレクシスは。


 椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。


「…………」


 今日。


 エレナと二人で廊下を歩いた。


 彼女は笑ってくれた。


 雨の日のことも覚えていてくれた。


 そして。


 帰り際には、目が合った。


 ――数秒も。


「…………」


 アレクシスは静かに息を吐く。


 自分でも分かる。


 顔が緩みそうになる。


「……落ち着け」


 誰も見ていないのに、自分へ言い聞かせる。


 けれど。


 無理だった。


 今日一日で、何度思い返したか分からない。


 彼女の笑顔。


 声。


 そして、最後に目が合った瞬間。


「……少しは、私のことを意識してくれているのだろうか」


 呟いてから。


 アレクシスは、はっとした。


 ――いや。


 期待するのは早い。


 彼女は優しい。


 誰にでも親切だ。


 自分だけが特別だと考えるのは、まだ早い。


 そう自分に言い聞かせる。


 それでも。


 胸の奥には、小さな期待が残っていた。


 そしてその夜。


 アレクシスは。


 珍しく、少しだけ機嫌が良かった。


 本人は、それを認めようとはしなかったが。

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