第6章 公務員たちの反乱と決断
第6章 公務員たちの反乱と決断
「半年の猶予」という密室での手打ちも束の間、本当の危機は社内から、それも最も身近な存在から巻き起こった。
事態を動かしたのは、新形県や沿線自治体から南越急行に出向してきている公務員出身の社員たちだった。
「篠原課長、話があります」
月曜日の朝。財務課の扉を開けて入ってきたのは、総務課の出向組チーフであり、県庁から派遣されている30代後半の幹部候補・佐藤だった。その背後には、自治体からの出向社員やプロパーのベテラン駅務員など、十数名の社員がずらりと並んでいた。
部屋の中に、張り詰めた空気が走る。
「なんだ、佐藤君」篠原は画面から目を切らずに淡々と答えた。
「画面から目を離してください!」
佐藤が声を荒らげた。普段は温厚で規律を重んじる男の目が、怒りと不安で真っ赤に充血していた。
「私たちは、この会社を守るために出向してきているんです。地域の足である鉄道を守るために! それなのに、外から来たあなた一人の独断で、会社の生命線である210億円もの公的資金が、得体の知れない半導体株に化けてしまった。連日、市民や県民から『税金を泥棒に渡したのか』『お前たちの給料も株バクチから出ているのか』と罵倒される現場の気持ちが分かりますか!」
「理解はしている。だが、現場の苦情対応も君たちの業務の一部だ」
「そういう冷酷な態度が許せないと言っているんだ!」
佐藤はバシッとデスクを叩いた。
「私たちは公務員です。確実性と安全性を最優先し、地域住民に説明責任を果たせる仕事を叩き込まれてきた。あなたのやっていることは事業投資ではない。ただの狂気です。私たちはこれ以上、あなたの道連れになるわけにはいかない」
佐藤は胸ポケットから一束の紙を取り出し、デスクの上に叩きつけた。
「これは、出向組および現場有志の連名による辞表、そして県と市への『緊急監査請求書』です。今すぐキオクシェア株の売却手続きに入らなければ、全員で業務をボイコットし、これを県庁の記者クラブへ持ち込みます」
財務課内に激震が走った。
社員たちの反乱。内部告発がメディアに漏れれば、県議会も知事ももはや南越急行を庇いきれなくなる。即座に株式は強制売却され、巨額の含み損を抱えたまま南越急行の「金融格闘技」は完全な敗北で幕を閉じることになる。
「待ってくれ、佐藤君!」
騒ぎを聞きつけた専務の長谷川が急ぎ部屋に飛び込んできた。
「落ち着きなさい! 社長も私も納得した上で進めているプロジェクトだ。現場に負担をかけているのは申し訳ないと思っている。だが、あと少し、あと少しだけ待ってくれないか!」
「専務、申し訳ありません」佐藤は固い表情のまま首を振った。「私たちも極限状態なんです。地元の親や知人からも『お前の会社はどうなっているんだ』と責め立てられる。安全資産として残した90億円だって、こんな状態ではいつ切り崩されるか分かったもんじゃない。公務員としての正義にかけて、この無謀な博打を止めさせてもらいます」
万事休すかと思われたその時、奥の社長室のドアが重々しく開いた。
歩み出てきた渡辺社長の手には、一枚の印鑑証明と、署名捺印された決裁文書が握られていた。
「佐藤君、君たちの言い分はもっともだ」
渡辺の声は驚くほど静かだった。
「君たちは公務員としての誇りを持って、この会社と地域を守ろうとしてくれている。それは間違っていない。間違っているのは……すべてを篠原君一人に背負わせ、君たち現場に説明を怠ってきた私だ」
渡辺は佐藤の前に歩み寄ると、手にした文書を差し出した。
「これは何か分かりますか。私の辞任届と、全財産を担保に入れる個人保証の誓約書です。すでに弁護士と公証役場の手続きを終えている」
「社長……! 何を……」佐藤が絶句する。
「この210億円の投資は、篠原君の独断ではない。南越急行社長である私・渡辺が、会社の未来を賭けて決断したことだ。もし株価が暴落し、会社に致命的な損失が出た場合、すべての法的な責任と社会的制裁は私一人が出受ける。君たちや現場の社員、そして県や市には一切の責任が及ばないよう、法的書面を作成した」
渡辺は深々と、頭を床に着かんばかりに下げた。
「君たちの反乱は正当だ。だが、頼む。あと数ヶ月だけ、この老いぼれの我が儘を許してくれないか。『なんたか』が去り、ただ消えゆくのを待つだけだったこの会社に、篠原君は『戦う希望』を持ってきてくれたんだ。私は、最後にこの会社を本当の意味で救って死にたいんだよ」
社長の頭を下げ続ける姿に、佐藤をはじめとする社員たちは言葉を失った。
保身のために動いていたのではない。地方の小さな鉄道会社を率いる老社長が、自分の人生のすべてを賭けて、本気で会社と地域の未来を泥をすする思いで守ろうとしていたのだ。
佐藤の手から、辞表の束が力なく零れ落ちた。
「……社長。頭を上げてください」
佐藤は深くため息をつき、目元を拭った。
「ずるいですよ、そんな見せられ方をしたら……私たちは何も言えなくなる」
佐藤は床に落ちた書類を拾い上げると、篠原を鋭い目で見つめた。
「篠原さん。私たちは納得したわけじゃありません。ただ、社長の覚悟に免じて、もう一度だけ信じるフリをするだけです。……もし社長を破滅させたら、絶対に許しませんからね」
「……了解した」
篠原は静かに頭を下げた。その顔には一切の笑みはなかったが、眼光にはこれまで以上の鋭い光が宿っていた。
社員たちの反乱という最大の内部崩壊の危機を、社長の退路を断った「決断」によって間一髪で乗り越えた南越急行。
しかし、運命の時計の針は、容赦なく刻み続けられていた。嵐の前の静けさは終わりを告げ、世界市場という名の巨大な怪物が、ついにその牙を剥こうとしていた。




