試着室にて――「着る前から逃げることは許しません」
美咲が最初に選んだのは、濃紺のワンピースだった。
胸元は浅く、脚の付け根も十分に覆われている。鏡に映してみても落ち着いていて、会社の同僚と一緒でも気後れせずに着られそうだった。
試着室のカーテンを少し開けると、そこに一人の店員が立っていた。
玲奈、と名札に書かれている。
艶のある短いボブ。美咲より少し年上に見え、背も高い。整った顔立ちには接客用の微笑が浮かんでいたが、その目だけは、美咲の表情まで静かに観察していた。
玲奈は水着だけでなく、鏡の前に立つ美咲を一度見渡した。
「こちらでも、お似合いにはなります」
「ありがとうございます」
無難な選択を肯定されたことに、美咲はほっとした。
しかし、玲奈の言葉には続きがあった。
「ただ、美咲様がお求めなのは、本当にこういうものでしょうか」
美咲は鏡越しに玲奈を見た。
「どういう意味ですか?」
「こちらを着ている美咲様は、安心していらっしゃいます。でも、楽しそうには見えません」
指摘された瞬間、胸の内を覗かれたような気がした。
ただ水着が必要だっただけなら、もっと手頃な店で、誰にも相談せずに買えたはずだった。
玲奈はラックから黒い水着を一着取り出した。
正面は一見すると端正なワンピースだが、背中は腰近くまで大きく開き、両脇も深く切り込まれている。美咲が最初に選んだものとは、同じワンピースでもまるで性格が違っていた。
「こちらをお試しください」
「私には、少し大胆すぎる気がします」
「似合わなければ、正直に申し上げます」
玲奈は穏やかなまま言った。
「ですが、着る前から逃げることは許しません」
許しません。
店員の言葉としては不思議なほど強かった。断ろうと思えば断れる。玲奈も、それを妨げるつもりはないはずだった。
それなのに美咲は、命じられたように感じた自分の心が、かすかに弾むのを認めてしまった。
玲奈が水着を差し出す。
「お着替えには、何分必要ですか?」
「……三分で」
「二分で十分です」
カーテンが閉じられた。
美咲は急いで濃紺の水着を脱いだ。時間を計られているわけでもないのに、玲奈を待たせてはいけない気がした。
黒いワンピースは、着てみると想像以上に身体へ密着した。正面だけを見れば胸元は守られている。だが横を向くと、脇から腰へ続く肌が大きく露出し、背を向ければ、肩甲骨から腰まで何も隠すものがない。
二分が経つより前に、美咲はカーテンを開けた。
玲奈は時計を見なかった。
「間に合いましたね」
その一言だけで、美咲は試験に合格したような安堵を覚えた。
玲奈は三面鏡の前へ美咲を立たせた。
「右を向いてください」
美咲は従った。
「次は、後ろを」
鏡の中に、自分では普段見ることのない背中が映る。玲奈は少し離れた場所から、露出した肩、腰のくびれ、脚の線を順に確かめていた。
「よくお似合いです」
褒められたことより、玲奈の視線が自分の肌をたどったことのほうが強く意識に残った。
「これなら、どうでしょう」
美咲が尋ねると、玲奈はすぐには答えなかった。
「これは準備としては十分です」
「準備?」
玲奈は別のラックへ向かった。
戻ってきた玲奈が手にしていたのは、深い赤色の水着だった。
細い紐と、小さな布でできている。胸を覆う二枚の三角形も、腰から下を覆う部分も、必要な役目だけを辛うじて残したような形だった。後ろ側はさらに細く、肌の大部分を隠そうとはしていない。
美咲は思わず玲奈を見た。
「これは……」
「深紅は、美咲様の肌によく映ると思います」
「そういうことではなくて」
美咲は、水着を受け取ることさえためらった。
「これでは、ほとんど何も着ていないみたいです」
「“ほとんど”というところが大切なのです」
玲奈の表情は真面目だった。
「何も身につけていないわけではありません。隠すべきところは覆われています。それでも、着る方は、隠し切れていないように感じる。その違いが、この水着の魅力です」
美咲は細い腰紐へ目を落とした。
玲奈は、自分の中にあるものをどこまで見抜いているのだろう。
完全に見せたいわけではない。見せてはいけないと思っているものが、わずかな布一枚で守られている。その頼りなさに惹かれている。
そんな気持ちは、美咲自身もまだ言葉にしたことがなかった。
「こちらも、着る前から逃げることは許してもらえないんですか?」
玲奈の目元がわずかに緩んだ。
「嫌でしたら、もちろんお断りいただけます」
それから、美咲の目を見たまま続けた。
「ただし、本当に嫌なのか、恥ずかしいだけなのかは、ご自分で区別してください」
美咲は深紅の水着を受け取った。
「……着ます」
玲奈がカーテンの外へ出ようとする。
美咲は、その背中を呼び止めた。
「あの」
玲奈が振り返る。
「これ、紐の結び方が難しそうなので……着方を見てもらえますか」
「私がここにいたままで、よろしいのですか?」
そうすれば、黒い水着を脱ぐところから見られる。
美咲は、その意味を理解していた。
「はい。いてください」
「承知しました」
玲奈は試着室の端へ立った。
「ご自身でできるところまで、どうぞ」
美咲は黒いワンピースの肩紐へ手を掛けた。
布を腰まで下ろし、片脚ずつ抜いていく。最後に黒い水着を床から拾い上げたとき、美咲は何も身につけず、玲奈の前に立っていた。
玲奈は顔をそらさなかった。
好奇心を露骨に表すことも、裸を見ないふりをすることもない。美咲が自分で選んだ姿を、そのまま受け止めるように見ていた。
その視線を感じた瞬間、美咲の中で、恥ずかしさと一緒に別の欲望が目を覚ました。
ただ裸を見られるだけでは足りない。
玲奈がまだ見ていないところまで、見てほしい。
美咲は深紅のトップを手に取った。胸へ当てようとしたところで、指の力をわずかに緩める。
小さな布が床へ落ちた。
「あ……」
声だけは、偶然を装った。
拾うために腰を深く折り、玲奈へ背を向ける。
もっと膝を曲げれば、身体を隠しながら拾うこともできた。それなのに美咲は、ほとんど脚を伸ばしたまま、臀部を玲奈のほうへ突き出す形を選んだ。
この角度なら、あそこも、お尻の穴も、玲奈の視線から隠れない。
美咲にはわかっていた。
数秒にも満たない時間だったが、布をつかんだ指をすぐには戻せなかった。
玲奈は何も言わない。
その沈黙が、見られたという確信をいっそう強くした。
美咲はゆっくり身体を起こした。胸元を深紅の布で隠しながら振り返る。
玲奈と目が合った。
「すみません。落としてしまって」
「落としたことは、偶然かもしれません」
玲奈の声は穏やかだった。
「でも、拾い方はご自分で選びましたね」
美咲は何も答えられなかった。
顔だけでなく、耳まで熱くなる。
玲奈は責めることも、笑うこともしなかった。
「見てほしかったのですか?」
否定すれば、まだ逃げられる。
けれど美咲は、玲奈の前で嘘をつきたくなかった。
「……わかりません」
「では、見られるのは嫌でしたか?」
美咲は小さく首を振った。
「嫌では、ありませんでした」
玲奈はそれ以上追及せず、深紅のトップへ視線を移した。
「では、続きをどうぞ」
その一言で許されたような気がして、美咲は震える指でトップを身につけた。
細い紐を首と背中で結び、続いて小さなボトムへ脚を通す。裸そのものを見られたあとでは、わずかな布を身につけていく過程まで、玲奈へ差し出しているように感じられた。
「できました」
「三面鏡の前へ立ってください」
正面から見れば、布は必要な場所を覆っている。
横の鏡には、細い腰紐と、その上下に続く肌が映っていた。後ろの鏡には、ほとんど何も遮るもののない臀部が映る。
玲奈の目が右腰で止まった。
「紐が少しずれています。直してもよろしいですか?」
「はい」
玲奈の指が右腰の結び目へ触れた。
直接肌をなぞったわけではない。ただ細い紐を少し持ち上げ、本来の位置へ戻しただけだった。
それでも美咲は、腰を動かさないように意識しなければならなかった。
「右側は整いました」
しかし、玲奈の視線はボトムの中央付近に残っていた。
「中央も、わずかにずれています」
美咲は反射的に両脚へ力を入れた。
「そこも、直してもらうんですか」
玲奈は静かに首を振った。
「中央は、ご自身で直してください」
美咲は三面鏡の前で、深紅の布へ指を掛けた。
玲奈が見ている。
ずれを直すだけの動作なのに、自分からボトムの中央へ触れるところを観察されていることが、ひどく恥ずかしかった。
布をわずかに持ち上げた瞬間、その縁が、すでに敏感になっていた場所をかすめた。
「あっ……」
思いがけず、声が漏れた。
美咲は慌てて唇を閉じたが、もう遅かった。
「痛かったですか?」
玲奈がすぐに尋ねた。
「違います」
美咲は反射的に答えた。
「では、どうしたのですか?」
答えられない。
ただ水着を直しただけで感じてしまったことも、その声を玲奈に聞かれたことも、同じくらい恥ずかしかった。
玲奈は追及せず、美咲が自分の手で布を正しい位置へ戻すまで、静かに見届けた。
「これで、合っていますか?」
「はい。きれいに整いました」
玲奈の声は変わらなかった。
けれど美咲には、自分がすでにどれほど高揚しているのかまで、すっかり知られてしまったように思えた。
その一瞬、水着の内側へ収まっているはずの場所が、玲奈から見えてしまったのではないか。
そう思うと、身体の熱はますます強くなった。
美咲は迷った末に尋ねた。
「今、少し……見えていませんでしたか」
玲奈は鏡の中で美咲と目を合わせた。
「ご安心ください。必要な部分が露出していたわけではありません。外側のラインが少しずれていただけです」
安心した。
そのはずだった。
けれど美咲の胸には、安堵だけでは説明できない、小さな落胆が生まれていた。
玲奈はその変化を見逃さなかった。
「残念ですか?」
「違います」
否定する声が、必要以上に早くなった。
「そうですか」
玲奈は追及しなかった。
代わりに、鏡へ視線を促した。
「水着だけでなく、今のご自身のお顔も、よく見てください」
美咲は三面鏡の中央へ目を戻した。
深紅の細い水着を身につけた自分がいる。頬は赤く、唇はわずかに開き、普段の自分にはない表情をしていた。
恥ずかしがっているのに、嫌がってはいない。
むしろ、玲奈にすべて見抜かれるのを待っている顔だった。
玲奈は美咲の背後へ回った。
深紅の細い布は臀部の間へ消え、後ろ姿を隠す役目をほとんど果たしていない。
美咲は三面鏡の中で、玲奈の視線が腰から下へ移るのを追った。
「あの……」
「はい」
「後ろから見て、お尻の穴は……見えていませんか」
言葉にした途端、逃げ出したいほど恥ずかしくなった。
玲奈は美咲の後ろ姿を落ち着いて確認した。
「見えていますよ」
美咲の頬が一気に熱くなる。
「やっぱり……」
「これほど細い紐ですから。完全に隠すようには作られていません」
「でも、お尻の穴まで見えてしまうなんて……」
玲奈は鏡越しに美咲を見た。
「それが、どうしたんですか」
あまりに平然と返され、美咲は言葉を失った。
玲奈にとっては、驚くことでも、目をそらすことでもないらしい。恥ずかしがっているのは、美咲一人だけだった。
「嫌なら、もっと布の広い水着へ替えられます」
玲奈はそう告げてから、美咲の返事を待った。
美咲は、替えてほしいとは言えなかった。
「美咲様は、隠す方法を尋ねているようには見えません」
玲奈の声が、わずかに低くなる。
「私に、どう見えているのかを聞きたいのでしょう?」
美咲は鏡から目をそらした。
「お尻の穴、とても綺麗ですよ」
美咲の肩が小さく揺れた。
「そんなところを、綺麗なんて……」
「綺麗だから、そう申し上げただけです」
玲奈の口調には、からかいもためらいもなかった。
「それに、先ほど私へ見せたときより、今のほうがずっと隠れています」
拾い方まで見抜かれていたことを思い出し、美咲はますます顔を上げられなくなった。
「偶然だったんです」
「トップを落としたことは、そうかもしれません」
玲奈は否定しなかった。
「でも、あそこも、お尻の穴も見える拾い方を選んだのは、美咲様です」
美咲は何も答えられない。
「見えていることが、本当に嫌ですか?」
長い沈黙のあと、美咲は首を横に振った。
「……嫌では、ないです」
「では、問題ありませんね」
玲奈は鏡越しに、美咲の後ろ姿をもう一度見た。
「見せたい人が、自分で選んだ水着を着ている。それを私が見て、綺麗だと申し上げた。それだけのことです」
美咲は三面鏡の中の自分を見つめた。
お尻の穴まで玲奈に見られている。
それなのに、隠そうとは思わなかった。
「もう少し、このまま見てもらってもいいですか」
美咲がようやく言うと、玲奈は静かに微笑んだ。
「もちろんです。そのために私を中へ残したのでしょう?」
玲奈は美咲の背後へ立った。
「きちんと確認するために、紐と姿勢を整えてもよろしいですか」
美咲は鏡の中の玲奈を見ながら頷いた。
「お願いします」
「では、少し上半身を前へ。お尻は後ろへ出してください」
命じられた姿勢を取ると、三面鏡に映る後ろ姿が大きく変わった。立っているだけのときより、細い布の頼りなさがはっきりわかる。
玲奈は腰紐へ指を掛け、布の位置をわずかに整えた。
「動かないで」
低い声に、美咲はそのまま静止した。
玲奈は細い爪先を、美咲の背中へそっと触れさせた。
背骨の脇から腰のくぼみへ、肌の表面を確かめるようにゆっくりとなぞる。その指先が臀部の丸みへ差しかかった瞬間、美咲の身体がびくっと震えた。
「動かないで、と申し上げました」
「すみません……」
爪が立てられているわけではない。肌をかすめる程度の、ごく軽い接触だった。それなのに、玲奈が見つめている場所へ近づくほど、美咲には強い刺激のように感じられた。
「触れられるのも、嬉しいのですか?」
美咲は息を詰めたまま頷いた。
「はい……」
玲奈の爪先がもう一度、腰から臀部へ続く線をなぞる。
美咲は今度こそ動かないように耐えたが、身体の小さな震えまでは隠せなかった。
美咲は鏡越しに玲奈の顔を見た。
短い黒髪に縁取られた、凛として美しい横顔。その玲奈が、ほんの目の前で、自分のお尻の穴を隠さず見つめている。
普通なら、誰よりも隠したいはずの場所だった。
それを、こんなにも美しい女性に、自分から差し出すように見てもらっている。
恥ずかしい。
けれど、それ以上に嬉しかった。
逃げ出したい羞恥と、この時間を終わらせたくない興奮が一つに溶け、美咲はほとんど恍惚としたまま、鏡の中を見つめていた。
何かを言わなければと思うのに、声が出ない。頭の中が白くなり、自分がどんな表情をしているのかさえわからなくなる。
ただ、玲奈に見てもらっているという事実だけが、鮮明に残っていた。
「美咲様」
名前を呼ばれ、美咲はようやく小さく息を吸った。
「大丈夫ですか?」
美咲は呆然としたまま頷いた。
「はい……幸せです」
言ってから、自分が何を告白したのかに気づいた。
それでも玲奈は笑わなかった。
「そうですか」
玲奈は、美咲が最も恥ずかしいと思っていた場所から目をそらさず、静かに答えた。
「それなら、もう少しだけ見ていますね」
しばらくして、玲奈はゆっくり手を離した。
「確認は終わりました」
急に触れられなくなったことが、美咲にはひどく残酷に感じられた。
「もう、終わりですか」
口にしてから、自分の声に懇願するような響きが混じっていたことに気づく。
玲奈は鏡越しに美咲を見た。
「これ以上は、水着のご試着ではなくなってしまいますから」
美咲は何も言い返せなかった。
すでに自分の中では、接客とは別のものになっている。玲奈も、それを承知していた。
「美咲様」
「はい」
「お帰りになるまで、待てますか?」
何を、と尋ねる必要はなかった。
美咲は顔を赤くしたまま、小さく頷いた。
「……たぶん」
「では、今日はここまでにしましょう」
玲奈は深紅の紐を元の位置へ戻し、美咲の背筋を起こした。
「ご自宅へ着くまでは、きちんと我慢してください」
優しい声だった。それでも美咲には、お願いではなく命令のように聞こえた。
「はい」
答えた瞬間から、美咲は玲奈との約束を守らなければならなくなった。
玲奈は試着室の外へ出た。
一人になった美咲は、すぐには着替えられなかった。三面鏡には、深紅の水着を着たまま、呆然と立ち尽くす自分が映っている。
それでも美咲は、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「帰るまで……」
普段の服へ着替え、深紅の水着を持って試着室を出ると、玲奈は何も指摘せず、最初と同じ端正な店員の顔で商品を受け取った。
店を出てからも、美咲の身体には玲奈の視線と爪先の感触が残っていた。
途中で何度も化粧室の表示が目に入った。それでも立ち止まらなかった。
帰るまで我慢してください。
玲奈の声を思い出すたび、約束を守っていること自体が、新しい刺激になった。
自宅へ着くと、美咲は玄関の鍵を掛けた。紙袋を抱えたまま寝室へ行き、購入したばかりの深紅の水着を取り出す。
一人なのに、玲奈に見られているような気がした。
美咲はもう一度、その水着を身につけた。
鏡へ背中を向ける。腰をわずかに曲げ、試着室で玲奈に命じられた姿勢を再現する。
お尻の穴まで見えていますよ。
とても綺麗です。
それが、どうしたんですか。
玲奈の声が、記憶の中で一つずつ蘇った。
美咲は鏡の縁へ手を置いた。
玲奈の声を思い出すたび、帰宅するまで抑え込んでいた快感が一気に押し寄せた。
美咲は自分でも驚くほどあっという間に、激しい絶頂を迎えた。
膝から力が抜け、鏡の前へ座り込む。乱れた呼吸が戻るまで、どれほど時間が経ったのかわからなかった。
しばらくして、美咲は鏡の前でゆっくりと立ち上がった。




