第5章 六日町の密室会議
第5章 六日町の密室会議
2025年冬。降り積もる雪が六日町駅を白く覆い尽くしていた。
キオクシェアの上場から数ヶ月。株価は公募価格1,455円の前後を力なく彷徨い、一向に突き抜ける気配を見せない。「210億円の巨額投資」に対する批判の嵐は衰えるどころか、日を追うごとに苛烈さを増していた。
「——本日お集まりいただいた理由は、言わずもがなです」
本社ビル三階、普段は使われない重苦しい空気の応接室。窓のブラインドは固く閉ざされ、照明の光だけが室内を照らしている。
テーブルを囲むのは、新形県財務幹部、沿線三市の副市長、そして南越急行の渡辺、長谷川、篠原。完全非公開の「密室会議」であった。
県の財務幹部が、苛立ちを隠さずに机を叩いた。
「渡辺社長、株価は1,400円台を低空飛行したままだ。含み損はすでに数億円規模に達している。県議会からは『即刻売却して損失を確定させ、残りを全額回収しろ』という強い圧力がかかっているんだよ!」
「今売却すれば、数億円の損を確定させることになります」長谷川が必死に庇う。「それでは本末転倒です。もう少し様子を……」
「様子を見るだと!?」副市長の一人が立ち上がった。「半導体市況はさらに悪化するというアナリストのレポートも出ている! 210億円が150億円、100億円と目減りしていったら、我々自治体首長は市民にどう釈明すればいいんだ! 今ならまだ傷は浅い。撤退するなら今しかない!」
室内は怒号と罵声が飛び交い、糾弾大会の様相を呈していた。渡辺社長は額に冷や汗を浮かべ、黙って耐えていた。
その時、静かにカプチーノのカップを置いた篠原が、ゆっくりと口を開いた。
「皆様。ノイズに惑わされるのはおやめなさい」
その低く冷ややかな声に、激高していた幹部たちが一瞬言葉を失った。
「アナリストのレポート? 街角の証券会社が書く目先の予測など、何の意味もありません」
篠原はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に最新の海外ニュースのヘッドラインを映し出した。
「ご覧ください。昨夜、米国の巨大IT企業数社が、次世代データセンター建設に向けた数兆円規模の追加投資を発表しました。そして今日未明、海外のメモリ大手メーカーが『最新鋭NANDフラッシュの在庫が逼迫し始めている』とコメントを出しています」
県の幹部が不機嫌そうに鼻を鳴らした。「それがキオクシェアとどう関係あると言うんだ」
「大ありです」
篠原は立ち上がり、壁のホワイトボードに素早く数式を描き始めた。
「生成AIの爆発的進化に伴い、世界が必要とするデータ容量は指数関数的に増大しています。従来のハードディスクや低速メモリでは、膨大なAIの処理速度に追いつかない。今、世界中のビッグテックが喉から手が出るほど欲しているのは、キオクシェアが他社に先駆けて量産化に成功した『超高層積層NANDメモリ』です」
篠原はマーカーを置き、出席者全員を順番に見つめた。
「現在の株価1,400円台は、暴風雨が去る直前の『静けさ』に過ぎません。市場がAIによるメモリ需要の爆発に気づいた時、株価は跳ね上がるどころの騒ぎではなくなります。ここで恐怖に負けて手放せば、それこそ歴史的な愚策として後世に笑いものになりますよ」
「……だが、もしお前の見立てが外れたらどうする!」副市長が食い下がる。「明日にも世界恐慌が起きるかもしれないんだぞ!」
「その時は」
篠原は一切の躊躇なく言い切った。
「私が個人的に全責任を負い、証券取引法違反なり特別背任なりで告発していただいて構いません。私には命を賭ける覚悟があります。……ですが、皆様には『未来の巨額の利益』を自らドブに捨てる覚悟がおありですか?」
圧倒的な凄みだった。
理性と狂気が同居する篠原の瞳に気圧され、誰も反論の言葉を継ぐことができない。
沈黙を破ったのは、ずっと黙っていた渡辺社長だった。渡辺は深々と頭を下げた。
「皆様。篠原の言う通り、我々はすでに賽を投げました。いま途中で降りれば、南越急行の未来は完全に途絶えます。どうか、どうかあと半年……いや、一年だけ我々に時間をください。この賭けの結末を、見届けてはいただけないでしょうか」
社長自らの懇願に、県と自治体の幹部たちは苦々しい表情で顔を見合わせた。
「……半年だ」
県の幹部が重い口を開いた。
「半年経っても株価が好転しなければ、県の権限で強制的に株式を売却させる。いいな?」
「……承知いたしました」
渡辺が答えた。
会議が終わり、幹部たちが捨てゼリフを残して去っていった後、静まり返った応接室で長谷川は深く息を吐いた。
「胃が破裂しそうだ……。篠原、本当に大丈夫なんだろうな? 半年だぞ」
篠原は閉ざされていたブラインドを静かに開けた。
外の吹雪の合間から、わずかに差す冬の光が部屋の中に降り注ぐ。
「半年もいりませんよ、長谷川専務」
篠原は遠くの雪原を見つめながら、不敵な笑みを浮かべた。
「津波は、もうすぐそこまで来ています」
190億円以上の資金を預け、退路を完全に断たれた南越急行。暗闇の中で耐え続けた猛者たちの運命が、ついに大きく動き出そうとしていた。




