半個室の告白――「次は、私に見せてください」
会社を出たあと、奈緒に誘われて入った居酒屋は、薄い引き戸で通路と区切られた半個室だった。
向かいに座った奈緒は、最初の料理が運ばれてくるまで普段どおり仕事の話をしていた。ところが店員が引き戸を閉めた途端、頬杖をつき、美咲をじっと見つめた。
「先輩。私、前から聞きたかったことがあるんです」
「なに?」
「あのヨガで着ていた、深紅の水着。先輩が自分で選んだんですか?」
グラスを持ち上げかけた美咲の手が止まった。
「……買ったのは、私だけど」
「最初から、あれを買うつもりだったんですか?」
「違うわ。お店で、少しいろいろあって」
「いろいろ?」
奈緒は、その曖昧な言葉を許してくれなかった。美咲はグラスへ口をつけ、答えるまでの時間を稼いだ。だが奈緒の視線は逸れない。
「試着室で、店員さんに会ったの」
「女性ですか?」
「うん。玲奈さんという人」
奈緒がその名前を口の中で確かめる。
「その人に勧められたんですね」
「最初は見るだけのつもりだった。でも試着してみたらって言われて……」
「それで、二人で試着室に?」
美咲は小さくうなずいた。
そこから先は、話すほど当時の光景が鮮明に蘇った。玲奈が試着室へ入ってきたこと。水着姿の美咲を鏡の前へ立たせたこと。背中から腰へ視線を這わせ、爪先で軽く肌を撫でたこと。そして、ずれた水着を直すために、美咲が背を向けたこと。
「どこまで見られたんですか」
「……かなり」
「かなり、では分かりません。その人は先輩の身体を見て、何と言ったんです?」
「きれいだって」
「どこを?」
美咲は黙り込んだ。引き戸の向こうから誰かの笑い声が聞こえる。美咲は意味もなく箸の位置を直した。
「先輩」
「お尻……」
「お尻の、どこですか」
「奈緒ちゃん、もういいでしょう」
「よくありません。先輩が隠そうとするところが、一番大事なので」
「……お尻の穴」
とうとう口にすると、奈緒の瞳がわずかに揺れた。
「見られたんですか」
「うん。きれいだって言われた」
「玲奈さんは、先輩の名前も知らなかったんですよね」
「知らないと思う」
「何も知らない相手に、そこまで見せたんですか」
美咲は、見せたのではなく見えてしまっただけだと言いかけた。だが、あのとき自分から口にした問いを思い出す。
――見えてますか。
隠したい人間が、自分から尋ねる言葉ではなかった。
「先輩。そのとき、自分から何か聞きませんでした?」
美咲の表情を見た奈緒が、すぐに気づいた。
「何て聞いたんですか」
「……見えてますか、って」
「何が?」
「分かっているでしょう」
「先輩の口から聞きたいんです」
「お尻の穴が、見えているかって聞いた」
しばらく奈緒は何も言わなかった。その沈黙に耐えきれず美咲が顔を上げると、奈緒は笑っても、軽蔑してもいなかった。ただ、興奮を悟られないよう必死に抑えている顔だった。
「見えていないと言ってほしかったんですか」
「分からない」
「それでは許しません」
奈緒は立ち上がり、美咲の隣へ移った。肩が触れ合う。奈緒の顔が近づき、美咲は思わず背筋を伸ばした。
「嫌だったなら、嫌だったと言ってください。玲奈さんに腹が立ったなら、それでもいいです」
「嫌では、なかった」
「では、恥ずかしかった?」
「恥ずかしかった」
「それだけですか」
答えられない美咲を、奈緒は横から抱きしめた。最初は優しく。それでも美咲が逃げないと分かると、腕へ少しずつ力を込めていく。
「玲奈さんのこと、家へ帰ってからも思い出したでしょう」
美咲の肩がわずかに揺れた。
「忘れようとはした」
「でも、忘れられなかった。爪で背中やお尻を撫でられたこと。お尻の穴まで見られて、きれいだと言われたこと」
「もう、それ以上言わないで」
「言われるだけで、こんなに恥ずかしいんですね」
奈緒は美咲を抱く腕へ、少し力を込めた。
「先輩。家に帰ってから、ひとりでいじっちゃったんですか?」
美咲の身体が固まった。
「奈緒ちゃん……」
「何もしていないなら、違うって言えるはずです」
奈緒の手が、美咲の腿をスカートの上からゆっくり撫でる。問い詰めているようで、その手もわずかに震えていた。
「玲奈さんの顔を思い出しながら?」
「……うん」
「自分から『お尻の穴、見えてますか』って聞いたことも?」
「うん」
「きれいだと言われた声も?」
美咲は奈緒の服をつかんだ。
「全部、思い出した」
その答えを聞いた途端、奈緒の呼吸が熱を帯びた。
「では先輩、あの試着室で恥ずかしかっただけじゃないんですね。見られたことに、興奮したんでしょう?」
しばらく沈黙が続いた。引き戸の向こうを店員が通り過ぎる。その足音が遠ざかってから、美咲はようやく認めた。
「……興奮したの」
奈緒の腕が、美咲をさらに強く抱き寄せた。その身体も、もう平静ではなかった。
「それで、いっちゃったんですか?」
今度は、何を聞かれているのか美咲にもはっきり分かった。
「そこまで言わせるの?」
「聞きたいです。玲奈さんにあんなところまで見られたことを思い出して、先輩がひとりでどうなったのか。ちゃんと、先輩の口から聞きたい」
美咲は逃げるように奈緒の胸元へ顔を埋めた。それでも奈緒は待っている。
「……いった」
かすかな声だった。
奈緒は一瞬、息をすることさえ忘れたように動きを止めた。それから、美咲の身体を腕の中へ閉じ込めるように、きつく抱きしめた。
「玲奈さんに見られたことを何度も思い出して、ひとりでいっちゃったんですね」
美咲は答えなかった。否定する代わりに、奈緒の服をつかむ指へ、さらに力を込めた。
奈緒の片手が、美咲の腰から腿へ下りた。裾から差し入れられた掌が、膝に近い場所からゆっくり内側を撫でていく。
「嫌なら止めると言ってください」
美咲は答えなかった。
「先輩」
「……止めなくていい」
奈緒の手が動き始める。急がない。膝の近くから腿を上り、美咲の身体が固くなると、いったん同じ場所へ戻る。そこから今度は外側を通り、腰の丸みへ触れた。
「先輩。私にも預けてくれますか」
奈緒は美咲のスカートの裾へ指をかけた。
「先輩がいま身につけているもの」
美咲が息を止める。
「無理には取りません。自分で決めてください」
引き戸の向こうを店員が通り過ぎた。足音が遠ざかってからも、美咲は動けなかった。奈緒は急かさない。
やがて美咲は小さく息を吐き、自分の手で下着を外した。膝の上で握りしめようとすると、奈緒が掌を差し出す。
「預かります」
「そのままバッグへ入れるの?」
「そんなことしません」
奈緒は受け取った下着を掌の上へ丁寧に広げた。つい先ほどまで美咲が身につけていたものを見る奈緒の目には、隠しきれない熱があった。
「そんなに見ないで……」
「大切なものですから」
奈緒はバッグから小さな布製のポーチを取り出した。皺にならないよう静かに畳み、しまう前にもう一度だけ見つめる。
「先輩の身体に触れていたものです。雑になんて扱えません」
ポーチへ収め、それをバッグの内ポケットへしまった。
「返してほしいですか」
美咲はすぐには答えられなかった。奈緒はその沈黙を了承として受け取り、再び美咲を抱き寄せる。
「いまの先輩を、玲奈さんにも見てほしいですか」
「それは……」
「まだ玲奈さんのことを考えているんですね」
奈緒の声から、初めてはっきりと嫉妬が伝わった。手が腿から後ろへ回る。奈緒は美咲の臀部を掌で包み、自分の身体へ引き寄せた。指先はゆっくり中央へ近づき、美咲が最も意識している場所のすぐ手前で止まる。
「玲奈さんに見てほしかった、先輩のいちばん恥ずかしいところ。そこまで見られたかった気持ちも、誰にも言えなかった恥ずかしさも――私が大切にします」
美咲が顔を上げる。目が合った瞬間、奈緒の中で何かが切れた。
奈緒は美咲の後頭部を抱き、その唇を奪った。
写真ブースで交わしたキスとは、まるで違った。あのときは互いの気持ちを確かめるような、静かできれいな口づけだった。今の奈緒には、美咲を驚かせまいとする余裕がない。
唇を重ねたまま抱く腕へ力を込め、逃げ道を塞ぐ。わずかに離れたのは息を継ぐためだけで、奈緒はすぐに角度を変え、再び深く美咲を求めた。
美咲が戸惑いながら唇を開く。奈緒はその反応さえ自分へ差し出されたものとして受け取り、さらに深く口づけた。激しいのに、美咲が拒んでいないことだけは一つずつ確かめている。それでも主導権は決して渡さない。
美咲の呼吸も、震えも、玲奈を思い出して熱くなった気持ちも、すべて自分の側へ奪い取ろうとするキスだった。
美咲は奈緒の服をつかんだ。その指へ力がこもったことに気づくと、奈緒はますます強く美咲を抱き寄せた。
唇が離れても、奈緒は美咲を解放しなかった。額を触れ合わせ、乱れた息を美咲の唇へ落とす。
「先輩のいちばん恥ずかしい秘密まで、玲奈さんだけに知っていてほしくありません」
スカートの中の手が、美咲の臀部をもう一度強く抱く。
「次は、私に見せてください」
美咲は返事をしなかった。けれど奈緒から目を逸らすことも、抱いている腕をほどこうとすることもなかった。
奈緒はそれ以上を求めなかった。スカートの裾を元へ戻し、乱れた美咲の髪を指で整える。
「帰りましょうか。家まで送ります」
席を立った美咲は、足元がひどく頼りなく感じられた。身体はスカートに覆われ、外から見ればいつもと何も変わらない。それでも、下着を奈緒に預けたままだという事実が、一歩進むたびに意識へ戻ってくる。
会計を済ませ、二人で店を出る。夜風に触れたところで、美咲は奈緒のバッグへ目を向けた。
「返してほしくなりました?」
美咲は少し迷ってから、首を横へ振った。
奈緒は満足そうに美咲の手を取った。
「では、もう少し私が預かります」
指を絡めたまま、奈緒は美咲の耳元へ顔を寄せる。
「今夜、先輩が話してくれたことを忘れないために」
美咲は何も言えず、奈緒に手を引かれて歩き出した。
試着室で玲奈に見つけられた願望は、もう美咲一人の秘密ではない。その夜から、それは奈緒のものにもなった。




