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第2話 猫の手も借りたい

「……誰か、猫の手を借りてこい」


 朝一番。


 執務室に入るなり、私はそう呟いた。


「局長、朝から何を言ってるんですか」


 向かいの席に座っていた部下が、呆れた顔をする。


「見れば分かるだろう」


 机の上を指差す。


 書類の山。


 右を見ても書類。


 左を見ても書類。


 視界の端にまで書類が積み上がっている。


「……確かに、猫の手くらいは欲しいですね」


「だろう?」


「でも猫は数字を読めませんよ」


「そこが問題だな」


 くだらない会話をしている暇など、本当はない。


 今日中に目を通さなければならない書類は山ほどある。


 各領地から届いた税収報告。


 昨年度との比較資料。


 公共事業の予算申請。


 不作による減税の申請。


 領主から提出された支出報告。


 どれも間違いが許されない。


 一つ数字を見落とせば、その先で何人もの人間が困る。


 だからこそ、私は書類を一枚ずつ確認していた。


「局長、東部三領から追加資料が届きました」


「そこに置いてくれ」


「はい。それから南部の――」


「後でいい」


「ですが、今日中に確認を――」


「……分かった。そこへ」


「はい!」


 次々と持ち込まれる書類。


 終わらない。


 いくら処理しても減った気がしない。


 この仕事に就いてから何度も思った。


 王国の金というものは、どうしてこうも書類を生むのだろうか。


 そして今日。


 そんな私のところへ、新しい文官が配属された。


 昨日のうちに人事部から報告は受けていた。


 ――エレナ・アーデル。


 アーデル伯爵家の令嬢。


 学院を優秀な成績で卒業し、採用試験も上位で通過。


 領地経営や会計に関する成績も申し分ない。


 経歴だけを見れば、優秀な新人だ。


 ただ。


 女性が配属されると聞いたとき、私は正直、少しだけ気が重かった。


 またか、と。


 そう思った。


 私は昔から、女性に囲まれることが多かった。


 幼い頃は、それほど気にしていなかった。


 姉やその友人たちに着飾らされるのも、当時は楽しかった。


 髪を整えられ、服を選ばれ、髪飾りをつけられて。


 姉たちが嬉しそうにしているのを見るのも嫌いではなかった。


 だが、成長するにつれて状況は変わった。


 顔を見れば声をかけられる。


 舞踏会では周囲を女性に囲まれる。


 贈り物や手紙が届く。


 中には、家同士の関係を利用して近づいてくる者もいた。


 仕事の場でも、それは同じだった。


 だから私は、女性と必要以上に関わらないようになった。


 仕事さえきちんとしてくれれば、それでいい。


 そう思っていた。


 だから昨日、新人の女性文官が目の前に立ったときも。


 正直、少し身構えていた。


 けれど――。


『本日付で配属されました、エレナ・アーデルです。本日より、よろしくお願いいたします』


 ……拍子抜けした。


 媚びる様子はなかった。


 私の顔を見て妙に嬉しそうにするわけでもない。


 必要以上に話そうともしない。


 ただ、きちんと頭を下げただけ。


 それだけだった。


 仕事を始めてからも、その印象は変わらなかった。


 彼女は静かだった。


 与えられた仕事に黙々と取り組み、分からないことがあれば必要なことだけを尋ねる。


 そして、終わればまた自分の席へ戻る。


 余計なことをしない。


 実に仕事がしやすい。


 そう思った。


「局長」


「なんだ」


「昨日配属されたアーデルさんですが」


「……ああ」


「この書類、彼女に回してもいいでしょうか?」


「まだ新人だろう」


「ですが、これを見てください」


 部下が差し出した書類に目を通す。


 昨日、彼女に渡した仕事の一つだった。


 各領地から届いた報告書を分類し、過去の資料と照合する作業。


 新人には少し量が多い。


 だから、時間がかかると思っていた。


 だが。


「……もう終わったのか?」


「はい。しかも、ここ」


 部下が一か所を指差した。


「昨年度の数字と今年度の数字に、わずかな差異があります」


「……」


 確認する。


 確かに合わない。


 元の資料を探し出して照合すると、提出元の記載ミスだった。


「よく見つけたな」


「私も驚きました」


 部下が感心したように言う。


 私はもう一度、書類に目を落とした。


 新人にしては、かなり正確だ。


「本人に確認させろ」


「はい」


 しばらくして、彼女がやってきた。


「局長、お呼びでしょうか」


「この数字だが」


 書類を示す。


「はい」


「よく気づいたな」


「ありがとうございます」


 彼女は少しだけ頭を下げた。


 嬉しそうでもない。


 照れた様子もない。


 ただ、当然のことをしたという顔だった。


「元資料と照合したところ、こちらの数字と一致しませんでしたので」


「そうか」


「念のため、提出元にも確認を取った方がよろしいかと思います」


「その通りだ。頼む」


「承知しました」


 それだけ言って、彼女は自分の席へ戻っていった。


 ……変わった新人だ。


 仕事を褒められても、浮かれる様子がない。


 かといって、無愛想というわけでもない。


 必要なときにはきちんと受け答えをする。


 仕事は丁寧で、正確。


 そして、こちらに余計な気を遣わせない。


 今まで私の周囲にいた女性たちとは、少し違っていた。


 そもそも。


 私のことを気にしている様子が、ほとんどない。


 仕事中に視線が合うことはある。


 だが、それだけだ。


 私が伯爵家の人間であることも。


 この部署の局長であることも。


 彼女にとっては、仕事をする上で必要な情報の一つに過ぎないのだろう。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 妙に新鮮だった。


「局長、昼食は?」


「後でいい」


「またですか?」


「仕事が終わらない」


「だから猫の手が必要なんですよ」


「……猫では書類は読めない」


「局長、そこは昨日も聞きました」


 部下の呆れた声を聞き流し、私は再び書類に目を落とした。


 今日も仕事は山積みだ。


 猫の手も借りたい。


 そんな忙しさの中で。


 ふと視線を上げる。


 少し離れた席で、エレナ・アーデルが黙々と仕事をしていた。


 金色の髪はきっちりとまとめられ、眼鏡の奥の瞳は書類に集中している。


 姿勢も綺麗だ。


 無駄な動きがない。


 静かに、一枚ずつ書類を処理している。


「……」


 私はしばらく彼女を見た。


 そして、ふと。


 そんな言葉が浮かんだ。


 ――こんな女性もいるんだな。


 それだけだった。


 特別な意味などない。


 少なくとも、このときの私はそう思っていた。


 新しく配属された、仕事のできる新人。


 ただ、それだけ。


 私は視線を戻し、再び書類へ向き合った。


 まだまだ、今日の仕事は終わりそうにない。

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