第36話 恋をするなんて、思わなかった
結婚式を明日に控えた夜。
アレクシスは自室の窓辺に立ち、静かに夜空を眺めていた。
明日、自分はエレナと夫婦になる。
そう思うだけで、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
仕事でどれほど大きな決断をするときも、ここまで緊張したことはなかった。
「……明日、か」
小さく呟いて、アレクシスは苦笑した。
思えば、自分が結婚するなど、昔の自分は想像したこともなかった。
そもそも、女性と恋愛をすること自体に、あまり興味がなかったのだ。
幼い頃は、姉のセシリアやその友人たちに連れ回されていた。
顔立ちが女の子のように綺麗だったらしく、髪を整えられ、可愛らしい服を着せられ、髪飾りまでつけられて。
当時の自分は、それを嫌がることもなく、むしろ楽しんでいた。
けれど、成長するにつれて状況は変わっていった。
社交界に出るようになると、容姿や家柄を理由に近づいてくる女性が増えた。
贈り物。
手紙。
舞踏会での誘い。
本人のことをほとんど知らないはずなのに、まるで以前から深く想い合っていたかのような言葉を向けられることもあった。
最初は、そういうものなのだと思っていた。
貴族なのだから。
次期伯爵なのだから。
そういう縁談が舞い込むのも当然なのだと。
けれど――。
ある夜会での出来事だけは、今でもはっきりと覚えている。
一人の女性から飲み物を勧められた。
笑顔で差し出されたグラス。
何気なく受け取ったものの、アレクシスは口をつける直前に違和感を覚えた。
ほんのわずかな違和感だった。
念のため、と口をつけるのをやめた。
後になって、それに媚薬のようなものが入れられていた可能性があると知った。
幸い、何も起こらなかった。
けれど。
その出来事を境に、アレクシスは女性から向けられる好意を、素直に受け取れなくなった。
「……あの頃は、随分と疑っていたな」
自嘲するように呟く。
女性が嫌いだったわけではない。
ただ、自分自身を見てくれているのか。
それとも、顔や家柄、将来の地位を見ているのか。
それが分からなかった。
だから、誰かに好意を向けられても、一歩引いてしまう。
結婚も、いずれ家同士の都合で決まるものなのだろう。
そんなふうに考えていた。
恋など、自分には必要ない。
仕事をして、家を守り、領地を支え、次期伯爵としての責務を果たす。
それで十分だと思っていた。
――あの日までは。
王宮内務府・領政財務局。
新しく入ってきた、一人の女性。
長い金色の髪をきっちりとまとめ、眼鏡をかけて。
必要以上に自分へ近づいてくることもない。
媚びることもない。
自分が次期伯爵だということを意識している様子もない。
ただ真面目に仕事をしていた。
「……エレナ」
名前を口にしただけで、自然と頬が緩む。
最初は、優秀な部下だと思っていた。
仕事ができる。
気が利く。
周囲をよく見ている。
それだけだったはずなのに。
いつの間にか、目で追うようになった。
少し疲れているように見えれば気になった。
他の男と話していれば、なぜか落ち着かなかった。
休日の彼女を偶然見かけたときには、眼鏡を外し、髪を下ろした姿に言葉を失った。
そして気づいた。
自分は、彼女のことが好きなのだと。
「……本当に、人生は分からないものだな」
アレクシスは窓辺から離れ、机の上に置かれた小さな箱へ目を向けた。
明日、エレナの指に指輪をつける。
婚約指輪を選んだ日のことを思い出す。
あの日も、彼女は恥ずかしそうに笑っていた。
その笑顔を見るだけで、胸がいっぱいになった。
かつては、女性から向けられる好意を警戒していた自分。
それが今では――。
一人の女性の笑顔を見られるだけで、こんなにも嬉しい。
彼女が疲れていれば心配になる。
少し無理をしていれば、休ませてあげたくなる。
嬉しそうに笑っていれば、自分まで嬉しくなる。
そして明日。
その女性が、自分の隣に立つ。
妻になる。
「……こんな日が来るとはな」
アレクシスは、静かに笑った。
エレナは、自分の容姿や家柄を見て近づいてきたわけではない。
最初から最後まで、ただ一人の人間として接してくれた。
だからこそ、自分も彼女を大切にしたいと思った。
眼鏡をかけていても。
外していても。
仕事をしていても。
休日に可愛いものを見つけて嬉しそうにしていても。
どんなエレナも、エレナだった。
「……明日が楽しみだ」
そして、ふと思う。
恋をするなんて、知らなかった。
誰かをこんなにも大切に思えることも。
誰かと一緒に生きていきたいと思えることも。
何も知らなかった。
けれど――。
「……悪くないな」
アレクシスは、明日の花嫁を思い浮かべる。
そして、少し照れくさそうに、それでも幸せそうに笑った。
まさか自分が恋をして。
こんなに可愛くて、大切な女性を妻に迎えられるなんて。
昔の自分が知ったら、きっと信じないだろう。
それでも。
明日になれば、それが現実になる。
アレクシスは静かに目を閉じた。
「……エレナ」
明日はきっと、生涯忘れられない日になる。
そう思いながら、彼はゆっくりと眠りについた。




