第24話 もう少しだけ
「エレナ嬢。少し、いいだろうか」
朝の執務室。
いつものように書類に目を通していたエレナは、局長室から呼ばれて顔を上げた。
「はい」
立ち上がって局長室へ向かう。
扉をノックすると、すぐに中から声が返ってきた。
「入ってくれ」
「失礼いたします」
中へ入ると、アレクシスは机の上に一枚の書類を広げていた。
いつもと変わらない、整った表情。
けれど、エレナには以前より少しだけ分かるようになっていた。
彼が忙しいときの顔。
考え込んでいるときの顔。
そして――ほんの少し、機嫌がいいときの顔。
今日は、そのどれでもない。
「急で申し訳ないが、明日から地方視察に出ることになった」
「地方視察、ですか?」
「ああ」
アレクシスは書類を指で示した。
「西部のグランディール領から提出された財務報告に、いくつか確認が必要な箇所がある。現地でなければ判断できない部分もあるため、直接確認することになった」
エレナは資料を受け取り、目を通す。
見覚えのある数字がいくつか並んでいた。
「……こちらの報告書、私が確認したものです」
「そうだな」
「でしたら、同行した方がよろしいでしょうか」
「そのつもりだ」
即答だった。
「君がこの案件の資料を最も詳しく把握している。私と一緒に来てもらえると助かる」
「承知いたしました」
エレナは頷いた。
仕事としては、ごく自然な話だ。
けれど。
「明日から」という言葉が、なぜか胸に残った。
数日間。
アレクシスと一緒に地方へ行く。
そう考えた途端、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
「……何か問題があるか?」
「い、いいえ!」
思わず顔を上げる。
「問題ありません。必要な準備をしておきます」
「そうか」
アレクシスは小さく笑った。
「助かる」
その笑顔を見てしまって、エレナは慌てて視線を書類へ戻した。
「……では、失礼いたします」
「ああ」
扉を閉めてから、エレナは小さく息を吐いた。
――どうして、こんなに緊張しているのだろう。
ただの仕事なのに。
そう思いながら、自分の頬が少し熱くなっていることには気づかないふりをした。
◇
翌朝。
まだ王都が目を覚ましたばかりの時間。
二人は王宮の正門前で待ち合わせていた。
エレナは動きやすい服装に身を包み、髪をいつもより少し簡単にまとめている。
眼鏡はいつも通り。
「おはようございます、局長」
「おはよう、エレナ嬢」
アレクシスは一瞬だけ彼女を見た。
そして、すぐに視線を逸らした。
――似合っている。
普段の仕事着とは少し違う。
それだけなのに、妙に新鮮だった。
「……どうかされました?」
「いや」
アレクシスはいつもの顔に戻る。
「行こう」
「はい」
二人は馬車へ乗り込んだ。
◇
視察先へ着くまでの数時間。
二人はほとんど仕事の話をしていた。
資料を確認し、現地の状況を予測し、質問事項を整理する。
エレナが一つ数字を指摘すると、アレクシスがすぐに別の資料を確認する。
「なるほど。こちらの支出と合わせれば説明がつくな」
「はい。ただ、こちらの項目だけ少し多いのが気になります」
「……確かに」
二人の会話は驚くほどスムーズだった。
言葉にしなくても、お互いが何を確認したいのか分かる。
仕事を終えたあと、アレクシスはふと窓の外を見た。
「君とは仕事がしやすいな」
「え?」
エレナが顔を上げる。
「判断が早い。資料の読み込みも正確だ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、アレクシスの胸が少しだけ温かくなった。
――やはり、好きだ。
最近は、何をしていてもその結論に戻ってしまう。
彼女が笑えば嬉しい。
彼女が困っていれば助けたい。
彼女が疲れていれば休ませたい。
そして。
彼女と一緒にいる時間が、好きだ。
仕事だからではない。
そのことを、アレクシスはもう誤魔化せなくなっていた。
◇
現地での確認は予定通り進んだ。
エレナは膨大な資料を一つずつ確認し、現地の担当者にも丁寧に質問をする。
アレクシスはその横で全体を見ながら、必要な指示を出していく。
昼を過ぎても二人は休まずに作業を続けていた。
「エレナ嬢」
「はい?」
「昼食は?」
「え?」
「まだ食べていないだろう」
「あ……」
言われてみれば、朝から何も食べていなかった。
「すみません。少し集中してしまって」
アレクシスは小さく息を吐いた。
「仕事熱心なのは結構だが、食事を抜くのは感心しない」
「はい……」
「食堂へ行こう」
「でも、まだ確認が――」
「続きは食事のあとでもできる」
少し強い口調だった。
エレナが目を丸くすると、アレクシスは少しだけ声を柔らかくした。
「……君が倒れてしまったら困る」
「局長が、困るんですか?」
思わず尋ねる。
アレクシスは一瞬黙った。
「……ああ」
そして、ごく自然に続ける。
「私が困る」
エレナの胸が、どくんと鳴った。
「……分かりました」
二人で食堂へ向かう。
その途中、エレナは自分の頬が熱くなっていることに気づいてしまった。
◇
仕事が終わったのは、予定より少し早かった。
帰りの馬車が出るまでには、まだ時間がある。
「せっかくだ。少し街を見てから戻るか?」
アレクシスがそう言った。
「よろしいんですか?」
「視察は終わっている。問題ない」
二人は並んで街を歩いた。
王都とは違う、穏やかな町並み。
小さな店。
通りに並ぶ花。
夕方の市場から聞こえる人々の声。
エレナは時々足を止めて、小さな雑貨や菓子を眺めた。
「これ、可愛いですね」
「そうだな」
「こちらのお店も素敵です」
「……君は本当に、こういうものが好きなんだな」
「はい」
エレナは嬉しそうに笑った。
その顔を見ているだけで、アレクシスまで嬉しくなる。
気がつけば、彼女が立ち止まるたびに自分も足を止めていた。
彼女が何かを見れば、一緒に見る。
彼女が笑えば、自然と自分も笑う。
仕事中には見せない表情を、こんなにもたくさん見られることが嬉しかった。
――もっと見ていたい。
そう思った。
◇
やがて空が薄紫色に染まり始めた。
通りの店にも少しずつ明かりが灯っていく。
「……もう、こんな時間なんですね」
エレナが空を見上げる。
「そうだな」
「そろそろ戻りましょうか」
その言葉に、アレクシスは足を止めた。
エレナも数歩先で立ち止まり、振り返る。
「局長?」
アレクシスは彼女を見つめた。
帰らなければならない。
予定通りなら、それでいい。
仕事も終わった。
今日の目的も果たした。
なのに。
――まだ、帰りたくない。
もう少しだけ。
この時間が続けばいい。
アレクシスは、自分でも驚くほど素直に口を開いた。
「……もう少しだけ」
「え?」
「もう少しだけ、君と一緒にいたい」
言ってしまった。
エレナの瞳が大きくなる。
アレクシス自身も、自分の言葉に驚いていた。
けれど、撤回する気にはなれなかった。
むしろ、今さら取り繕う方が不自然な気がした。
「……だめだろうか」
いつもの冷静な局長の姿は、そこにはなかった。
エレナはしばらく何も言えなかった。
胸がいっぱいだった。
嬉しくて。
恥ずかしくて。
それ以上に――同じ気持ちだったことが、たまらなく嬉しかった。
「……いいえ」
小さく首を横に振る。
「私も……もう少し、一緒にいたいです」
アレクシスの目がわずかに見開かれる。
そして。
ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。
「……そうか」
二人はまた歩き始めた。
さっきよりも、少しだけ近い距離で。
夕暮れの街を並んで歩く。
会話は多くなかった。
それでも、不思議と心地よかった。
エレナは隣を歩く彼をそっと見上げる。
横顔が夕暮れの光に照らされている。
いつもなら少し怖く見える真剣な表情も、今は不思議なくらい優しく見えた。
――もっと一緒にいたい。
その気持ちは、自分の中にも確かにある。
今日一日が楽しかったからだけではない。
アレクシスと一緒だったから、楽しかったのだ。
そのことに気づいて、エレナは胸の奥がまた熱くなるのを感じた。
一方、アレクシスもまた、隣を歩くエレナを見ていた。
――好きだ。
やはり、どうしようもなく好きだ。
仕事ができるところも。
真面目なところも。
小さなものを見つけて嬉しそうに笑うところも。
誰かを気遣うところも。
そして今、自分の「もう少し一緒にいたい」というわがままを、嬉しそうに受け入れてくれたことも。
全部。
もっと知りたい。
もっと一緒にいたい。
もっと彼女の笑顔を見たい。
その気持ちは、もう止まりそうになかった。
やがて帰りの馬車が待つ場所が見えてくる。
「……着いてしまいましたね」
エレナが少し寂しそうに言った。
「ああ」
アレクシスも、同じ気持ちだった。
「では、また明日」
「はい。また明日、ですね」
二人はそこで別れた。
馬車に乗り込んだエレナは、窓から外を眺める。
アレクシスはまだそこに立っていた。
目が合う。
エレナは小さく微笑んだ。
アレクシスも微笑み返す。
馬車が動き出してからも、エレナはしばらく振り返っていた。
そして、胸元にそっと手を当てる。
――今日、幸せだった。
こんなふうに思える日が来るなんて、少し前の自分なら知らなかった。
一方、見送るアレクシスは。
馬車が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
そして小さく息を吐く。
「……もう少し、一緒にいたかったな」
誰にも聞かれない声で呟く。
王宮内務府・領政財務局局長、二十八歳。
仕事なら、どんな難題でも冷静に処理できる。
けれど。
好きな女性との別れ際に「もう少し一緒にいたい」と言ってしまった自分のことだけは、どうにも制御できそうになかった。
――そして、そのことが。
アレクシスには、少しだけ嬉しかった。




