SMバー――何人もの前で、裸になる私
夜の街を歩きながら、美咲はバッグの中のチケットを何度も意識していた。
玲奈から渡された、二枚の招待券。
「先輩、ちょっと緊張してます?」
隣を歩く奈緒が、美咲の顔を覗き込む。
「そりゃするよ。SMバーなんて行ったことないもの」
「私もないですよ」
「奈緒ちゃんは楽しそうじゃない」
「だって、面白そうじゃないですか」
奈緒はそう言って笑った。
店は大通りから一本入った場所にあった。
派手な看板はなく、黒い壁に小さく店名だけが浮かんでいる。
美咲は足を止めた。
「……ここ?」
「みたいですね」
奈緒が先に扉を開けた。
中へ入ると、美咲が想像していたより店内は落ち着いていた。
客は二十人ほど。男性の方が明らかに多く、七割くらいを占めている。
奥には、客席のどこからでも見渡せるステージが設けられていた。黒い床には革張りのベンチとフレームが置かれ、壁にはチェーンやカフが吊られている。黒いカーテンと赤みを帯びた照明のせいで、そこだけが別の空間のように浮かんでいた。
「こんばんは。来てくださったんですね」
聞き覚えのある声に、美咲が振り向く。
「玲奈さん」
声が少し弾んだ。
玲奈の隣には、もう一人女性が立っていた。
玲奈より少し年上だろうか。長い髪には緩いウェーブがかかり、身体つきにも柔らかな丸みがある。穏やかに笑っているだけで、少なくとも美咲には、この店のオーナーには見えなかった。
「こちら、紗希さんです。このお店のオーナーなんです」
「はじめまして。紗希です」
「美咲です。こっちは奈緒ちゃん」
奈緒も頭を下げる。
「こんばんは」
紗希は二人を見て笑った。
「さぁ、こちらへ。せっかく来てくれたんだから、今日は私にご馳走させて」
「そんな、悪いです」
「いいの、気にしないで」
案内されたのは、ステージに向いた半円形のテーブルだった。
玲奈、美咲、奈緒、紗希の順に腰を下ろす。
飲み物が運ばれてくると、奈緒が紗希に尋ねた。
「このお店、いつからやってるんですか?」
「もう長いわよ。最初はもっと小さかったんだけどね」
「玲奈さんも、よく来るんですか?」
「ときどき」
玲奈の返事は短い。
紗希はグラスを置き、奈緒へ目を向けた。
「奈緒ちゃんって、男性と女性、どっちが好きなの?」
「え、急ですね」
奈緒が笑う。
「別に、どっちって決めてないです」
「そうなんだ」
「先輩は、とにかく可愛い人なんです」
「ちょっと、何それ」
「ほんとじゃないですか」
紗希が美咲と奈緒を交互に見る。
「美咲ちゃんのこと、可愛いからつい困らせたくなるの?」
「まあ……それは、あります」
玲奈が静かに口を挟んだ。
「この前も、試着室で美咲さんの水着、わざとずらしてましたよね」
「玲奈さん、それ言います?」
「あら、そんなことしてたの?」
「ちょっとだけです」
「全然ちょっとじゃなかったでしょう」
美咲がすぐに返すと、奈緒が笑った。
「ほかにもあるの?」
奈緒は少し考えてから答えた。
「テーマパークで先輩におしっこ漏らさせちゃったり、透ける水着でYOGAさせたり、アダルトショップで恥ずかしいことさせたり、ホテルでほかのお客さんに先輩の恥ずかしい姿を見てもらったり」
「奈緒ちゃん」
「だって聞かれたから」
紗希が思わず笑った。
「へえ。いろいろすごいことしてるのね」
「先輩、困ってるときすごく可愛いんですよ」
「もう」
美咲はグラスへ手を伸ばした。
紗希は奈緒を見ながら首を傾ける。
「でもね、そういうのって、自分がしてほしいことを相手にやってる場合もあるのよ」
「それは違います」
奈緒の返事は早かった。
紗希が笑う。
奈緒は一度だけ視線を落とした。
「……ないとは言わないですけど」
「え?」
美咲が奈緒を見る。
奈緒は肩をすくめた。
紗希はステージへ目を向ける。
「でも、まあ……試してみないと分からないわよね」
そして奈緒を見た。
「ここで試してみる?」
奈緒もステージを見る。
しばらくして、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……ちょっと面白そう」
「奈緒ちゃん、本気?」
「やってみたいです、私」
紗希がグラスを置いた。
「じゃあ、行きましょうか」
奈緒が立ち上がる。
紗希と並んで歩いていく奈緒を、美咲は黙って見送った。
やがて店内の照明が落ち、ステージだけが鮮明に浮かび上がった。
「これより、お客様ご志願による、当店独自のショーを開始いたします。お席でお飲み物をお楽しみいただきながら、どうぞステージをご覧ください」
黒いカーテンが開いた。
先に姿を現した紗希は、先ほどとはまるで印象が違っていた。
艶のある黒い衣装が身体にぴたりと沿い、胸の丸みとくびれた腰の線をはっきり浮かび上がらせている。裾は短く、すらりと伸びた脚が大きく露出していた。細いヒールを履いた姿は、席で笑っていたときよりずっと艶っぽく見える。
それでも表情だけは、席で話していたときと変わらない。
穏やかに微笑んでいる。
その手には、一本のリードが握られていた。
リードの先から、四つん這いになった一人の女性がゆっくりと姿を現す。
「……奈緒ちゃん」
ブラウスもスカートも、店へ来たときのままだった。
けれど目には黒い目隠し。口元には口枷。そして首には細い首輪がつけられ、そこから紗希の持つリードが伸びている。
それだけで、美咲には奈緒がまるで別人に見えた。
紗希が客席へ笑いかける。
「今夜は、自分からステージに上がってくれた可愛い子猫ちゃんです」
拍手が起こった。
「この子、普段は人を困らせる側なんですって」
客席から笑い声が漏れる。
「可愛い先輩をからかったり、恥ずかしいことをさせたり。ずいぶん楽しんでるみたい」
美咲は思わず玲奈を見る。
玲奈は穏やかな顔でステージを見ている。
「でも、自分がされる側になったらどうなのかしらって話になって。それならここで試してみましょうかって。そうしたら、この子、自分から『やってみたい』って言ったんです」
紗希が奈緒の頭に軽く触れる。
「今日は口が使えないので、嫌なら首を横に。大丈夫なら頷いてもらいます」
紗希が奈緒を見る。
「子猫ちゃん。皆さんに、その身体の隅々まで……見てもらいたい?」
一瞬の間。
奈緒が、こくりと頷いた。
「えっ……」
美咲から声が漏れる。
奈緒ちゃん、自分で頷いた。
恥ずかしいはずなのに。
それでも、自分から見せる方を選んだ。
美咲の胸の奥がざわついた。
紗希は奈緒の頷きを確認すると、ブラウスのボタンを手早く外していった。
前を大きく開き、そのままブラジャーにも手をかける。
「子猫ちゃん。ここも、皆さんに見てもらっていい?」
奈緒が、こくり。
紗希がブラジャーをずらすと、両方の乳房が露わになった。
客席から拍手が起こる。
「はい、全部見えましたね」
紗希は奈緒の肩に手を添え、胸が客席からよく見えるように身体の向きを整えた。
「綺麗なピンク色の乳首。ここまで見せてくれた子猫ちゃんに、拍手してあげてください」
拍手がまた広がった。
「ちょっと触ってみましょうか」
奈緒が、こくり。
紗希はすぐには乳首へ触れず、周りをゆっくり撫でる。
奈緒の肩が揺れた。
「あら」
最後に乳首の上を指先でさらりと撫でる。
奈緒の身体がぴくっと跳ねた。
紗希が小さく笑う。
「敏感なのね」
美咲はステージを見つめたまま動かなかった。
玲奈がそんな美咲の横顔を見て、腰へ腕を回す。
「美咲さん、さっきから奈緒さんが頷くたびに、ずいぶんHなお顔になってますよ」
「……そんな顔してません」
否定しながらも、美咲の目は奈緒から離れない。
紗希が尋ねる。
「じゃあ次。後ろも、皆さんに見てもらっていい?」
奈緒の動きが止まる。
今度は少し長い間があった。
それから――こくり。
「……えっ」
紗希はリードを持ったまま、奈緒の身体をゆっくり半回転させた。
「スカートも脱いじゃっていい?」
奈緒が頷く。
紗希がスカートを外した。
客席の視線が、奈緒の白いショーツに集まる。
「じゃあ、その下も……皆さんに見てもらいたい?」
奈緒はすぐには動かなかった。
やがて――こくり。
「……また頷いた」
美咲が小さく漏らす。
紗希は少し待ってから、もう一度確かめた。
「じゃあ、本当に脱がせてもいい?」
奈緒が頷いた。
紗希が白いショーツを下ろし、そのまま脚から外す。
それまで隣同士で話していた客まで、ふっと会話を止めてステージへ顔を向けた。
店内の視線が、奈緒へ集まっていく。
紗希は奈緒の腰へ手を添える。
「少し前へ。そう、そのまま」
奈緒が身体を前へ倒す。
腰が持ち上がる。
紗希が客席を見て、くすっと笑った。
「子猫ちゃんというより……ワンちゃんかしら」
客席から笑いが起こる。
「お尻の穴まで、皆さんに見せちゃってますね」
美咲の身体が、びくっと反応した。
試着室で、自分から玲奈に「見えているか」と尋ね、そして「綺麗」と言われたときの記憶が、一気に蘇った。
美咲は無意識に、隣の玲奈へ視線を向けた。
玲奈も美咲を見ていた。
「思い出しました?」
美咲は何も言わない。
玲奈は美咲の腰を抱いたまま、さらに顔を寄せた。
肩が触れそうな距離まで近づき、そのまま耳元へ口を寄せる。
「美咲さんのお尻の穴も、綺麗でしたよ」
美咲の頬が一気に熱くなる。
「……もう、言わないでください」
けれど、玲奈から身体を離そうとはしなかった。
玲奈はステージへ視線を戻す。
「あのときは、私一人に見られただけでしたよね」
美咲の呼吸が浅くなる。
「でも今は……あんなにたくさんの人が見てる」
美咲も奈緒を見る。
玲奈が耳元で静かに言った。
「美咲さん、たくさんの人に見られたいって思っているでしょう?」
美咲は返事をしなかった。
ステージでは、紗希が奈緒の姿勢を戻し、客席を見渡している。
「さて。遠くから見るだけじゃ、物足りなくなってきた方もいるんじゃないかしら」
客席のあちこちから笑い声が上がった。
「もう少し近くで見てもらう?」
奈緒の動きが止まる。
美咲も思わず身体を起こした。
数秒して――奈緒が、こくりと頷く。
「……また」
美咲の声が漏れた。
紗希は客席を見渡す。
「では、お一人だけ。見てみたい方、いらっしゃいます?」
何人かの手が上がった。
紗希はその中から一人の男性を選び、ステージへ招いた。
奈緒には、その男の姿は見えていない。
紗希が奈緒の耳元へ顔を寄せる。
「知らない男性に、すぐそばで、あなたのあそこ……しっかり見てもらっていい?」
奈緒の身体が一瞬固まった。
それでも――こくり。
「……嘘」
美咲が小さく漏らした。
紗希は奈緒を後ろから支え、両膝を左右へ開かせた。
そのまま腰を持ち上げさせ、男性の顔のすぐ前まで近づける。
奈緒の身体が一瞬こわばった。
目隠しをされているせいで、自分が誰に、どれほど近くから見られているのかも分からない。
美咲は、その距離を見て息を呑んだ。
紗希が男性の顔を見る。
「どうですか、子猫ちゃんの大事なところ?」
少し間を置く。
「あそこ……どうなってますか?」
奈緒の身体が、ぴくりと強張った。
男性は戸惑いながら答えた。
「あ……はい。奥まで、ちゃんと見えます」
紗希が奈緒の耳元へ顔を寄せる。
「ちゃんと見えてるって。聞こえた?」
奈緒がほんの少し顎を引いた。
美咲は知らないうちに、さらにステージへ身体を向けていた。
玲奈が、美咲の耳元へそっと顔を寄せる。
「奈緒さん……少し濡れて見えません?」
美咲の視線が、反射的にそこへ落ちた。
確かに、しっかり濡れていた。
玲奈はそれ以上、何も言わなかった。
やがて紗希が男性に声をかける。
「ありがとうございました」
男性が客席へ戻ると、奈緒の肩からわずかに力が抜けた。
紗希はその様子を見て、口元を緩める。
そして客席へ向き直った。
「ここまで頑張った子猫ちゃんへのチップ、あげたい方はいません?」
すぐに何人かの手が上がった。
「あら、人気ね」
最初の男性がステージへ上がり、一万円札を紗希へ差し出す。
「頑張った子猫ちゃんに。チップです」
紗希は受け取る。
「一万円。よかったわね、子猫ちゃん」
客席から拍手が起こる。
続いて別の男性も手を上げた。
さらに二人、三人と続き、紗希の手元に一万円札が重なっていく。
美咲は、それを黙って見ていた。
奈緒は、体の隅々までを晒して、その対価としてのお金を受け取っている。
本来なら、軽蔑すべきことなのかもしれない。
裸を晒して、その対価としてお金まで受け取る。踏み越えてはいけない一線を、奈緒は自分の意思で越えてしまった。
ただ、そう思った瞬間、美咲の中で道徳より先に、背徳の甘さが疼いた。
そして気づけば、ステージにいる奈緒の姿に、自分を重ねていた。
大勢の視線を浴び、知らない男に間近で見られ、それでも逃げずにそこにいる自分。
想像した瞬間、下腹の奥がじわりと疼いた。
玲奈は、美咲がステージから目を離せないままでいるのを見ていた。
それから、耳元へ少しだけ顔を寄せる。
「裸を晒して、お金までもらって……いやらしいって思ってます?」
美咲の喉が、小さく動いた。
「……分からないです」
玲奈はステージの奈緒を見つめる。
「でも、嫌そうな顔じゃないですね」
美咲は何も返さなかった。
玲奈も、それ以上は追わない。
少しして、ふと口にした。
「美咲さん、向いてると思います」
「……私が?」
「ヌードデッサン」
美咲の目が玲奈に止まった。
「知り合いが、ちょうどモデルを募集していて」
「モデル……」
「何人かの前で裸になって、動かずに座って。描くために、ずっと見てもらうんです」
「……ずっと?」
「ええ」
玲奈は美咲を見た。
「美咲さん、綺麗な体をしているので。私、推薦したいです」
美咲は何も言えなかった。
「いかがですか?」
返事はない。
玲奈は穏やかに笑った。
「すぐ決めなくていいですよ。考えておいてください」
何人かの前で裸になって、ずっと見られる。
その言葉だけが、美咲の中に残った。
ステージでは、紗希が奈緒の肩を軽く叩いた。
「子猫ちゃん、お疲れさま」
客席から拍手が起こる。
奈緒は目隠しをされたまま、小さく頭を下げた。
紗希に連れられ、そのまま黒いカーテンの奥へ消えていった。
十分ほどして、奈緒が服を整えた姿で戻ってくる。
「先輩、お待たせしました」
美咲はすぐに奈緒の顔を見た。
「奈緒ちゃん、大丈夫だった?」
「はい。刺激的で楽しかったですよ」
奈緒はそう言って笑った。
「お小遣いももらえたし」
そして何事もなかったように椅子へ腰を下ろす。
しばらくして、美咲の視線に気づいた奈緒が笑った。
「先輩、ずっと見てましたね」
美咲は一瞬、返事に詰まった。
「……もう帰ろうか」
「はーい」
席を立つとき、美咲は一度だけステージを振り返った。
そこに奈緒の姿はもうない。
それでも、何人もの視線を浴びていた奈緒の姿は鮮明に残っていた。
その姿に、玲奈の言葉から生まれたもう一つの光景が重なる。
何人もの前で裸になり、じっと座って見られている自分。
奈緒の姿に、裸でじっと座る自分の姿が重なる。
その想像が鮮明になるほど、美咲の下腹の奥がまた熱を持った。




