深紅の約束――後輩に見抜かれた反応
「はい、今日はここまでにしましょう」
美羽が静かに手を打つと、美咲は長く息を吐きながら、マットの上へ腰を下ろした。
週に一度のレッスンを始めて三か月になる。正確には個人ではなく、会社の後輩である奈緒と二人だけのセミプライベートレッスンだった。
黒いレオタード姿の美羽は、今日も余計なことを一切言わなかった。重心をどこへ置くか。どの筋肉を意識するか。呼吸をどこまで深く入れるか。身体に触れるときも必ず一言断り、その手つきに曖昧なところがない。
対照的に、奈緒は休息の姿勢を終えるなり、仰向けのまま美咲へ顔を向けた。
「先輩。持ってきました?」
何を、と聞き返す必要はなかった。
「……持ってきたけど」
美咲は壁際に置いたバッグへ目をやった。
底のほうに、深紅の水着が入っている。
先週、レッスン後の雑談で、少し大胆な水着を買ったと一度だけ話した。それだけだったのに奈緒が見たいと言い、美羽まで興味を示した。勢いに押され、次のレッスンへ持ってくると約束してしまったのだ。
「本当に持ってきてくれたんだ」
奈緒が上体を起こした。小柄な身体に似合わず、その目だけが妙に輝いている。
「見せるだけだからね」
美咲は念を押した。
「分かってます。着てもらって、ちょっと見るだけ」
「着るところまでは決まっていたの?」
「着てもらわないと、似合うか分からないじゃないですか」
当然のように返され、美咲は美羽へ助けを求めるように目を向けた。
「嫌なら、広げて見せるだけでもいいですよ」
美羽は淡々と言った。
その言葉に、美咲は一瞬だけ安心した。だが、ここまで持ってきておいて布だけを見せて終わる自分を想像すると、なぜか物足りなく感じた。
「……着ます」
口にしたあと、自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
奈緒は笑顔になったが、からかう言葉は挟まなかった。ただ、美咲がバッグを抱えて更衣スペースへ入るところを、じっと見送った。
カーテンを閉めると、急に外の気配が遠くなった。
美咲はいつものウェアを脱ぎ、バッグから水着を取り出した。試着室で見たときと同じ、深い赤。掌に載せると、改めて布の少なさが際立った。
あのときは玲奈と二人だった。
今日は美羽と奈緒がいる。ヨガの先生と、毎日同じ会社で顔を合わせる後輩。その二人の前へ、この姿で出ていく。
見せるだけ。
そう言い聞かせながら身につけたものの、鏡に映った自分を見た瞬間、美咲はカーテンを開ける勇気を失った。
身体を覆っているというより、細い紐と小さな布が、隠す場所を最低限示しているだけだった。後ろ側はほとんど一本の紐で、臀部は隠されることなく露わになっている。
試着室では平気だったはずなのに、今は鏡の中の自分と目を合わせることさえ難しい。
「先輩、まだですか?」
カーテン越しに奈緒の声がした。
「……もう少し」
「もしかして、本当にすごいやつ?」
「奈緒ちゃんが見たいって言ったんでしょう」
「言いましたけど、先輩が出てこないから、期待値がどんどん上がってます」
美咲は思わずカーテンを握りしめた。
「笑わないでね」
「笑いませんよ」
短い間があった。
「たぶん」
「もう……」
美咲の口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。そのおかげで少しだけ力が抜けた。
嫌なら、今から着替え直せる。
美羽もそう言ってくれた。
それなのに美咲の手は、水着を外すのではなく、鏡を見ながら紐の位置を整えていた。なるべくきれいに見えるように、長い髪を背中へ流し、姿勢まで正している。
その自分に気づいたとき、頬がさらに熱くなった。
「美咲さん」
今度は美羽の声だった。
「無理をする必要はありませんよ」
「……大丈夫です」
見せると決めたのは自分だ。
美咲は一度深く息を吸い、自分の手でカーテンを開いた。
奈緒の声が止まった。
その沈黙のほうが、笑われるよりもずっと恥ずかしかった。
「……先輩、エロすぎません?」
奈緒は目を丸くしたまま、美咲の身体を上から下まで見つめた。
水着について何か言われるものと思っていた。それなのに、まるで自分自身を評されたような言葉を向けられ、美咲は身体の置き場を失った。
美羽は少し離れた位置から全体を確認し、率直に言った。
「きれいな色ですね。美咲さんの肌にも合っています。ただ、泳ぐためというより、見せるための水着でしょうね」
言い当てられ、美咲は腕で身体を隠しかけた。しかし、それではわざわざ着た意味がないと思い直し、両腕を下ろした。
「後ろも見せてください」
奈緒に頼まれ、美咲はゆっくりと背を向けた。
「……ほとんど、お尻全部見えちゃってますね」
分かっていたことを改めて口にされ、美咲の肩が強張った。
「でも先輩のお尻、形がよくてうらやましいです」
腰の下で左右の紐が結ばれ、その中央からさらに細い一本が下へ伸びている。それ以外、背後から二人の視線を遮るものはなかった。
褒められているはずなのに、奈緒の前へ自分から臀部をさらし、眺められている事実のほうが強く意識された。
美咲は鏡の中の奈緒を見た。その目は驚いているだけではない。普段の先輩からは想像できない姿を、少しでも詳しく覚えようとしているように見えた。
「先輩、せっかくだから、この格好で何か一つポーズしてみません?」
「え?」
「見るだけだともったいないですよ。踊り子のポーズとか、絶対きれい」
「奈緒さん。美咲さんが見せると約束したのは、水着姿まででしょう」
美羽が止めた。
美咲は安心したはずだった。ところが鏡の中で、自分がわずかに残念そうな顔をしたことに気づいた。
「……一つだけなら」
奈緒が何か言うより先に、美咲自身が答えていた。
美羽は美咲の顔を見た。
「本当にやりたいですか?」
「はい。立った姿勢なら、大丈夫だと思います」
しばらく確認するように見つめたあと、美羽は頷いた。
「では踊り子のポーズだけ。違和感があれば、すぐにやめましょう」
美咲はマットの中央へ立った。
片脚へ重心を移し、反対の足を後ろからつかむ。胸を開き、空いた腕を前へ伸ばす。
いつもなら呼吸と軸足だけに意識を向けられる姿勢なのに、今日は細い紐と、背後にいる奈緒の存在ばかりが気になった。
「視線をもう少し前へ。腰が開きすぎないように」
美羽の声だけは、いつもと変わらなかった。
水着の面積にも、美咲の羞恥にも興味を示さず、軸足と骨盤の位置だけを見ている。その冷静さに助けられ、美咲は少しずつ呼吸を取り戻した。
「先輩、すごくきれいです」
奈緒の声が聞こえた。
美咲は返事をせず、ポーズを保った。
鏡には、深紅の水着を身につけ、二人の視線を受けながら片脚で立つ自分が映っている。
恥ずかしいはずなのに、すぐには終わらせたくなかった。
ようやく美羽の合図で足を下ろすと、美咲は大きく息を吐いた。
「先輩、本当にきれいでした」
奈緒が近づいてきた。
美羽が記録用の端末へ視線を落とした、そのときだった。
奈緒は何のためらいもなく、美咲の剥き出しになった臀部へ掌を置いた。
布越しではなかった。
温かな手が直接素肌へ触れ、一度、二度と、丸みに沿ってゆっくり動く。形を確かめるように撫でたあと、よくできたペットを褒めるように軽く二度叩いた。
「……奈緒ちゃん?」
美咲は声を失いかけた。
見られているだけではない。
裸同然の臀部を、奈緒が初めから自分のものだったかのように、ごく普通の仕草で撫でた。その迷いのなさが、触れられたこと以上の衝撃だった。
奈緒は小柄で、会社ではいつも美咲を頼る後輩のはずだった。
それなのに今、美咲は自分が従順なペットのように品定めされ、褒められた気がした。
「あ……ごめんなさい。なんとなく」
奈緒は自分でも理由が分からないような顔で手を離した。
ただの悪ふざけだったのかもしれない。
美咲も笑って注意すればよかった。
けれど、言葉が出てこなかった。触れられたことを拒めなかっただけでなく、手が離れたことへ、安堵だけではない感情を抱いた自分に気づいてしまった。
「次は戦士III、見てみたいです」
奈緒が言った。
「一つだけの約束でしょう」
美羽がすぐに返した。
「でも先生、先輩、まだやりたそうですよ」
「奈緒ちゃん」
否定しようとした美咲の声は弱かった。
美羽は奈緒ではなく、美咲自身へ尋ねた。
「続けますか?」
帰ることも、着替えることもできる。
美咲は少し迷ってから頷いた。
「……もう一つだけ」
戦士IIIでは、上体と片脚を床と平行になるまで伸ばす。
美咲が前傾すると、長い黒髪が肩から流れ落ちた。両腕を前へ伸ばし、後ろの脚を高く上げる。踊り子のポーズよりも身体の線がはっきりし、背後から奈緒に見られていることを強く意識させられた。
「お腹を引き上げて。呼吸は止めない」
美羽の指導に従おうとしても、奈緒が背後にいると思うだけで身体へ余計な力が入る。
美咲の軸足が揺れた。
「先輩、支えましょうか?」
「大丈夫」
美咲が反射的に断ると、奈緒は一度足を止めた。だが、軸足が再び揺れた瞬間、美羽が前から腕を支え、奈緒も背後から、上げた脚の太ももの内側へ手を添えた。
支えるためだと分かっているのに、奈緒の手が触れている場所を意識すると、美咲の身体へ余計な力が入った。
美羽の合図で上体を起こし、両足を床へ戻す。美咲は反射的に脚を揃えた。
そのとき、奈緒の視線が腰より下へ落ち、そこで一瞬止まった。
深紅のボトム。その股間を覆っている小さな布の中央に、汗だけでは説明しにくい、ごくわずかに色の濃い染みが浮かんでいた。
美羽は美咲の姿勢を記録していて、気づいていない。
「先輩」
「……なに?」
「もう一つ、やってみます?」
声はいつもの無邪気な後輩のものだった。
けれど美咲には、それが次の指示のように聞こえた。
奈緒が次に口にしたのは、カエルのポーズだった。
「先輩。その水着のまま、カエルのポーズも見せてください」
美咲は思わず奈緒を見た。
両膝を左右へ大きく開き、腰を低く落とす姿勢だ。普段のウェアでさえ、慣れるまでは落ち着かない。まして今身につけているのは、細い紐と最低限の布だけで作られた水着だった。
「この格好で?」
戸惑った声とは裏腹に、美咲はマットの中央へ戻りかけた。
何が起きるか、想像できないわけではない。それでも「見せてください」と望まれたことが、その不安を上回り始めていた。
「待ってください、美咲さん」
美羽の声が、はっきりと美咲を止めた。
「その水着では、カエルのポーズはできません」
「やっぱり危ないですか?」
奈緒が尋ねた。
「両膝を開いて腰を落とせば、ボトムには左右から強い力がかかります。この形と細さでは、布が中央に留まらない可能性があります」
美羽はどこまでも事務的だった。
「少し動いただけでずれて、水着としての役割を果たせなくなるかもしれません。女性同士だから構わない、という問題でもありません。私はヨガを教えるためにここにいます」
「……ごめんなさい。ちょっと悪ノリしました」
奈緒は素直に頭を下げた。
「美咲さんも、無理な要求に応える必要はありませんよ」
「はい。すみません」
美咲は安堵したように答えた。
実際、止めてもらえてほっとしていた。それなのに、胸の奥には小さな失望も残っていた。
奈緒に求められた瞬間、美咲はすでに膝をつくつもりになっていた。危険だと分かっていながら、どこまで見られてしまうのかを、どこかで確かめたがっていた。
奈緒が美咲のそばへ寄った。
「私、先輩のあそこ、ちょっと見たかったな」
耳元で囁かれ、美咲は息を止めた。
「奈緒ちゃん……」
「冗談です。えへへ」
奈緒はすぐに、いつもの笑顔へ戻った。
「奈緒さん、聞こえていますよ」
美羽の声が飛んできた。
「はーい。もう悪ノリしません」
美咲も笑おうとしたが、うまくできなかった。「冗談です」よりも、その前の言葉だけが耳に残っていた。
「はい、では今日はこれで終わりです。水着でヨガをするなら、次からは動いてもずれないものを選んでください」
「はい」
美咲は素直に返事をした。
「でも、立っているポーズはきれいでしたよ。身体の線がよく見えるので、軸の確認はしやすかったです。ただし、レッスンには適した服装ではありません」
最後まで真面目だった。
その評価に性的な意味がまったく含まれていないことが、美咲にはありがたくもあり、少しだけ拍子抜けでもあった。
奈緒が帰り支度を始めると、美咲は更衣スペースへ戻った。
カーテンを閉め、鏡に映った深紅の水着を見る。
奈緒は冗談だと言った。しかし、ボトムに現れた小さな染みを見たときには笑わなかった。何も言わず、美咲の顔を見ていた。
その沈黙のほうが、先ほどの囁きよりも深く残っている。
美咲は深紅の水着を脱ぎ、普段着に着替えた。
カーテンを開けて戻ると、そこにはもう、会社で見慣れた「先輩」の姿しかなかった。
「奈緒ちゃん。今日のこと、会社で言わないでね」
美咲は冗談めかして頼んだ。
「言いませんよ。私と先生だけの秘密です」
「本当に?」
「もちろんです」
奈緒はいつもの笑顔を見せた。
その答えに、美咲は安心した。
しかし奈緒の記憶には、ビキニ姿そのものよりも、別のものが残っていた。
見られることを恥ずかしがりながら、決して隠れようとしなかったこと。
一つだけと言いながら、自分から二つ目のポーズを選んだこと。
カエルのポーズを提案したとき、危険を理解しながらマットへ戻ろうとしたこと。
剥き出しの臀部へ触れても、拒まなかったこと。
そして、深紅の小さな布に現れた、身体の正直な反応。
あれを見たのは自分だけだ。
奈緒は、自分の掌に残った感触を思い出した。
よくできました、とペットを褒めるように撫でた。そう考えて触れたわけではない。身体が先に動いたのだ。
けれど美咲も、同じ意味を感じ取ったのではないか。
駅まで歩くあいだ、美咲は普段より口数が少なかった。
奈緒は隣を歩きながら、ときどき横顔を盗み見た。
会社では何でも教えてくれる、落ち着いた先輩。それなのに今日、自分の一言で大胆な姿をさらし、求められるまま次のポーズへ進もうとした。
先輩には、自分でも扱いきれていない欲求がある。
しかも、それを誰かに見つけてもらいたがっている。
奈緒はそう確信し始めていた。
駅へ向かう途中、奈緒が少しだけ歩調を緩めた。
「先輩、今度のお休み、空いていますか?」
「今度? たぶん空いているけど」
「一緒にテーマパークへ行きませんか」
普段なら、奈緒らしい無邪気な誘いだと思っただろう。けれど今日の奈緒は、美咲の返事を待つあいだ、いつもより真剣な目をしていた。
「どうして急に?」
奈緒は一度だけ視線を落とし、すぐに美咲を見上げた。
「大好きな先輩と、二人で行きたいんです」
その言葉に、美咲は一瞬だけ息を止めた。後輩として慕われているだけだと受け流すには、奈緒の目はまっすぐすぎた。
「……うん。行こうか」
奈緒の顔が、すぐに明るくなる。
奈緒は美咲の腕へ自分の腕を絡めた。
肩から肘にかけて、奈緒の身体の熱がじかに伝わってくる。
これまでなら、親しい後輩の甘えとして何も考えずに受け入れられたはずだった。けれど今は、その熱にまで「先輩と二人で行きたい」という言葉が宿っているように感じられる。
美咲は自分から腕をほどくことができず、奈緒の体温を意識したまま駅まで歩いた。




