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第8話 もしかして、嫌われてる?

  最近、局長の様子がおかしい。


 エレナは、自分の机で書類を整理しながら、そっと視線を上げた。


 少し離れた場所にいるアレクシスは、今日も黙々と仕事をしている。


 いつもと変わらない。


 姿勢も、表情も。


 書類を確認する速さも、正確さも。


 むしろ、仕事だけを見れば以前より調子が良いくらいだ。


 けれど。


 自分に対する態度だけが、少し違う。


「……」


 エレナは小さく息を吐いた。


 気のせいだろうか。


 そう思おうとした。


 けれど、昨日から何度もそう感じている。


 以前なら、仕事の確認をすれば、


「ここは問題ない」


「この部分は、もう一度確認してくれ」


 と、必要なことをきちんと説明してくれていた。


 それが最近は。


「問題ない」


「頼む」


「分かった」


 短い。


 とにかく短い。


 もちろん、局長なのだから忙しい。


 部下全員と丁寧に話している余裕などないことも分かっている。


 それでも。


 以前は、もう少し話してくださっていたような気がする。


「……私、何かしたのかしら」


 思わず口に出してしまった。


「エレナさん?」


「え?」


 隣の席の同僚に呼ばれ、エレナは慌てて顔を上げた。


「どうかしました?」


「いえ。何でもありません」


「そうですか?」


「はい」


 笑顔を作る。


 けれど、頭の中ではずっと考えていた。


 ――何か、失礼なことをした?


 ――仕事でミスをした?


 ――報告の仕方が悪かった?


 ――それとも、何か気づかないうちに……。


 いくら考えても思い当たらない。


 エレナは一度、仕事の記録を見返した。


 提出期限。


 数字。


 確認事項。


 どれも問題ない。


 それどころか、昨日の仕事については局長から何も指摘されていない。


 だったら。


 なぜ?


 ◇


 昼休み。


 エレナは一人で食事をしながら、ぼんやりと考えていた。


 ふと、数日前のことを思い出す。


『でしたら、今日はあまり無理をなさらないでくださいね』


 疲れているように見えた局長に、そう声をかけた。


 その翌日から。


 少しずつ、様子がおかしくなった気がする。


「……まさか」


 エレナは箸を止めた。


 もしかして。


 余計なことを言ってしまったのだろうか。


 局長にとって、自分はただの部下だ。


 それなのに、体調を心配するようなことを何度も言われたら。


 もしかすると、鬱陶しかったのかもしれない。


「……そうよね」


 エレナは小さく頷いた。


 自分が逆の立場だったら。


 仕事中に何度も体調を心配されたら、少し気を遣うかもしれない。


 ――だったら、もう余計なことは言わないようにしよう。


 そう決めた。


 ◇


 午後。


「局長、こちらの書類ですが――」


 エレナはいつも通り、必要な書類を持ってアレクシスの机へ向かった。


「……ああ」


 アレクシスが顔を上げる。


 一瞬。


 目が合った。


 エレナは、なぜか少しだけ緊張した。


「こちら、先ほど確認したところ、一か所だけ数字の修正が必要でした」


「見せてくれ」


「はい」


 書類を差し出す。


 アレクシスが目を通す。


「……問題ない。修正しておいてくれ」


「分かりました」


 エレナは書類を受け取った。


「では、失礼します」


「ああ」


 それだけ。


 やっぱり。


 エレナは席へ戻りながら、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。


 嫌われてしまったのだろうか。


 その考えが、頭から離れない。


 けれど。


 理由が分からない。


 それが一番困る。


 ◇


 夕方。


 仕事を終えようとしていたエレナは、ふと顔を上げた。


 局長はまだ仕事をしている。


 今日も大量の書類を、恐ろしいほどの速さで片付けていた。


「……すごい」


 思わず呟く。


 あれだけ仕事を抱えているのに、疲れた様子を見せない。


 やっぱり、優秀な人なのだ。


 最初は怖い人だと思っていた。


 けれど、実際に一緒に働いてみると。


 部下の仕事をきちんと見ている。


 理不尽に怒ることもない。


 誰かの失敗を笑うこともない。


 必要なときには、ちゃんと助けてくれる。


 エレナにとってアレクシスは。


 尊敬できる上司だった。


 だからこそ。


 嫌われたのだとしたら、少し悲しい。


「……私、何をしてしまったのかしら」


 小さく呟いた、そのとき。


「エレナ嬢」


「……はい?」


 突然、声をかけられた。


 振り向く。


 アレクシスがこちらを見ていた。


「少し、いいか」


「はい」


 エレナは立ち上がる。


 アレクシスは何か言いたそうにしている。


 けれど。


 なぜか、なかなか言葉が出てこない。


「……」


「……?」


 エレナは首を傾げる。


 するとアレクシスは、ほんの少し視線を逸らした。


「……いや」


「はい?」


「何でもない」


「……そうですか?」


「ああ」


 そして。


「……また明日」


 それだけ言って、自分の机へ戻っていった。


「……?」


 エレナは、その場に立ったまま彼の背中を見る。


 やっぱり。


 おかしい。


 けれど。


 最後の「また明日」は。


 ほんの少しだけ、以前の局長に戻ったような気がした。


「……よかった」


 エレナは小さく笑った。


 その笑顔を。


 戻った席から、アレクシスがちらりと見ていた。


 そして。


 彼は心の中で、盛大に後悔していた。


 ――もっと話せばよかった。


 ――いや、何を話せばいいのか分からなかった。


 ――そもそも「また明日」しか言えなかった。


 恋を自覚した男は。


 今日もまた、恋愛だけはどうしようもなく不器用だった。

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