試着室再訪――「あの人に褒められると、そんなに嬉しいんですね」
「先輩、この前言ってた水着のお店、私も行ってみたいです」
奈緒がそう言い出したのは、昼休みだった。
「奈緒ちゃんも水着買うの?」
「私はいいです。先輩のを選びたいんです。先輩に似合うの、私がちゃんと選んであげたいです」
美咲は少し迷ったものの、結局その週末、奈緒と一緒に店を訪れた。
店へ入って間もなく、美咲の足が止まった。
奥から一人の女性が歩いてくる。
奈緒は、美咲に聞くまでもなく分かった。
――この人か。
すらりとした体つき。短いボブ。派手なところはないのに、背筋を伸ばして歩く姿には隙がない。見ているこちらまで姿勢を正したくなるような人だった。
奈緒は無意識に、美咲へ半歩近づいた。
玲奈は二人の前で足を止めた。
「また来ていただいて、ありがとうございます」
それだけだった。
ごく普通の、店員としての挨拶。
なのに美咲の声が少し弾んだ。
「……はい。また来ちゃいました」
奈緒は横目で美咲を見る。
玲奈が奈緒へ視線を移した。
「今日はお連れ様とご一緒なんですね」
「会社の後輩です。奈緒ちゃん」
「奈緒です。今日は先輩の水着、私が選びたくて」
奈緒は「私が」を少しだけ強く言った。
そして店内を見回す。
「この前より、もう少し大胆なのってありますか? 細くて、小さい感じの。先輩に似合いそうなのを」
玲奈は少し考えてから、数着を選んで戻ってきた。
奈緒はその中から迷わず一番小さなものを取った。
「これ。この人に似合うと思いますか?」
玲奈は美咲を見た。
「はい。スタイルがとてもきれいですので、お似合いになると思います」
「……本当ですか?」
美咲の返事がすぐに返ってくる。
奈緒はそれを聞きながら、水着を美咲へ差し出した。
「じゃ、これにしましょう、先輩」
そして玲奈へ向き直る。
「私が着せてあげますから」
「いいよ。自分で着られるから」
「だめです、先輩。私がちゃんとつけてあげます」
玲奈は何も言わず、試着室のカーテンを開けた。
「どうぞ」
二人で中へ入る。
カーテンが閉まると、奈緒はすぐに美咲へ向き直った。
「先輩、まずお洋服脱いじゃいましょうねー」
「だから、自分でやるってば」
美咲が笑いながら手を伸ばすのをかわし、奈緒は手早く着替えを手伝った。美咲も本気で拒むわけではなく、何度か「もう」と言いながら、最後には裸になった。
奈緒はそのまま後ろから美咲を強く抱き込んだ。
「先輩と試着室で二人きり。ドキドキします」
耳元で囁く。
「……あ、うん」
反応が薄い。
奈緒は美咲の横顔を覗き込んだ。
「先輩?」
「なに?」
「緊張してるんですか?」
「別に」
奈緒は少しだけ頬を膨らませた。
「だめでちゅよー。今は私の方に集中してくださいね」
いつもなら、ここで美咲は笑うか、恥ずかしがるか、何かしら奈緒に返してくる。
今日はそれが薄い。
奈緒は水着を着せ始めた。
普通に着せても十分に小さい水着だった。それでも奈緒は満足せず、ボトムを少し上へ引いて前の布が細く見える位置まで寄せた。トップも本来の位置より少し下へずらし、胸の露出をさらに大きくした。
「ちょっと。これ、変じゃない?」
ようやく美咲が眉を寄せる。
奈緒は、その反応に少しだけ安心した。
「その方が先輩らしいです」
「どこがよ」
美咲が直そうとした手を、奈緒は軽く止めた。
少ししゃがみ、美咲を下から見上げる。
「先輩、こんな水着着てたら、変な人だと思われちゃいますよー」
「奈緒ちゃんがこうしたんでしょう」
「でも着てるのは先輩です」
奈緒は笑った。
いつもなら、もう少しここで崩れる。
恥ずかしそうに目を逸らす。奈緒の肩を押す。あるいは「もう」と言いながら、結局はこちらのペースに乗ってくる。
「どうです、先輩。恥ずかしいでしょ?」
「……うん。まあ」
また、それだけだった。
奈緒の笑顔が止まりかけた。
これでも駄目なの。
自分なら先輩の反応を引き出せる。
ずっとそう思っていたし、これまでは実際そうだった。
なのに今日は、何をしても美咲の意識が完全にはこちらへ戻ってこない。
奈緒は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
「すみませーん。フィッティング、見ていただけますかー」
声が、思ったより大きく出た。
店内にいた客が何人かこちらを見る。
奈緒はすぐにカーテンを戻した。
ほどなく、一定の足音が近づいてきた。
急いでいないのに、迷いがない。
玲奈が試着室の前で止まる。
「中へ入ってもよろしいですか?」
奈緒が口を開きかけた。
「はい」
美咲が先に答えた。
奈緒は横を見る。
返事が早い。
さっきまで自分には、あんなに上の空だったのに。
カーテンが開く。
玲奈が入ってきた。
奈緒はすぐに口を開いた。
「どうですか。私が着せてみたんですけど」
“私が”。
自分でも分かるくらい、そこを強く言った。
玲奈はすぐには答えなかった。
「そうですねぇ」
静かに美咲を見る。
その視線を受けた瞬間、美咲の表情がふっと変わった。
目元がほどける。
さっきまで奈緒が何をしても薄かった反応が、玲奈に見つめられただけで戻ってくる。
奈緒は息を止めた。
まだ何もしてないのに。
玲奈が少しだけ首を傾けた。
「少し直させていただいてもよろしいですか?」
「はい。お願いします」
また即答だった。
玲奈はしゃがみ、ボトムの位置を手早く整えた。
ほんの短い動作。
立ち上がる流れで、トップも元の位置へ戻す。
「はい」
玲奈が鏡越しに美咲を見る。
「本当に、お客様。とてもお似合いですよ」
美咲の口元に笑みが浮かんだ。
奈緒は、その笑顔を見た。
「玲奈さんにそう言っていただけるなんて、嬉しいです」
名前を呼んだ。
あまりにも自然に。
奈緒は瞬きをした。
「覚えていてくださったんですね」
「忘れるわけないです」
美咲の返事も自然だった。
奈緒は何も言えなかった。
玲奈が美咲へ触れていた時間など、ほんの数秒しかない。
なのに、自分がさっきまで必死になっても出せなかった表情を、玲奈は簡単に引き出した。
奈緒は無意識に美咲の腰へ手を伸ばした。
美咲の身体が少し動く。
けれど視線は鏡の中の玲奈から離れない。
「先輩」
「……ん?」
美咲は玲奈を見たまま答えた。
奈緒は手を引いた。
行き場をなくした指先を、そのまま自分の脇へ戻した。
鏡の中で玲奈と目が合う。
ほんの一瞬。
玲奈の口元が、わずかに緩んだ。
それだけだった。
奈緒は先に視線を逸らした。
「少し後ろのフィッティングも確認したいので、後ろを向いていただいてもよろしいですか?」
「はい」
美咲は素直に向きを変えた。
玲奈が後ろへ回る。
美咲の背筋が自然に伸びる。
鏡越しに二人の目が重なる。
奈緒がすぐ横にいるのに、美咲の視線は玲奈から動かなかった。
ほんの数秒。
美咲がゆっくり息を吐く。
肩から力が抜ける。
ただ、嬉しそうだった。
奈緒は黙って二人を見ていた。
やがて玲奈が一歩離れた。
「こちらも大丈夫ですね。きれいに着られています」
「ありがとうございます」
また、その声だった。
奈緒には見せない、素直で柔らかい声。
奈緒は目を伏せた。
着替えを終えると、美咲はその水着を買うことにした。
会計台の前に立つ美咲。そのすぐ横に奈緒も立つ。
玲奈は商品を包み、紙袋へ入れた。
「ありがとうございます」
美咲が受け取る。
「こちらこそ、ありがとうございます」
玲奈はいつもの落ち着いた声で返した。
美咲は紙袋を抱えながら、少しだけ名残惜しそうに玲奈を見る。
「また、来ると思います」
「ぜひ、いらしてください」
玲奈は穏やかに微笑んだ。
「そのときも、フィッティングは確認して差し上げますので」
美咲はすぐに頷いた。
「玲奈さんにフィッティングしてもらえるの、すごく嬉しいです。お願いします」
奈緒は横で黙っていた。
玲奈が「あ」と小さく声を出した。
「もしよければ。これはお店とは関係なく、私の個人的なものなんですけど」
玲奈はカウンターの下から、小さなチケットを二枚取り出した。
「もしご興味があれば、ぜひお二人でいらしてください。特別に最初のお飲み物が無料になるチケットです」
美咲が受け取る。
印刷された文字へ目を落とした。
「……SMバー?」
玲奈が頷く。
「はい。ちょっと日常とは違う刺激が味わえますよ。楽しいですよ」
美咲はチケットから顔を上げた。
「はい、行きます。嬉しいです」
奈緒は横から美咲を見る。
相談しないんだ。
ほんの一瞬だけ、胸の奥が沈んだ。
けれど玲奈が渡したのは二枚だった。
美咲が奈緒を見る。
「奈緒ちゃんも行くでしょう?」
奈緒は少し間を置いた。
それから、いつもの笑顔を作る。
「もちろんです」
一枚のチケットを美咲の手から受け取った。
玲奈と目が合う。
玲奈は静かに会釈した。
奈緒も笑顔のまま頭を下げた。
店を出るまで、奈緒は何も言わなかった。
自動ドアが閉まり、玲奈の姿が見えなくなってから、美咲が紙袋を嬉しそうに持ち上げる。
「奈緒ちゃん、すごいの選んだね」
奈緒は美咲を見た。
さっきまで玲奈に向けていた、あの柔らかな表情はもうない。
いつもの先輩だった。
それが少し嬉しくて、少し悔しかった。
「先輩」
「なに?」
奈緒は一度だけ言葉を飲み込んだ。
「あの人に褒められると、そんなに嬉しいんですね」
美咲が足を止める。
「え?」
奈緒はもう笑っていた。
「なんでもないです」
そう言って、美咲の腕へ自分の腕を絡めた。
今度は、美咲もすぐに振りほどかなかった。
奈緒はそのことを確かめるように、少しだけ強く腕を抱いた。




