第29話 局長の変貌
その日の午後。
エレナが書類を抱えて廊下を歩いていると、別の部署の若い文官から声をかけられた。
「アーデルさん」
「はい?」
「先ほどの資料について、少し確認したいことがあるのですが」
「あ、はい。どの部分でしょうか?」
二人が書類を覗き込みながら話していると――。
「エレナ」
背後から、聞き慣れた声がした。
「……局長?」
振り返ると、アレクシスが立っている。
いつもの整った表情。
いつもの冷静な声。
けれど。
「その件なら、私が確認しよう」
「え?」
男性文官が戸惑う。
「局長にお願いするほどのことでは……」
「構わない」
アレクシスは淡々と答えた。
そして、エレナの手から書類を受け取る。
「彼女には別の仕事を頼んでいる」
「そうだったんですね。では――」
「それと」
アレクシスが男性文官を見る。
「彼女に用があるなら、今後は私を通してくれ」
「…………はい?」
男性文官が固まった。
エレナも固まった。
「アレクシスさん……?」
「何だ?」
「その……私に用がある場合、局長を通す必要はないと思います」
「そうか?」
「はい……」
「……そうだな」
アレクシスは一応納得したように頷いた。
しかし。
「だが、彼女は私の部下だ。仕事の割り振りは私が把握しておく」
「……はい」
男性文官は何とも言えない顔で頭を下げ、その場を離れていった。
エレナはしばらく無言でアレクシスを見つめる。
「……何か?」
「いえ」
「なら仕事に戻ろう」
「……はい」
歩き出したアレクシスの耳が、ほんの少し赤くなっていることに、エレナは気づいた。
*
その様子を、少し離れた場所から見ていた男が一人。
「……お前なぁ」
ルーカスだった。
「何だ」
「何だじゃない」
呆れた顔でアレクシスを見る。
「完全に牽制してただろ」
「していない」
「してたよ」
「私は上司として必要なことを言っただけだ」
「『彼女に用があるなら私を通せ』が?」
「仕事の管理だ」
「はいはい」
ルーカスは肩をすくめた。
「恋人になった途端、分かりやすくなったな」
「…………」
アレクシスが黙る。
「しかも本人、全然自覚ない顔してるし」
「……私は普通にしている」
「普通?」
ルーカスは廊下の先を見る。
そこには、アレクシスに言われたことを思い返して真っ赤になっているエレナがいた。
「どこが?」
「…………」
アレクシスは答えなかった。
ただ、エレナを見つめる目だけは、どうしようもなく優しかった。
ルーカスは深いため息をつく。
「……重症だな」
「何か言ったか?」
「何も」
*
そして昼休み。
食堂の一角では、数人の局員たちが小声で話していた。
「ねえ……最近、局長って変わったと思わない?」
「思う」
「絶対変わったよね」
「前はもっと……こう、近寄りがたい感じだったのに」
「今も十分怖いけど」
「でも、アーデルさんに対してだけ違うのよ」
「そうそう!」
一人が身を乗り出す。
「昨日なんて、アーデルさんが少し咳をしただけで『今日は早く帰れ』って言ってたわよ」
「私は見た。昼食の量まで気にしてた」
「えっ、そこまで?」
「しかも今日……」
そこで全員が声を潜める。
「別部署の男性に、すごい牽制してた」
「やっぱり?」
「『彼女に用があるなら私を通せ』って」
「……それって」
全員の視線が集まる。
「どう考えても――」
「恋人?」
「よね?」
「でも、まさか……あの局長が?」
一瞬の沈黙。
そして。
「……だからこそ、あり得るんじゃない?」
「確かに」
「むしろ、あの変貌ぶりを見ると納得する」
「アーデルさん、すごいわね……」
「局長をあそこまで変えるなんて」
「でも、お似合いだと思わない?」
「うん」
「うんうん」
そんな噂が、昼休みの間に少しずつ広がっていった。
もちろん本人たちは知らない。
――と思っていた。
「……何の話をしている?」
突然背後から声をかけられ、局員たちは一斉に振り返った。
「…………局長」
そこにいたのは、アレクシスだった。
「…………」
「…………」
「……昼休みは終わっていない。ゆっくりしていい」
「は、はい!」
アレクシスはそのまま立ち去っていく。
姿が見えなくなった瞬間。
「……聞かれた?」
「いや、たぶん聞いてない」
「よかった……」
「でも――」
一人がぽつりと言った。
「局長、アーデルさんのところに行ったわよね?」
「……行った」
「やっぱり」
*
執務室。
エレナが書類を整理していると、アレクシスがやってきた。
「エレナ」
「はい?」
「今日の帰りだが」
「はい」
「……一緒に帰らないか」
「……!」
エレナの頬が赤くなる。
「はい……」
その様子を見て、アレクシスも少しだけ笑った。
それを見た向かいの席の局員が、そっと目を伏せる。
――やっぱり、変わった。
あの冷徹で隙のない局長が。
今では、エレナの前だけではっきりと表情を緩める。
局内ではもう、誰もが気づき始めていた。
王宮内務府・領政財務局の冷徹な局長には――どうやら、とても大切な恋人がいるらしい。




