第26話 花祭りの夜
王都に春が訪れる頃。
街はいつもより、どこか浮き足立っていた。
通りには色とりどりの花が飾られ、店先には花を模した小さな灯りが並んでいる。
年に一度の――花祭り。
今年は特に若者の間で、とあるジンクスが流行していた。
『花祭りの夜、意中の相手に赤い花を贈ると、その想いは結ばれる』
もちろん、ただの言い伝えだ。
けれど花祭りが近づくにつれ、街では赤い花を買い求める若者が増えていた。
「……お前、今年はどうするんだ?」
昼休み。
アレクシスは向かいに座る友人の言葉に、顔を上げた。
「何がだ?」
「花祭りだよ」
「花祭り?」
「知らないのか?」
友人は呆れたように笑った。
「最近、若い連中の間で流行ってるだろ。花祭りの夜に、好きな相手へ赤い花を贈ると想いが結ばれるっていうやつ」
「……そうなのか」
「そうだよ」
アレクシスはしばらく黙った。
赤い花。
好きな相手。
頭の中に、一人の女性が浮かぶ。
エレナ。
――途端に、妙に意識してしまった。
「……なるほど」
「お前、今、誰か思い浮かべただろ」
「……仕事に戻る」
「図星か」
「うるさい」
友人の笑い声を背に、アレクシスは自分の席へ戻った。
だが。
仕事に戻ったはずなのに、頭の片隅にはずっと同じことが残っていた。
赤い花。
エレナ。
赤い花。
エレナ。
「……」
アレクシスは深く息を吐いた。
仕事なら、いくらでも集中できる。
だが、恋愛に関してはどうしてこうも調子が狂うのか。
しかも。
花祭りの日にエレナを誘いたいと思ってしまった。
一緒に花を見たい。
夜の街を歩きたい。
そして――
赤い花を、彼女に贈りたい。
そう思った。
◇
花祭り当日。
「エレナ嬢」
「はい?」
仕事を終えたところで、アレクシスが声をかける。
「今夜、時間はあるだろうか」
「今夜、ですか?」
「ああ」
一瞬だけ迷ったように視線を逸らす。
それから、まっすぐ彼女を見る。
「……花祭りを見に行かないか?」
エレナの目が輝いた。
「花祭り……!」
その反応が可愛らしくて、アレクシスは思わず微笑む。
「興味があるか?」
「はい。実は少し気になっていました」
「では、決まりだな」
「はい」
エレナも嬉しそうに笑った。
◇
夜。
待ち合わせ場所に現れたエレナを見て、アレクシスは言葉を失った。
いつもとは違う服装。
淡い色のドレス。
長い金色の髪は綺麗にまとめられている。
そして――眼鏡をかけていなかった。
「……局長?」
エレナが不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いや……」
アレクシスは一度目を逸らした。
だが、もう一度彼女を見る。
やはり、綺麗だ。
以前にも眼鏡を外した姿を見たことはある。
それでも。
今日の彼女は、いつもとは違って見えた。
「……似合っている」
「ありがとうございます」
「……とても綺麗だ」
「……っ」
エレナの頬が一気に赤くなる。
アレクシスも、自分の言葉に少しだけ耳が熱くなった。
けれど、撤回はしなかった。
二人は花で飾られた街を歩いた。
通りには色鮮やかな花が並び、人々の笑い声が響いている。
子どもたちは花冠をつけ、大人たちは花を手に歩いている。
エレナは何度も足を止めた。
「見てください、あのお店」
「うん」
「この花も綺麗ですね」
「ああ」
「こちらの飾りも……」
「……エレナ嬢」
「はい?」
「そんなに急ぐと転ぶぞ」
「す、すみません」
くすっと笑う。
アレクシスも笑った。
こうして彼女と歩く時間が、たまらなく心地いい。
視察のときもそうだった。
休日もそうだった。
今もそうだ。
――もっと一緒にいたい。
その気持ちは、日に日に強くなっている。
◇
しばらく歩いたところで、エレナが一軒の花屋の前で立ち止まった。
店先にはたくさんの花が並んでいる。
その中に、ひときわ鮮やかな赤い花があった。
「……綺麗」
エレナが小さく呟く。
アレクシスはその花を見た。
そして、花屋の店主に声をかける。
「すまない。この花を一本」
「はいよ」
店主から赤い花を受け取る。
アレクシスはそれを手にしたまま、少し離れたところにいるエレナへ近づいた。
「エレナ嬢」
「はい?」
「これを」
差し出された赤い花。
エレナは目を丸くした。
「……私に?」
「ああ」
花祭りの夜。
意中の相手に赤い花を贈る。
そんなジンクスを思い出す。
エレナも知っているのだろう。
頬が少しずつ赤くなっていく。
「……ご存じだったんですね」
「ああ」
アレクシスは正直に答えた。
「花祭りのジンクスのことも知っている」
「……」
「だが」
そこで、一度言葉を切った。
「私は、ジンクスを信じているわけではない」
エレナが静かに彼を見る。
アレクシスは赤い花を彼女へ差し出したまま、まっすぐに見つめた。
「それでも、この花を君に贈りたいと思った」
「……どうして?」
「君だからだ」
その言葉に、エレナの胸が大きく鳴った。
「エレナ嬢」
アレクシスは、ゆっくり息を吸う。
仕事なら、どんな難しい話でも冷静にできる。
けれど今だけは。
何度考えても緊張する。
それでも、もう逃げたくなかった。
「私は、君が好きだ」
エレナの瞳が揺れる。
「仕事をしている君も」
「……」
「笑っている君も」
「……はい」
「小さなものを見つけて、嬉しそうにしている君も」
エレナの目に、少しだけ涙が滲む。
「……全部、好きだ」
アレクシスは少しだけ照れたように笑った。
「だから、ジンクスの力を借りるつもりはない」
そして。
「君自身の気持ちを、聞かせてほしい」
エレナはしばらく黙っていた。
胸がいっぱいだった。
嬉しい。
嬉しくて、どうしたらいいのか分からない。
ずっと気になっていた。
一緒にいると嬉しかった。
もっと知りたいと思った。
別れると寂しかった。
そして――
自分からも、もう少し一緒にいたいと思っていた。
だから。
答えは、もう決まっていた。
「……私も」
小さな声。
「……私も、局長のことが好きです」
「……本当に?」
思わず聞き返す。
その顔があまりにも真剣で。
エレナは少し笑った。
「はい」
「……そうか」
アレクシスは目を伏せた。
そして、ほっとしたように息を吐く。
「……よかった」
その表情は、普段の冷静な局長とはまるで違っていた。
エレナは胸がいっぱいになった。
「この花……いただいてもいいですか?」
「ああ」
「大切にします」
「……それなら、よかった」
二人はしばらく、花祭りの灯りの中に立っていた。
◇
その後。
二人は再び歩き始めた。
けれど、さっきまでとは少し違う。
エレナは赤い花を大切そうに持っている。
アレクシスは、その隣を歩いている。
何度か視線が合う。
そのたびに、二人とも少し照れて笑った。
やがてエレナが、ふと立ち止まる。
「……あの」
「どうした?」
「今日、眼鏡を外してきたのですが……」
「うん」
「やっぱり、いつもの方がよかったでしょうか」
アレクシスは少し驚いた顔をした。
「なぜ?」
「その……」
エレナは眼鏡のない顔を少し恥ずかしそうに伏せる。
アレクシスはそんな彼女を見て、柔らかく笑った。
「どちらも好きだ」
「……え?」
「眼鏡をかけている君も」
少し間を置いて。
「今の君も」
エレナの頬がまた赤くなる。
「……局長」
「アレクシスでいい」
「え……」
「もう、恋人なのだから」
言った本人が、少し照れている。
エレナも小さく頷いた。
「……はい」
「エレナ」
初めて名前だけで呼ばれる。
胸がまた、きゅっとなる。
「……はい。アレクシス様」
「……様はいらない」
「では……アレクシス、さん」
「ああ」
二人は照れながら笑った。
花祭りの夜。
色とりどりの花と、柔らかな灯りに包まれた街で。
二人はようやく――恋人になった。
赤い花に込められたジンクスよりも。
今日交わした言葉よりも。
互いの胸に残ったのは、ただ一つ。
好きな人と一緒にいられることが、こんなにも嬉しい。
そのことだった。




