第15話 近すぎる距離
翌朝。
エレナはいつものように、髪をきっちりとまとめ、眼鏡をかけて出勤した。
王宮内務府・領政財務局。
執務室に入ると、すでに何人かの文官が仕事を始めている。
「おはようございます」
声をかけながら自分の席へ向かう。
その途中、いつものように局長室の前を通った。
「おはようございます、局長」
「ああ。おはよう」
アレクシスは書類から顔を上げ、いつも通り淡々と返した。
……いつも通り。
それなのに、最近のエレナには、その声を聞くだけで少しだけ緊張してしまう。
先日の言葉が、まだ胸に残っていた。
『君が頑張っていることくらい、分かっている』
思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。
「……いけない」
小さく呟いて、エレナは自分の席についた。
今日は仕事に集中しよう。
そう思って、書類を手に取る。
ところが。
しばらくして、エレナは小さな違和感を覚えた。
眼鏡が、少しずれている。
朝、急いでいたせいだろうか。
右側だけ、ほんの少し下がっている。
「……まあ、このくらいなら」
そう思って、そのまま仕事を続けた。
だが――
「エレナ嬢」
「はい?」
呼ばれて顔を上げる。
そこにはアレクシスが立っていた。
「この資料だが――」
彼は手にしていた書類を机の上に置いた。
「先ほど確認した箇所について、少し――」
「はい。確認いたします」
エレナが書類を受け取ろうとした、そのときだった。
「……」
アレクシスの視線が、ふと彼女の顔に止まった。
「?」
「……眼鏡が」
「え?」
「少し、ずれている」
「あ……」
言われて初めて気づいた。
エレナが慌てて眼鏡に手を伸ばそうとすると――
「……動かないで」
「え?」
アレクシスの手が伸びてきた。
長い指が、眼鏡のフレームに触れる。
「……っ」
エレナの身体が固まった。
近い。
思っていたより、ずっと。
アレクシスは、ほんの少し眉を寄せながら眼鏡の位置を直している。
その表情は真剣そのもの。
けれどエレナには、それどころではなかった。
近くで見ると、アレクシスの瞳は思っていたよりずっと綺麗だった。
そして――
ほのかに、落ち着いた香りがする。
「……これでいい」
「……あ」
ようやく手が離れた。
エレナは思わず瞬きをする。
「ありがとうございます……」
「いや」
アレクシスも一歩下がった。
そして、なぜか視線を逸らす。
「……仕事に戻ろう」
「は、はい」
エレナも慌てて書類へ視線を落とした。
だが。
文字が、頭に入ってこない。
さっきまでアレクシスの指が触れていた眼鏡のフレームが、妙に気になる。
頬が熱い。
どうしてだろう。
ただ眼鏡を直してもらっただけなのに。
一方のアレクシスも、自分の席へ戻ったものの、手にした書類に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
先ほど触れた眼鏡。
その向こうにあったエレナの瞳。
驚いたように見開かれた目。
そして、ほんのり赤くなった頬。
「……」
アレクシスは小さく息を吐いた。
仕事に集中しなければ。
そう思うのに。
先ほどの距離が、頭から離れない。
近かった。
あまりにも。
しかも、自分から近づいた。
「……私は何をしているんだ」
小さく呟く。
けれど、その口元には――
ほんのわずかに、柔らかな笑みが浮かんでいた。
エレナもまた、自分の席で眼鏡をそっと押し上げる。
そして、誰にも気づかれないように小さく息を吐いた。
「……近かった……」
胸が、まだ少しだけ騒がしい。
仕事中だというのに。
どうしてこんなにも、あの人のことが気になってしまうのだろう。
その答えを、エレナはまだ知らなかった。




