第16話 知らない男
その日の午後。
エレナは、いつものように仕事を終え、王宮を出た。
今日は珍しく、兄から手紙が届いていた。
――久しぶりに王都へ行く用事がある。時間があれば、少し会わないか。
そんな短い内容だった。
兄と会うのは久しぶりだ。
エレナは少し嬉しくなり、指定された王都のカフェへ向かった。
店に入ると、すぐに見慣れた姿を見つけた。
「お兄様!」
「エレナ」
兄は立ち上がると、柔らかく笑った。
「元気そうだな」
「はい。お兄様もお元気そうで安心しました」
二人は向かい合って席についた。
近況を話したり、実家のことを聞いたり。
久しぶりの兄との時間は、エレナにとって心地よいものだった。
――その頃。
王宮からの帰り道、アレクシスは馬車の窓から街を眺めていた。
今日は仕事が早く片付いた。
いつもならそのまま屋敷へ戻るところだったが、ふと、以前エレナを見かけた街の通りが目に入った。
なんとなく視線を向ける。
そして。
「……?」
見覚えのある金色の髪が見えた。
長い髪を下ろした、あの姿。
――エレナ?
反射的にそう思った。
だが、今日は眼鏡をかけている。
休日の姿ではない。
誰かと一緒にいるようだった。
アレクシスは、何気なく視線を向ける。
隣にいるのは――男。
「……」
馬車がゆっくりと通り過ぎる。
ほんの一瞬だったが、アレクシスには十分だった。
エレナが、その男性に向かって笑っている。
仕事中にはあまり見ない、柔らかな笑顔。
アレクシスの胸に、妙なざわつきが広がった。
――誰だ?
その問いが、頭から離れない。
「……」
気づけば、馬車を止めていた。
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
ただ、少しだけ確認したかった。
それだけだ。
アレクシスは店の外から、二人の様子を眺めた。
男はエレナと親しげに話している。
エレナも楽しそうだ。
「……」
胸の奥が、またざわついた。
婚約者だろうか。
それとも――
恋人?
そう考えた瞬間。
アレクシスの眉間に、わずかに皺が寄った。
「……いや」
何を考えている。
私は、彼女の上司だ。
エレナに誰と会う自由があるかなど、自分が気にすることではない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど。
足は、なかなかその場を離れようとしなかった。
やがて、二人が店を出る。
エレナは男性と並んで歩きながら、楽しそうに話していた。
その表情は、職場で見せるものとは少し違う。
柔らかくて、親しげで。
アレクシスは、思わず目を細めた。
「……誰なんだ」
知らない男。
エレナがあんなふうに笑いかける相手。
胸の奥が、妙にざわつく。
婚約者なのだろうか。
それとも――恋人?
そう考えた瞬間、アレクシスの眉間に皺が寄った。
「……いや」
自分はいったい何を考えている。
エレナに誰と会う自由があるかなど、自分が気にすることではない。
そう思うのに。
なぜか、その場から目を離せなかった。
男性がエレナの頭を軽く撫でる。
「……!」
アレクシスの表情が固まった。
次の瞬間。
「……帰ろう」
自分に言い聞かせるように呟き、馬車へ戻った。
だが。
馬車が動き出しても、頭からあの男の姿が離れない。
エレナの隣にいた、知らない男。
彼女があんなに親しげに話す、知らない男。
そしてこの焦燥感は一体なんなんだ。
この焦燥感の正体がなんなのかアレクシスにはまだ分からない。
そして今度は別の感情が押し寄せてきた。
「……私は、何をしていたんだ」
自分でも呆れてしまう。
エレナに男性の知り合いがいただけで、勝手に動揺して。
しかも、わざわざ確認しに来てしまった。
アレクシスは額に手を当てた。
仕事なら、どんな問題でも冷静に処理できる。
数字の間違いも。
予算の調整も。
難しい交渉も。
何一つ迷わない。
なのに。
エレナのことになると、どうにも調子が狂う。
「……困ったものだな」
そう呟いたアレクシスの顔には、ほんの少しだけ苦笑が浮かんでいた。
翌日。
「おはようございます、局長」
「……ああ。おはよう、エレナ嬢」
いつも通りの朝。
エレナは自分の席へ向かおうとした。
すると、アレクシスがふと口を開く。
「……昨日」
「はい?」
「いや……」
一瞬、言葉に詰まる。
聞いてしまえばいい。
昨日、一緒にいた男性は誰だったのか。
そう思った。
だが。
そんなことを聞く理由を、自分はどう説明する?
「……何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
エレナは不思議そうに首を傾げた。
その仕草を見て、アレクシスはまた思う。
もっと彼女のことを知りたい。
家族のことも。
好きなものも。
休日に何をしているのかも。
そして――
彼女にとって、自分はどんな存在なのか。
けれど、その問いを口にするには。
アレクシスは、まだ少しだけ勇気が足りなかった。




