第20話 無自覚な恋の始まり
翌朝。
アレクシスはいつもより早く王宮へ来ていた。
理由はない。
……いや。
ある。
昨日のことが、頭から離れないのだ。
カフェで笑っていたエレナ。
店の中で、嬉しそうに小物を眺めていたエレナ。
そして。
『また、行かないか?』
自分がそう言った時の、彼女の顔。
「……」
アレクシスは執務机に座ったまま、目を閉じた。
思い出すだけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……仕事をしよう」
そう呟いて、書類を手に取った。
そして三十分後。
今日の予定分の仕事を、すべて終えていた。
「……」
アレクシスは時計を見る。
まだ始業時間にもなっていない。
「……早すぎるな」
自分で呆れた。
◇
一方。
エレナもまた。
自室の鏡の前で、いつも以上に身支度に時間をかけていた。
髪をまとめる。
眼鏡をかける。
服装を確認する。
いつもと同じ。
何も変わっていない。
「……大丈夫」
そう言い聞かせる。
昨日は楽しかった。
ただ、それだけ。
局長と休日に出かけただけ。
仕事の時とは違う姿を見ることができて。
たくさん話して。
また行こうと言ってもらえて。
「……」
そこまで考えて。
エレナは頬を押さえた。
「……どうして、こんなに嬉しいんだろう」
答えは出ない。
けれど。
昨日のことを思い出すと、自然に笑顔になってしまう。
「……行ってきます」
誰もいない部屋にそう告げて、エレナは王宮へ向かった。
◇
「おはようございます、局長」
「……おはよう、エレナ嬢」
顔を合わせた瞬間。
二人とも、ほんの一瞬だけ止まった。
昨日とは違う。
今日はいつもの王宮。
いつもの職場。
いつもの上司と部下。
なのに。
「……」
「……」
なぜか。
妙に気まずい。
「……昨日は」
アレクシスが口を開いた。
「はい」
「……いや」
何を言うつもりだった。
昨日は楽しかった、とでも言うのか。
そんなことを今ここで言ったら。
自分がどれだけ昨日を意識していると思われる。
「……今日もよろしく頼む」
「……はい。よろしくお願いいたします」
それだけ。
二人はそれぞれの席へ戻った。
――しかし。
エレナは自分の席に座りながら思った。
昨日はもっと普通に話せたのに。
どうして今日は、こんなに緊張するのだろう。
◇
「エレナ嬢、この資料を」
「はい」
アレクシスが書類を差し出す。
受け取るために手を伸ばす。
指先が。
ほんの少しだけ触れた。
「……っ」
「……」
二人とも固まった。
「……失礼しました」
「いや……こちらこそ」
何も失礼なことなどしていない。
ただ指が触れただけだ。
なのに。
エレナの心臓は、驚くほど大きく鳴った。
アレクシスも同じだった。
――昨日、一日中隣にいたのに。
手が触れただけで、なぜこんなに意識する。
アレクシスは視線を資料へ戻した。
「……確認を頼む」
「はい」
二人とも。
その後しばらく、まともに顔を見られなかった。
◇
昼休み。
エレナが同僚たちと昼食を取っていると。
「そういえばエレナ嬢」
同僚が何気なく尋ねた。
「昨日はお休みでしたよね。どこか行かれたんですか?」
「えっ」
エレナの手が止まる。
「……はい。少し出かけていました」
「へえ。どちらへ?」
「えっと……」
答えようとして。
ふと、向こうの席を見る。
アレクシスが昼食を取っている。
こちらを見ている。
目が合った。
エレナは慌てて視線を逸らした。
「……王都の店を少し」
「一人で?」
「……」
どう答えよう。
まさか。
局長と二人で、とは言いづらい。
「……知人と」
「そうなんですね」
同僚はそれ以上追及しなかった。
けれど。
少し離れた席で、その会話を聞いていたアレクシスは。
「……知人」
小さく呟いた。
なぜだろう。
少しだけ寂しい。
昨日一緒にいたのは自分なのに。
――知人。
確かに。
今の自分たちは、まだその程度の関係なのだろう。
そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
◇
午後。
仕事は順調だった。
恐ろしいほどに。
「局長、こちらの処理ですが――」
「確認済みだ」
「こちらの予算案は?」
「修正しておいた」
「この報告書は――」
「問題ない。承認しておく」
「……」
部下たちは顔を見合わせた。
「今日の局長、いつも以上に仕事が速くないですか?」
「確かに……」
当の本人は。
ただ一刻も早く仕事を終わらせたかった。
そして。
エレナと話したかった。
昨日のことを。
また楽しかったと伝えたかった。
けれど。
いざ彼女の前に立つと。
「……」
言葉が出てこない。
「局長?」
「……何でもない」
結局、それだけだった。
◇
そして帰り際。
エレナが書類を整理していると。
「エレナ嬢」
「はい?」
「……昨日は」
「……はい」
二人とも。
同時に昨日を思い出した。
雑貨店。
カフェ。
夕暮れの街。
そして。
「……楽しかったな」
アレクシスが、ぽつりと言った。
エレナの胸が跳ねる。
「……はい」
「私も、楽しかった」
「……私もです」
二人の間に、静かな時間が流れる。
アレクシスは少しだけ迷って。
「……また、誘ってもいいだろうか」
エレナは顔を上げた。
その瞳が、ほんの少しだけ嬉しそうに揺れる。
「……はい」
小さな声だった。
けれど。
アレクシスには、それで十分だった。
「では……また誘う」
「はい」
それだけ言って、アレクシスは自分の執務室へ戻っていった。
扉を閉める。
「…………」
そして。
誰もいないことを確認して。
「……よし」
小さく拳を握った。
一方。
自分の席に戻ったエレナも。
「…………」
両手で頬を包む。
「……また、誘ってもらえるんだ」
自然に。
口元が緩んだ。
その笑顔を見ていた同僚が。
「エレナ嬢?」
「は、はい!」
「……何かいいことありました?」
「……え?」
エレナは慌てて眼鏡を直した。
「い、いえ。何もありません」
「そうですか?」
「はい」
そう答えながら。
胸の奥では。
――次は、どこへ行くのだろう。
そんなことを考えていた。
そして同じ頃。
執務室ではアレクシスが。
――次はどこへ連れて行こう。
と真剣に悩んでいた。
二人とも。
まだ、それが恋だとは。
完全には認めていなかった。




