第7章 市場の冷や水と忍耐の冬
第7章 市場の冷や水と忍耐の冬
2025年の春から夏にかけて、雪解けとともに越後平野へ眩しい陽光が降り注ぐようになっても、南越急行の財務口座に春が訪れる気配は一切なかった。
キオクシェアホールディングスの株価は、公募価格の1,455円を回復するどころか、1,300円台前半へとなだらかに滑り落ちていた。
「また下がったか……」
専務の長谷川は、毎朝出社すると同時にパソコンの画面を開き、胃の痛むような思いで株価チャートを確認するのが日課になっていた。210億円を投じて取得した約1,443万株。株価が100円下がるだけで、南越急行の含み損は約14億円膨らむ。
画面に示された評価損の赤字は、すでに20億円を超えていた。
「長谷川専務、顔色が悪いですよ」
財務課のデスクで、篠原は変わらぬ平静さで分厚い英字の海外金融アナリストレポートを繰っていた。
「篠原……お前は本当に怖くないのか?」長谷川は掠れた声で問いかけた。「社内は何とか静まったが、県庁の財務課や沿線市町村からの問い合わせ電話は日増しに激しくなっている。『半年』の約束の期限は、刻一刻と迫っているんだぞ」
「相場のノイズにいちいち感情を揺さぶられていては、金融のプロとして仕事になりません」
篠原はコーヒーを一口含み、画面上のチャートを指でなぞった。
「市場は今、極度の過敏状態にあります。競合他社の過剰在庫問題や、米国の金利政策を巡る思惑で、半導体セクター全体に冷や水が浴びせられている。ですが、実需のデータを見てください。大手クラウド事業者やビッグテックによるデータセンターの設備投資額は、前年同期比で40%以上増加しています」
「だが、それが株価に反映されないのはなぜだ?」
「市場の投資家たちが『臆病』だからです」
篠原の目が冷ややかに光った。
「彼らはニュースの表面的な数字に怯え、本当の需要が芽吹いていることに気づいていない。あるいは、気づいていても確証が得られるまで動けない。ですが、一度『潮目』が変われば、遅れてやってくる機関投資家の買い注文が雪崩となって押し寄せます。今は、徹底して耐える『忍耐の冬』です」
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。
季節が巡り、再び六日町に冷たい秋風が吹き始める頃になっても、事態は好転しなかった。それどころか、海外の半導体大手が発表した「一時的な減産調整」のニュースを受け、キオクシェア株は一瞬1,200円の節目を割り込んだ。
含み損は35億円を突破した。
「もう限界だ!」
決算報告を目前に控え、本社役員室には激怒した県財務幹部の怒号が響き渡った。
「約束の半年は過ぎた! 35億円の損だと!? 南越急行の年間営業赤字の三倍以上の金を、たった数ヶ月で溶かしたんだぞ! 今すぐ全株を市場で売却し、損失を確定させろ! 残った170億円強の資金を県の手元に回収する!」
渡辺社長は深く頭を下げ、テーブルに両手をついた。
「……知事、幹部の皆様。今売れば、35億円の損失が『現実』になってしまいます。どうか……どうかあと少しだけ……」
「これ以上の猶予など出せるか!」幹部は書類をテーブルに叩きつけた。「これ以上含み損が拡大したら、県議会も沿線住民も納得しない! 明日の正午までに売却の手続きに入らなければ、業務改善命令を発出し、渡辺社長、君の解任手続きに入る!」
絶体絶命だった。
社長の解任、そして株式の強制売却。南越急行のすべてを賭けた挑戦は、市場の冷や水の前に冷たく凍りつき、完全に途絶えようとしていた。
その日の夜。誰もいなくなった財務課のオフィスで、篠原はひとり窓の外を見つめていた。
静まり返った六日町駅の構内。闇の中にポツリと灯る信号機。かつて160キロで駆け抜けた『なんたか』の残影と、冷酷な現実の数字が、頭の中で激しく交錯する。
(私の読みが外れていたのか……? 世界のAI需要は、まだ半導体市場を押し上げるほどの熱量を持っていないというのか……?)
冷静沈着を貫いてきた篠原の手が、初めてわずかに震えていた。
もし明日、株式を売却すれば、南越急行は35億円の巨額損失を抱えた「愚かな三セク」として歴史に刻まれ、渡辺社長は辞任に追い込まれる。自分の信じた金融のロジックが、一企業の命運を叩き潰すことになるのだ。
その時、デスクの電話が甲高い音を立てて鳴り響いた。
篠原はハッと息を呑み、受話器を取った。
「……はい、南越急行財務課の篠原です」
『——シェノハラか? ニューヨークのマークだ』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、篠原が外資系証券時代に共にマーケットを戦った、ウォール街の凄腕アナリストの声だった。マークの声は、かつてないほど興奮で上ずっていた。
『今すぐブルームバーグの緊急速報を見ろ! 潮目が変わったぞ! 米国超大手IT企業のGAFAM全社が、今しがた『AIインフラ投資を従来の三倍に極大化する』と共同声明を出した! 最先端NANDメモリの争奪戦が始まったぞ!』
篠原の目が大きく見開かれた。
『いいか、市場はパニックだ! 夜間取引で半導体株の買い注文が殺到している! キオクシェアのADR(米国預託証券)が……暴騰を始めた!!』
受話器を握りしめたまま、篠原は急いでモニターの電源を入れた。
暗闇に浮かび上がった世界市場のチャート画面。
そこには、これまで氷のように凍りついていた株価ラインが、垂直に近い角度で天に向かって突き抜けていく、狂気的なまでの「緑の光柱」が描かれていた。
忍耐の冬は、終わりを告げた。
南越急行を飲み込もうとしていた冷たい暗雲の向こうから、世界を揺るがす巨大な熱狂の波が、ついに押し寄せようとしていた。




