第18話 デートの誘い
次の休日。
アレクシスは、朝から落ち着かなかった。
仕事ならば、どれほど難しい案件でも問題ない。
膨大な資料を整理することも、複雑な税収計算を確認することも、複数の領地から上がってきた報告書を一つずつ精査することも、彼にとっては苦ではなかった。
けれど。
「……一緒に出かけないか、か」
執務室で一人、アレクシスは小さく呟いた。
昨日から何度、この言葉を頭の中で繰り返しただろう。
誘えばいい。
ただ、それだけのことだ。
そう思うのに。
「……難しいな」
思わずため息が漏れる。
部下が見ていたら、きっと驚いただろう。
いつもなら、何事にも動じない局長が、休日の朝から一人で悩んでいるのだから。
そもそも、部下を休日に誘うということ自体、問題がないのか。
上司と部下だ。
断りにくいと思われるかもしれない。
迷惑かもしれない。
そう考えると、なかなか一歩を踏み出せない。
しかし。
――もっと、君のことを知りたい。
そう思ったのも事実だった。
仕事中だけでは、知ることのできないエレナを知りたい。
休日には何をしているのか。
何が好きなのか。
どんな店に行くのか。
何を見て、どんな時に笑うのか。
考えれば考えるほど、知りたいことが増えていく。
「……これは、もう仕方がないな」
アレクシスは腹を括った。
次に出勤したら、誘おう。
そう決めた。
――決めたはずだった。
◇
「おはようございます、局長」
「……お、おはよう」
翌朝。
いつものようにエレナが挨拶をすると、アレクシスは一瞬だけ固まった。
柔らかな金色の髪はきっちりとまとめられ、眼鏡の奥の瞳がこちらを見ている。
いつもと変わらない姿。
なのに。
今日は、やけに可愛く見える。
「……」
「局長?」
「いや、何でもない」
危ない。
今、見惚れていた。
アレクシスは何事もなかったように自分の席へ向かった。
そして仕事を始める。
午前中の会議。
領地から届いた報告書の確認。
予算案の修正。
税収の集計。
すべて滞りなく進んだ。
むしろ、いつもより早い。
「局長、こちらの確認は終わりましたか?」
「ああ。先ほど終わった」
「……もうですか?」
「問題があった箇所には印をつけてある。確認しておいてくれ」
「はい……」
部下が資料を受け取って去っていく。
アレクシスは時計を見る。
昼まで、あと少し。
――今だろうか。
いや、昼休みの方がいい。
だが、昼休みは人目がある。
では、帰り際か。
しかし、帰り際では断りにくいかもしれない。
そんなことを考えているうちに。
「局長?」
「……何だ?」
「先ほどから、時計をよくご覧になっていますが」
「…………」
しまった。
「昼食の時間を確認していただけだ」
「そうでしたか」
部下は何の疑いもなく去っていった。
アレクシスは小さく息を吐く。
――仕事なら、こんなことは考えないのに。
◇
そして昼休み。
エレナが席を立った。
その瞬間。
「エレナ嬢」
「はい?」
アレクシスは反射的に呼び止めた。
しまった。
早すぎた。
だが、もう遅い。
「少し……時間をもらえるだろうか」
「はい。もちろんです」
エレナは素直に席へ戻ってきた。
アレクシスは一度、息を整えた。
そして。
「次の休日だが――」
「はい」
「……もし、予定がなければ」
「はい」
「……その……」
言葉が出てこない。
エレナが不思議そうに首を傾げる。
眼鏡が少しずれた。
それを見た瞬間、先日のことを思い出してしまう。
近くで見た瞳。
長い睫毛。
頬が少し赤くなっていたこと。
「……局長?」
「……いや」
何を考えている。
今は誘うことだけに集中しろ。
アレクシスは意を決した。
「次の休日、もし時間があるなら……」
一度、言葉を切る。
「私と、一緒に出かけないか?」
言えた。
言ってしまった。
アレクシスは平静を装ってエレナを見る。
しかし、内心ではものすごい勢いで心臓が鳴っていた。
エレナは目を瞬かせている。
「……私と、ですか?」
「ああ」
「……どこへ?」
「それは……」
アレクシスは少し考えた。
「君の好きな店などを、教えてもらえたらと思っている」
「私の好きな店……?」
「ああ」
エレナの表情が、ほんの少し明るくなる。
「……でしたら」
その顔を見て、アレクシスの緊張が少しだけ解けた。
「はい。ぜひ、ご一緒させてください」
「……本当か?」
「はい」
エレナが微笑む。
その笑顔を見た瞬間。
アレクシスは思った。
――誘ってよかった。
本当に、それだけだった。
なのに。
胸の奥が、妙に温かい。
「では、休日の朝に迎えに行こう」
「えっ?」
「……いや」
言ってから気づいた。
それではまるで――。
「いや、もちろん。都合が悪ければ、現地で待ち合わせでも構わない」
「いえ……」
エレナは少し考えてから、微笑んだ。
「迎えに来ていただけるのでしたら、その方が助かります」
「……そうか」
アレクシスは頷いた。
表情はいつも通り。
声もいつも通り。
完璧だった。
ただし。
心の中では。
――休日に、エレナと二人で出かける。
その事実だけが、何度も何度も繰り返されていた。
◇
その日の仕事は、驚くほど順調に進んだ。
「局長、今日は随分と機嫌がよろしいですね」
部下にそう言われても。
「そうか?」
本人には、その自覚がまったくなかった。
むしろ。
いつもより集中して仕事を片付けた結果、予定よりかなり早く一日の仕事が終わっていた。
アレクシスは最後の書類に目を通しながら思う。
――休日。
エレナと二人。
どんな服で来るのだろう。
いつもの眼鏡は、もちろんかけているだろう。
……いや。
以前、休日に見かけた彼女は。
眼鏡を外していた。
長い髪を下ろして。
いつもとは全く違う姿だった。
「……」
アレクシスはしばらく黙った。
そして。
「……楽しみだな」
ぽつりと呟いた。
その顔には、本人も気づかないほどの柔らかな笑みが浮かんでいた。




