第4章 半導体という暗礁
第4章 半導体という暗礁
2024年秋。六日町の本社ビル財務課の一角は、怪しげな熱気と張り詰めた緊張感に包まれていた。
「篠原課長、北国サムソン電子の設備投資計画が下方修正されました。競合のバイクロンも四半期決算でメモリ部門の減収を発表しています!」
若手社員が叫ぶように報告を上げる。デスクのモニターには、ブルームバーグやロイターの最新ニュース、そして世界中の半導体指標がリアルタイムで流れ続けていた。地方鉄道会社の財務課というよりは、まるでヘッジファンドのディーリングルームだった。
「慌てるな」
篠原賢人は温かいお茶を一口すすり、眉ひとつ動かさずに画面を見つめていた。
「シリコンサイクルの波が最悪の谷底に向かっているだけだ。供給過剰による価格暴落——これこそが、我々が待ち望んでいた『最安値』の舞台装置だよ」
しかし、社外の風当たりは日に日に激しさを増していた。
『南越急行、資金の7割・210億円を半導体株投機に投入か』
地元のローカル紙がスクープ記事を打ち出すと、ネットニュースやSNSでも瞬く間に拡散された。
「赤字三セクが税金で株バクチ」「倒産寸前の現実逃避」「無謀な素人運用」といった痛烈な批判が殺到。本社には連日、沿線住民や県民からの苦情電話が鳴り響き、電話対応に追われる総務課の職員たちは疲弊し切っていた。
専務の長谷川が、胃を痛めたような顔で財務課にやってきた。
「篠原……大変なことになっているぞ。県議会から臨時説明の要請が入った。『上場延期の歴史を持つキオクシェアに210億円も突っ込んで、本当に大丈夫なのか』と、与党議員まで騒ぎ出している」
「長谷川専務、政治家の雑音は無視してください」
篠原はキーボードを叩く手を止めず、冷然と言い放った。
「キオクシェアがかつて上場延期を余儀なくされたのは、米中摩擦と世界的なスマホ需要の急減が重なったからです。ですが、現在のメモリ市況の低迷は『新技術へ切り替わる直前の過渡期』に過ぎません。NAND型フラッシュメモリは、すでに技術的な限界とされる3D積層化の攻防に入っている。ここで最先端の微細化・多層化技術を持つのは、世界でもキオクシェアとサムソン、バイクロンの数社だけです」
篠原は画面のチャートを指し示した。
「現在、キオクシェアの公募価格は1,455円と、信じられないほど抑え込まれた水準で調整されています。市場関係者は誰もが『今さら半導体など買えない』と怯えている。暗礁に乗り上げたように見える今だからこそ、210億円という巨額の買い注文を全額突き通せるのです」
「……だがな、篠原」長谷川は声を潜めた。「もし上場した瞬間に、さらに市況が悪化して株価が半分になったらどうする? 210億円が100億円になったら、俺たちの首どころか、この会社自体が吹っ飛ぶぞ」
「半分の100億円になっても、残した90億円と合わせて190億円があります。あと10年は持ちます」
「そういう問題じゃない!」長谷川が思わず声を荒げた。
その時、社長室のドアが開き、渡辺社長が歩み出てきた。渡辺の顔には深い隈が刻まれていたが、その瞳には不思議な腹括りが宿っていた。
「長谷川君、もうやめよう」
「社長……」
「篠原君にすべてを委ねると、あの日決めたはずだ。県議会には私が一人で乗り込む。『これは南越急行が生き残るための正当な事業投資だ』と頭を下げてくるよ。……篠原君、12月の上場日まで、ブレずに買い注文の準備を進めなさい」
「……感謝します、社長」
篠原は短く頭を下げた。
2024年12月。ついにキオクシェアホールディングスが東京証券取引所プライム市場へ上場した。
公募価格は、篠原の読み通り1,455円。
機関投資家たちが半導体不況を警戒して腰が引ける中、南越急行が開設した証券口座から、210億円という巨額の資金が静かに、しかし一気に市場へ流し込まれた。
買付株式数、およそ1,443万株。
一地方の赤字第三セクター鉄道会社が、日本の半導体巨頭の株式を、発行済株式の相当な割合で保有する大株主の一角へと躍り出た瞬間だった。
買付完了の通知画面を見つめながら、篠原はぽつりと呟いた。
「仕込みは終わった。あとは……世界が我々の思い通りに動くのを待つだけだ」
しかし、上場直後の株式市場が提示した現実は、甘いものではなかった。
上場初日の終値は、公募価格をわずかに下回る不穏な船出。翌日からも株価は1,400円台前半を重苦しく低空飛行し続けた。
「ほら見ろ! 上場割れだ!」「やっぱり三セクの素人投資だ!」
メディアの嘲笑と住民からの怒号が、雪深い六日町の駅舎に容赦なく吹き荒れていた。南越急行は今や、氷のように冷たい「半導体の暗礁」の真ん中で、ひとり孤立無援の嵐に揉まれていた。




