ナイトプールで――見たかったはずの、先輩のその先
「先輩、ナイトプール行きません?」
昼休み、奈緒が二枚のチケットを美咲の机に置いた。
「ナイトプール?」
「ホテルの。部長が取引先からもらったらしいんですけど、行かないからって」
美咲がチケットを手に取る。
「奈緒ちゃん、こういうの好きそう」
「だから先輩も行くんです」
「なんでそうなるのよ」
奈緒は笑った。
「水着、あるじゃないですか」
美咲の手が止まる。
「……まさか」
「例の」
「嫌よ」
「せっかく買ったのに」
「奈緒ちゃんが選んだんでしょ」
当日、二人がホテルに着いたのは午後7時前だった。
空にはまだわずかに明るさが残っていたが、プールサイドではもう照明が灯り始めている。
水面には青い光が揺れ、グラスを手にした男女がデッキチェアやプールの縁で思い思いに過ごしていた。
低く流れる音楽の向こうに、ホテルの窓と街の明かりが少しずつ浮かび上がっている。
奈緒は先に水へ入った。
プールサイドに立つ美咲を、水の中から見上げる。
美咲は髪をまとめるために両腕を上げた。
細い腰が伸び、その下に長い脚がまっすぐ続く。
やっぱり、先輩はスタイルがいい。
美咲が着ているのは、奈緒自身が選んだあの水着だった。
胸元も、腰まわりも、必要なところをぎりぎり覆っているだけに見える。横から見れば肌の方がずっと多く、後ろも、お尻を隠すというより、その形を強調するために布があるみたいだった。
水着というより、見せるための下着に近い。
奈緒は思わず口元を緩めた。
――やっぱり、これにして正解。
「何笑ってるの?」
「別に」
「絶対何か考えてる」
「早く入ってください」
美咲が水へ入る。
二人は小さなボールを投げ合い始めた。
美咲の投げたボールが少し逸れた。
近くにいた男が片手で受け止める。
「すみません」
美咲が手を上げる。
男は笑ってボールを投げ返した。
「楽しそうですね。俺たちも混ざっていいですか?」
「どうぞ」
奈緒が答えた。
男は亮介と名乗った。三十代半ばくらい。肩幅があり、日に焼けた腕にはしっかり筋肉がついている。よく喋り、笑うと少し少年っぽい顔になる。
もう一人は航平。亮介より少し背が高く、細身だが締まった体つきだった。短く整えた髪で、亮介ほど前には出ない。
四人でボールを回し始めると、自然に亮介は奈緒と話すことが多くなった。
しばらく遊んだあと、亮介がプールサイドを指した。
「飲みません?」
四人はプールサイドのバーへ移った。
奈緒はすぐにカクテルを決めた。
美咲はメニューを見ながら迷っている。
「サンジェルマン・スプリッツ、美味しいし、飲みやすいですよ」
航平がメニューを指した。
「サンジェルマン?」
「エルダーフラワーのリキュールです。そんなに強くないし」
「じゃあ、それにしようかな」
カクテルが四人分並んだ。
「お二人、会社の先輩後輩なんですよね?」
「そうです」
「仲いいですね」
「まあ、長いので」
「美咲さん、奈緒ちゃんに結構振り回されてそう」
「それは、かなり」
美咲が笑った。
カクテルを飲みながら、四人の会話は少しずつ砕けていった。
亮介はよく喋り、奈緒も楽しそうに相槌を打つ。
美咲は最初こそ控えめだったが、二杯目に入るころには、航平の話にもよく笑うようになっていた。
奈緒はその様子を横目で見る。
――先輩、結構楽しそう。
会話は盛り上がり、皆が二、三杯飲み終える頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「もう一回、入ります?」
亮介が言った。
「入ろう入ろう」
奈緒が答えた。
四人は再びプールへ入った。
少しすると、亮介が奈緒の隣へ来て、航平は美咲の方へ寄っていった。
いつの間にか、二組の間には少し距離ができていた。
美咲がふとこちらを見た。
奈緒と目が合う。
美咲はほんの少し眉を上げた。
――大丈夫?
そんな顔だった。
少しアルコールのせいで、顔が赤い。
奈緒は笑って、小さくうなずいた。
美咲はそれを見て、また航平の方へ顔を戻した。
二組は少しずつ離れていった。
奈緒は亮介と話しながら、美咲の方へ目を戻した。
さっきより、二人の距離が近い。
航平が何かを言う。
美咲が笑う。
その拍子に、航平の手が美咲の腕へ触れた。
亮介が向こうを見て笑った。
「お、航平めっちゃ積極的。珍しいな、あいつ」
奈緒も美咲たちを見る。
「そうなんですか?」
「普段、あんな感じじゃないよ」
奈緒は少しだけ笑った。
――まあ、今日は私がけしかけたんだけど。
さっき、航平にはこう言ってある。
「先輩、真面目そうに見えるでしょ」
「でも、結構Hなんで。雰囲気作ってあげてくださいね。ちょっとくらいスキンシップもありかも」
自分の大切な先輩が、他の男とどこまで距離を縮めるのか。
それを遠くから見られると思うだけで、少し身体が熱くなった。
亮介が奈緒を見る。
「奈緒ちゃんは、結構平気なタイプ?」
「何が?」
「こういうの」
そう言いながら、亮介の手が奈緒の腰へ回った。
奈緒は少し笑った。
嫌ではなかった。
少し離れたところでは、航平の手も美咲の腰へ移っている。
美咲も笑いながら、航平の手を気にしていない。
二人の顔も、さっきより明らかに近い。
奈緒は、自分の腰に触れている亮介の手を感じながら、美咲を見た。
――先輩も、今こんな感じなのかな。
そう思った途端、身体の奥が小さくざわついた。
亮介の指が腰のあたりをゆっくり撫でる。
くすぐったさに、奈緒はわずかに身をよじった。
遠くで美咲も同じように男の手を受け入れていると思うと、その感触が身体の奥まで熱を帯びて感じられた。
もう一度、美咲を見る。
航平の腕が、今度は美咲の背中側へ回っていた。
美咲は笑っている。
距離は、さっきより明らかに近い。
奈緒の胸が少し高鳴った。
――先輩も、楽しんでる。
そのとき、隣にいた亮介が奈緒の肩を抱き寄せた。
奈緒はそのまま、亮介の胸元に顔を寄せた。
今は、その行為すら美咲とつながっているように感じられた。
「奈緒ちゃん」
亮介が顔を寄せてくる。
互いの唇が触れる。
短いキスだった。
奈緒は、亮介に自分の身体を少し寄せた。
亮介の手が背中へ回る。
その感触を受けながら、奈緒はまた美咲を見る。
航平が何かを囁いた。
美咲が笑う。
航平の手が、美咲の腰から水面下に消えていく。
奈緒の胸が、また高鳴る。
――先輩。
どこまで触らせるつもりなんだろう。
そう思うだけで、亮介に抱かれている自分の身体まで熱くなった。
自分がそうさせた。
航平に、スキンシップを勧めたのも自分だった。
亮介がもう一度、奈緒の頬へ顔を寄せる。
キスを返しながら、目だけは美咲を追った。
航平の手が、美咲の背中へ回る。
その指が、ビキニの後ろの結び目に触れた。
奈緒は思わず目を凝らした。
航平の指が動く。
結び目がほどけた。
美咲の背中から、細い紐が左右へ垂れる。
奈緒は息を呑んだ。
――ほんとに、ほどいた。
美咲は、ビキニトップが落ちないように、自分の胸を両腕で抱いていた。
隠そうとしているはずなのに、その姿が逆に奈緒の目には官能的に映った。
もう片方の腕は、美咲の腰の横から水面の下へ伸びていた。
水の揺れに隠れて、手元までは見えない。
航平の腕がゆっくり動く。
肘が、水面をゆっくり上下しながら、見えたり沈んだりしている。
その瞬間、美咲の背中がわずかに反った。
肩甲骨の間がきゅっと狭まり、胸を抱いていた腕にも力が入る。
――え、あそこまで触らせてる?
もう片方の手が、航平の腕を掴んだ。
止めるように、指先に力が入る。
航平の腕がまた動くと、その力は少しずつ抜けていった。
美咲は細く息を吐いた。
航平が、その顔をのぞき込む。
美咲が両腕で航平の顔を抱き込む。
ビキニトップが落ち、胸元があらわになったことを気にする様子もなく、美咲は自分から深く唇を重ねる。
奈緒の指先が、亮介の肩を強くつかんだ。
――先輩から、男性を求めてる。
――やだ。そんなの、私が見たかった先輩じゃない。
その間も、航平の肘は水面をゆっくり見え隠れしていた。
やがて、その動きが少しずつ速くなっていく。
美咲の腰が、かすかに揺れる。
逃げるようにも、追うようにも見える、ごく小さな動きだった。
背筋が伸びる。
首筋が露わになり、顎がわずかに上がった。
唇が開く。
声にはならない息が漏れる。
奈緒の胸の奥がきゅっと痛んだ。
次の瞬間、美咲の身体が大きく震えた。
肩がすくみ、背中が弓なりになる。
美咲はそのまま航平にもたれかかる。
肩で息をしながら、官能に緩んだ表情を浮かべている。
奈緒は息を呑んだ。
――まさか、先輩。
――イカされちゃったんじゃ。
奈緒は、しばらく美咲から目を離せなかった。
奈緒の視線の先で、美咲はまだ航平にもたれかかっていた。
奈緒の方を見ようともしない。
そのことが、遅れて胸に刺さった。
そのとき、亮介の手が奈緒の腰から下へ滑った。
美咲に釘付けになっていた意識が、一気に自分の身体へ引き戻される。
さっきまでなら、こんなふうには感じなかった。
でも今は違う。
その手に、ひどく嫌悪感を感じる。
「いやっ!」
奈緒は反射的に亮介の手を振り払った。
奈緒は亮介から離れ、そのまま美咲の方へ向かった。
「先輩」
美咲が奈緒を見る。
「奈緒ちゃん?」
奈緒は答えず、水に浮いていた美咲のビキニトップを拾った。
「奈緒ちゃん、一体どうしたの?」
奈緒は美咲の身体にトップを戻し、背中へ手を回した。
指がうまく動かない。
結び目を作ろうとしても、何度も紐が指から滑った。
その声を聞いた瞬間、奈緒の目から涙がこぼれた。
「……ごめんね、先輩」
美咲が目を見開く。
奈緒はようやく紐を結んだ。
それから美咲の手を強く握った。
「私が、航平さんに先輩へスキンシップしてって言ったんです」
奈緒は俯いたまま続けた。
「先輩が男の人とそうなるところ、見てみたくて」
声が少し震えた。
「なのに、ほんとに先輩があんな顔して、本気で感じちゃってて」
奈緒はそこで言葉を切った。
「……嫌だった」
少しだけ間を置いた。
「すごく、嫌でした」
奈緒はまだ美咲の手を握ったままだった。
美咲が、その手を握り返す。
「……奈緒ちゃん」
奈緒は顔を上げた。
美咲は少し困ったように、それでも柔らかく笑っていた。
「帰ろうか」
その一言で、奈緒の目にまた涙が滲んだ。
「……はい」
二人はそのまま、更衣室の方へ歩き出した。
奈緒は最後まで、美咲の手を離さなかった。




