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第6話 どうして、こんなに気になるのか

  翌朝。


「おはようございます、局長」


 いつものように、エレナが声をかけてきた。


「ああ。おはよう」


 アレクシスは書類から顔を上げる。


 昨夜は、ほとんど眠れなかった。


 原因は分かっている。


 休日の街で見かけた、エレナの姿。


 髪を下ろし、眼鏡を外し、いつもより少し明るい色の口紅をつけていた。


 仕事中とはまるで違う雰囲気だった。


 それが、どうにも頭から離れない。


「……局長?」


「何だ?」


「少し、お疲れのようですが……」


 エレナが心配そうにこちらを見る。


「昨日、少し寝つきが悪かっただけだ。問題ない」


「そうですか……」


 それ以上、彼女は何も聞かなかった。


 ただ、ほんの少し眉を下げて、


「でしたら、今日はあまり無理をなさらないでくださいね」


 そう言って、自分の席へ戻っていった。


 その背中を、アレクシスは無意識に目で追う。


 ――まただ。


 彼女はいつも、こうなのだ。


 余計なことは言わない。


 無理に休ませようともしない。


 ただ、こちらを気遣ってくれる。


 それが妙に心地よくて。


 そして最近、それ以上に――気になって仕方がない。


 アレクシスは小さく息を吐き、目の前の書類へ視線を戻した。


 仕事に集中しよう。


 そう思った。


 そのはずだった。


 ◇


 昼前。


「エレナさん、この資料なんですが……」


 隣の席の若い男性文官が、彼女へ声をかけた。


「ああ、こちらですね」


 エレナが椅子を少し傾け、資料を覗き込む。


「この数字、前年度のものと比較すると――」


「なるほど。ありがとうございます」


「いえ。お役に立てたならよかったです」


 エレナがふっと笑う。


 その笑顔を見た瞬間。


 アレクシスの手が止まった。


 ……何だ。


 なぜ、今。


 胸の奥が、妙にざわついた。


 別に、おかしなことではない。


 仕事上のやり取りだ。


 エレナが同僚に説明をすることなど、当然ある。


 それなのに。


 ――面白くない。


 アレクシスは眉間にわずかに皺を寄せた。


 すると。


「局長?」


 エレナがこちらを見る。


「……何でもない」


「そうですか?」


「ああ」


 短く答え、再び書類へ目を落とす。


 しかし。


 さっきまで気にならなかった周囲の会話が、やけに耳につく。


 エレナの声。


 男性文官の声。


 時折聞こえる彼女の笑い声。


 ……なぜだ。


 こんなことを気にする必要などない。


 アレクシスは自分に言い聞かせながら、黙々と書類を処理していった。


 ◇


 その日の仕事が終わる頃。


「……局長」


 部下の声がした。


「何だ?」


「本日の処理分ですが……」


「まだ残っているだろう」


「いえ」


 部下が手元の一覧を確認する。


「すべて終わっています」


「……何?」


「確認も済んでいます。差し戻しもありません」


 アレクシスは机の上を見る。


 確かに。


 今日処理する予定だった書類は、すべて片付いている。


「……そうか」


 時計を見る。


 定時まで、まだ一時間近くある。


 どうやら無意識のうちに、いつも以上の速さで仕事を片付けていたらしい。


「局長、今日ものすごく仕事が早かったですよ」


 部下が少し引きつった笑顔を浮かべる。


「そうか?」


「はい……」


 アレクシスは首を傾げた。


 仕事中は、ただ目の前の書類を処理していただけだ。


 余計なことを考えないように。


 そうしていたつもりだった。


 けれど。


 ふと顔を上げる。


 少し離れた席で、エレナが書類を整理している。


 長い金色の髪は、いつものようにきっちりとまとめられている。


 眼鏡の奥の瞳は真剣で。


 時折、同僚と話すときだけ柔らかく笑う。


 その姿を見た瞬間。


 昼間のことが、また頭に浮かんだ。


 ――面白くない。


 なぜ。


 どうして。


 彼女が誰かと話しているだけで、あんな気持ちになる?


 アレクシスはしばらく考えた。


 そして、ようやく一つの可能性に行き着く。


「……まさか」


 小さく呟く。


 自分でも信じられない。


 けれど。


 休日に街で見かけた彼女の姿が、頭から離れなかったこと。


 彼女の笑顔が気になって仕方がないこと。


 疲れていると心配されると、妙に嬉しかったこと。


 そして今日。


 他の男と楽しそうに話している姿を見て、面白くないと思ったこと。


 すべてを繋ぎ合わせると。


 答えは、一つしかないように思えた。


「……私は」


 アレクシスは、静かに息を吐いた。


「エレナ嬢が……好きなのか?」


 口にした瞬間。


 自分の中で、何かがすとんと落ちた。


 そうか。


 だからだったのか。


 だから、気になった。


 だから、目で追ってしまった。


 だから――。


 彼女に嫌われることなど、考えたくもなかった。


 アレクシスはしばらく黙っていた。


 やがて。


 ほんの少しだけ、口元が緩む。


「……そういうことか」


 その表情を見た者がいれば、きっと驚いただろう。


 あの、王宮内務府・領政財務局の冷静沈着な局長が。


 ほんの少し嬉しそうに笑っているのだから。


 もっとも。


 本人はまだ、この先、自分がどれほど面倒なほど彼女を気にするようになるのか。


 知る由もなかった。

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