第14話 気になる視線
その日の朝。
エレナは、少しだけ気が重かった。
昨日、自分が担当した領地から届いた報告書に、一か所だけ数字の間違いが見つかったのだ。
大きな問題ではない。
すぐに訂正できる程度のものだった。
けれど。
「……確認が足りなかったな」
自分の席で書類を見つめながら、エレナは小さく息を吐いた。
入庁してから、仕事で迷惑をかけないように。
一日でも早く、一人前の文官として認めてもらえるように。
そう思って、ずっと努力してきた。
だからこそ、小さなミスでも悔しかった。
「エレナ嬢」
「はい」
顔を上げると、アレクシスが立っていた。
「この報告書だが」
「……はい」
エレナは少し緊張する。
「昨日の確認について、君が担当した部分だな」
「申し訳ありません」
反射的に頭を下げる。
「すぐに訂正を――」
「待て」
アレクシスの声は、いつもより少し柔らかかった。
「これは君だけの確認不足ではない」
「え?」
「前年度の資料自体に記載の揺れがある。照合する際に見落としやすい箇所だ」
アレクシスは、該当する部分を指で示した。
「私でも一度は見直す」
「……」
「だから、必要以上に気にするな」
エレナは黙って資料を見つめた。
「……はい」
「それから」
アレクシスはもう一枚の書類を差し出した。
「昨日、君が確認してくれた別の領地の資料だ」
「はい」
「非常に正確だった。特に、この部分」
指先が、細かな数字の並んだ箇所を示す。
「前年度との比較だけでは分からない変化を、よく見つけたな」
「……ありがとうございます」
「君が見つけてくれたおかげで、早い段階で対応できる」
淡々とした言葉だった。
けれど。
エレナの胸には、その一言一言が深く残った。
「……局長」
「何だ?」
「私の仕事を、ちゃんと見てくださっていたんですね」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
まるで、自分が褒めてほしかったようではないか。
けれどアレクシスは、少しも笑わなかった。
「ああ」
短く答える。
「君が頑張っていることくらい、分かっている」
「……」
胸の奥が、きゅっと締まった。
嬉しい。
ただ褒められたからではない。
自分が一生懸命やっていたことを、この人が見ていてくれた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「ありがとうございます」
エレナは笑った。
アレクシスは、その笑顔を見つめる。
――よかった。
昨日から少し元気がないように見えていた。
本人は何も言わなかったが、やはり気にしていたらしい。
少しでも気持ちが軽くなったのなら、それでいい。
「では、訂正を進めよう」
「はい」
アレクシスが離れていく。
エレナはその背中を見送った。
そして、胸元に手を当てる。
まだ、胸の奥が温かい。
以前なら、上司に仕事を褒められたから嬉しいのだと思っただろう。
もちろん、それもある。
けれど。
それだけではないような気がした。
アレクシスに認めてもらえると、嬉しい。
アレクシスに気づいてもらえると、嬉しい。
そして――
自分のことを、もっと知ってもらいたいと思う。
「……」
エレナは、ふと顔を上げた。
少し離れたところで、アレクシスが部下と話している。
真剣な横顔。
落ち着いた声。
仕事をする姿は、やっぱりいつもの局長だ。
なのに。
昨日見た、子どもに向けた柔らかな笑顔を思い出してしまう。
そして今朝、自分に向けてくれた優しい声も。
「……また、見てる」
思わず小さく呟いた。
最近、自分はよく彼を目で追っている。
どうしてだろう。
以前は、そんなことなかったのに。
エレナは慌てて視線を資料へ戻した。
けれど。
口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
その様子を、少し離れたところから見ていたアレクシスが気づいていたことを、エレナは知らない。
そしてアレクシスは。
――今日は、少し嬉しそうだな。
そう思いながら、密かに安堵していた。




