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第3話 気になる理由

その日は、朝から忙しかった。


 領政財務局では、いつものことだ。


 書類は減らない。


 むしろ、処理した分だけ新しい書類が運ばれてくる。


 午前中には各領地から届いた収支報告の確認。


 昼前には、来年度の公共事業費についての打ち合わせ。


 昼食を挟んで、今度は南部地域の税制についての会議。


 そして会議が終われば、その内容をまとめなければならない。


 時計の針が夕方を過ぎても、机の上にはまだ書類が残っていた。


「……」


 私は目頭を押さえた。


 少し疲れている。


 だが、これくらいはいつものことだ。


 今日中に終わらせなければならないものも多い。


 もう一度、書類に目を落とす。


「局長」


 声がした。


 顔を上げる。


 エレナ・アーデルだった。


「なんだ?」


「先ほどから、少し目を押さえていらっしゃいますが……お疲れではありませんか?」


「問題ない」


 いつものように答える。


「そうですか」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。


 心配そうな顔をして説得してくるわけでもない。


 休むよう勧めるわけでもない。


 ただ、手にしていた書類へ視線を落とした。


「……では」


 エレナは自分の机へ戻っていく。


 私は再び仕事に戻ろうとした。


 そのとき。


「こちらの資料ですが」


 エレナが数枚の書類を持ってきた。


「私が確認しておきます」


「……それは私の仕事だ」


「承知しています」


 彼女は穏やかに答えた。


「ただ、こちらは先ほど私が担当した領地の資料と関連していますので。私が先に確認しておけば、局長のお手間を少し減らせるかと」


「……」


「問題があれば、後ほど確認をお願いいたします」


 それだけ言うと、エレナは書類を持って自分の席へ戻っていった。


 私はしばらく、その背中を見ていた。


 ……妙な気分だった。


 助けると言われたわけでもない。


 休めと言われたわけでもない。


 ましてや、私を心配して特別に何かをしているという様子でもない。


 ただ。


 自分にできることを、自然に引き受けただけ。


「……」


 私は再び書類へ目を落とした。


 不思議と、先ほどまで感じていた疲れが少しだけ軽くなった気がした。


     ◇


 翌日。


 私はいつも通り執務室へ入った。


「おはようございます、局長」


「おはよう」


 部下たちが挨拶をする。


 その中に、エレナの姿もあった。


「おはようございます」


 眼鏡の奥からこちらを見て、彼女は小さく頭を下げる。


「……ああ」


 それだけ返して、自分の席へ向かう。


 ――そのはずだった。


「……」


 ふと、エレナを見る。


 昨日と変わらない。


 金色の髪をきっちりとまとめて、眼鏡をかけている。


 机の上を整え、今日の書類を確認している。


 ただ、それだけ。


 なのに。


 なぜか目が行く。


「……」


 私はすぐに視線を逸らした。


 仕事を始める。


 しばらくして、また顔を上げる。


 エレナが立ち上がって、書類を棚へ戻していた。


 視線を戻す。


 数分後。


 今度は同僚と話している。


 視線を戻す。


 またしばらくすると、今度は真剣な顔で書類を読んでいる。


 ……。


 なぜ、こんなに気になるのだろう。


 私は眉を寄せた。


 新人だからだ。


 そうに違いない。


 まだ配属されて間もない。


 仕事ぶりを確認しているだけだ。


 そう結論づけた。


 だが。


「局長?」


「……なんだ」


「先ほどから同じページをご覧になっていますが」


「……」


 部下の言葉に、私は手元を見る。


 確かに。


 同じ書類を、しばらく眺めていたらしい。


「少し考え事をしていただけだ」


「そうですか」


 部下は不思議そうな顔をした。


 私は何事もなかったように書類をめくった。


     ◇


 それから数日。


 気づけば私は、エレナの姿を目で追うことが増えていた。


 本人には気づかれないように。


 あくまで自然に。


 仕事をしている彼女。


 同僚と話している彼女。


 書類を抱えて廊下を歩く彼女。


 時には、窓際で資料を読んでいる横顔。


 そのたびに、私は思う。


 よく働く。


 無駄がない。


 真面目だ。


 ……そして。


 意外と――。


「……」


 そこで、私は思考を止めた。


 今、何を考えた?


 エレナが書類へ視線を落とす。


 眼鏡の向こうに見える長いまつ毛。


 普段は髪をきっちりとまとめているせいか、こうして横から見ると、思っていたより顔立ちが柔らかい。


 可愛い顔をしている。


 そんなことを思った。


「……」


 私は慌てて視線を逸らした。


 可愛い?


 何を考えている。


 彼女は部下だ。


 それも、まだ入ったばかりの新人。


 仕事ぶりを見ているだけだ。


 そう思い直そうとした。


 しかし。


 再び視線が戻ってしまう。


 エレナの唇。


 いつも控えめな色の口紅をつけている。


 目立つ色ではない。


 彼女の落ち着いた雰囲気にはよく合っている。


 けれど――。


 もう少し明るい色でも、似合うのではないだろうか。


 淡い桃色など。


 きっと――。


「……っ」


 私は思わず背筋を伸ばした。


 何を考えている。


 私は自分の額に手を当てた。


 仕事中に、部下の口紅の色を考えるなど。


 どうかしている。


 そもそも。


 なぜ私は、彼女の口紅を見ている?


「……」


 エレナはそんな私の葛藤など知る由もなく、今日も黙々と仕事をしている。


 眼鏡の奥の瞳は真剣で。


 長いまつ毛が、ときおり小さく伏せられる。


 そして、書類に向かう横顔は――。


 ……。


 私はまた、視線を逸らした。


 どうやら最近。


 私は少し、おかしいらしい。


 けれど。


 その理由を考えることは、まだしなかった。


 ――この時の私は。


 それが「気になる」という感情の始まりだとは、まだ知らなかった。

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