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第37話 結婚式前夜

 結婚式の前夜。


 エレナは、自室の机の前に座っていた。


 机の上には、明日のために用意された髪飾りやアクセサリー。


 そして、その隣には――いつもの眼鏡。


 エレナは眼鏡を手に取り、そっと眺めた。


「……明日、これを外すんだ」


 小さく呟く。


 明日の結婚式では、眼鏡をかけない。


 それは、かなり久しぶりのことだった。


 子どもの頃から、眼鏡はエレナにとって当たり前の存在だった。


 勉強をするときも。


 人前に出るときも。


 仕事をするときも。


 いつも眼鏡をかけていた。


 眼鏡をかけていると、なんとなく気持ちが落ち着いた。


「よし、ちゃんとしよう」


 そんなふうに、自分自身に言い聞かせることができた。


 貴族令嬢として見られること。


 父親の娘として見られること。


 王宮文官として見られること。


 そんな中で、眼鏡をかけた自分は、少しだけ強くなれた気がした。


 可愛いものが好き。


 おしゃれも好き。


 綺麗な服を着るのも好き。


 そんな自分を、少しだけ隠しておけるような気もしていた。


 もちろん、眼鏡が嫌いだったわけではない。


 むしろ、大切なものだった。


 自分が自分らしくいられるための、小さな支え。


 だから――。


 最初に眼鏡を外した姿をアレクシスに見られたときは、少し緊張した。


 休日の街で偶然会った、あの日。


 髪を下ろして。


 いつもより少し明るい色の口紅をつけて。


 眼鏡を外していた。


「……気づかれないかもしれない」


 そんなことを思っていた。


 けれど。


 アレクシスは気づいた。


 そして、その後も。


 花祭りの日。


 眼鏡を外した自分を見て、彼は言った。


 ――とても綺麗だ。


 あのときのことを思い出すと、今でも胸が少し熱くなる。


 でも、それだけではなかった。


 アレクシスは、眼鏡をかけている自分にも同じように言ってくれた。


「眼鏡をかけている君も好きだ。外している君も好きだ」


 その言葉を聞いたとき。


 エレナは、初めて気づいた。


 眼鏡を外したから、綺麗になったのではない。


 眼鏡をかけているから、真面目に見えるのでもない。


 どちらも自分なのだ。


 仕事をしている自分も。


 休日に可愛いものを見て喜んでいる自分も。


 眼鏡をかけている自分も。


 髪を下ろして、眼鏡を外している自分も。


 全部、自分。


「……アレクシスさんのおかげですね」


 誰もいない部屋で、エレナは小さく笑った。


 以前の自分なら。


 明日の結婚式で眼鏡を外すことを、少し怖いと思っていたかもしれない。


 眼鏡を外した自分を見て、みんながどう思うのか。


 ちゃんと花嫁らしく見えるのか。


 いつもの自分ではないように思われないか。


 そんなことを考えていたかもしれない。


 でも、今は違う。


 明日、眼鏡を外すのは。


 今までの自分を捨てるためではない。


 眼鏡に守ってもらわなくても、大丈夫だと思えるようになったから。


 ありのままの自分を見せても。


 そのまま受け止めてくれる人がいると知ったから。


 エレナは眼鏡を机の上に戻した。


 そして、明日のために用意していたドレスへ目を向ける。


「……明日、花嫁になるんだ」


 そう呟くと、急に恥ずかしくなった。


 アレクシスがどんな顔をするのだろう。


 驚くだろうか。


 綺麗だと言ってくれるだろうか。


 そんなことを考えているうちに、頬が熱くなる。


「……もう」


 エレナは両手で頬を押さえた。


 明日は。


 大切な人の隣に立つ。


 仕事をする自分も。


 可愛いものが好きな自分も。


 眼鏡をかけている自分も。


 眼鏡を外している自分も。


 全部の自分を抱えたまま。


 アレクシスの隣へ。


 エレナは、もう一度眼鏡を手に取った。


 そして、愛おしそうに眺める。


「今まで、ありがとう」


 これからも、きっと眼鏡はかける。


 仕事の日には、いつものように。


 必要なときには、いつもの自分を支えてもらう。


 だから明日は――。


 少しだけ、眼鏡にお休みしてもらおう。


 エレナは眼鏡をそっとケースへしまった。


「明日は……私のままで、行こう」


 そして、ふわりと笑った。


 明日。


 この眼鏡を外して、アレクシスの前に立つ。


 それは、何かを変えるためではない。


 今までの自分を捨てるためでもない。


 ただ――。


 これまでの自分も。


 これからの自分も。


 全部ひっくるめて、愛してもらうために。


 エレナは静かに目を閉じた。


 明日が待ち遠しい。


 そして少しだけ――。


 恥ずかしい。


「……アレクシスさん、どんな顔するかな」


 そう呟いたエレナの頬は、ほんのり赤く染まっていた。

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