第1話 王宮文官、始めました
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朝の王都は、故郷の領都とは違う空気がした。
行き交う人々の数も、馬車の音も、石畳を踏む靴音も、すべてが少しだけ慌ただしい。
私は胸元に手を添え、小さく息を吐いた。
今日から、私は王宮文官になる。
長かった。
貴族学院に入学してから、ずっとこの日のために勉強してきた。
行政学、法学、会計、領地経営、税制――。
得意だったものもあれば、何度勉強しても理解するのに時間がかかったものもある。
それでも、諦めなかった。
そして卒業を前に受けた採用試験に、無事合格することができた。
今日から私も、王国の行政を支える一人だ。
「……よし」
小さく呟いて、私は背筋を伸ばした。
緊張していることを顔に出すつもりはない。
昔から、感情を表に出すのは得意ではなかった。
というより――。
父から教えられてきたのだ。
人前では姿勢を正し、言葉を選び、感情に流されないこと。
伯爵家の娘として恥ずかしくない振る舞いをすること。
それは、私にとって当たり前のことだった。
だから今日も、落ち着いていればいい。
まずは仕事を覚える。
そして、一日も早く一人前になる。
それが今の私の目標だ。
……もちろん。
もう一つ、密かな楽しみもあるけれど。
休日になったら、王都のお店を見て回ってみたい。
学院にいた頃から、休日に街へ出るのが好きだった。
可愛らしい髪飾り。
色とりどりのリボン。
小さな雑貨。
店先に並ぶ、美しい刺繍の施された布地。
王都には、故郷では見たこともないようなものがたくさんある。
思い浮かべるだけで、少しだけ胸が弾んだ。
……とはいえ。
それは仕事とは別の話。
今日からは王宮文官。
まずはそちらに集中しなくては。
私は案内役の文官に続いて、王宮の一角へと向かった。
◇
「こちらが、領政財務局です」
「ありがとうございます」
案内役の文官が去っていく。
私は目の前の扉を見つめた。
領政財務局。
王国内の各領地から提出される収支報告や税収、予算などを扱う部署。
伯爵家の娘として育った私にとって、馴染みのある分野でもある。
……けれど。
扉が開いた瞬間、私はほんの少しだけ目を見開いた。
書類。
書類。
そして、書類。
机の上には山のような書類が積まれ、文官たちは忙しそうに行き交っている。
「この数字、昨年度の報告と合っていないぞ!」
「そちらの資料は第三保管庫へ!」
「南部三領の税収報告、まだ届いていないのか!?」
想像していたより、ずっと慌ただしい。
……というより。
殺伐としている。
私は心の中だけでそう呟いた。
もちろん、顔には出さない。
案内役から聞いていた話では、ここは王宮の中でも特に忙しい部署の一つらしい。
王国全土の領地に関する数字を扱うのだから、それも当然なのだろう。
私は気を引き締め直した。
むしろ望むところだ。
仕事が多いということは、それだけ学べることも多い。
「新しく配属された方ですね?」
近くにいた女性文官が声をかけてくれた。
「はい。本日付で配属となりました、エレナ・アーデルと申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。……ええと、まずは局長へご挨拶を」
「はい」
案内された先に、一人の男性がいた。
広い執務机。
その上に積まれた書類。
そして、それらを前にして一切表情を変えず仕事を続ける男性。
「局長」
呼びかけに、その人が顔を上げた。
――綺麗な人。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
整った顔立ち。
淡い色の髪。
冷静な眼差し。
姿勢も立ち姿も隙がない。
けれど。
……少し、怖い。
私は一瞬だけそう思った。
もちろん、それも顔には出さない。
「本日付で配属されました、エレナ・アーデルです」
背筋を伸ばして一礼する。
「本日より、よろしくお願いいたします」
「……アーデル伯爵家の」
「はい」
局長――アレクシス・ヴァレンティン次期伯爵は、私を静かに見た。
数秒。
ただ、それだけなのに。
なんとなく、試されているような気がした。
新人だから当然なのだろう。
学院を卒業したばかりの私が、どこまで仕事ができるのか。
ここで働くに足る人間なのか。
きっと見定めている。
ならば――。
結果で応えればいい。
「……こちらこそ、よろしく頼む」
「はい」
短い言葉。
それだけだった。
私はもう一度頭を下げ、その場を離れた。
少しだけ緊張していたけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
怖そうではある。
けれど、理不尽な人とは限らない。
むしろ――。
あれほど書類に囲まれていながら、一つ一つ目を通していた。
きっと仕事には厳しい方なのだろう。
なら、私も頑張らなくては。
王宮文官を目指したのは、誰かに褒めてもらうためではない。
自分が選んだ道なのだから。
私は与えられた机へ向かい、早速渡された書類に目を通した。
「……まずはこちらからですね」
静かにペンを取る。
今日から始まる、新しい毎日。
覚えることは多い。
失敗することも、きっとある。
それでも、一つずつ積み重ねていけばいい。
そして。
仕事を頑張った休日には、王都のお店を見て回ろう。
可愛い髪飾りも見たい。
新しくできた雑貨店にも行ってみたい。
そんな小さな楽しみを胸に、私は最初の一枚目の書類に目を落とした。
このときの私は、まだ知らなかった。
今日出会ったあの冷たい眼差しの上司が。
これから私のことを、誰よりも気にするようになることを。
そして――。
その人の前で、私が眼鏡を外す日が来ることを。




