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全裸のデッサンモデル――「私、玲奈さんには、ちゃんと見てもらいたいんです」

「無理だと思ったら、始まる前でもやめていいですからね」


美術大学へ向かう電車の中で、玲奈はそう言った。


「それ、今日何度目ですか?」


美咲は笑おうとしたが、声が少し硬かった。


玲奈が紹介したのは、知り合いの女性教授が担当する、美術大学の人物デッサンの授業だった。


玲奈は事前に、モデル未経験の知人が一度やってみたがっていることと、身元を知られたくないため仮面を着けたいことを教授に相談していた。


教授は事情を聞いたうえで、それを了承してくれた。


美咲が人に見られることを望んでいることも、その視線に身体が反応してしまうことも、話してはいない。


「やめたくなったら、決めた合図を出してください。玲奈さんは後ろにいて、ちゃんと見ていてください」


「分かりました」


「途中で目をそらさないでくださいね」


玲奈は美咲を見た。


「そらしません。最初から最後まで見ています」


美咲は窓の外へ目を向けた。


見ていてほしい。

そう頼んだのは自分だった。


それなのに、今日初めて玲奈に見られる場所のことを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。


大学の実習室には、木製のイーゼルが半円状に並んでいた。


集まった学生は十数人。男女は半数ずつほどだった。


雑談していた声は、教授が美咲を紹介すると自然に静まった。


挿絵(By みてみん)


控室で、教授は改めて説明した。


「人物デッサンですから、身体は一部だけでなく、女性器を含めてすべて見られることになります。ただし、ここではあくまで造形を学ぶための対象です。撮影、録音、モデルへの接触は禁止。体調が悪くなった場合は、すぐに中止します」


美咲は仮面を手にしたまま、その言葉を聞いた。


すべて見られる。


わかっていたはずなのに、他人の口から明確に告げられると、言葉が身体の内側に沈んでいくようだった。


おしりは、玲奈に綺麗だと言ってもらったことがある。


けれど、胸とあそこは違う。


玲奈には、まだ見てもらったことがない。


色は。

形は。


綺麗ではないと思われたらどうしよう。


そのことを考え始めると、十数人の学生に見られることより、玲奈に見られることの方が怖くなった。


教授が先に実習室へ戻り、扉が閉まった。


二人だけになった控室で、美咲は衣服を脱いだ。


最後の一枚を外したとき、肌に触れる空気が急に冷たくなった。


玲奈は白いバスローブを広げ、美咲の肩へ掛けた。


美咲は前を合わせながら、玲奈を見た。


「……お願いします」


玲奈は静かに頷いた。


美咲は仮面を着けた。


扉を開けると、バスローブ姿の美咲へ十数人の視線が一斉に集まった。


モデル台へ上がる。


教授の合図で、美咲はバスローブの紐を解いた。


布が肩から落ちる。


室内が静まった。


十数人の視線が、一斉に美咲の身体へ向く。


美咲は教室の後ろを見た。


玲奈と目が合った。


頬が熱くなる。


学生たちに見られるのとは、まるで違う恥ずかしさだった。


それでも、美咲は目をそらさなかった。


挿絵(By みてみん)


美咲は最初の姿勢を取った。


片脚へ重心を置いた立ち姿。


続いて椅子に腰掛け、上半身をひねる姿勢。


挿絵(By みてみん)


腕を上げた姿勢では、普段は衣服に守られている脇や胸の下まで、何の遮りもなくさらされた。


鉛筆が紙を走る音が、部屋を満たしていく。


学生たちは、美咲の身体を見ている。


そして、それぞれの紙の上へ残している。


最初は逃げ出したいほど激しく鳴っていた心臓も、時間が経つにつれて別の高鳴りに変わった。


誰にも名前を知られないまま、全身だけを見られている。


仮面の下で、美咲はその感覚へ少しずつ身を委ねていった。


開始から二十分ほどが過ぎたところで、教授が最後の長いポーズを指定した。


美咲はモデル台へ低く身を置き、両手と膝で身体を支えた。


上半身を前へ傾け、学生たちに背中を向けながら、腰だけを斜めにひねる。


「負担があれば、すぐに言ってください」


教授に確認され、美咲は頷いた。


背中から腰、臀部、脚へ続く線。


それだけではない。


見る角度によっては、普段なら決して人に見せないところまで学生たちの視線に入る。


美咲には、それが分かっていた。


それでも、その姿勢を崩さなかった。


挿絵(By みてみん)


鉛筆の音が、また一斉に始まった。


美咲は姿勢を保ったまま、じっとしていた。


時間が経つにつれて、身体の熱が少しずつ増していく。


さっきまでとは違う。


美咲自身にも、それが分かった。


そのとき、背後から小さな声が聞こえた。


「今、動いたよね」


「寒いのかな」


少し間があった。


「でも、あれ……この人、感じちゃってるんじゃない?」


美咲の頬が一気に熱くなった。


聞こえていた。


自分の変化が、もう自分だけのものではなくなっている。


見られている。


しかも、その変化まで気づかれているかもしれない。


美咲は動けないまま、目の前の床を見つめた。


もし、今の自分まで描かれているとしたら。


最初の一枚とは違う。


見られるうちに火照り、少しずつ変わっていった身体が、そのまま紙の上に残っていく。


そう考えた瞬間、恥ずかしさがさらに強くなった。


けれど、恥ずかしいだけではなかった。


男の学生たちは、今の自分をどう見ているのだろう。


女の学生たちは、もう気づいているのではないか。


教授にも、きっと分かってしまっている。


裸体を描かれるうちに高揚し、それを隠しきれなくなるようなモデルなんて、もう二度と呼ばれないかもしれない。


そんな考えが次々と浮かぶ。


それなのに、美咲はもっと見てもらいたかった。


平静だった最初の自分ではなく、見られるうちに火照り、変わってしまった今の自分を。


その変化ごと、十数人の目に見つけてもらいたかった。


紙の上に残してもらいたかった。


顔だって同じだった。


仮面で隠れていても、頬の火照りまでは隠せない。


最初は緊張で固かった口元も、今は少し力が抜けている。


呼吸に合わせて、唇の形まで微妙に変わっていた。


もし学生たちがそこまで見ているなら、紙に残るのは身体だけではない。


火照った頬も。

緩んだ表情も。


隠そうとして隠しきれない今の自分も。


それぞれの鉛筆が、少しずつ違う美咲を残していく。


「そこまでです」


教授の声と同時に、鉛筆の音が止まった。


美咲はすぐには動けなかった。


終わった。


十数人の前で、最後まで裸のままポーズを取り続けた。


背後で、鉛筆を置く音が次々とした。


自分には見えない。


けれど、あの画板の向こうには、今の自分を描いた十数枚の紙がある。


裸で身体を開き、見られるうちに頬を火照らせ、いつの間にか官能の色を帯びた表情になっていた女。


そんな自分が、十数人それぞれの目を通して、少しずつ違う形で紙の上に残っている。


そのことを考えていると、背中にやわらかな布が触れた。


玲奈が後ろから、バスローブをそっと羽織らせてくれていた。


美咲は振り返った。


玲奈は何も言わず、バスローブの前を整えてくれた。


挿絵(By みてみん)


そのまま二人で控室へ戻る。


扉が閉まると、教室のざわめきが遠のいた。


「お疲れさまです。疲れたでしょう」


玲奈の声を聞いて、美咲はようやく肩の力を抜いた。


しばらく黙ったあと、バスローブの前を押さえたまま玲奈を見る。


「……玲奈さん」


「はい」


「ずっと、見ていてくれました?」


「ええ」


美咲は一度目を伏せた。


「途中から……私が変わっていったのも?」


玲奈は少しだけ間を置いた。


「見ていました」


美咲の指が、バスローブの合わせ目をきゅっと掴む。


「……そうですか」


困ったように笑って、それから顔を上げた。


「私、玲奈さんには、ちゃんと見てもらいたいんです」


玲奈は黙って、美咲の次の言葉を待った。


「一部分じゃなくて」


美咲はそこで一度言葉を切った。


「全部」


そして、少し照れたように続けた。


「今日、それが分かりました」


美咲はバスローブを肩から落とした。


今度は、誰かに見られるためではない。


自分から、玲奈に見せるためだった。


玲奈はすぐには何も言わなかった。


美咲の正面に立ったまま、まず顔を見た。


それから視線をゆっくり下ろしていく。


肩。

胸。

腰。

脚。


美咲は少し緊張したまま、それでも隠そうとはしなかった。


視線が自分の身体を辿っていく時間が、思っていたより長く感じられる。


玲奈が静かに言った。


「後ろを向いてください」


美咲は黙って背を向けた。


今度は、背中から腰へ、さらにその下へと、玲奈の視線がゆっくり移っていくのが分かった。


美咲は腕を身体の横に下ろしたまま、じっと立っていた。


「もう一度、こちらを向いてください」


美咲が振り返る。


玲奈はもう一度、正面から美咲を見た。


今度は先ほどより短く、それでも確かめるように。


最後に目が合った。


「全部、綺麗ですよ。美咲さん」


玲奈の言葉を聞いた途端、美咲の顔がくしゃっと崩れた。


「……よかった」


声にしたのは、それだけだった。


ずっと胸の奥に引っかかっていたものが、ようやくほどけた。


美咲は笑おうとした。


けれど、先に涙がこぼれた。


玲奈は何も尋ねなかった。


一歩近づくと、そのまま美咲を抱きしめた。


美咲も、しばらくしてから玲奈の背中に腕を回した。


挿絵(By みてみん)

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