第98章 大石の日常
第98章 大石の日常
南越急行ホールディングスの最高財務責任者(CFO)として、また総資産数百兆円を誇る「南越フィナンシャル・グループ」の頂点に立つ大石専務は、社内外から「冷徹な財務の鬼」「数字とデータですべてを処理する男」と恐れられていた。
どれほど巨額の投資案件であっても、どれほど切迫したハゲタカファンドとの金融格闘技であっても、大石の表情が一変することはなかった。ポーカーフェイスの奥にある彼の脳内では、常に数式とリスク確率、キャッシュフローのシミュレーションが超高速で回転しており、彼の冷徹な判断こそが、南越急行の巨額の利益を守り抜く強固な城壁となってきたのだ。
しかし、そんな「冷血なデータ人間」と思われている大石には、身内すら誰も知らない一面があった。
大石は無類の寿司好きであり、かつてグループの事業として佐渡の寿司店『佐渡武蔵』をプロデュースし、自前の超速スシ・ロジスティクスを構築した際、彼は人生で味わったことのない激しい高揚感と楽しさを感じていたのだ。
世界の金融市場を動かし、国債の買い入れやメガバンクの統合を指揮する日常も悪くはない。だが、彼の魂を真に震わせたのは、極上のネタと絶妙なシャリが口の中で解け合い、食べた者を至福の笑みに導く「寿司」という究極の食文化であった。
(いつか……会社の経営を完全に後進に譲ったその時は、自分の持てるすべての知識とデータを注ぎ込み、世界にまだない新しい寿司屋を自らプロデュースしたい)
それが、大石が誰にも明かしていない秘められた野望であり、密かな夢であった。
大石が常に持ち歩き、暗号化されて固くガードされた最新のタブレット端末。役員会や国際金融カンファレンスの場で、彼が厳しい目つきでその端末を操作している時、周囲の役員やアナリストたちは「大石専務がウォール街の金利動向や地銀の自己資本比率をチェックしている」と思い込み、緊張感を走らせていた。
だが、実はその画面の半分には、金融データではなく、彼が独自に開発・収集した「世界食用魚データベース」と「至高のシャリ・すし酢アナリティクス」のアプリが起動していたのである。
大石のタブレット内には、地球上のあらゆる海域、河川、湖沼に生息する食用魚のデータが詳細に記録されていた。日本で伝統的に使われるマグロやノドグロ、ウニやエビといった高級ネタだけにとどまらない。
北極圏の氷の下を泳ぐ深海魚の脂肪酸組成、南米アマゾン川流域に生息する巨大淡水魚のタンパク質構造と旨味成分(イノシン酸・グルタミン酸)の比率、アフリカ沿岸やインド洋で獲れる知られざる白身魚の熟成によるアミノ酸変化の数値データ、さらには大西洋の寒冷海域で獲れる深海性のえび類のアスタキサンチン含有量と甘みの相関関係に至るまで、人類の食文化の盲点となっている世界中の魚類データが網羅されていた。
(日本で獲れない、あるいはこれまで寿司ネタとして見向きもされなかった世界中の魚の中にこそ、従来の常識を覆す美味が眠っている……)
大石は画面上のデータを指先でタップしながら、一人静かに思考を深めていた。
たとえば、南米の深海で獲れるある魚は、そのままでは油脂分が多く敬遠されがちだが、南越ビバレッジが開発した特殊な柑橘果汁と南越アグリの最高級コシヒカリで作った熟成赤酢で締め、ミリ単位で温度管理を行えば、極上のトロをも凌駕する濃厚な旨味と爽やかな後味を生み出すという計算結果が出ている。
また、北欧の寒冷なフィヨルドでひっそりと生息する小型の甲殻類は、南越エアラインズの超速保冷輸送によって採れたてのまま運べば、甘エビやボタンエビを遥かに超えるねっとりとした甘みと香りを放つはずだった。
大石の構想は、単に珍しい魚を出すという奇をてらったものではなかった。
世界の未利用魚や低利用魚に着目し、南越重工業や本産自動車が持つ最新の分子調理技術・急速冷凍技術、そして南越通商のグローバルサプライチェーンと組み合わせることで、環境破壊を起こさずに最高品質の寿司を世界中に適正価格で供給する——。それこそが、財務の鬼・大石が描く「データと情熱が融合した至高の寿司店」の姿だった。
「大石専務、明日の日銀との金利調整交渉の最終案ですが、こちらのポートフォリオでよろしいでしょうか?」
部下の財務部員が緊張した面持ちで書類を提出してくると、大石は瞬時にタブレットの画面を切り替え、冷徹な眼光で書類を一瞥した。
「甘いな。3ページ目の流動性リスクの試算が0.02%ズレている。ボラティリティの変動幅を楽観視しすぎるな。それから、協調融資の金利スプレッドはあと0.05%引き下げさせろ。やり直しだ」
「は、はいっ! 直ちに修正します!」
部下は青ざめた顔で一礼し、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
静まり返った専務室で、大石は深く椅子に背をもたれかけ、再びタブレットの画面を元の「世界食用魚データベース」へと戻した。彼の口元に、ほんのわずかな、満足げな笑みが浮かぶ。
(ふふ……誰も気づいていない。この完璧な財務戦略の裏で、私がアマゾンのピラルクの昆布締めと、南太平洋の深海カサゴの炙り握りの最適な熟成時間を計算しているとはな……)
大石はタブレットのタッチパネルを操作し、今度は「シャリとすし酢の配合シミュレーター」を開いた。
南越アグリが育てる新潟県産の特選コシヒカリと、魚沼の雪解け天然水。そこに合わせる酢は、米酢、赤酢、そしてりんご酢やぶどう酢の酸度と糖度を0.1%単位でブレンドした最新のレシピだ。世界中の多様な魚たちの油脂分や旨味の強さに合わせて、AIが最適なシャリの温度と固さ、酢の配合比率を弾き出していく。
「大石専務、入ってもよろしいでしょうか?」
ドアが開き、CEOの篠原賢人と、現場統括の古賀副社長が入ってきた。
大石は素早くタブレットの画面をスリープモードにし、いつもの冷徹で隙のないポーカーフェイスに戻して二人を迎えた。
「篠原社長、古賀副社長。何かありましたか?」
篠原は手に持った書類をデスクに置きながら、少し探るような目で大石を見た。
「いやね、大石さん。最近、あなたが役員会や移動中にすごく集中してタブレットを見ているだろう? 古賀さんと『大石さんはまた世界のヘッジファンドの動きや、巨大なM&Aのスキームを一人で考えているに違いない』と話していたんだよ。相変わらず頭が下がるよ」
古賀も大きく頷きながら笑う。
「そうだぞ、大石。あんまり数字ばかり睨んで根を詰めるなよ。たまには俺の模型博物館のプランでも見て、頭を休めろってんだ」
二人の言葉を聞いて、大石は心の中でくすりと苦笑した。
まさか自分が、ハゲタカファンドの対策ではなく、「アフリカ産の白身魚をいかにして極上の江戸前握りに昇華させるか」というデータに夢中になっているとは、百戦錬磨の篠原も、現場のカリスマである古賀も、夢にも思っていないのだろう。
大石は眼鏡の枠を指で少し持ち上げ、いつもの冷ややかな声で返した。
「……フッ、お二人とも余計な心配ですよ。私は常に、南越急行グループの『資産とリターン』を最大化することだけを考えています。一切の無駄も隙も作るつもりはありません」
「ははは、やっぱり大石さんはブレないな! 頼もしい限りだよ」
篠原と古賀は感心したように頷き、打ち合わせのためにソファーへと向かった。
二人が背を向けた一瞬、大石はポケットの中のタブレットにそっと手を触れ、密かな決意を新たにした。
世界最大の預金量を誇る金融グループの舵を取り、国家の財政をも支える激務の日々はまだまだ続くだろう。だが、この冷静沈着な胸の中には、いつか世界中の誰も食べたことのない最高の一貫を握り、人々を驚かせるという熱い情熱の火が、誰にも知られることなく静かに、そして力強く燃え続けているのだった。




